第9話 キャビアは流石に出てこない
あたしはとても強くなったと思う。
千ノ音先輩の手を引いて、千ノ音先輩に頭を撫でられて、千ノ音先輩にあーんしてもらって。
少し前までなら、どれも心臓が破裂して死んでしまうような恐ろしいシチュエーションだ。
でも、あたしはその全てを平静を保って乗り越えることができた。先輩に病院でお世話してもらった時に、その辺の耐性は極限まで高められたと言っていい。
ジッと見られるのだけはまだ太刀打ちできないけど。先輩の赤紫の瞳には魔力でも宿っているかのようで、数秒見つめるだけで心拍と呼吸が滅茶苦茶にされてしまうのだ。
まあそれに慣れる時が来るかどうかはともかくとして、今のあたしは先輩との時間を楽しむ余裕があった。
先輩の方はどうなのだろう。あたしと居て楽しんでくれてるのかな?
好みが全然分からない先輩の好きそうな物として何とかたどり着いたプリンアラモードの反応は悪くないように見えた。
けど、先輩の考えてることはやっぱり読み取り辛い。表情も声の抑揚も変化が乏しすぎる。たまに見せる微笑みも、昔はよく笑っていたというのが嘘に聞こえるくらい少しの変化しか伴わない。あたしの知らない昔の先輩にお目にかかることはもう出来ないのかもしれない。
それでもあたしは、先輩に笑っていて欲しいと思う。先輩に忘れられたいとか忘れられたくないとかいう矛盾した気持ちも、先輩が屈託なく笑ってくれる結果の先にあるものならどちらでも受け入れられそうだ。
「先輩」
「うん?」
先輩が行きたいと言い出した公園へ向かうバスに隣同士で座っている最中。
あたしは窓側の席で流れる景色をボーっと眺めている先輩の肩に手を置いて呼び掛ける。こっちを見た先輩のほっぺたに立てた人差し指が突き刺さった。
指先に全神経が集まり、その柔らかさを繊細に感じ取ろうとする。
「この指は、何」
「えぇっと」
先輩の低い声が指先に伝わる。先輩に笑って欲しいと想ったら伸びていた指だけど、よく考えたらこれではただの悪戯で、笑うよりも怒る方が自然な反応だ。先輩も明らかに不機嫌寄りで、己の浅はかさを呪う。
笑って欲しくてやったなんて言ったら馬鹿でしかない。何か言い訳を考えないと……。
「前に、先輩が、あたしのほっぺを触ったので」
「ので?」
「先輩のは、
指の関節が強張ってぷるぷると砕けそうになるのを耐えながら、何とか納得してもらえそうな言い訳を探した。
先輩は
けど、先輩の納得には続きがあった。
「それで、私のほっぺはどんな感じかな?」
「え?どんな感じって」
「食べ物にたとえてね」
突然の無茶振りだった。あたしは先輩みたいに教養も独特な感性も無いのに、困るんですけど。ただ触って、やわかいなあ、ずっとさわってたいなあ、くらいの感想しか出てこない。……ていうか何で食べ物縛り?
困惑の中だけど、それでも先輩の期待には応えたい。何とか捻り出そうと、指先の感覚と脳を最高レベルにリンクさせて、近い物を探る。ふにふにと柔らかい、マシュマロ、……は駄目だ。少なくともプリンアラモード以上の高級感が必要だ。高級な食べ物って何があったっけ?焦って、混乱してきて、思わず中指と薬指も参戦させて先輩の頬を捏ね回してしまう。歯の感触すら分かるほど強く押し込み、先輩が「むゅ」と謎の発音で鳴いたのと同時に
「えっと、ふぉ、ふぉあぐら?」
「フォアグラかあ」
先輩が反対の頬を自分で触って確かめだす。
「フォアグラって脂肪の塊だけれど」
高級で柔らかそうな、と考えて思い付いたそれは大問題だった。頬を触って脂肪たっぷりの感触だなんて最悪も最悪の答えだ。いち早い訂正が求められる。んだけど……。
「ち、違います!じゃあトリュフ!」
「トリュフの感触知ってるの?」
「し、知りません……」
適当言ってるのが早速バレた。あたしの家はごく普通の家庭だし、トリュフを食べる機会なんてあるはずもないから当然だ。感触どころか香りも見た目すらも知らない。
「別に高級志向にしなくていいのに」
「だって、先輩があたしのほっぺをプリンアラモードとか言うから、もっと豪華にしないとって……」
「そんなこと考えてたの。でも、トリュフは流石に一緒に食べに行けないんじゃない?値段も高いし、高校生二人だとそもそもお店にすら入れないかも」
