第8話
猫カフェでのバイトは、大学の忙しさから逃れられる数少ない時間だ。
週二日、猫たちに囲まれて過ごすこの場所は、心の安らぎと同時に俺のストレスを晴らしてくれる場所でもある。
昔から猫が好きだった。実家では二匹の猫を飼っていて、だけど、大学に行くために一人暮らしを始めてからは猫を飼うことができないので、喧騒や講義の難しさ、周囲の人間関係のもやもやを猫たちに癒されることでバランスを取っていた。
その日も猫カフェは静かな午後を迎えていた。
ふわふわとした長毛種たちの毛繕いをして、ゴロゴロと喉を鳴らす猫たちに囲まれていると、ふと入り口で思い詰めた様子の客が立ち止まっているのが目に入った。
「あれ……もしかして?」
彼女は、拓也が話していた「噂の後輩」だ。
メガネに三つ編みで清楚な雰囲気、そして特徴的な大きな胸。
彼女がお客様としてやってきた。
だが、彼女の表情はどこか硬く、決意を秘めているように見えた。
猫カフェに来ているのに、何かに挑戦するためにこの場所に足を踏み入れたような、そんな雰囲気だ。
俺に気づいている様子もなく、猫カフェの空気に圧倒されているようにそわそわとあたりを見回している。
お会計を済ませた彼女は、意を決したように猫たちが集まるスペースに入っていく。あまりにも真剣な様子に、少し気になって目で追ってしまった。
猫たちが一斉に視線を向けたかと思えば、彼女から距離を取るように離れていく。
通常なら、猫たちは新しいお客さんに興味津々で寄って行くのだが、彼女に対しては何か違う反応を見せているようだ。
猫たちが彼女の緊張や心の揺れを感じ取っているかのように。
その様子を見て、俺は少し胸が痛んだ。猫カフェに来ているということは、猫が好きでこの場所を訪れたのに、拒絶されたかのような状況に彼女が落胆しているのが伝わってくる。
ふと彼女の表情が視界に入る。
どこか悲しそうな目をしているが、それでも猫たちを眺める彼女の目は、何かを愛おしむように柔らかい光を帯びていた。
猫に囲まれる人たちを見つめる視線には、羨ましささえも滲んでいるように見える。
そんな彼女にどうにかしてあげたくなり、俺はポケットからチュールを取り出し、そっと近づいて手渡すことにした。
「あの……これ、使ってみるといいですよ。猫が寄ってくるかもしれません」
突然声をかけられて驚いたのか、彼女は目を見開いて驚いた顔をする。
「ありがとうございます……でも、私、猫になかなか好かれないみたいで」
「猫って意外と繊細ですからね。お客様が緊張しているのが伝わるんだと思いますよ」
「私が緊張しているってわかっちゃいますか?」
「凄くわかりやすいです」
俺は少しからかうように伝えると彼女は大きく深呼吸をする。
その度に夢袋が上下する。
「えっと、チュールを使えばきっと……来てくれますよ」
俺は猫たちの中でも特に人懐っこい真っ白な猫(マシロ)を見つけて、チュールで彼女の方に誘導することにした。
《頼む。マシロ! 彼女を癒してやってくれ》
マシロは、俺の願いを聞いてくれたのか、三つ編みの彼女へ近づいていく。
彼女は少し戸惑ったようにしながらも、俺に促されるまま手にチュールを取る。
「じゃあ、この子にちょっと近づいてみてください」
言葉に従って彼女がゆっくりと手を差し出すと、マシロは最初少しだけ警戒しつつも、やがて匂いを嗅ぎ始めた。そして、興味を示すように彼女の手元のチュールに顔を近づけ、舌でぺろぺろと舐め始めてくれた。
《ありがとう! マシロ!》
「舐めてくれました!」
彼女の顔がパッと明るくなり、その瞬間、自然と笑みがこぼれるのが見て取れた。どうやら、猫に拒絶されることなく触れ合えたことが嬉しいらしい。
俺はそんな彼女の様子を見て、少しばかり温かい気持ちになる。
「よかったですね」
「はい、本当に……! 初めて猫ちゃんと交流できました! すごく嬉しいです」
彼女が微笑むその表情には、さっきの緊張や不安が薄らいでいて、純粋に猫と触れ合うことを楽しんでいるのが伝わってきた。
マシロも彼女の緊張がほぐれたのを感じて、さらに近づいて、舌が彼女の指先をくすぐるほど近づいてくれた。
彼女の表情はますます和らいで、ふにゃふにゃになっていた。
俺が良かったと安堵して、彼女を見ていると、不意に彼女が顔を上げて俺を見た。
そして、何かを思い出したように「あ……!」と声を上げた。
「もしかして……先日、廊下で荷物を拾ってくださった方じゃないですか?」
「ああ、まぁそうですね」
彼女はチュールを食べ終えたマシロが立ち去っていくのを待ってから、立ち上がって俺に近づいてきた。
彼女の顔は赤くなっていて、深々と頭を下げた。
「その節は、本当にありがとうございました!」
「いやいや、全然気にしないで」
俺が気にしていないことを告げると、すぐに顔を上げてくれた。ただ、その瞬間、薄着の服のせいで大きな胸が弾んだのが目に入ってしまう。
「……!」
俺は慌てて目をそらし、必死に気づかれないよう顔を背けるが、顔が熱くなっているのが自分でもわかる。彼女の視線を感じるたびに、動揺が増していく。
大きいって見るつもりがなくても目に入るものだな。
「どうかしましたか……?」
彼女は首をかしげながら、上目遣いで俺を見つめている。
おそらく、自分の胸が視線を集めているとは気づいていない様子だ。そんな無邪気な彼女の仕草が、逆に俺を余計に困らせていた。
「あ、いや、なんでもないです! 本当に、気にしないでください」
俺が慌てて言うと、彼女は少し不思議そうな顔をしていたが、それでも礼儀正しく「今日も色々とありがとうございました!」と再度頭を下げてくれた。
「また……来ますね!」
彼女は柔らかな笑顔を浮かべながら、猫カフェをあとにした。
その後ろ姿を見送りながら、俺は静かにため息をついた。
「あの子、本当に猫が好きなんだな」
猫たちに囲まれながらも、彼女のことが頭から離れなかった。
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