第6話

 キャンパスのベンチに座って、ぼんやりと周囲を眺めていた。


 日はすっかり傾き始め、斜めに差し込む夕陽が建物の影を長く伸ばしている。普段なら、落ち着いた夕方の雰囲気が心地よいと感じるのに、今日は違った。


 頭の中には、先ほどの美咲先輩の言葉が何度も響いている。


「未来の記憶を持っているって言ったら、信じる?」


 突然の言葉だった。


 冗談だと片付けてしまいたいが、あの時の彼女の表情には、冗談にしてはあまりにも強い感情が込められていた。


 あれが本当に冗談なら、彼女はただの嘘つきか、もしくは演技の天才だ。でも、どうしてもそうは思えなかった。


 未来の記憶、という言葉が現実的に考えられないのは分かっている。


 でも、それでも彼女の真剣な表情と切実さを思い出すと、まるで頭の中に引っかかる小さな棘のように、消化できない何かが残る。


「未来で、大切なモノを失ったの」


 彼女の口調には、深い後悔と悲しみが滲んでいた。


 大切なものを失ったって、それは何だろう。そんなことが本当に起こる未来が存在するなら、彼女は一体どんな未来を過ごしたのか。俺には、到底想像もつかない。


「もう一度やり直すために、この過去を生きているんだよ」


 未来で大切なものを失った彼女が、やり直すために過去に戻ってきた。


 そんなこと、現実にはあり得ないと分かっている。だけど、彼女が話していたあの雰囲気と悲しげな笑顔が、今も頭の中に焼き付いている。


 もし彼女が本当に未来から来たのだとしたら……。


 俺は何ができるのだろう。どうやったら彼女の失ったものを取り戻す手助けができるのだろうか。


 そんなことを考えていると、ますます頭の中が混乱してくる。


 俺は美咲先輩に対して、ただの憧れや好意ではなく、もっと深い何かを感じているのかもしれない。でも、それが何なのか自分でもはっきりと分からなかった。


「智君、久しぶりだね!」


 突然、聞こえた明るい声に、考え事をしていた俺は現実に引き戻された。


 顔を上げると、そこには幼馴染の藤原由香が立っていた。久しぶりに会う彼女は、高校時代よりも垢抜けて、都会の大学生だった。


 何よりも、元々整った容姿をしていたのに垢抜けて、前よりも美しさに磨きがかかっている。


「由香? だよな?」

「そうだけど、どういう意味?」


 俺が美人すぎる幼馴染に眩しさを感じて問いかけたことに気づいていないようだ。


 同じ大学なので、顔を見かけることはあったが、彼女は大学でも人気者で、友人たちに囲まれているのが当たり前の学生生活を送っている。


 僕とは大違いの学園カーストの上位に属している。


 確か今日も、少し離れたところで友人たちと話しているのを見かけていた。俺の方に気づいてくれたのか、わざわざこちらに来てくれたようだ。


「話すのは……久しぶりだな」


 声をかけると、彼女はにこやかに微笑み、持っていた飲み物を差し出してくれた。


「うん、そうだね。これ、まだ買ったばかりで冷たいからあげる」

「えっ? ありがとう」


 受け取ったペットボトルを手に、冷たさがじんわりと指先に伝わる。夕方でも暑さを感じていたので、心地いい。


「あんまり思い詰めちゃダメだよ」

「……顔に出てた?」

「うん。凄く真剣そうだった」


 彼女はいつも周囲に気配りを忘れないタイプだ。誰に対しても優しくて、成功していく人間というのは彼女みたいなことを言うんだと思う。


 俺のようなボッチにも、こうやって気にかけてくれる。幼馴染ということもあって、何も言わなくても状態を見抜いているのかもしれない。


 由香は俺の隣に腰掛け、顔を見るように視線を向けてきた。


 彼女の瞳には、俺の心の奥まで見透かしているような、不思議な力が宿っている。


「智君、恋している?」

「ブフッ! なんだよいきなり!」


 飲んでいたお茶を吹き出して、美咲先輩のことを見透かされたような気がして、ドキッとした。


「ふふ、智君って普段は誰にも平等に接していて、全員と壁を作って、一定の距離を保っているでしょ」

