第12話 太陽と桃色の花
お嬢様鞄投げ大会なる奇妙なイベントでそれぞれ優勝を果たしたあたしたちは、なんだか満足してしまった。それなりに時間も費やしてしまったこともあって、これからバドミントンをする気分にはなれず、帰る選択をした。
先輩の屈託のない笑顔と笑い声を浴びたあたしは死ぬかと思うほどの幸福に
公園の並木道は全身がかじかむような風が既に収まっていたため、先輩に近づく口実が無くなっていた。
バス車内では先輩はずっとスマホを弄っていて、メッセージアプリに何か文字を打ち込んでは消すのを繰り返していた。家に帰る連絡をしていたのかもしれないけど、後少しで別れるあたしにも少しくらい構ってくれたらなあ、なんて思わないでもなかった。
そして現在、電車の車内。途中で先輩が乗り換えればそこで今日は先輩とはさよならすることになる。結局帰路では大した会話は無く、先輩は相変わらずスマホと睨めっこしている。
別に先輩が構ってくれなくても、今日先輩がくれたたくさんの思い出を脳内再生していれば容易く時間を進められるけど。そういうことを考えていると、脳内だけじゃなくて直接先輩の温もりを感じたくて、隣に無防備で座る先輩に手を伸ばしたくなってしまう。……電車でその表現は痴漢みたいで嫌だな、って邪なのは痴漢とそう変わらないのかもしれない。
「たいよう」
「ぶぇ」
不意に先輩の声であたしの名前が呼ばれた。一瞬脳内再生の一部かと思ったけど、今日先輩に下の名前で呼ばれた記憶はない。幻聴でなければ、今隣にいる先輩の口からそれが発せられたことは確実となる。
一気に跳ね上がった心臓に呼吸を乱されながらも、あたしは横を向く。顎に指を当てて照明を見ている先輩が居て、その横顔はあたしを捉えた。
「先輩、今、あたしの名前……」
「うん、小々倉さんは大葉で太陽なんだねって気付きを得たの」
ずっと家族とメッセージをやり取りしてると思っていたのに、違った。先輩は隣に居るあたしには目もくれずに、頭の中であたしのことを考えていたらしい。あたしと同じように、……は飛躍させすぎだけど。先輩はあたしの名前でダジャレを作って遊んでただけなのだから。
「えぇと……。笑ってあげたいところですが、その手のギャグはもう両手の指じゃ足りないくらい貰ってまして」
何かと弄りやすい名前で、"おおば"と読み違えられた挙句に"おばあちゃん"というあだ名で呼ばれるコンボを数度食らっている実績もある。それと比べれば太陽呼ばわりは全然嫌じゃないし良いんだけど、擦られ過ぎて食傷気味になっていた。
だから、変なことを言う先輩に微笑ましさは覚えながらも、正直な感想を伝えた。が、先輩は首を振って姿勢を正してから、あたしに真っ直ぐ顔を向けてきた。
「ギャグじゃないよ。これは、とても重要な事なの。これからの私たちの関係を大きく変えるくらいの」
「え、あたしの名前にそんな重大な意義が……?」
「うん。ととのったから、今から送るね」
ととのった?それに送るって何を、という疑問を口にする前に、あたしのスマホに通知が来た。言うまでもなく先輩からのメッセージで、送るの意味は簡単に理解に至ったんだけど。
『白日に高く日差して桃色の花の香りに胸が高鳴る』
メッセージの内容を見た途端、手に取った理解が崖の下の雲の中に落ちていった。
えぇと。
えぇと。
えぇと……?
