第2話 みかんに付いてる白いやつ

 目を覚ますと、知らない天井が見えた。盛大にやらかしたから、いっそ異世界にでも逃亡出来ればいいと思ったけど、残念ながらどう見ても現代の病室の天井だ。

 全身の皮が火炙りにされたかのように熱く、痛い。

 あたしははいつだって衝動的に動いてばかりで、後から無かったことになれば良いのにと後悔してばかりだ。先輩のことだって、あの370円は貸すべきじゃなかった。それならこんなミイラみたいな包帯女にならなくて済んだはずだ。


「起きた?」

「…………」


 鼓膜を柔らかく包む羽毛のような声。

 それに釣られて首を動かすと首の裏側に激痛が走る。

 そんな苦難の末に見えたのは、この世に二つとない赤紫の水晶体。

 都合の良い妄想のような美顔が横の椅子に咲くように座っていた。

 それはとても都合が悪いと思った。全部妄想なら良かったのに、確かに走る痛みが現実にその美が存在することを証明していた。

 彼女は千ノ音千慧せんのねちけい先輩、あたしにとって特別な人。


「…………千ノ音先輩。あんまり怪我してないですね」

「腕と足が全体的にヒリヒリしてるよ。2週間くらいで綺麗に治るらしいけど」

「そうですか。あたしより丈夫みたいですね」


 ブラウスとロングスカートで隠れている部分にそれなりの怪我があるらしい。でも、自分で歩いてここまで来たみたいだし、無事と言ってよさそうだ。綺麗に治るという情報も、一握りの安堵を与えてくれる。

 それはそれとして。


「訴えに来たんですか」


 あたしがしたことは覚えてる。急な坂道で不意に背後から勢いよく飛び付くとか、殺人未遂と捉えられてもおかしくない。映像証拠がないのと、加害者のあたしの方が大怪我をしてる現実で刑が軽くなったりしないだろうか?

 被害者の瞳を覗き込む。きょとん、とハテナマークでも浮かんでそうな傾きをしていた。


「訴えるってなんで?」

「だって、あたしが馬鹿なことしたから、怪我して」

「大丈夫、小々倉さんは坂で転んだ私を受け止めてくれた事になってるから。親とか警察とかにもそう言ってある」

「……なんで?」


 今度はあたしの方がハテナマークを浮かべないといけなかった。先輩は頭を打っておかしくなったのか?でも、先輩は頭に怪我をしている様子はなかった。


「だって、本当の事を言ったら約束を守れなくなると思って」

「約束って何、って、あっ」


 気を失う直前、ぐわんぐわんする頭でアホな事を言った記憶が蘇る。考えても言うつもりは無かったのに、本当にアホだ。


「『先輩の初恋相手があたしだって証拠が欲しい』だったよね。罪に問われたりしたら、そういうのやってる暇は流石に無さそうだよね」

「一言一句損ねず思い出させてくれてありがとうございます……」


 新手の嫌がらせか。これが私刑というやつか。警察に頼らず自らの手であたしに鉄槌を下すだなんて、いい性格をしている。

 ……いやそれは冗談だけど。でも、悪いと分かっている事が裁かれないまま無かったことになるのは、気持ち悪さだけが残る。


「だから、色々残そうよ。私があなたを好きになるまで」


 あたしの気持ちなんて関係無しに、先輩が話を進める。普段あまり変化の無い表情が緩んで見えて、良くない。あたしの罪なんて本当に無かったかのように錯覚してしまう。


「それでこの気持ち悪さも消えますかね……?」

「気持ち悪いの?……その格好で一晩明かせばそうかもね。それなら」


 会話が噛み合ってない気がした。そう感じた時には既に先輩はあたしから掛け布団をひっぺがした。着た覚えの無い薄青色の服が身体を覆っている。それがまた嫌な予感を感じさせた。


「……何をするつもりですか?」

「何って、着替え。寝たままでも着替えさせられるって聞いたから」

「っ……」


 予想通りで、その上で言葉が詰まった。先輩に、着替えさせられる。脳内にポワポワ沸き上がるイメージを何とかポワポワのままで抑えるのに苦心する。

 良くない。

 それなら、自分で着替えた方がマシだ。


「んっ、うぎ……」


 だが残念なことに、どれだけ気合いを入れても両腕共が痛みに悲鳴を上げるだけで、ピクリとも動かない。あまりに痛くて拭くこともできない涙が目元に滲む。


「左手の甲、右腕、後は肩甲骨だって」


 あたしが無茶しようとしてるのを察してか、優しく肩口を押さえてくる先輩。告げられる優しくない現実。なるほど痛みの中心が鮮明になって感じやすくなった。少し動くだけで骨がボロボロと崩れていきそうな錯覚を覚える。

