第4話 冬の乾燥した空気の中、そこだけが生々しくしっとりしていた
今日は小々倉さんの退院日だ。その知らせを受けて、私はスポーツ用品店へ立ち寄った。こういった店には初めて入る。革とゴムが混ざったような独特の臭いが、不思議と心を弾ませた。
ソフトテニス用の白いゴムボールを買って、店を出る。
もう年末で、少し歩いただけで指先が凍てついてしまう。白い息をホッと吐いて何となく手でパンと叩いてみると、蠟燭の火のように渦を巻いて無色の世界に溶けていった。さっきまで私の一部だったものが、随分とあっけない最期を迎えた。
それから病院で今月何度目かも分からない小々倉さんと顔を合わせる。
「退院おめでとう」
「ありがとうございます。千ノ音先輩」
怪我をしてから2ヶ月、ボロボロだった彼女は普通に一人で歩き回れるまでに回復していた。無理は禁物だけれど、日常生活くらいはもう問題なくこなせるらしい。
「早かったね」
「まあ、先輩にお世話してもらったから。どことなくヒーラー属性っぽいですし」
最初はよそよそしい気もあったけれど、今ではこういう冗談も軽く話してくれるようになっている。
私もなにかしら冗談で返せればいいけれど、そういうのは残念ながら得意ではない。
代わりに、私は鞄からさっき買ったゴムボールと、筆箱のオレンジ色と緑色のマーカーを取り出した。
「それ、テニスボールですよね?」
「うん」
「何で先輩がそれを?それにマーカーも何で」
目に映る不思議な物一つ一つに疑問を呈する小々倉さん。彼女は結構好奇心が旺盛らしいと最近の関わりで気付いた。
「これ、退院祝い」
「はあ」
ジーっと視線を寄せる彼女の目の前で、私はキュッキュとボールの表面にマーカーを滑らせていく。全体的にオレンジを纏わせて、最後に空気入れの穴に緑をちょんっと。
「はい、これ」
「これ、って……。みかん?」
「正解」
小々倉さんはみかんが好きみたいだから、そしてソフトテニス部だから。
「ぷっ、何これ。これを作るためにわざわざボールを買ったんですか?」
「そうだよ。小々倉さんの好きそうなものって考えて、一番無難かなって」
「なるほど、それは最高ですね」
噴き出しそうな笑いが気になったけれど、どうやらとても気に入ってくれたらしい。
それからしばし、みかんボールを潰したり上に投げたりして遊んでいる小々倉さんを眺める。
「あの、先輩。最近思うことで失礼かもしれないですけど」
「何?」
「先輩って結構笑いますよね?」
失礼という前置きから何を言われるかと思ったけれど、そういえば頬の筋肉が少し吊り上がってる気がする。笑わないようにずっと意識していたはずなのに、自分でも気付かない内に頬が緩んでしまっていた。
「そういえば、そうだったかも」
「だったかも?」
「私、昔はよく笑ってたんだ」
小学生の頃は私も結構やんちゃで、壁なんてどこにもなくて、誰とでも楽しく笑っていた。
けれど、六年生の時に突然仲良く遊んでいた子数人から私が転校生のように扱われて、中二の夏にはそれが恋島症という病気のせいだと知ることになって。その頃には部活内にも手遅れの子が何人か居た。このままでは部活がままならなくなるから、退部するか思わせぶりな態度を止めるように顧問から言われて。友達に忘れられて疎遠になるくらいなら、最初から距離を置いた方が良いと思って、私は誰彼構わず笑顔を振りまくのを止めたのだった。
……という話を小々倉さんに話した。小々倉さんは耳を傾けて聞いてくれて、あー、と納得したような苦笑いをしていた。
「モテ過ぎるのも大変なご時世なんですね」
「むしろ、メリット無いかも。私は普通の友達だと思ってても、相手の気持ちはもっと強くて、忘れられるっていう最悪の形で破綻するんだから」
「そうですね。ていうか、先輩から笑顔を奪ったって聞くと、恋島症への殺意が200割増しになりました」
小々倉さんは本当に怒りを覚えているかのように手に力を込めた。それから手の中のボールが大きく潰れているのに気付いてカバンのポケットにしまった。そうしてまた手をぐぐっと握り込んだ。
感情の移り変わりが丁寧に伝わる一連の動作に、また頬の筋肉が揺れるのを感じた。
「そういえば、小々倉さんって好きな人は居る?」
「何ですか急に」
私がふと投げ掛けた疑問に顔を上げた小々倉さんは、どこからどう見ても不服そうだ。居るからこその反応なのか、居ないからなのかは分からないけど、思うところはあるようだ。
「むしろ遅い気がするけど。好きになりたい相手が既に恋してたら、何か良くなくない?」
「それは、そうかもしれませんけど。…………まあ、居ると言えば居ます」
不服はそのままに目を伏せた小々倉さんは、曖昧な答えを残し、あー、とベッドに寝転がった。
難しい恋をしているのかもしれない。不用意に聞いてはいけなかったのかも。