「うっ!?」


 見透かされていることに、喉が詰まる。


「ふふ、だけど、思い詰めている時とか、悩んでいる時って、すぐに顔に出るんだよね。昔からそうだった」

「そうなのか?」

「うん。それで? 相手は誰なの?」

「由香には関係ないだろ?」

「そんなことないよ。幼馴染で友達でしょ? 教えて欲しいな」


 上目遣いで見上げてくるのは反則だと思う。正統派の美人から見つめられたら、弱い。


「ハァ、好きかどうかはわからない。だけど、同じサークルの黒曜先輩のことが気になってるんだ」

「うわ〜本当に恋だった! 聞かせて聞かせて!」


 ううう、由香は色恋が好きだからな。捕まると長い。


 その後、根掘り葉掘りと聞かれて、色々と話をさせられた。


「ふ〜ん、とうとう智君が恋をするかぁ〜」

「おい、やめろよ。恥ずいだろ」

「いいじゃんいいじゃん。こんな美少女が近くにいても恋をしなかったくせに」

「自分で、美少女っていうなよ。もう大学生で大人だろ?」

「えっ? うーん、実はまだ処女だよ」

「お前なぁ〜そういうことを男にいうなよ」

「智君にしか言わないし!」


 こいつは見た目に反して中身は男前だったりする。


「ハァ〜、それにお前彼氏いただろ。拓也はどうした? 田中拓也タナカタクヤ、高校から付き合ってただろ?」

「大学に来る前に別れたよ。あいつって女好きで浮気ばっかりだから。高校の間はダメって言ってたら、他の子に浮気したから、もう知らないって」


 全然知らなかった。大学入る前ってことは一年前じゃねぇか。


「智君、美咲先輩のこと、話したのに、まだ何か考え事してるみたいだけど…他にも何か悩み?」


 彼女の声が、思っていたよりも優しく響いた。


 由香に美咲先輩のことを打ち明けたくなった。


 だけど、やっぱり口を開く直前で思いとどまった。


 未来から来た何て誰が信じるんだ? 話してしまっても、どうせ理解されないだろう。


「いや、大丈夫だよ。まだ、俺の中でもハッキリしてないことなんだ」


 結局、そう返すしかなかった。自分でも情けないと思うが、これ以上は話す勇気が出なかった。


「そっか、智君はいつもそうだね」


 由香は少し寂しそうに微笑み、視線を遠くに向けた。俺の答えを予想していたかのように。そして、彼女は立ち上がり、軽く手を振った。


「元気ならいいけどさ。困ったことがあったら相談してね。同郷のよしみで聞いてあげるよ! あっ、お金の貸し借りはしないからね。って言っても、智君の方がお金持ちだけど」


 しっかりしているのも、由香らしくて俺は笑ってしまう。


「ああ、大丈夫だよ。金には困ってない。逆に困ったら言えよ。由香の頼みなら聞いてやらんこともない」

「はは、ありがとう。その時はお願いするかも」

「何かあるのか?」

「ううん。大丈夫だよ」


 曖昧に笑う由香はそう言って、立ち去ろうとした。その背中が少し寂しげに見えたのは気のせいだろうか。


 立ち去る彼女を見送るのが、なぜか切なかった。


 俺のことを気にかけてくれる幼馴染で、いつでも相談に乗ってくれる存在だったはずなのに、俺はその優しさを素直に受け取ることができなかった。


 そんな自分が、少しだけ嫌になる。


 歩き始めた由香は、友人たちが待っている方へと戻っていく途中で、ふと振り返った。そして、俺に向かって柔らかく微笑む。


「智君。もしも、智君が元気なら、次は私の相談に乗って欲しいな。聞いてくれる?」


 彼女の言葉には、どこか頼るような響きがあった。由香が俺に何か相談を持ちかけるのは、あまりないことだ。


 それに気づいて、俺は彼女に向かって頷いた。


「もちろん、いつでもどうぞ。金の貸し借りでもいいぞ」

「もう、でもありがとう」


 彼女は満足そうに頷き、そのまま友人たちの待つ方へと向かって歩いていった。


 由香の後ろ姿を見送ると、心が少しだけ軽くなった気がした。

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