第6話 海底に堆積した心情

 遠い沖合いの方で小さな地震があったらしく、付けっぱなしにしていたテレビに速報が流れる。津波の心配は無し。そこまでの情報を見れば大抵の人間はその地震速報に対する興味を失うだろう。

 けど、あたしの脳内には速報の後も何故だか深い海の底のイメージが残った。揺れて生まれた亀裂から大量の泡がゴポゴポと沸き上がる。それは心をざわざわさせて、キラキラと綺麗で。海の底に眠っていたたくさんの何かを包んで、海面で人知れず散っていく。

 その儚く消えゆく様が、あたしと先輩の間にあるものと重なる。

 冬休みが終わり、学校が始まってから一週間が経った。その間、先輩の顔を見ていない。

 学年も部活も違う特定の人物との遭遇率は結構低い。学校の教室は一階が一年生、二階が二年生と綺麗に別れていて一つの階段で昇降口と行き来できるので、わざわざ他学年の教室の前を通ったりしない。あたしと違って真面目な部活に入っている先輩は、放課後部活をサボってまであたしに会いに来たりはしない。

 それがこれまで普通に受け入れてきた事実で、それでも時々先輩を見かけることはあり、そんな日は見てもいない星座占いが一位だった気がするくらいに無敵な充足感を得られた。

 なのに今では、先輩が会いに来てくれるかも、なんて淡い期待をいだいてしまう。これまで一度も期待しなかった事を休み時間の度に期待してしまうのは重症だ。

 付き合ってもいないのに、付き合っているかのように先輩の行動の優先度に割り込もうとしている。所詮あたしなんてギリギリ好きになれそうな範囲にいるどうでもいい人間だと脳に言い聞かせないと、会っていない間に先輩がどれだけあたしのことを考えてくれたかなんてロクでもないことを考えそうになる。

 それは考えるべきじゃない。どうせ先輩はあたしのことなんて大して考えてない。だって何の連絡もないし。会わない内にあたしへの興味を失ったか?あるいは逆に、もうあたしへの初恋を済ませてあたしのことを忘れてしまったのか?

 そこまで考えて、そういえば先輩があたしを忘れたと思ったら連絡して欲しいと頼まれていたのを思い出す。その可能性は限りなくゼロに近いと思うけど、先輩にメッセージを送る口実にはなる。

 何もしないでいると良くない考えばかりがよぎるので、口実を利用するべきだと判断した。

 メッセージアプリを開くと、これまでの先輩とのやり取りが確かに形に残っている。『今から病室行くね』、こんな簡素なメッセージでも、先輩があたしの事を考えて連ねた文字列だと思うと、頬がふへへと緩んだものだった。


『あたしのこと、覚えてますか?』


 せっつく気持ちを指先に乗せて、先輩宛にメッセージを送る。

 3分後に既読が付き、そこからまた沈黙が走る。正否も分からない沈黙が嫌なものを胃に溜めて身も心もずっしりさせる。

 気分を落ち着かせる為に、ベッドに寝転がり、先輩から貰ったみかんボールをお腹の上で捏ねるように転がす。幾分か気が紛れるように感じて5分くらいそうしている内に返信が来た。


『あいにく』


 沈黙に耐えて得られた返信は予想を軽々と裏切り、手短にあたしたちの関係の終わりを告げた。

 あいにく覚えていない。

 胃の中に溜まった嫌なものが氷に変わったように全身に冷たい何かが伝わる。

 そっか。

 もう、終わっちゃったんだ。

 先輩に、初恋された。

 宇宙が未来永劫続いたとしても、そう言えるのはあたしだけになった。

 …………それを誇るだけで終われるなら、良かったのに。

 もう先輩の中にあたしは居ない。その事実の方があたしの中の宇宙で大きく膨らんでいく。

 先輩があたしを思い出すことはないし、あたしのことを考えることもないし、あたしに会いに来ることもない。

 あたしを着替えさせたことも、あたしのおしっこの臭いを嗅いだことも、あたしに勉強を教えるのが楽しいと思ったことも。

 共有が途絶えて一方的になった記憶が酷く荒れた渦のようにぐるぐるする。

 初恋なんていいから、永劫なんて要らないから、先輩と伸ばせる限り長く、一緒に。


「居たかったなーーー…………」


 嫌なほど眩しく見える天井の照明に手を伸ばす。押さえを無くしたボールがお腹の上から転がり落ちて床を小さく跳ね、指の隙間をすり抜けた光が光彩を揺らしてくる。どうしようもないのに今更浮上してきた本心をまざまざと照らすように。

 ――スマホが鳴る。

 タイミング的に先輩か。あたしはまだ返信をしてないけど、あたしが何者なのかは気になるのかもしれない。初恋相手だって言って信じて貰えるかな?信じてもらえないと、本当に何だったんだってなる、あたしたちの関係は。

 色々考えながらメッセージを開くと、文字ではなく画像が送られていた。

 それは猫だった。銀色の毛並みで、ボーッとしながらもスッとした姿勢から品の良さを感じずにはいられない、言うなればとても先輩似の猫。

 先輩からすれば記憶に無い相手から急に覚えているか聞かれる気味の悪い状況のはずなのに、どういう意図で猫の画像を?