「あ……」
先輩の言葉に、胸の奥からしみじみと湧き上がるものがあった。
次に食べに行く物を考えるためにあたしに感触がどうかを確かめてきたんだ。
当然のように先輩が次を考えてくれてるのが、嬉しくて、湧き上がったものが溢れそうなくらいになって、バスの中なのに立ち上がってワッと歓声を発してしまいそうな気持ちの
「だ、大丈夫?やっぱりトリュフ食べに行きたい?」
「い、いえ。トリュフはそんなに興味ないので、気にしないでください」
あたしは痛む膝をさすりながら、少しびっくりしている先輩と目を合わせる。
頬に少し爪の跡が残っているのが見え申し訳なくなるけど、先輩は全く気にしている様子もなく。ただ、冬の黄昏のような瞳であたしのことをジッと見つめてくる。
それだけで、笑顔なんてなくても人を惹きつけるのだから、反則だ。絶対に次が欲しいと魂が欲しがってしまう。
「トリュフじゃなくて、別の物を今度食べに行きましょう」
「そうしようか。小々倉さんは何が食べたい?」
「先輩の好きな物がいいです」
「私の?それでいいの?」
即答すると、先輩は不思議そうにしていた。
少しでも先輩が喜ぶ物が良いから、不思議なことなんて一つもないんだけど。
「それがいいんです」
「ふぅん?」
心まで除き込むような先輩の瞳。恋の定義なんて語ってしまったせいで、以前よりも意識されてるように感じてしまう。
瞳から逃げるようにあたしは窓の外に目を向ける。逃げ先まで追われる前に目的の景色が近付いていることを先輩に教える。そうすることで先輩の視線をあたしから外すことに成功した。
停車したバスから降り、空気を吸う。
懐かしい風景だ。小学生の頃、よく親に連れてきて貰ったっけ。そんな場所に高校生になってから先輩と来ることになるなんて、感慨深いものがある。
「んーーーっ」
後からバスを降りてきた先輩が、かかとを浮かせて伸びをする。綺麗な身体のラインと太陽に煌めく銀髪が、ただの伸びを一枚の絵として成立させる。一瞬写真を、と頭によぎったものの、見惚れている内に先輩は縮んでいた。
少し残念だけど、記憶には焼き付けたから良しとする。
あたしも真似をして伸びをしようと腕を上げると、脇の下に冷たい風が吹き込んできて、ひゅ、と声を出してしまった。
「結構寒いね」
「そうですね。あたしも上着くらい持ってこれば良かったです」
カフェに行くことで頭がいっぱいで、屋外での活動を視野に入れていなかった。頭の悪い人間に自然は容赦なく猛威を振るってくる。
寒さに震えるあたしを見かねてか、先輩は腰に結んでいたコートを外す。
「これ、着る?」
差し出された少しクタクタに見えるカーキ色のコート。先輩が普段から愛用しているのが一目で分かる。そんなの、たとえ今が夏であっても着てみたいに決まってる。
でも、下心が沸いた時点でそれは許されなくなった。私欲で先輩を寒さから守る物を一つ奪うのは良くない。
「大丈夫です。少し動けばあったかくなるので。それは先輩が着てください」
「そう?分かった」
先輩がモゾモゾとコートを装備する様子を眺める。
こういう時、余分な問答がなくあっさりとあたしの意見を飲む先輩を好ましく感じる。好ましいということは心が温まるということなので、実質防寒にもなったり気のせいだったりする。
……やっぱり普通に寒い。先輩のコートを着損ねた勿体なさが後になってやってきて、せっかく温まった心も冷えていくようだ。
先輩の温もりが欲しい。
少し迷って勇気を出し、先輩のすぐ側に寄る。先輩は距離が近いことくらい気にしないと思ったけど、予想外にくすりと笑った。
「風避けにされてる」
先輩には、温まるために寄り添うというロマンチックな考えは全く浮かばないようだ。発想はロマンチックでなくとも、微笑むだけで良い雰囲気にしてくるからズルい。まあ、嫌がられてないなら都合は悪くないので訂正はしない。
「へへ、ここはあったかくていいですね」
さっき我慢した下心が満たされ、今度こそ心から温まる。
そのまま先輩と肩が触れ合いそうなほどの距離を保って歩き出した。
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