第8話 とっくの昔に上限値

 手を引かれて、駅を出て、そこから3分。大型商業施設とは真反対の方向でやや閑静なエリアに佇む古びたカフェに到着する。入口で5秒、いや10秒くらい足が止まる。それは小々倉さんの足が止まったということで、小々倉さんも実は慣れていないのでは、と浮かんだ所で意を決したように最後の扉が開かれる。

 こういう店の勝手は分からないけれど、入店に気付いた女性店員さんが手早く案内してくれたので迷うこともなく着席する。

 古い木の香りと座ったはずみで軋む椅子の音が、小学生の時に作った秘密基地を何となく思い出させる。いわゆる隠れ家的なお店なのかもしれない。客も他に三人組が一つあるだけで、穏やかな空気に満たされているのは悪くないと思った。

 そして、見回してもネオンテトラの水槽は見つけられなかった。予想外れで予想通りだ。じゃあ何があるかというと。


「ほら先輩、ここプリンアラモードがありますよ!」


 があるらしい。メニューには写真付きでその存在感をアピールしている。私が知ってるそれの5倍くらい色々なものが盛られていて、甘味のお城のように眩しさを感じさせる。

 そして顔を上げると、それ以上に眩しい存在が対面に座っている。私にプリンアラモードを食べさせるために来ましたと、表情と仕草で語る小々倉さんは、大人びた格好にもかかわらず稚気の輝きを振り撒いていた。


「えっと、これを頼めばいいの?」

「ここのプリンアラモードは人気らしいので、先輩もきっと気に入ると思います!」


 熱い推しを受け、それじゃあと決め、注文を済ませた。

 この熱い推しは、何かあったような。

 何だっけ。

 ああ、そうだ。病室で小々倉さんのほっぺをお仕置きした時に、食べたくなったんだった。甘そうで、とろけそうで、崩すのがもったいない気がして、連想した。

 それが今日まで繋がり、小々倉さんは私をここに連れてきた。

 ふむ。


「本当に、私の為にここに連れてきてくれたんだね」


 私との少ない交わりの中から、私が喜びそうなものを考えてくれたのだろう。その気持ちは純粋で、濾過の必要も無く私の中をなめらかに巡る。


「へ、へへ……。真っ直ぐそんなこと言われるとなんか照れくさいですけど、まあ先輩に喜んで欲しかったのは本当です」


 頬どころか顔全体がとろけたように笑う小々倉さん。見ていると、店内が暖かくなったように感じる。

 そして、少し遠いなと思う。座ったままじゃ手を伸ばしても届かなくて、立ち上がれば届く絶妙な距離にある小々倉さんの頭を撫でてみたくなったのだけれど。ふと。


「小々倉さん、ちょっとテーブルに伏せってくれない?」

「伏せる?え、このテーブルにですか?」


 小々倉さんは訳が分からないであろう私の命令に目を白黒させた。

 3秒くらいそれと見つめ合う。

 それからやってくれた。交差させた腕を顎置きにして頭を下げた状態で、目だけは私の出方を伺うように上目遣いを送ってくる。

 位置はバッチリだった。


「あの、こうでいいですか?」

「うん」


 そっと手を伸ばし、艶のある黒髪を撫でる。

 退院日に小々倉さんの腕の上にお邪魔した時みたいに、小々倉さんの身体が膨張した。けれど、今回はちゃんと吐き出せるようになってるみたいで、小動物を脅かさないような柔らかい手つきを出来るだけ心がけると、深い呼吸が少しずつ小さくなっていき、やがて安定していった。


「あの……?」


 それからやっと、困ったような説明を求める声がかかる。説明しろと言われても、自分でもよく分からなくて何といえばいいかだけれど。


「うんと……。嬉しかったのかも?」


 自分の手に宿り、動かした力の正体を手探りで見つける。頭を撫でたいという欲望が理性の鎖縛を振り払うくらいに、自分の中に"嬉しい"という気持ちが大きく波紋を広げていた。探ってみれば、意外と心には明かりが灯っていて分かりやすいものだった。


「かもで人にこんな体勢にさせたんですか」

「じゃあ、嬉しかった」

「じゃあって。……嬉しかったのはいいですけど、なんかこれだと犬の気分です」

「なるほど」


 小々倉さんは口では不服そうに言いながら、抵抗することはなくゆっくりと目を細めていった。

 私も手触りが気持ち良くて、止める理由が中々見つからなかった。

 触れて、撫でる。たったそれだけの単純な接触が心を大きく満たすというのも不思議なものだ。


「うちでは猫を飼ってるけれど、犬も良いね」

「そうですね。あたしは猫の方が好きですけど」

「へえ、小々倉さん犬っぽいのに」

「先輩は猫っぽいですよね」

「そうかな?どの辺りが?」

「マイペースで素っ気ないのに急に気まぐれで擦り寄ってくるところ、ですかね」

「ふうん」


 中々聞くことの無い他人からの自分の評価が面白い。マイペースと素っ気ないは分かるとして、擦り寄るって何だろうと思ったけれど、今まさにその最中と言えるのかもしれない。

 そういえば、あいにくもスリスリしてくる時があるけれど。


「あいにくも嬉しいからたまに足下に擦り寄って来るのかな?」

「あいにくちゃんのことは知りませんけど、普通猫って甘えたあうぐっ!」

「?どうしたの?」

「い、いえ、妄想の先輩が安易にあたしに大ダメージを与えてきただけです」


 小々倉さんが突然お腹を押し込まれたみたいにうめくものだから、私は何事かと驚いた。

 小々倉さんは時々知らない私と戦っている事がある。私はどっちを応援するべきだろうか?

