最後の約束
八雲景一
最後の約束
雨が激しく降りしきる中、山井幸三は走った。捕まるわけにいかなかった。刑務所暮らしは構わないが、今は捕まるわけにはいかない。時折、雷光が走り、凄まじい音が響き渡った。雷光に照らし出された山井の顔は、歪んだ唇と血走った目が浮かび上がり、その表情には激しい怒りが滲んでいた。
一
山井は、大正10年8月に山井家の長男として生を受けた。家は貧しく生き延びるために、父の新造と母の花子は必死で働き、ある程度の金を稼いできた。山井は大きくになるに連れて、有り余る体力を遺憾なく発揮し、低学年ですでにグループを作った。粗暴というわけではなく子分たちには分け隔てなく接した。尋常小学校高学年にもなると、グループとしては近隣の不良グループと較べると最大と言っても良かった。勉強するより、喧嘩に明け暮れることが多かったが、不思議と物覚えはよく、国民学校初等科に合格した時は、先生のほうがひどく驚いた。高校になると、グループを解散した。中には不満を言うものがいたが、説き伏せた。
「いいか、今までのようになってちゃだめだ。自分自身のためにならない。これからは真面目にやっていけ。もし、困ったことがあったらいつでも俺のところに来い」
グループのメンバーを前に説教をたれた。メンバーの中には不良を続けるものもいたが、山井は放っておいた。
山井が国民学校初等科6年生になり、卒業間近になった時、事件を起こした。クラス内でいじめが起きたのである。いじめにあった生徒は、同じクラスと言うだけで別に親しくなかった。帰宅途中に3人の生徒から殴る蹴るの暴行を受けていたのである。3人は山井と同じクラスだった。いつも一緒に行動しており、リーダーの園井、岸部、森島だった。
「なにやっている」
山井は3人に向かって一喝した。
3人は一瞬ひるんだが、山井をみて安心したのか「なんでもねぇよ」と言った。国民学校に入学してから山井はおとなしく過ごしてきた。どちらかと言えばあまり目立たないようにしてきたのである。
「なんでも無いということはないだろう」
「引っ込んでろよ」
「その辺にしておけ」
その言葉にカチンと来たのか、園井は山井の胸ぐらをつかむといきなり殴った。その勢いに山井は後ろに倒れた。その様子を見て園井は不敵な笑みを浮かべた。
山井は、ゆっくりと立ち上がると、口の中に拡がった血を吐き出した。
「それだけか」
園井が、殴りかかってきたのを右に沈み込むように避けると、脇腹に向かって思いっきり右拳を打ち込んだ。いわゆるボディブローだった。
声を出すこともなく園井は、その場に倒れた。両手で腹を押さえて唸っていた。息ができないのである。
山井は馬乗りになると、園井の顔面に向かって数発殴った。その様子を見た岸部と森島は止めることもなく逃げ出した。
顔面血だらけになった園井をみた山井は立ち上がった。周りを見回すと、岸部や森島、いじめられていた生徒の姿はなかった。
しばらく立ち尽くしていると、二人の警官と担任の吉高、数名の教員がやってくるのが見えた。
「山井くん、君がやったのか」
吉高が、山井に問いただした。園井の方をみると、2人の教員が担架に園井を載せているところだった。
「そうです。僕がやりました」
吉高は困惑した。この6年間、山井を見てきたが、こんな暴力を振るう子ではなかったはずだ。
「どうして」
「園井と岸部、森島が同じクラスの生徒に暴力を振るっていたからです」
山井は正直に答えた。
「その暴力を受けていた生徒の名前は?」
「さあ、わかりません」
「わ、わかりませんて」
「ほとんど親しくないんです」
「その生徒はどこに言ったんだ」
「逃げたようです」
山井には、わかっていた。たとえ名前を言ったとしても、相手は知らないふりをするだろう。もうすぐ卒業だからである。いわゆる関わりたくないのだ。
「先生、巡査の山下といいます。あとは警察にまかせていただけませんか」
山井は二人の警官に付き添われて派出所に向かった。派出所では、事の起こりから顛末までを詳しく話した。
「これで間違いはないか?」
山下巡査が山井に聞いた。
山井は、書かれた調書を読んだ。
「間違いありません」
「では、拇印を押しなさい」
そのあと、署から来た車に載せられた。その後の取り調べで、いじめがあったこと、それをやめさせようとしたことがわかり、山井のこの6年間の真面目さもあってか、3日後には解放された。