あっ。
滑るように三度ほど目で文字を追い、小気味良いリズムに調整されていって、それが短歌になっていることにようやく気付いた。気付いたからといってそれが意味するところは分からないままだ。
「それが今日の感想」
「あー、そういう。……なんでこんな雅な感じに?」
「たまたまそうなる事もあるよね。それで、どうかな?」
「どうと言われても、あたしこういう教養無いので……。なんかほんのり甘い匂いが鼻の奥に通った感じがして、それは良い感じだと思いますけど」
前半はよく分からなくて、多分後半の桃色の花の香りという部分に引っ張られただけの単純すぎる感想しか返せなかった。
「そっか」
「すみません、あたしが馬鹿なばっかりに」
「ううん、いいの。むしろ伝わったら困った事になってたから」
「困った事?」
わざわざ短歌を
先輩がミステリアスなのは今に始まったことではないけど、今の先輩は感性が変わってるとかそういう話に留まらなくて。
なぜかというと、今の先輩の表情が、苦しいような、切ないような、そういう類いの色を見せているから。
「気にしないで。あ、もうすぐ乗り換え駅だから、バイバイ」
「……」
張り詰めて破けそうな紙が、あたしと先輩の間にあるように感じた。
今先輩と距離を空ければ、それが引き裂かれてもう元には戻らないと、焦燥が走る。
「見送りしてくれるの?」
ただの杞憂かもしれない。今日の終わりを惜しむあたしの心が先輩の表情を勝手に解釈してるだけかもしれない。
でも、このままではざわつく気持ちは収まらない。あたしは先輩と一緒に立ち上がった。
分からない。先輩が伝えたいこと、先輩が伝えたくないこと、先輩が寂しさを浮かべる理由。
分かるのは、あたしの中にある衝動だけ。あたしは先輩に伝えられたくないことなんてないし、先輩のこんな表情を見たくない。このまま先輩とお別れすれば、あたしは分かるものにさえ蓋をすることになる。
だから、あたしは自分の衝動だけは裏切らない。たとえそれが坂道を転がって大怪我をする結果に繋がるものであっても、絶対に。
電車が止まってドアが開く。
その先へ先輩が片足を投げ出した。
そうはさせまいと、あたしは手を伸ばす。
「きゃっ」
先輩の体はあたしに引っ張られ、車内に戻る。
加減はなく、バランスは失われ、視界が回る。
「うぐっ」
背中と後頭部に衝撃と痛みが走る。
坂道を転げ落ちた時を思い起こすけど、焼けるような痛みは無い。電車の床はアスファルトよりもなめらかだ。
代わりに遅れてやってきたのは、あの時は感じる余裕もなかった先輩の柔らかさ、温もり、髪の香り。あたしに重なる先輩から伝わる全て。
それらを感じる余裕はあっても、受け入れる余裕は欠片も残ってない。
心臓が爆ぜたように跳ね上がり、これまで感情をコントロールしていたダムを吹き飛ばす。
放したくない。離れたくない。恋島症とか電車の中だとか今は考慮にすら入らず、腕の中に居る先輩の存在だけを求める。
「だ、大丈夫?」
心配する先輩の声が耳をくすぐる。先輩からすればなんで腕を引っ張られたか訳が分からないだろうに、心配を優先する優しさが先輩の存在をより濃くする。
「大丈夫です。先輩は?」
「すごくドキドキしてる」
「そりゃ驚きますよね。ほんとすみません」
怪我は無さそうでホッとする。
でも、あたしの方は全然大丈夫じゃなかった。やらかしたなあと、やっぱり後から後悔が這ってくるのだった。
理性が戻って来ると、抱き締めてるのも段々恥ずかしくなってくる。あたしが手を緩めて立ち上がる素振りを見せると、やや間があって先輩が先に立ち上がる。それからあたしが立ち上がるのと同時にドアが閉まり、電車が再び動き始めた。当然先輩もその事に気付き、「あっ」と声を漏らす。
「……ほんと、すみません」
重なる失態に、同じ謝罪を連ねるしかなかった。
「うん、とりあえず座り直そうか」
発進してしまったものは仕方ないとばかりに、先輩は元の座席へと戻っていく。
怒っている感じはしない。けど、やっぱりいつもと雰囲気が違う先輩に、距離感を測りかねる。そして、先輩が座った場所の半人分くらい離れた場所におずおずと座るはめになる。
「本当にすみません」
「それはもう聞いたよ。別に急いで帰る必要も無いし、『ぽっぽ』も無事だし気にしないで」
