第13話 その笑顔は忘れない

 私は記憶力は良い方だと思う。昔から勉強がよく出来ると先生や親から褒められていたし。何だったかなと記憶の糸を引っ張れば、経験した内の大抵の事は容易に思い出す事ができた。

 一つの太い幹に紐付けて、枝のように細い糸をが四方に伸びる。先に行けば行くほど細く思い出すのが難しくなるけれど、頑張れば思い出せない事もない。

 そんな私でも、思い出せない事がある。


「誰だったかな……」


 朝目が覚めると同時に、手の中にある写真を見て疑問を抱く。

 私と短い黒髪の小柄な女の子が手を繋いだ写真。とても親しげで、大切な人であるのが見て分かるのに、思い出そうとしても空白がよぎるだけだった。まるで幹に近い部分からポッキリと折れてしまったかのようだ。

 まあ、こういう時は心配が要らない。大事なものは、分かりやすくしておくものだし。さて、と呼吸を置いて、私は写真を裏返した。


――――――――――――――――――――


 あたしは記憶力はお世辞にも良い方とは言えない。

 でも、だからこそ分かることがある。人間の体は自分が知っていることだけで構成されているわけではない、と。

 会って話をしないといけない人が居る。その人のことは知らない、いや、正確には覚えてないけど、あたしを構成する重大な人物だと確信できる。

 その人に会うために、電車に乗って降りた駅から徒歩数分の所にある家を見上げる。人が十人は余裕を持って暮らせそうな豪邸だ。これにはいくつの立方体が含まれるでしょう、というクイズに出てきそうな白い角張った造形が印象的である。

 この家のことは知っている。何度も足を運んで中にお邪魔させてもらったこともある。なのに、あたしとこの家がどういう関係があるのか、中で何をしたのかが記憶に無い。

 緊張したまま深呼吸をし、意を決してインターホンを押す。数十秒後、銀髪のきれいな女性がドアを開けて出てくる。


「いらっしゃい、大葉さん」

「あ、はい。えっと、千ノ音さん」


 毎度この女性をなんと呼べばいいのか迷っている気がする。そして、しっくり来ないまま妥協してそう呼んでいるのだ。


「あら、お母さんって呼んでくれてもいいのよ?」


 あたしが会いに来た人の母親は、期待を込めたようにそうおどける。

 恋島症で忘れた相手を間に挟んで認識している人物の記憶は、穴だらけでとてもモヤモヤする。家と同じでこの人のことは知っているのに、自分との関係が思い出せないのだ。


「そ、それはちょっと……。今回もうまくいくかは分からないので」

「心配性ねえ、いつもの事だけれど。千慧は毎回あなたにベッタリになるのよ?」

「ベッタリ……」


 朝起きて最初に見た写真と動画に写っていた千ノ音千慧という高校の先輩は、気品がすごくて誰かにベッタリ甘えるようには見えなかった。ましてや、あたしみたいなパッとしない人間相手に。

 そもそも、あんなに綺麗な人があたしの恋人なんて、いきなり言われても信じる方がおかしいレベルの話だ。でも、映像は確かにあたしと先輩との関係を映し出していたし、今の先輩のお母さんの反応もあたしが先輩と付き合っていた事実の証明となっている。


「まあ、こんなところで話していても仕方がないし、行きましょうか」


 あたしの緊張を優しく撫でるような声色に中へ促される。

 そこから、あたしと先輩がどれだけ仲が良かったかを語る先輩のお母さんに案内されながら、家の中を歩いた。

 先輩の家を訪れた時だけに会うこの女性も、記憶を無くすのが七度目となるほどの月日が経てば、あたしと先輩の間柄について話す内容には事欠かないらしい。まるで恋愛映画を観るような客観的な意識で、あたしがどんな恋愛をしていたかを綴った物語に時々「へぇそうなんですか」とか「マジすか」と気恥ずかしさを隠した相槌を打ちながら耳を傾けた。