 先輩の思考を読み解けないでいると、今度は着信音がスマホから鳴り響く。

 先輩からの電話。今出ても何を言えばいいか何も分からない。でも、出るしかない。何がどうなるかとかより、先輩の声を聞きたいと思った。


「もしもし?えっと」

『こんばんは小々倉さん。久しぶり』


 …………ん?電話越しでもいつもと変わらない調子の先輩の声が、あたしの名前を呼んで、久しぶりって。あたしの存在を説明しようとした喉がどっか行った。


「先輩、なんで」

『病室で、うちの猫を見せるって約束したでしょ?約束を覚えてるから、あなたの事も覚えてる』


 淡々と、猫の画像を見せた理由を語られる。そういえば、他愛ない会話の流れでそんな口約束をしていた。それを先輩も今思い出して、5分の沈黙の間に写真を撮って、記憶がある証拠にしようとしたのだ。

 ……ということは。


「あたしのこと、忘れた訳じゃ、ない?」

『?うん。小々倉大葉さんのことはまだ覚えてるよ』

「でも、さっき、"あいにく"って」

『あいにくは、この子の名前。"あいにく"ちゃんって言うの』

「……ふぁあ」


 なんて、なんてなんて!

 なんて、紛らわしい……!お陰でなんか体から色々なものが抜けて、ツッコミすら抜け出して、ふにゃふにゃにふやけたような声だけが形を成した。

 声に出来ずに腹の底に溜まったこの煮こごりのようにぷるぷるしてもどかしい感情はどこにぶつければいいのだろうか。


「……先輩。その子の名付け親は誰ですか?」

『私だよ』

「そうですか……」


 そんな気はしていた。

 先輩が名付け親なら、仕方ない。

 その独特なネーミングセンスに癒されずにはいられない。

 この数分の間に浪費されたあたしのメンタルも、それなら別に構わない、と言いながら天へ昇っていったと思う。

 残ったぷるぷるは、ギュッと胃の奥に押し込んで消化に任せるしかない。


『えっと、小々倉さんは私が小々倉さんを忘れたと思って連絡をくれたってことでいいのかな?約束、守ってくれたんだね』

「……でも、よく考えれば先輩がこんなに早くあたしを好きになるなんてあり得ないし自意識過剰でしたけどね」


 メッセージを送るための口実だったとは言えず、心苦しくも律儀に約束を守った体を装う。


『ううん、そういう事を言いたいんじゃなくて。小々倉さんはさっきのニュース見てなかったのかなって』

「さっきのニュース?」


 テレビは付けてたけど、内容はまるで頭に入ってない。速報で流れた地震の情報だけが辛うじて記憶に残っているレベルだ。あたしと何か関係のある内容だったのだろうか。


『えっとね、恋島症の話なんだけれど、新しい有力な仮説が生まれたんだって。恋島症は罹患してから記憶の喪失が起こるまでに半年かかるらしいの。しかも、初恋がまだの人が罹患していてその後に初恋した場合、記憶の喪失が起こるのは罹患から半年じゃなくて、初恋から半年経った時になるって言ってた』

「へー」


 先輩の説明声が耳にスッと浸透する。声に集中できるから電話って良いな。お陰で何が要点なのか分からなかったけど。


『へー、って。結構重要な事だと思うんだけど』

「え、ああそうでした?」

『だって、私があなたに恋してるかどうかは少なくとも半年以上経たないと分からないってことなんだよ?』

「あー、そういうことですか」

『だから、結構長く小々倉さんに付き合わせることになるかも』


 申し訳なさそうに告げられる全く申し訳なくない話。

 付き合わせるって、まるであたしが嫌々付き合ってるみたいな。やっぱり先輩はあたしの気持ちに全然気付いていないみたいで、そういうところに安心感を覚えてしまう。忘れるまで恋してるか分からないというのも先輩らしい。


「先輩が疑いようが無いくらいあたしの事を好きになれば、半年経たなくても分かると思いますけどね」

『でも、そこまで好きになっちゃうと、忘れたくなくなるような?』

「あはは!そうですね、好きすぎると絶対に忘れたくないですね!」

『何か楽しそうだね。もしかして、私の事からかってる?』


 椅子がギィ、と軋む音が電話越しに聞こえた。少しムッとした表情の先輩が脳裏に浮かんで、勝手にかわいく思った。

 すぐにでも先輩との関係が途絶えるような恐ろしさがあった。でも、最低半年の猶予がかなり気持ちを軽くしてくれたように思う。


「楽しいですけど、からかってなんかいませんよ。先輩はあたしの事を好きにならないといけないので、少し発破をかける必要があるかなと」

『そっか。つまり、あなたの事を疑いようなく好きになるくらいの気持ちで臨んだ方がいいってことかな』

「そうですね。先輩は恋愛に鈍そうなので、それくらいの気持ちが必要だと思います。あたしもしっかり付き合いますから、頑張ってください」

『ありがとう。やっぱり小々倉さんは優しいね』


 いえいえ、しっかりギブアンドテイクですから。その言葉は飲み込んで、先輩の誉め言葉に脳を溶かす。酸素よりもあたしの身を活性化させるのが、先輩という存在だ。


 それからあたしと先輩は今後の事を少し話し合い、次の週末に一緒に出かけることになった。

 デート。お互いに恋愛感情が無い状態でその言葉を使うのが正しいのか分からないけど、ただのお出かけよりはそっちの方がお菓子の詰め合わせみたいに色んな甘さを楽しめそうで好ましいと思った。

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