 抵抗は不可能。さながらまな板の上の鯉。良かったですね先輩、念願の初コイですよ。とおどけても流れは変わらないだろうな。冗談が通じなさそうなのが先輩の特徴である。


「……そういうのは、家族とか、看護婦さんにやってもらうので」

「でも、それだと恥ずかしくない?」

「どうして先輩だと恥ずかしくないみたいになってるんですか?絶対先輩に脱がされるのが一番恥ずかしいですから!」


 言ってることが滅茶苦茶な先輩をどうにか口だけで引っ込ませようとする。でも、涼やかな顔で、先輩はあたしの息の根を止めに来るのだった。


「どうしても何も。私、あなたの事はいずれ忘れるから」

「あ……」


 そっか。

 そうだった。

 先輩にとってあたしは、そういう存在だったんだ。

 先輩の初恋相手というトロフィーの対価は、あたしと過ごした先輩の記憶。

 ……それでいい。

 少しの間でも、あの千ノ音先輩の一番近くに居られるのは、一番近くで見てもらえるのは、気分がいい。なんかこう、優越感的なあれである。

 先輩に忘れてもらえるのだって、一人限りの特別待遇だと言い張ってしまえばいい。どんなやらかしをしても最後には忘れてもらえるなら、異世界よりは良い逃げ先だ。

 すぐ近くにあたしをジッと捉える瞳があり、呼吸すれば先輩が吐き出した吐息があたしの中を巡る。失っているはずの血が溢れそうに満ち、それでいい、と反響した言葉が返ってくる。

 それを経て、あたしは小さく頷く。


「……着替えさせてください」

「うん、分かった」

「後、やってるところ動画に撮ってもらっていいですか」


 先輩はどうせ忘れるから、証拠を残すにはそうするしかない。誰かに見せびらかすつもりは無いけど、形には残さなければ不安が残る。

 先輩は、それをどうするつもりなの、とかは一切聞かず、いいよ、とだけ言って、枕元にあるあたしの鞄からスマホを取り出しカメラを起動した。あたしの全身が映るように上手く設置して、傍に戻ってきた。

 手があたしの服に触れる。これからされることは、合理的な理由があるので、何も感じる必要がない。剥かれるみかんの気持ちにでもなっていればいい。

 なのに、さっきから心臓がギチギチと油を無くしたように軋んでいる。あんな転がり方をすれば内臓にまでダメージが入っていてもおかしくない。落ち着いたらその辺の検査もしてもらう必要がある。

 ベリベリ。なるほど横になっていても最低限の動きで着替えられるようにマジックテープで身体を包む構造になっていた。ムード感の無い音のお陰であんまり変な気持ちにならずに身体の解放感に浸れた。

 数学の展開図のように青い皮の剥かれたみかんのできあがり。腕と足が包帯まみれなのに対し、胴体は割と綺麗だった。少し寒くなってきて、半袖の上に長袖のジャージを来てたのが幸いした。夏仕様なら多分死ぬか、良くても全身一生消えない傷で覆われていただろう。

 そういうことを考えて気を紛らわすしかない姿を露にしてるわけだけど、先輩は何をしてるんだ?見て欲しいわけではないけど、一応初恋相手にと考えているはずのあたしの裸には目もくれず、新しい服に手を伸ばすわけでもなくて、救急箱みたいなのを漁ってるけど。


「先輩?」

「痛いだろうけど我慢してね」


 拒否権を奪う嫌な言葉を前に置き、先輩はガーゼと包帯と消毒液を持ってきた。


「……先輩って、みかんのもけもけも剥くタイプなんですね」

「?何の話?」


 不思議そうに、みかんなんてあったかな、と周囲を見回す先輩の視線はすぐに戻ってきた。あたしのみかん理論は時間稼ぎにもならず。


「じゃあ、外していくね」


 決定事項として、先輩の指が左腕の包帯の端を掴んだ。シュルシュルと剥かれて、その下から現れた赤黒いガーゼが傷の痛ましさを物語る。


「多分ここが一番酷い。削れて、神経まで」

「解説はいいですから、早く替えてください」


 やっぱり仕返しか、それとも隠れSなのか。あたしが知らなくていい情報まで与えてくる。そんなのいいから、早く済ませて服を着せて欲しい。この格好は寒くて、もはや熱くすらなってくる。


「そうだね。じゃあ、せーの」

「いっぎぃあぁぁ!!!??」


 骨肉ごと持っていくかのような激しい痛み。あまりに痛くて視界が一瞬地獄に移り変わったかのように暗くトんだ。血で張り付いたガーゼを勢いよく剥がす、現代なら拷問でも許されなさそうな蛮行が、どうみても人畜無害そうな美人の手によって行われたのだ。


「あっ、ハァッ、ハァッ、うぎぃ……」


 のたうち回りたいのに全身の怪我がそれを許さず、むしろ呼応して祭りのようにあちこちでズキンズキンと囃し立てる。坂を転がった時よりも痛い気さえする。あの時よりも意識がはっきりしているせいかもしれない。


「痛かったよね。でも、こういうのは一気に済ませた方がトータルで楽なはずだから、頑張って耐えて。後暴れないで」

「な、なぁぁぁん……」


 確かに言い返す気力すら一撃で根こそぎ持っていかれた。

 痛むたびに一瞬意識が途切れて、地獄に転移する。

 腕が動かされて、また大きな痛みが走る。人間の身体って、短時間で痛みを感じすぎると段々とそれを不快に感じなくなるんだとか、人生で二度と使う機会が無くていい情報を得る。