 そして、階段を上がって三部屋ほどスルーした所にあるドアの前で立ち止まる。

 ここが先輩の部屋ということらしい。


「千慧との顔合わせが済んだら私はけるからね」

「あ、あの。面倒なことに毎回付き合わせてしまってすみません」


 先輩を呼ぶ前に、それだけ伝えておく。

 我が子の恋愛事情なんて、親なら誰でも気を揉みそうな問題だ。その上でそれが二ヶ月毎にお互いを忘れる恋愛となれば、咎めたくなって然るべきだと思う。

 でも、先輩のお母さんは、あたしに嫌な気持ちをぶつけることはなく、温かく迎え入れてくれる。


「謝る必要なんてないのよ。だって、あの子は貴方と出会ってから、前みたいに明るく笑うようになったのだもの」


 他に大事な事がある?と言い含めた微笑みの後、先輩のお母さんはドアをノックした。


「千慧。大葉さんが会いに来たわよ」


 部屋の中からコトコトと物音がして、緊張の糸が再びピンと引っ張られる。

 落ち着きを得る間も無く、ドアノブが下がって部屋の主と対面することになった。


「小々倉さん」


 その澄んだ声に、整った顔に、体が反応する。血の巡りが速くなり、眩暈がしてよろめきそうな程に酸素が消耗される。

 そりゃ何度でも好きになるわけだ。最初が真の意味での一目惚れじゃなかったあたしが最早すごいと称賛したくなる。


「こ、こんにちは。千ノ音先輩」

「こんにちは。どうぞ入って」


 一方の先輩はなんてことも無さそうな自然な振る舞いで応対してくる。

 あたしを一目見て、その、なんか無いのかな。……無いんだろうな。卑下するわけじゃなく、自身が最高峰の美を纏う以上、他人の容姿に感動なんてする余地が無いのは想像できた。

 部屋に足を踏み入れると、ドアが閉じられて先輩と二人きりになった。

 息が苦しくなるほど良い匂いがする先輩の部屋。場違い感がすごい。

 でも、チラリと目に入った勉強机にはあたしと先輩が並んで笑う写真が飾られていて、確かにあたしと先輩が繋がっていたことを知らせてくれる。


「とりあえずベッドにでも座ろうか」

「はい」


 窓際に置かれたベッドに先輩が先に座る。

 あたしはどの辺に座ればいいんだろう。恋人関係ならそれはもうベッタリこれ以上無いくらいに近寄ってもいいんだろうけど。……今のあたしと先輩は果たして恋人と言えるのか?あたしは今、恋人として相応しいか先輩に値踏みされてる状況なんじゃないか?……等々考えている内に、半人分くらいの微妙な隙間を作って座っていた。手を伸ばせば簡単に触れられるけど、体を揺らしても肩が触れ合うことはない何とも言えない距離が今のあたしの限界らしい。


「遠慮を感じる」

「だって、先輩があたしを受け入れてくれるか分からなくて……」


 二人の間にある敷き布をさわさわ撫でる先輩に、これでも頑張ったのだと伝える。


「そっか。じゃあ、この隙間を埋めるのは私の役目だね」


 先輩がスッと立ち上がる素振りを見せる。そのまま横に動くのかと思いきや、完全に立ち上がってあたしの正面へと来た。綺麗な銀髪が揺れたのが、川に映る月のようで。

 見惚れているだけで流れる時間は短く、一瞬の内だった。


「うぃっ…………!?」


 沈むような感覚の後、あたしはベッドと先輩の間に潰れていた。

 優しく手で肩を押さえられ、腰を太ももで挟まれている。

 突然の、予想だにしない重なりに、心臓が壊れそうな音で跳ねた。

 思考はただ真っ白で、それでも神経が触れる柔らかさや熱を感じ取ろうとこぞって集まっていく。

 平たく表現するなら"襲われている"。悪い気は全くしないけど、お互い心理的には初対面なのにこの人は一体何をしているのか。


「これは、どういう」

「こうするのが手っ取り早いって、忘れる前の私がメモ残してくれてたんだ」

「えぇ……?」


 何がどう手っ取り早いのか。あたしのメモ、というか先輩との日々を綴った数冊に及ぶノートはそんなことは書かれていなかった。あれは量が膨大で短い時間ではとても読みきれなかったからどこかには書かれているのかもしれないけど。

 ただ、『先輩はかなり効率重視』だとは最初の方に書かれていたから、色々と段階をすっ飛ばして進めてもおかしくないかもしれない。


「せ、先輩。なんというかもうちょっと情緒みたいなものが」

「また二ヶ月で忘れちゃうんだから、ゆっくりしてたら時間がもったいないよ」

「それはそうかもですけど……」 

「うん。こうやって小々倉さんを下敷きにした時の感触は、体が覚えてるみたい」


 ずしり、先輩から受ける重みが更に増す。

 先輩が感じているもの。あたしと先輩を結んだ二つの出来事。その時はあたしが先輩を転ばせたらしいけど、何してんだ過去のあたし。そのせいで、お陰で?今のあたしが大変なことになってるのに。