先輩が、バッグに詰め込んだ熊のぬいぐるみの頭をポンポン撫でながら静かに言う。……いつの間に名前を付けていたのだろうか、それもおよそ熊のぬいぐるみに付けるものではない平和の羽でも生えていそうな名前を。気になるけど、今はそこにツッコんでいる場合じゃない。
「いえ、その件もですけど、それ以上に謝らないといけなくて。……先輩との約束、破っちゃいました」
「約束?」
「『あたしは先輩に恋しないし嫌いにもならない』ってやつです」
一生忘れられないはずなのに、消滅へ向けてカウントダウンを始めている日々の一欠片の約束。ついさっき『先輩のことは絶対に忘れませんから』って宣言したばかりなのに、この体たらく。
「……つまり、嫌いなったって事?」
「いや確かに二通り考えれる言い方になりましたけど、その二択で外します?」
岩を引きずるような重みを含んだ先輩の声色に、思わず苦笑する。
あたしからすれば、先輩を嫌いになるなんて同じ人生を100回繰り返してもあり得ないと確信できるのに。
「それが違うって事は…………。今、告白されてる?」
「そう、なります、ね」
二択のもう一方を、先輩はそっと引き寄せる。
もうどうにでもなれの気持ちになってしまっていたけど、こんなのが先輩への愛の告白になってしまったと思うと、情緒の無さを反省しなければならない。
「そっか、そうなんだ」
「いや、あはは……」
告白の事実をゆっくりと飲み込むような先輩の呼吸に、頭が少し痺れてくる。
勢いでこんな流れになってしまって、告白した気になっていなかったけど、しちゃったんだ。
――となると、今は返事待ち?そういうこと?
どうなのか知る術はあるけど、勇気がない。先輩の顔を見るのが怖くて、視線は先輩のお腹と足の間を低空飛行し続けている。
「一つ確認したいんだけれど」
「は、い。なんでしょ」
「私に恋したってことは、初恋相手の事はもういいの?」
「あー……、そこの説明が必要なんですね……」
そこは汲み取って欲しかった。でも、先輩の中ではあたしは他に好きな人が居るのに急に先輩に惚れた惚れっぽい人間になってしまっているようだ。意図的に先輩の勘違いを放置してきたのが祟った。
「先輩、あたしはずっと、先輩一筋なんですよ」
速い心音にペースを乱されないよう意識しながら、中学時代からずっと隠してきたことを打ち明ける。
「うん??どういう事?この間、小々倉さんには好きな人がもう居るから私の事を忘れる心配はないって話になってたと思うけれど、おかしくない?」
引き出した記憶とあたしの言葉が噛み合わずにぶつかった衝撃で、先輩の首が傾く。
「いやあ、それはですね。これまでずっと上手くやってきたしこれからも上手くやれると思ってたんですけど――」
恋島症の判定に引っ掛からない程度の好きを維持すれば、初恋しないまま先輩を好きで居られたんですよ。――という風なことを出来るだけ分かりやすいように先輩に説明及び種明かしをした。ついでにいつから先輩のことが好きだったのかも、重いと思われない程度に留めて話した。
「恋にならないように好きで居続ける……。そんな事が出来るんだ」
「先輩を好きになったのと恋島症の存在を知ったのが同時期でしたからね。あたしも先輩を忘れない為に必死で頑張りましたよ」
「そうやって小々倉さんが頑張ってくれたお陰で、今の私と小々倉さんが居るって事だね。ありがとう」
「ん……」
掬うような指先が、繊細にあたしの髪を撫でていく。
こういう時、いつもは好意を制御するのに精一杯だったけど、もうそれを抑える意味はない。撫でてくれた分だけ先輩の事を好きになっていい。眠くも無いのに
「あの、一応先輩のこと騙してたようなものなんですけど、怒らないんですか?」
「うん。だって、好きな気持ちを隠すのって普通の事だから」
咎めのない柔らかな声色で、確かに、と納得させられそうなことを言われた。けど、そこには引っ掛かるものもあった。
だって、先輩は今日のお昼にあたしに恋とは何かを訊ねてきたような人なのだ。そんな人が、知ったような口で恋愛を語るのは、先輩には悪いけど違和感しかない。
「私も好きな人にはもう好きな人が居るから、告白するの諦めてたし」
「え」
先輩が、最初に出来た気まずい感じを無かったことにするように、空いた席を詰めてくる。
