第3話 溶けるような甘さで
細かな検査を受け、骨に新たに数ヶ所小さなヒビが見つかった。それで済むなんて、やっぱりあたしは頑丈だなと思った。
それでも3週間は絶対安静と言われたけど、気合でその期間を2週間に短縮した。千ノ音先輩が学校を休んでまであたしの世話をしたがるのだから、身体に無理を言わせるしかなかった。これ以上先輩にあっちもこっちも世話されるのは、色々な意味で
ご飯を食べさせてもらったり、勉強してる横顔を眺めたり、勉強を教えてもらったり、それくらいの平和な部分だけを切り取れるのなら悪くない日々だけど、初日の時点で平和離れした映像をスマホにしっかり記録してしまっていた。録画を止めるのを忘れて、先輩にあたしから出るモノを受け止めてもらうところまで。
あれは、その内消す。あれはその内消すとして。
「本当にもういいの?」
「このままだと先輩が本当に介護士になりかねないので」
「親からは何になってもいいって言われてるけど」
「そういう話じゃないです」
先輩の千ノ音家が音楽家系なのは知ってる。だから、最初は家のしきたりに背かせるんじゃないかと恐れた面は確かにあった。
でも、そんなことより。何よりあたしは先輩にトランペットを止めてほしくなかった。あたしが先輩を見つけられたのは、他でもないその音のお陰なのだから。
「とにかく、先輩は学校に行って部活頑張ってください」
「分かった。でも、ここにもまた来るから。あなたのこと好きにならないとだし」
「……そうですね」
好きにならないと、ってすごく嫌な響きだ。この2週間のことを忘れてもらう為にはあたしに初恋してもらうしかないのは分かってはいるんだけど、釈然としない。小指が腐敗したのを手首を切り落として対策するような頭の悪いイメージが沸いた。
そもそもこの感情のステータスを削り取って美に振り分けたような人が誰かを好きになるなんて想像が付かない。先輩の全てを知ってる訳じゃなくてむしろ知らないことだらけな訳だけど、2週間ずっと一緒にいて裸を見られて触られたあたしに少しもそういった感情が沸いてないのだから、その機能自体が弱いのでなければあたしの魅力が終わってることになる。
考えて、魅力がない方が仮説として有力だな、と暗い気持ちになった。あたし、すごく地味だし、先輩と釣り合っているとは到底思えない。
そんなことを考えてると、不意打ちのように先輩が柔らかく唇を開く。どことなく平坦から少し浮き上がったような声色で。
「それに、あなたに勉強教えるの結構楽しいから、またしたい」
そっと添えられたその言葉で、暗い気持ちがどこかへ吹き飛ぶ。
意識の深淵が白くバチバチと火花を散らせた。針金が熔けて雫となりジュワッと心臓が火傷を負う。
熱は籠り続けると危険なもので、冷ます時間がやっと来たと思ったところで、途切れないことを思い知らされた。なんてタイミングで。やっぱりSなのか、この人。
「そうですか。なら、またお願いします」
肺が詰まって正常な呼吸が奪われたようになりながらも、喉を絞って何でもないことのように返事する。
先輩に楽しいと思わせることができるようなものがあたしにもあったんだ。
熱に浮く呼吸の向こうで魂が金色に輝くのを感じながら、先輩を見つめた。
先輩は。
いや、きっと何も変わってはいない。
表情なんて、見る側の心持ちでどうとでも印象が変わる。先輩が嬉しそうとか、怒ってるとか、眠そうとか、全部あたしの勝手な想像だ。
だから、あたしが変わらなければ先輩も変わらない。
「私の顔、何か付いてる?」
「先輩の顔には、ずっと付いてますよ」
かわいい、が。それはいつだって人を惹き付けて心をぐちゃぐちゃにしてくる。その魅力をあたしに分けてくれたら先輩に惚れられることだって簡単になりそうなのに。
下らないことを考えて、心を落ち着かせる。先輩は顔をぺたぺた触って付いてる物を探している。連れてかわいいが増えていく。
見る側の満足度が高くて、ずっとそうしてればいいのに、なんて思った。けど、先輩はすぐに己の頬から手を離す。そして何を思ったか、次はあたしの頬に手を伸ばしてきた。そのまま当然のように摘ままれる。
「ふぁふふぇ」
「何も付いてなかったから、お仕置き」
なんで、と思ったら、あたしが適当なことを言ってるのがバレたみたいだ。そりゃあ、触って分かるような変な物は先輩の綺麗なお顔に付いてる訳ありませんよ。
で、お仕置きと言うけれど。先輩からのお仕置きなんて、むしろ喜んで受けたがる人は多いだろう。だからある意味役得。
でも、問題はこれがお仕置きと言えるかどうかだ。痛くない程度の力で、両頬をぐにぐにと回されている。マッサージのようで、逆にヒーリング効果がありそうだ。リンパ腺があーで老廃物がこーでドバドバと出そう。よく知らないけど。
後、顔も結構近い。ギリギリ怒っていると取れそうな眉の吊り上がりが逆にレア。あたしも先輩のお餅みたいなほっぺを触ってみようかな、と手を伸ばしたくなるけど、先輩は怒っているのでそんなことをしたら舐めていると捉えられそうだ。藪蛇は止めて大人しくお仕置きされるのに専念しよう。
それから20秒ほどで満足したのか、先輩は最後に労るように頬をぽんぽんと叩いてから離れていった。
「あの、気は済みましたか?」
「うん。プリンアラモードを食べたくなった」
「あたしのほっぺた、そんなオシャレな感触でしたかね?」
いいところゼラチン質の安物プリンくらいだと思うけど、芸術肌の人間の感性は謎だ。
先輩の評価に負けないよう、せめて生クリームくらい盛った方がいいかもしれない。……頬に生クリーム盛るってなんだ?想像の内で試してみると、頭の中の先輩がそれをペロっと舐めそうになって、慌ててイメージを掻き消す。そういうのは、考えてはいけないことだ。
それから先輩は病室から出て行って、スーパーで安物のプリンアラモードもどきを買ってきた。申し訳程度の生クリームと小粒の果物が添えられていて、これくらいなら頑張れば目指せるかもしれないと思う。目指す必要があるかどうかは別として。
それで当たり前のように、あーん、されて半分ほど頂いたのだけど、その行為に慣れてしまっている自分に驚いた。
もう自分の手でスプーンくらい持てるのに。
これがもう終わりだなんて。
決して名残惜しくなんてない。
先輩との関係にはいつか必ず終わりが来る。だから、自分の中で後を引きそうになった感情を即座に塗り替える。それでも、口の中に広がる甘さはしばらく残り続けた。
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