 思い出せない先輩との記憶に文句を浮かべながらも、確かに先輩から感じる温もりには安心感を覚えるのだった。

 たとえ記憶に無くても、あたしの体は先輩の物なのだ。

 何度忘れても消え失せないのがあたしと先輩の愛なのであれば。


「千ノ音先輩。好きです」


 彼女の速さに追随してみてもいいかもしれない。急げば急いだだけ、幸せな時間が積み重なると信じたい。


「あはっ!私も小々倉さんが好き」


 いとも容易く行われた"好き"の交換だけど、破壊力は絶大だった。川面に反射したような煌びやかな笑顔が眩しくて、涙なのか嗚咽なのかよく分からないものが込み上げる。

 記憶に無くても、体と感情が正しい方へ導いてくれる。

 あたしは先輩を求めている。理由なんてそれだけで良くて、情緒なんて不要なままに、先輩の背中に手を回し抱き寄せる。

 そしてそのまま――。

 滅びを嘲笑う永久の月に、桜色の光を灯した。




 ――それから4年後――




 日本から恋島症は根絶された。

 恋島症研究の第一人者の恋島教授の助手である加賀美研究員の娘の奮闘によって。

 ……その娘とは加賀美美香ミミのことである。まさかこんな身近に恋島症研究の関係者が居たなんて全く知らなかったのがまず驚きではあったんだけど。

 どうやらあたしは観察対象にされていたらしい。もちろん部活のパートナーとしてではなく、恋島症研究の一貫として。

 ニュース速報で恋島症の解決策が見つかったと流れた後、テレビに彼女の姿が映って『親友が恋島症に立ち向かう姿に尻を蹴られた』なんて言い出した時は盛大に噎せて苦しまされたものだった。

 『恋島症とは、恋人より先立った人間の"自分のことは忘れて欲しい"という感情が海の底に溜まり、それが地震と月の引力の作用によって一気に海表に舞い上がり――、――親友が恋人と海に行った時のエピソードを聞いて閃いた』……いやなんかあたしが一役買ってるみたいに言われたけど、記憶が無くてほんと唖然しか浮かばない。

 ともかくして、その海に溜まった感情とやらをよく分からないすごい技術で駆逐することで、人々は初恋相手を忘れる症状から解放された。

 そして、それによって既に失われた記憶が戻ることは無かった点は嘆かれたのだが……。


『記憶を取り戻す薬が出来たから千ノ音先輩と一緒に研究所まで来い』


 というミミからの連絡を受けて、駅で先輩と合流しているのが現状だ。


「本当に記憶が戻るのかな?」

「ミミが言うなら戻るんでしょうね。まあ、今更って気がしますけど」


 急な知らせにもすぐ応じてくれた先輩に、小石でも蹴るように返す。

 実際のところ、その薬をどうしても飲まなければいけないという程の焦りや渇望は湧かない。これまでのことは全てノートやスマホに記録されているし、もう記憶を失うことが無い以上それを見直す必要もないのだから。

 どうしても完成品の最初の使用者をあたしたちにしたいというミミの望みに応えるだけだ。あたしたちの為に恋島症の研究をひた進めた彼女に報いる機会にはなるだろう。


「歴史的瞬間なのに、落ち着いてるね」

「今で十分満ち足りてるからですかね」


 先輩とは来年、あたしが大学を卒業した後に一緒に暮らす計画を立てている。それくらい順調で、他に何も要らないと空を見上げる余裕がある。駅の外の上空には雲一つない夏空が遠くまで広がっていた。


「記憶が戻ったら、何か記念にやろうよ」

「いいですけど、何かって何ですか?」

「うーん、海に行くとか?」


 それもいいかもしれない。

 恋島症の根源は海にあったわけで。

 それが無ければ、先輩があたしに接触しようとする理由も無かった。最初のあたしは先輩を遠くから見ているだけで満足していたらしいし、あたしからアタックを仕掛けることも無かっただろう。そう思うと、ある意味あたしは恋島症に感謝しないといけない立場かもしれない。

 かつて誰かを愛した人々が遺した惜別の念は全て消されてしまったけど、だからこそ彼らの為に祈ることが無意味ではないと思う。


「いいですね。じゃあ海で」

「うん」


 駅を出て、どちらからとも付かず手を繋ぐ。

 海にはこれまで毎年行っている。でも、今回の記憶では初めてだ。サンダルを履いたように足取りが軽くなり、先輩の手を引っ張って前に進む。記憶を取り戻す前に最後の初海を楽しめれば良かったな、と少し頭が馬鹿なことを考えた。


 あたしと先輩の夏が始まる。


 草葉が繁り、二人の色で余白が埋め尽くされる季節は、あたしの人生で一番高い気温に包まれていた。


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