家に返った山井は両親から叱られると思っていたが、何も言われなかった。山井にとって辛いことであった。
学校は退学処分となり、卒業はできなくなった。別に構わなかった。
翌日、すぐに働きに出た。殆どは肉体労働だった。その方が実入りがいいのである。
二
あれから12年が経ち、山井は30歳になっていた。
その日、仕事を終えた山井は、普段寄っている飲み屋にも行かず、いつも利用している娼婦宿に入ることにした。
「あら、いらっしゃい」
宿の女将をしている篠原信恵が山井を迎えた。山井と信恵の付き合いは長い。昔は信恵には、よくお世話になったものである。
「あの娘はいるかい?」
「いるわよ」というと、信恵は新子と呼ばれた娘を呼んだ。
「山井さん、いらっしゃい」
若い女性が奥から出てきた。
二人は、用意されているいつもの部屋に上がっていった。信恵が二人の後ろ姿を目で追った。
「ごゆっくり」
部屋に入ると、1つだけ布団が敷いてあった。だが、山井は窓際のテーブルに行くと、畳の上に胡座をかいた。新子は、部屋の隅においてあったポットから、お茶の葉が入っている急須にお湯を入れ、数度、軽く振ると湯呑みに注いだ。それをお盆に乗せて山井のところへ持っていった。
「ありがとう」
山井は、礼を言うと一口飲み、窓の外を眺めた。雨は降り続いており、一向に止む気配がなかった。
新子は、だまって山井を見つめている。
山井は最初に宿に来たときから、新子と関係を持とうとしなかった。それは三年間変わらなかった。新子も無理に誘うことはしなかった。もし、無理に誘えば山井はもうこの宿には来ないだろうと思った。
山井は他の客とは違う雰囲気を持っている。言葉に表すことができなかったが、そばにいるだけで心が暖かくなる、そんな気持ちにさせるのである。
山井は、姿勢を正すと、新子の名前を呼んだ。
「新子さん」
新子は顔を上げた。
「はい」
「俺と一緒に暮らさないか」
突然、山井から言われて、新子はとまどった。
「俺が引受人として、女将とは話をつける。だから、一緒になってくれないか」
山井は真剣だった。
「き、急にそんなこと言われても」
「わかっている」
「山井さん……」
「悪かった。本当に真剣なんだ。一度考えてみてくれないか」
新子は頷いた。
「山井さんが、真剣ならあたしも真剣に考えます」
新子にそう言われて、表情を明るくした山井は、新子の両手をとった。
「ありがとう。ありがとう」
山井が、信恵に見送られて宿を出たのは、夜遅くなってからであった。あのあと、部屋を出て信恵のところにいき、事の経緯を話した。
「ふーん、随分入れ込んでるんだね」
「よしてくれ、そんな関係じゃない」
「あら、あたしのときはどうだったの?」
「昔のことじゃないか、蒸し返さないでくれ」
「ふふ、いいわ」
「え? いいのかい」
「ええ、でも高いわよ」
「いくらだ」
「三百円、ビタ一文まけられないわよ」
山井は唸った。三百円は大金であった。
「わかった。なんとかする」
その後、山井はがむしゃらに働き始めた。仕事の帰りによっていた飲み屋にも一切足を運ばなくなった。少しでも給金のいいところがあれば、そこで働いた。仕事が長続きしない奴と見られたが構わなかった。新子に会いに行っても、話すこともなく寝てしまうこともあった。
新子は、心配になった。
「あたしのために無理しないでください」といっても聞かなかった。
一年後、仕事が終わると、宿へ向かった。今日、行くことは、前もって信恵に伝えてあった。
「女将、いるかい?」
山井は声をかけたが、返事がなかった。
もう一度声をかけた。
「女将、山井だ」
返事がない。上がって、いつもいる部屋を覗いてみた。ちゃぶ台がひっくり返って、急須と、湯呑みが落ちていた。信恵の姿は見えなかった。
いやな予感がした。信恵と新子の姿を探して奥へいくと、障子が破れて、なにやらシミが点々とついているのを見つけた。
障子を開けると、山井はその場に尻餅をついた。しばらくは声が出なかった。
部屋は荒らされ、信恵はうつ伏せに、新子は仰向けに倒れていた。信恵の体の下から、大量の血が畳に広がっている。新子の胸に短刀がまっすぐ、突き刺さっていた。
山井は、その姿を見ると、新子に駆け寄り声をかけた。
「新子、しっかりするんだ。新子!」
山井が短刀を引き抜いた。
新子は、小さく呻くと、ゆっくり目を開いた。
「や、ま、い、さん」
