第30話 緊急事態!

「あらら、すっかり肥えちゃって」


 居間のテレビに映し出されるジークの映像を見ながら、私はにふふと笑った。

 かつての精悍さはどこへやら、人間たちからもらうエサやおやつで、かなりふくよかになったエゾシカである。


 すんげー幸せそうな満ち足りた顔をしているよ。

 野生としてダメすぎるわね。影走りなんていう格好いい二つ名をどこに置き忘れてきたんだって感じ。


「姐さん!」


 ほえほえと平和にテレビを見ていた私の耳に、かなり切羽詰まった声が飛び込んでくる。


 視線を向ければ、雪原になっている庭に、ちょうどのあーるが滑り込むところだった、

 口には灰色の子猫の襟首をくわえている。


 小さい。

 まだ赤ちゃんだな。


「人間のガキどもにいじめられていたところを助けた。追われている」


 黒く長い毛を持つのあーるは雪景色の中では目立ちすぎる。

 追っ手をまくことは難しいだろう。それに、人間ってのはある意味でヒグマより執念深いから。獲物を横取りされたら絶対に許さないだろう。


「さくら。先生を呼んできて」

「わかった! ぴろしきは?」

「私は、あの子を助けるわ」


 とててててと階段を駆け上がっていくさくらを尻目に、私はがらりと窓を開けた。

 自分の意志でここを開くのはずいぶんと久しぶりである。


 外に出ちゃうと先生が心配するからね。

 でもいまは非常事態だ。

 最良と信じる手段をとるしかない。


 とーんと一挙動でのあーると子猫のそばに着地する。

 すでに人間たちは近くまで来ていた。

 高校生くらいかな。男ばかり四人。


「へえ……? 大の男が雁首そろえて赤ちゃん猫をいじめるんだ。さすがは地球の覇者。やることが立派ね」


 しゃーと私は牙を剥き、両手の爪を出す。

 手加減してやる必要などない相手だ。


「お。なんだこいつ。やる気だぞ」

「なんなんだこの街の猫どもは、みんな生意気でよう」

「躾けてやらねえとダメだろ」


 ニヤニヤと笑いながら近づいてくる。

 私は背後にのあーるたちをかばい、慎重に間合いを計った。


 猫と人間が戦ったら後者が勝つ。

 身体の大きさの問題でね。こればかりは仕方がない。

 けど、小兵には小兵の戦い方があるのよ。


「さがりなさいガキども。いまなら見逃してあげるわ」


 尻尾を膨らませて脅しつける。


「くくく。何回殴れば死ぬかな。賭けね?」

「じんちゃんそんなこといって、いきなり一発で殺しちゃったじゃん。賭けにならないっしょ」


 だらだらと駄弁を垂れ流している。

 自分よりはるかに小さい生き物を殺したことが、そんなに自慢か。


「なら、私に負けたときには、どう言い訳するのかしらね」


 ぐっと後ろ脚に力を込めた。

 狙いは先頭にいる人間。一撃で目玉を抉るための軌道を計算する。


「目にかすり傷はないんだってこと、教えてあげるわ」






「なにをしている」


 私が飛びかかろうとしたまさにその刹那、玄関の戸が開いて先生が出てきた。


「な、なんだっていいだろ!」

「関係ねえくせに首突っ込むなよ!」


 急に現れた大人に、少年たちが驚きつつも凄んでみせる。

 うん。説得は無駄よ。先生。

 こいつらは殺すしかないわ。


「むしろ、なぜ関係がないと思ったのか、それを知りたいところだな。君たちが立っているその場所は私有地だ。誰に許可を得て入ったのかね?」

「…………」


 黙り込むガキども。


「つぎに、君たちが襲おうとしている猫は我が家のペットだ。つまり、不法侵入と動物虐待の現行犯なわけだ。なにか反論はあるか?」

「ち。いくぞ」


 憎々しげにリーダー格が舌打ちして踵を返す。

 仲間たちがそれに続いた。

 それを眺め、先生は皮肉げに唇を歪める。


「なぜ簡単に見逃してもらえると思ったのか、そこもまた謎なのだがな」


 呟いた瞬間、二台のパトカーが庭の出口に停車した。


「てめぇ!」

「通報したに決まっているだろう。ナイフやエアガンで武装した者が四名も庭にいて愛猫を襲おうとしている状態で、どうして何の手も打っていないと思ったのかな? 君たちの頭の中はリゾートアイランドか?」


 先生が肩をすくめ、ガキどもはぎゃーすか捨て台詞をまき散らしながら警官に連行されていった。


 まあ、一晩くらいは拘置所にいれられて反省しなさい。

 こっちはそれどころではないのだから。


 のあーるが私にぺこりと頭を下げて去っていく。

 私と先生は赤ちゃん猫に駆け寄った。


 

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