でも、私は逆に安心できた。他に好きな人が居るなら、もし小々倉さんが私を好きになっても、小々倉さんの初恋はその人のものであって、私のものではない。
「なら、私があなたを忘れても、小々倉さんは私を覚えててくれるね」
「……そうですね。あたしは先輩のことは絶対に忘れません。先輩に恋なんて絶対にしませんから」
「もう恋してるなら、私に恋しても大丈夫だと思うけれど」
「それだと、いずれ両想いになるのにあたしだけ先輩に忘れられるのすごく最悪じゃないですか?」
「それはそうかも」
そういえば、小々倉さんを初恋相手に選んだのは関係性が薄い相手だからだったと思い出す。
私がわがままで持ち出した関係な以上、終わらせ方に責任を持つべきは私だ。いつか来る終わりが爽やかなものであれば良いと思う。
「私の事を好きにならないのはいいけれど、嫌いにもならないでね?やっぱり、自分のことを嫌いな人間に恋するのって難しいと思うから」
「あーもう。あたしは先輩のこと絶対嫌いにもなりませんから、先輩は好きなだけあたしのこと愛してくださいそして忘れてください」
大事なことだと思って念を押したら、投げやりな返事が返ってきた。治ったばかりの腕を乱暴にベッドに打ち付けて大の字に広がっている。
こうやって私と目を合わせてくれていない時の小々倉さんは何を考えているのだろうか。何か不満があるようには見えるけど、それ以上の機微を読み取るのは難しい。
だから、もっと近づいてみようと思う。私は肩に掛けた鞄をテーブルに置き、ベッドに上がる。沈んだベッドが侵入者を検知する役目を果たし、小々倉さんが私の方を見る。なんですか、と言いたそうな目を見つめながら、私は頭を小々倉さんの左腕の上に乗せる。腕の筋肉がビクンと震えるのが頬に伝わった。
「んなぁ……!」
息を吸い続け吐くのを忘れたように、小々倉さんの身体が膨らむ。身体を大きく見せて威嚇する小動物の姿が重なる。
すぐに顔が赤くなってきて、腕の脈も速くなる。こんなに驚かれるとは思ってなくて、彼女の体内の酸素濃度が心配になる。
「すぅーーーーー、ふぅーーーーー」
深呼吸を促す為にお手本を演じてみる。
「すぅー、ヴっ」
何故か更に息を吸い込んで苦しみだす小々倉さん。それが外に還る事はない。本当に吐き出し方を忘れたのかと惑わされる。赤かった顔が青くなり始めて、どうしようか。
悩んだ末、脇腹をつついてみることにした。ちょうど無防備に開かれてるし。ちょん、と人差し指を当てると、風船が割れたみたいにふすぅぅぅ、と口から空気が漏れだした。
「うぇほっ……!はぁっ、はぁっ」
「肺活量すごいね。吹奏楽部に入らない?」
「……この状況で呑気に勧誘されるとは思いませんでした」
乱れた呼吸と訴えるような涙目。何だか分からないけれど、私はかわいいものを見ている気がした。苦しむ人間をかわいいと思う酷い趣味はないはずだけれど、今の小々倉さんの表情は私の胸に甘酸っぱいみかんの香りを広げるようだった。不思議だけれど、良いものと解釈する他ない。
「いやその、説明とか無いんですかね?」
「吹奏楽部の?実は割と興味ある?」
「違います!!このその、腕枕的なあのですよ!」
首の下で色とりどりの"の"が暴れて、なるほどとなる。
私の思考は吹奏楽部に移っていて、小々倉さんの思考は腕枕にずっと留まっていた。それだけ彼女にとってこの腕枕は重要な案件という訳だ。さして深い意味があった訳ではないものが受け取り手によって深長なものへと変わるのは少し面白い。私も彼女の好奇心を見習うべきかもしれない。
「これは、あなたを近くで見てみたくなっただけだよ」
「ふざけんないやまじ」
声を荒げられてびっくりする。腕に頭を乗せるだけのことを嫌がられるというのは想像の範囲外だった。
「あ、ごめん。そんなに嫌だったかな?」
「いや今のは自戒のための発作みたいなものなので気にしないでください。先輩はあたしのこと煮るなり焼くなりすればいいと思います」
ああ、また目を合わせてくれない時間になった。嫌いにならないとは言っても、怒りくらいはするだろう。もう少し彼女を理解しないと、どんどん目を合わせてくれなくなりそうだ。
とりあえず離れた方がいいかな、と身体を起こす。一瞬髪に引っ掛かるものを感じたけれど、本当に一瞬で気のせいかもしれない。
「……本当に、先輩だなあ」
「?どういう意味?」
「色々な意味です。どういうも何もありません」
解放された左腕を顔の上に置いて、小々倉さんはため息を吐いた。
何が私なのか、私とは何なのか?小々倉さんのボヤキは哲学的で、私にもそれが移った。
小々倉さんは私以上に私に思うところがあるようで、機会があればまた近寄ってみてその瞳に映る私を覗いてみたいと思った。
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