新子は右手をゆっくり上げて山井の頬に触れた。山井は、その手を握った。
「しっかりするんだ」
「う、うれしい」
と言うと、新子の体から力が抜けた。
「新子、新子!」
山井は、体を揺すったが、目を開くことはなかった。しばらくは、体を抱きしめていた。
突然、女性の悲鳴が背後から聞こえた。
振り向くと、女性が尻餅をついたまま、大きく見開いた目を山井に向けながら、人差し指を向けていた。
「ひ、人殺しぃ!」
「ち、ちがう!」と言った。
女性に近寄ろうとしたが、手に持っている短刀に気がつくと投げ捨てた。
女性は、わけのわからない声をあげながら、四つんばいで逃げていった。
山井は一刻も早く逃げ出したかった。だが、その前にやらなければことがあった。
信恵の体を仰向けにすると、この一年に貯めたお金を信恵の体の上に置いた。
「女将、あとで新子を迎えに来る」
というと、裏の勝手口から逃げ出した。
雷光が輝き、凄まじい音が響き渡ると同時に雨が降り出した。
一刻も離れようと山井は走った。
(敵はとってやる)
走りながら山井は誓った。
三
「こりゃあ、ひでえな。女二人殺したのか」
山下警部は、現場を見るなり言った。壁には飛び散ったと思われる血痕があちこちに付着していた。物色したのか、タンスの引き出しは開けっ放しになっており、中身が半分出ているのもあった。畳の上には引き出しやタンスの中にあったと思われるものが散らかっていた。
「あちこちやられていますね」
そういったのは梶谷刑事であった。
「これはなんだ?」
山下は殺害された一人の女の上に乗っている百円札を見つけると、取り上げた。全部で三枚あった。
「お金ですが」
「それはわかっている。どうしてガイシャの上においてあるんだということだよ」
「わかりませんよ。犯人とっ捕まえればわかるんじゃないんですか」
「ふん、それでガイシャの名前はわかったか?」
梶谷は手帳を取り出すと、書いたことを喋り始めた。
「えっと、一人が篠原信恵、この宿の女将です。もうひとりは、磯崎結衣です。宿の店子で新子と呼ばれていたようです」
「それから篠原信恵のほうは、うつ伏せの状態から仰向けにされたようです」
「ほう」
「体の正面には刺し傷がありますが、背中にはありません」
「すごいじゃないか、よく調べたな」
「鑑識が言ってましたので」
「前言撤回だ」
「え?」
「ところで通報者はだれだ?」
「あっちに」
梶谷が指差す方を見ると、女が疲れ切った表情で座っていた。
「あなたが、通報したのかね」
と山下が聞く。
「刑事さん、はやくあの男を捕まえておくれよう」
「男?」
山下と梶谷は顔を見合わせた。
「男を見たのかね」
「そうだよう、短刀持っていたんだ。笑ってたんだよう」
「どんな風体だったのかね」
「どうって、普通だったよ」
「いや、顔つきとか服装とか」
「そんなこと、わかんないよ。こっちが殺されるところだったんだから」
山下はやれやれと言わんばかりに首を振った。
「梶谷君、彼女を連れて似顔絵を作成してくれ」
「わかりました」
梶谷が女を連れて行くと、山下は考え込んだ。
不可解な点があった。なぜ犯人は、うつ伏せのガイシャを仰向けにしたのか、なぜお金が置かれていたのかという点であった。物取りであればそんなことはしないだろう。犯人はどこから逃げたか? 宿の正面から逃げることはしないはずである。人目につきやすいからだ。だとすれば、裏口から逃げたはずである。
山下は、裏口の方へ行ってみた。思ったとおりに、少し扉が開いていた。出てみると、路地が右の方に続いていた。左は袋小路になっている。
(聞き込みするしかないな。はたして目撃者はいるかどうか)
「山下警部」
鑑識の戸田主任だった。
「犯人と思われる遺留品がありました」
「どんな遺留品だ」
「靴です」
「靴? 犯人は、靴も履かずに逃げたのか?」
「そのようです」
(ふん、面白くなってきたじゃないか)
四
山下が情婦宿で捜査を進めていたその頃。
山井は人目につかないように、路地を選んで逃げた。灯りが消えている一軒の家に入って、上着と靴を盗み、顔を洗った。薄暗い中で鏡に写った自分の顔を見た。左頬に今でも新子の手の感触が残っている。新子は死ぬ間際にうれしいと言った。それが無残に殺された。
(どこのどいつが殺ったのか。必ず見つけて罪を償わせてやる)