 想像上の私がダメージを受けても私は痛くないけれど、小々倉さんはたまに致命傷を負ったりしているみたいだから、被害を減らすために小々倉さんを応援した方が良い気がする。


「頑張って、小々倉さん。私の事は手でも足でも縛って適当に転がしておいてくれればいいから」

「妄想でも先輩を縛るなんて無理ですよ……。それよりもそろそろ本気でヤバいんで、リアル攻撃を止めて欲しいんですが」

「リアル攻撃?あ、撫で過ぎって事?」


 私はもう少し撫でていたかったけれど、嫌がられてまでする事ではない。

 小々倉さんの頭から手を離す。それで戦いも終わったらしく、小々倉さんは安堵の息を吐いた。

 ちょうどそのタイミングで店員さんが注文した物を運んできた。二杯のコーヒーと二つのプリンアラモードがテーブルを彩り、私たちの間にある空気をカフェにする。

 大きな楕円のガラス皿に鎮座するきれいな形のプリン。そしてアイスに生クリームにさくらんぼにキウイ、棒状のビスケットと比較的何でもある。別の小皿のささやかな抹茶パウダーが中々の名脇役だと感じた所で舞台のようだと比喩が浮かぶ。さっきはお城にたとえたけれど、実物は更に躍動するようだった。


「まるで甘味の舞台演劇だね」

「?どういう意味ですか?」


 良い表現だと思ったのに、小々倉さんには全く通じなかった。どういう意味って、雰囲気でそう感じただけだから、説明するような細部まで考えてない。ハリボテ舞台だった。

 考えの浅さを悟られる前に撤退を決意する。


「ところで、恋って何だと思う?」

「いや話の変化球えぐ」

「今日の大切な議題だから」


 落ち着いてコーヒーを一啜り。こうする事で真面目な空気を醸し出せる、多分。真面目な話なら相手も乗らざるを得ないし、恋が何かを知りたいのは本当だから、実際に真面目な話ではある。

 小々倉さんもそれを感じ取ってくれたらしく、仕方ないという風に頭を掻いてから、話し始める。


「まあ、先輩が恋を理解して無さそうなのは薄々感じてましたけど。それをあたしに聞きます?」

「だって小々倉さん、恋に関しては先輩だし」

「そうですね。あたしほど恋に向き合ってる人は他にそう居ないので、適任かもしれません」

「へえ、そうなんだ」


 予想以上に頼もしい反応に、私も集中力を高めて聞こうともう一度コーヒーに口を付ける。すると、小々倉さんはスマホを私に向けてカシャリとシャッター音を鳴らせた。それは多分恋とは関係無くて、最初に約束した私の初恋相手だという証拠の一つとして残したかっただけだと思う。あまり気にしないでおこう。

 小々倉さんはそれから一つ息を深く吸って、目を合わせてくる。


「いいですか先輩。あくまであたしの持論ですが、恋っていうのは"相手がどれくらい自分の事を考えてるかが気になってしまう"状態の事だと思ってます」

「うん?何か複雑だね。自分が相手の事を考えてしまう状態じゃないんだ?」

「まあ、結果的には相手の事を考えてしまうんですけど、その相手の何が気になるのかが限定的なのが重要なのかと思います」


 なるほど。言われてみれば、特定の相手の事を考えてしまうだけなら恋以外の色々なパターンがある気がする。


「確かに、母親だったら子供の事はよく考えるだろうけれど、それが恋な訳がないよね」

「後は、アイドルを推す感覚とかもですね。アイドルの事は一方的に好きで勝手に元気を貰いますけど、アイドルが自分の事を考えてくれてるなんて本気で考えるのは馬鹿らしいんで」


 実感が籠った声の抑揚だ。私たち位の年齢なら、アイドルの一人や二人好きでもおかしくないか。

 小々倉さんが好きなアイドルの話は少し気になるけれど、今は置いておいて。


「それじゃあ、私は小々倉さんが私のことを考えているかを考えればいいんだね?」


 マトリョーシカみたいな文構造で自分でも言葉が絡まりそうになった。


「まあ、そうなりますね」

「分かった。じゃあ今からやってみる」

「あ、今やるんすか……」


 首を引いた小々倉さんは乗り気じゃ無さそうだったけれど、教えてもらったことはすぐに実践した方が身に付くと思う。

 私は、小々倉さんの脳内をイメージする。結構小々倉さんとは関わって来たはずなのに、小々倉さんの思考は真っ白にしか映らない。何もないなら好都合とばかりにその脳の中心に私を置いてみる。……これではただ小々倉さんの脳内に小さい私が居るだけだ。無意味の権化ごんげ。こういうことではないと断言できる。

