第9話 さくら脱走
あれ以来、さくらは窓の外を気にするようになった。
野良猫が通るたびに挨拶したり、外の話を聞いたりしている。
良くない傾向ね。
私たち家猫は外の世界を知るべきじゃない。もっといえば興味を持つべきでもない。
一見すれば自由だと思える世界だけど、その過酷さは想像を絶するから。
しばらく前にさくらは、一日二回の食事を天国みたいだと言った。私たちからすればごく当然の食事ですら、野生では違うのだ。
一日二回どころか、数日にわたって食事にありつけないなど珍しくもない。水だって清潔なものが飲めるなんて奇跡みたいな確率なのである。
だからこそ野良猫の寿命は短い。
十年生きるものなど、そう滅多にいないだろう。
「さくら。また外を見ていたの?」
「庭を通る猫たちは、みんな楽しそう。外の面白さを教えてくれる」
「……それは嘘よ。騙されないで」
私は苦虫を噛み潰したような顔をしてみせた。
野良たちの狙いは明白なように思えたからである。
野良出身でこの家にもまだ完全に馴染んでいないさくらは、もし万が一外に出てしまったら戻ってくることが難しい。
行方不明というやつだ。
まだゼロ歳で世間知らず。その上、目立つ白猫ときてはおそらく野生で長くも生きられないだろう。
さくらを失った先生の喪失感はいかほどのものか。
たぶん私一人では慰めきれない。そうすると、庭に遊びにくる猫たちに勝ちの目が出てくる。
つまり、拾われる、というね。
先生はもう保護猫を一度引き取っているから、野良を迎え入れることに対するハードルが低くなっているもの。
空席を埋めるかたちで、家猫の座をゲットできるのだ。
「嘘なんかいってないよ。ぴろしきは、どうして外の猫の話を信じないの?」
小首をかしげるさくら。
ふうと私は息を吐いた。
そうだね。きっと彼らは嘘をついていない。事実のすべてを語っていないだけ。
海賊たちが、俺たちは自由を謳歌する海の男だと主張するようなものよ。
その自由は他人の生命や財産を奪うことによって得られているんだってことや、常に官憲に追われていて捕まったら縛り首なんだってことを語っていない。そういうものだ。
野良たちには野良たちの良さがある。
たとえば避妊の手術をしなくて良いってのもそのひとつよね。
私はもう雄猫とつがいになることはないし、子供を産むこともできない。イキモノとしての最大の義務である自分の遺伝子を次代に伝えるってことはできないの。
これは痛恨事だと思う。
でもそのかわり、先生はずっと私と一緒にいてくれる。家猫の平均寿命を考えれば、あと十二、三年かな?
ようするに私は子孫を残さない代わりに、先生の時間をもらったわけだ。
等価交換ではない。
あきらかに私の方が有利な取引だと思っている。
「まあ、案外、彼らも本気で自分たちの生活が素晴らしいと思ってるかもしれないけどね」
野良猫たちは家猫の暮らしを知らないから。
家猫というのは、人間の家に押し込められ、避妊させられ、人間の顔色を伺って生活しないといけない哀れな連中だなんて思ってる可能性もある。
「ふーん……」
あまり納得していない顔で、さくらが自分の餌場へと去っていった。
そして事件が起きる。
網戸を破って、さくらが外に出てしまったのだ。
私も迂闊だった。まさかさくらの爪で網戸を破れるとは考えていなかったの。ところが、一階の窓のひとつは先生が張った網戸だったため、作りが雑だったのである。
きちんと端が止まっていなかったから、さくらの力でも思い切り体当たりしたら、べろんって剥がれちゃった。
私が気づいたときすでにさくらは庭に出ており、おっかなびっくり物置小屋の方へと歩いていたのである。
「さくら! もどってきなさい!」
大声で鳴き、もどるように促す。
するとさくらはびくっとなって、一目散に物置の影へ隠れてしまった。
しまった……もうパニック状態になってる。
さくらとしても、まさか外に出られるとは思っていなかったのだろう。急な環境変化に驚いて、どうして良いか判らなかったのだ。
そこに私が大声を出しちゃったから、怖がって逃げてしまったのである。
「私としたことが……」
無念の臍をかむ。
今のさくらにとっては、見るもの聞くもの触るものすべてが恐怖の対象だ。
自力で帰ってくることは難しいだろう。物置から家までの十数メートルすらものすごい距離に感じるはず。
「すぐ先生に報せないと」
私は窓枠から飛び降りて階段を駆け上がり、先生の書斎へと駆け込んだ。
にゃあにゃあと甲高い声で警告鳴きをしながら。
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