 先輩が慌てているのか楽しんでいるのかも虚ろな視界では認識できないが、かいがいしく動き回っているのだけは分かった。普段ぼんやりしてる先輩にしては機敏で、腕の処置がもう終わっていた。

 反対の腕も、足も、背中の一部も、神経を引きちぎるような痛みと引き換えに、つつがなく処置が行われていく。

 最後の方は笑うしかなかった。だって、慣れてきた先輩がなんだか楽しそうに見えたから。

 あたしの痛みなんて知らずに、先輩はあたしで好き勝手楽しむ。釣られてあたしは笑う。それはもちろん苦笑い。それでも、総合的な苦痛は大分と少なかったんじゃないかと思う。そう思い込まないとやってられなかっただけかもしれない。


「……先輩、介護士の才能ありそうですね」

「本当?トランペット止めてそっちの道進もうかな」


 山場を越え、息を整えて適当なことを言う。

 柔らかな空気に満ち、なんだかいい感じなんじゃないかと思う。これであたしだけ裸じゃなければなお良かったんだけど。

 忘れられるっていうのは悲しいだけじゃなくて、救いもあって。今のあたしは先輩との間に何があっても許し許されそうな無敵の関係を得た気がした。着替えがなんだ、裸を見られるのがなんだと全てを跳ね返していけると心を強く持てた。

 が、しかし。


「それじゃあ、後は」

「服ですね」


 やっとと思った先に待って居たのは。


「の前に、おしっこしようか」

「ぬぁ」


 ……にを言い出すのか?エモい空気に浸ろうとしたところでの、流れを読まない爆弾投下。本当にこの先輩は。


「今、なんて言いました?」

「おしっこしようか?」


 言わせたかったわけじゃないけど二回も言わせてしまった。結果あたしの方が恥じ入る。


「それも一人じゃ出来ないでしょ?脱いだついでにしといた方が良いって」

「いや、いやいやいや……。どう考えても先輩にやらせることじゃないでしょ」

「じゃあ、誰がやるの?」

「…………」


 揺れることのない瞳が、手短に正論を突き付けてくる。裸のあたしを前に、この世で最も下心のない綺麗な光だ。善意とか悪意とか、そんなのが介在する余地もなく、効率重視でどこか機械的ですらある。

 それでいくと、非効率的なのはあたしの感情の方ということになる。あたしが折れて全部身を委ねれば、先輩はなんてこと無しにそれを済ませてしまうだろう。

 でも。


「何でもかんでも捨ててしまえば良いってものじゃないんですよ」

「えっと、今度は何の話?」

「みかんのもけもけの話です」

「またもけもけ」


 あたしに生来付いていて、先輩が必要としないもの。でも、今一番それが必要なのは先輩だ。

 世界が一色に映って居そうなその瞳の中で、あたしだけが輝いて見えるようになるためには、先輩は感情を理解しないといけない。

 好きでドキドキして目を逸らしてまた追いかける、たったそれだけの事が出来なければ、先輩の望みが叶うことはないのだ。

 あたしが中学の入学式で先輩の演奏を聞いたのも、学園祭で先輩のクラスの出し物をリピったことも、先輩を追いかけてちょっと高望みな高校の受験を頑張ったことも、先輩は知らない。

 一方的で無意味なその気持ちに意味を持たせるなら、あたしは先輩にそれを教えなければならない。


「もけもけってなんか響きかわいいよね」

「そうですね」

「私にかわいさが足りないって意味かな」


 学校で一番かわいい存在が何かふざけたことを言ってる。さすがにツッコミ待ちかと疑うもそんな素振りはなく、悩むうちに先輩はベッドから離れ、横の棚から何かを取り出した。それを見て、あたしの中に焦燥感が生まれる。


「せ、先輩。それって……」

尿瓶しびんってやつだね」


 でしかない。何かが分かるが故の焦り。病院に有るだけあって、たった一つの用途の為に機能的に磨き上げられた造形が、よもすがら溜め込んだものを刺激する。トイレットペーパーの臭いを嗅ぐと便意が促されると言うけど、それと似たようなことが起きたのだ。


「あふぁ」


 元々チビるような痛みで寸前まで下降して臨界で堰き止めていたモノが、直前で限界で四の五の言う間もなく三の二の一の零ですなわち決壊は目前だった。

 先輩に感情についてあれやこれや言う暇も無かった。

 表現規制。懇願の後に間に合ったことだけを留意。

 全身の水分が出て干からびて死ねたらいいのにと思った。結局涸れたのは尊厳と涙と膀胱だけだった。

 なら隕石でも落ちて来ればいいとも思ったけど、側には先輩がいる。やっぱりどこか楽しそうな先輩を巻き込む訳にはいかないから、隕石はまた今度でいいや、と思い直した。

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