第2話

 彼女が再びボタンに手をかけ、俺の心臓は一層強く跳ねた。


 体が自分の意志とは関係なく反応しているかのように、全身が固まり、動くことができない。


 額から流れる汗が目に入り、視界がぼやける。


 それでも、汗を拭うことができない金縛りにあっていた。


 美咲先輩の手がゆっくりとボタンを外す音が、教室の中に妙に響いている。


 第一ボタン、第二ボタンと次々に外され、彼女の白いキャミソールがあらわになっていく。いや、冗談だ。これはきっと冗談だ。


 美咲先輩はいつも冷静で、こんなことを本気でやるわけがない……はずだ。


「せ、先輩、本当に冗談ですって! 止めましょうよ! 誰か来ますからね?」


 俺は必死に声を振り絞るが、声が震えているのが自分でも分かる。


 何か、空気が変だ。暑さで頭がやられたのかもしれない。


 美咲先輩は普段からクールで、他人に流されないタイプだが、今の彼女はいつもの彼女とは違っていた。


 もっと消極的で、どことなく影のある美人って感じだった。


 だけど、今の冷たい瞳は、別人のように、無表情で俺を見つめている。


「あなたが望んだことでしょ?」


 彼女は低い声で囁いた。その声は甘いはずなのに、俺には氷のように冷たく聞こえる。


 その瞬間、彼女はキャミソールの紐にまで手を伸ばそうとした。


「ちょっ、ちょっと待ってください!」


 俺は思わず大きな声で叫び、反射的に目を閉じた。もう限界だ。これは本当に冗談じゃ済まない。


 誰か、誰かこの場を止めてくれ! 俺は心の中で叫びながら、目をぎゅっと閉じたまま祈るように待った。


 しばらくの静寂が続く……蝉の鳴き声が遠くからかすかに聞こえるだけで、教室の中は妙に静かだ。


 ……動きがない?


 ゆっくりと恐る恐る目を開けると、そこには先輩が立ち尽くして、じっと俺を見つめていた。


 彼女はほんの少し微笑んでいたが、その笑顔はどこか不気味さを感じさせた。


 だが、次の瞬間――「……ふふっ」


 美咲先輩が、突然笑い出した。彼女の肩が小さく震え、笑いが止まらないようだ。


「え……?」


 俺は完全に困惑し、状況が飲み込めない。


「ごめん、冗談よ。本当に冗談。ただ、あなたがあんまりにも必死だったから、つい面白くてね……」


 美咲先輩は息を整えながら、ようやく落ち着きを取り戻した様子で、笑いを収めた。そして、外したボタンを再び留め始める。


 俺はその様子を呆然と見守るしかなかった。


 心臓がさっきまでの鼓動とは違い、じわじわと冷や汗が引いていくのを感じる。


「冗談……だったんですか?」

「当たり前でしょ?」


 先輩は涼しい顔で答える。


 彼女はいつも通りのクールな美咲先輩に戻っていた。


「でも、ちょっとは反省したほうがいいわよ。そんな冗談、普通は言わないもの失言ね」

「はい、すみません……」


 俺は顔を真っ赤にしながらうなだれた。


 確かに、こんな冗談を言った俺が悪い。


 美咲先輩の元気がないのを気にかけていたつもりだったが、結果的に彼女を困らせてしまったようだ。


「でも、あなたが元気づけようとしてくれたのはわかるわよ。ありがとう」


 ふいに彼女が柔らかい声でそう言った。顔を上げると、彼女が優しく微笑んでいるのを見て、少しだけほっとした。


「じゃあ、飲み物でも買ってきて。暑いし、ちょっとリフレッシュしたいから。私もなんだか気分が変わったから」


 彼女はそう言って、さっさと教室のドアを開け、俺を待つこともなく外に出ていった。


「はい」


 俺は少し遅れて立ち上がり、ふらふらと後を追った。頭の中では、さっきのやり取りがまだ消化できていなかったが、とりあえず飲み物を買うことくらいならできるだろう。


 教室を出た瞬間、突き刺すような夏の陽射しが俺の顔に直撃した。


 外の世界は、教室の中とはまるで別の次元にあるように感じられる。


 さっきまでの不気味な空気が嘘のように、青空が広がり、蝉の鳴き声がやかましいほどに響いている。


「ふぅ……生きてる……」


 俺は思わず呟いた。


 あのまま逃げ出していたらどうなっていたのだろう。


 先輩は、冗談でやっていたと分かっていても、冷や汗が止まらない。あれは完全に遊ばれていたんだ。


 今思えば、どうして俺はあんな言葉を口にしてしまったのだろう。いや、わかっている。美咲先輩の元気がないのを気にしていたからとはいえ、やりすぎた。


「自業自得だな……」


 俺は自分に呟きながら、自販機の前で立ち止まった。


 何を買おうとしていたっけ? 考える暇もなく、指が適当にボタンを押す。


 ポトンという音がして、缶が出てくる。冷たい缶を手に取ると、少しだけ気持ちが落ち着いた気がした。


「お疲れ様。大変だったね」


 ふいに後ろから声がした。振り返ると、美咲先輩が笑顔で立っていた。いつも通りの涼しげな笑顔だった。


「いやいや、先輩の冗談のせいですからね。もう俺、心臓が持ちませんよ!」


 俺は冗談っぽく言ったが、内心は本当にビビっていた。しかし、先輩はそんな俺の様子を楽しんでいるかのように、ニヤリと笑った。


「そう? それなら、もっと強くなるべきね。男の子なんだから」

「は、はい……」


 俺はもう何も言えなかった。


 冗談にしても、あの瞬間の狂気じみた彼女の顔は忘れられない。だが、彼女の笑顔を見ていると、さっきまでの恐怖が少しずつ溶けていく気がした。


 先輩が自販機の前に立ち、ジュースを買ってから、俺たちはそのままベンチに腰掛けた。


 暑さが体を包み込むが、缶を握る冷たさが心地よい。


 しばらく無言でジュースを飲んでいたが、先輩がふと口を開いた。


「ところで、どうしてあんな冗談を言おうと思ったの?」

「えっ……それは……」


 俺は一瞬言葉に詰まった。正直に言うべきか、もっと無難な返事をするべきか、迷ってしまう。


「……いや、先輩が最近元気なさそうだったから、少しでも元気づけようと思って……」


 俺は言葉を選びながら、そう答えた。


 恥ずかしくて顔が熱くなるのを感じたが、それ以上何も言えなかった。すると、美咲先輩は少し目を見開き、意外そうな表情を見せた。


 それから、柔らかく微笑んだ。


「ありがとう。あなた、優しいんだね」

「えっ……?」


 俺は驚いた。予想外の反応に言葉を失ってしまった。


「最近、色々あってちょっと疲れてたのよ。だから、そんな風に気にかけてくれたのは嬉しいわ。でも、次はもっと普通の冗談にしてくれると助かるわね」


 彼女はそう言って、俺に笑いかけた。その軽やかな仕草に、ようやく俺は肩の力が抜けた。


「……わかりました。次はちゃんと普通の冗談にします」


 俺は苦笑いを浮かべながらそう答えた。そして、ジュースを一口飲むと、今度は心からホッとした。


 先輩はやっぱり、俺が思っていた通りの優しい人だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る