 もう一度やり直す。求めるべきは今の小々倉さんの思考で、そこに私の存在を希求する。概念的で、それだけのことが意外と難しい。本人がそこに居るのだからと正面を見据える。

 じーーーーー………………

 小々倉さんの瞳に映る私と出会う。見られているということは、考えてくれているのだろう。

 などと不慣れながらに何か掴めそうな気がしたのも束の間。逃げるようにふしっと目を逸らされて、瞳の奥の私は消えてしまった。


「あ、あ、アイスが溶けるから食べないと……」


 逸れた目線の行き先はそこか。小々倉さんは突然餌をつつくニワトリのような勢いでプリンアラモードを食べ始め、私はプリンアラモードに敗北したことが確定する。これでは小々倉さんの思考を考えてもプリンアラモードしか見つからない。

 まあ、勿体ないからね。小々倉さんの判断は正しいと言える。


「今回は私の負けだよ。けれど、次は勝つ」


 敗北を認めた私は、掴めそうだった感覚の代わりにスプーンを掴む。プリンの真ん中に斬り込むと、なめらかに一刀両断できた。小々倉さんが驚いた目を向けてくる。


「結構豪快に行きましたね」

「負けた腹いせって奴だね」

「先輩のそういうたまに物騒な所も嫌いじゃないですよ。何に負けたのかは知りませんけど」


 小々倉さんはニワトリを止めて、落ち着いた様子で抹茶パウダーをぱらぱらと残りのプリンアラモードに振りかける。

 私も真似して少しだけプリンにまぶしてから口に運ぶ。甘いだけじゃなくてバニラビーンズの風味と抹茶の苦味が多重奏を織り成す。さすがは老舗の味わい深さ、これに勝つのは大変だと思う。

 でも、同じく抹茶のかかったプリンを食べた小々倉さんは苦い顔をしていた。


「抹茶無い方が良かったかも……」


 濃いめの苦味は小々倉さんの好みに合わなかったようだ。

 

「そう?私は美味しいと思ったけれど。食べてあげようか?」

「いえ、流石にこの崩れた食べかけを先輩に食べさせるわけにはいかないので……」


 少しテンションが下がった様子で抹茶のかかったプリンを口へ運んでいく。そういえば、病院食でもピーマンを食べる時は似たような顔をしていた気がする。コーヒーも砂糖多めだし。


「苦いの苦手ならかけなければよかったのに」

「いや、ここまで苦いと思ってなくて。それに、実はこういうお店に来るの初めてなので勝手が分からなくて、出されたものは使わないと失礼に当たるかと」

「なるほど」


 やっぱり慣れていなかったんだ。私もカフェでのマナーとかよく知らないしお仲間だ。

 そして、多分存在しないマナーを守った小々倉さんは、苦い顔のままでプリンを完食した。


「全部食べて偉いね」

「まあ、元々残り少なかったので」

「そのせいで抹茶の密度が上がってたけれどね。はい、口直しにどうぞ」

「え?……ありがとうございます。あむ……」


 私は自分の皿からプリンの抹茶がかかってない部分をスプーンで掬って差し出した。一瞬耳をピクンとさせてから、小々倉さんは身を乗り出してスプーンの先で揺れるプリンを口に含んだ。柔らかいからすぐに飲み込めるのに、余程口の中が苦かったのか、その全てを上書きするように長い咀嚼が続く。口の中で溶けて無くなったんじゃないかと思える時間が過ぎて、やっと私のプリンは喉の奥に送り込まれた。


「ご馳走さまでした。今日の中で一番美味しい一口でした」

「それは良かった。小々倉さんにはこれから甘い路線で付き合うべきかな」

「甘い路線て。先輩は今でもあたしに甘いじゃないですか」

「そうかな?じゃあ、もっと甘くなる。そうすれば、小々倉さんが私の事を考えてくれるんじゃないかって期待が持てるから」

「あー、そういうことですか。だったら無意味だと思いますけどね」


 小々倉さんがやたらと余裕ぶった笑みを浮かべている。どういう笑みだろうか?これも小々倉さんの考えている事を考える練習だと思って、その笑みの理由に思いを巡らす。うーん……。


「私が甘くなったところで私の事を考えたりしない、って事かな」

「そうですねー。先輩が今日も先輩であたしは安心しました」

「また哲学的な事言ってる」


 正解なのかどうかははぐらかされてしまったけれど、甘くなるのは良い事だと思う。

 私は残りのプリンを味わいながら、甘くなるってどうすればいいんだろう、と次なる疑問に嵌まっていくのだった。

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