先輩の言葉の意味を理解するのは難しい。いや、多分頭のどこかでは理解してるはずなんだけど、ふわりと桃色の花の香りが頭の中を埋め尽くして、花びらの下に埋まっていく。その香りは呼吸しなくてもあたしの全身を満たし、自分が呼吸をしているのか、必要としているのかさえ分からなくなる。
「でも、諦める必要は無かったんだね、小々倉さん」
「ふぇふぁ」
「私、千ノ音千慧は、小々倉大葉さんの事が、好きです」
耳を甘噛みされるような、ぶわあと溢れて、あぅあ。
何が溢れたか、心だ、これが本当の放心という。
…………
………………
……………………
――温かく包まれた夢の世界で目を覚ます。全てを満たされて、本当に呼吸も必要としないような、先輩の腕に包まれた世界。
紛うことなき現実の世界で、千夜の喜びを遂げた。
まだ意識は虚ろで、もう一巡くらい千夜を駆けてもいいくらいの余韻がある。
でも、あたしはそれを振り払い、顔を上げる。息が溶け合うほど、顔が近い先輩と見つめ合う。
「せんぱい……」
「うん」
「嘘じゃない、ですよね……?」
「うん。私の初恋相手は、晴れて正式に小々倉さんになったよ」
「ふへっ」
そろそろ耳が幸せで溶けて無くなっていそうな頃合いだ。
先輩がこんな嘘をつくわけが無いと分かっていても、先輩が自覚するほどの恋心を芽生えさせるには長い時間がかかると思っていた。そんな信じられない事実が確定し、不変なものとして世界に刻まれる。
先輩と想いが通じ合い、先輩の初恋相手になれた喜び。
それだけでなく。
半年後に訪れる別れ。その時になれば後悔さえ許されない記憶の喪失がもたらされる。
「お互い同じ日に初恋するなんてびっくりだね」
「そうですね。……これから、どうなるんでしょうね」
普通ならそんなドラマチックな両想いは喜びに浸っていればいいはずだけど、残念ながら普通じゃ通らない世の中だ。
目を瞑り切れないほどの悲しみが幸せの後ろに揺らいで、これから半年の未来を不安定に映し出していた。
先輩がそれを分かっているのか、いや、冷静であたしみたいに浮かれたりしない先輩が分かっていないはずはないんだけど。でも、先輩はあたしの体をギュッと引き寄せて嬉しそうに口元を緩めるだけで、暗い未来など一切介さない明るい瞳を揺らしていた。
「分からないけれど、少なくともどっちかだけが相手に忘れられて辛い想いをすることは無くなったんじゃない?」
「えっと、まあ、同時に恋したなら忘れるのも同時になるから、そうなんですかね?」
確かに問題の一つは無効化されたかもしれない。でも、それだけで前向きになれるほど未来が明るくなったようには思えない。
両想いなら、これから付き合っていく楽しい時間を過ごしていけると思うけど、タイムリミットが近づくにつれて楽しいだけじゃない命を削られるような時間に移り変わっていくのが、辛い。
半年、動かないその期限さえどうにか出来れば。
実は思い浮かんでいるたった一つだけの方法は、上手くいく気がしない。それは二人の強い運命的な繋がりを信じるしかないのだ。
あたしが持つその一端には確固たる自信がある。でも、もう一端には全く自信がない。先輩は、最初からあたしを忘れる前提で近づいてきたのだから。
そんな先輩が、あたしを忘れてもまた会いたいと思ってくれるなんて、そんな都合の良いことがあるはずがない。
「あたし、先輩のこと忘れても、何回でも先輩のこと好きになりますから」
この先50回でも100回でも、あたしは先輩を追いかけ直す。その意志を、天秤が釣り合うことがなくても、あたしの想いをぶつけられる内にぶつけておきたかった。
そして。
「頼もしいね。でも」
分かってはいたけどあたしの決意に返された否定接続詞に、心臓をキュッと絞められて。
「私も同じ事考えてた」
曇りガラスを拭き取るように頬を撫でた手のひらに、信じる未来を示されて。
近づく赤紫の瞳の眩しさに、
芸術に命を吹き込む。そんな先輩の唇が、あたしの唇に触れた。
――あぁ。
その熱に、脈動の震えに。あたしが生まれた意味が、今分かった。この日のために、先輩とキスをするために生まれたのなら、後悔なんてもう必要の無いものだった。
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