山井は家を出ると、自分の家に向かった。必要なものだけを持って出るつもりだった。いずれわかれば家に来る。靴を残してきてしまったことが悔やまれた。
その日のうちに、殺人事件として本部が立てられ、ただちに捜査会議が開かれた。
「凶器は、刃渡り二十センチメートルの小型の刃物。現場に残されていました。両者とも正面から一突きで心臓を狙って刺されています。また、犯人は左利きと思われます」
戸田は言った。
「どうして言えるんだ?」
本部長の佐々木であった。
「刺した角度がわずかに左方向に傾いていました」
「傾いていた?」
「もし、右利きであれば、だいたい真っ直ぐになります。こういう風にです。左に傾けた場合は、こんな感じで刺しにくいのです」
戸田は、指す真似をやってみせた。
「よしわかった」
「あと、凶器から指紋が出ました。今、鑑定中です」
「他には?」
山下が手を上げた。
「犯人は男。現場には遺留品として、男物の靴が残されていました。それから、目撃者がいました」
梶谷が立ち上がった
「えっと、目撃者は蒲田ひとみ。その日は、なぜか宿は休みだったようです。ですが、宿の女将である篠原信恵から買い物を頼まれたと言っていました」
「何を頼まれたのかね」
「服です」
「服?」
「はい、信恵が磯崎結衣にプレゼントするつもりだったようです」
「それで、目撃者から犯人の風体はわかったのかね」
「犯人と思われる似顔絵を作成しました」
「ほう」
似顔絵が配られた。
山下は、似顔絵を見るなり、少し考え込んだ。どこかで見たような気がしたからだ。
(どこだったか……)
佐々木の声に考えが中断された。
「よし、班ごとに行動を分ける。戸田班は指紋の鑑定を急いで犯人の特定につなげてくれ」
「はい」
「安田班は似顔絵をもとに、犯人とガイシャとの関係。篠井班は靴、遠山班は現場付近の聞き込み、山下班は逃走経路だ。必ず犯人を見つけ出してガイシャの無念を晴らせ。いいな!」
「はっ!」
捜査員が会議室から出ていくと、山下、梶谷、磯井、後藤、橋本の五名が残った。
「山下君、そこで何をしているのかね。さっさと行きたまえ」
「本部長、今、行くところですよ」
山下はメンバーを会議室の隅に呼んだ。
「梶谷、磯井、後藤、橋本、君たちは、逃走経路から犯人の動きを調べてくれ、いいかどんな小さなことでも、なんでもないようなことでも見逃すな」
「警部は?」
梶谷が聞いた。
「俺か、ちょっと調べたいことがある」
「また、ひとりで行動ですか? 怒られても知りませんよ」
「わかっている。始末書を書くには慣れているからな」
山下はへんな自慢をした。
「では、頼む」
五
山井は家に入る前に、少し離れた場所から家の周りを見た。誰もいなかった。家もそっと入った。
山井は盗んだ服と靴は押入れの奥深くに押し込んだ。その後、鞄を取り出し、着替えや洗面用具などを詰め込んだ。来ていたものを全て脱いで着替えると、家においていたいくらかのお金を財布に入れ、上着の内ポケットにしまい込んだ。そして、入ってきたときと同じようにそっと家を出ていった。
山下は、情婦宿に足を運んだ。山下は胡座をかいて座り、目を閉じた。長年の刑事としての経験から、犯行現場の雰囲気を感じ取ろうとする習慣が身についていた。普通の強盗殺人なら、金を置いていくはずがない。被害者を仰向けにする必要もない。この事件には、何か引っかかるものがあった。
あの金は何だ。なぜ仰向けにした。荒らされていたところを見ると、金目当てで押し入ったはずである。その犯人が、殺してうつ伏せになったガイシャを仰向けにして、金を置いていくだろうか。なんのために。
(うーん、わからないな)
いくら考えても犯人の行動が読めないのである。
「ごめんください」と言う声とともに、戸を叩く音が聞こえた。
山下が出てみると、知らない男が立っていた。右手に旅行かばんを持っている。
「あの、女将さんは、いますか?」
「お知り合いですかな」
「あ、これは失礼しました。時田と申します」
「ほう、それでどんなご用事で?」
「女将さんは?」
「亡くなりました。殺されましてね」
「え?」
時田は驚いた。
「警視庁の山下と申します」
「なぜ、殺されたんですか?」
「それを調べているところなんですよ。で、時田さんと言いましたか。なんの用事でこられたんです?」
刑事だと名乗られた瞬間、山井の血の気が引いた。表情を変えまいと必死に努めた。「実家に帰るので、そのご挨拶をと思いまして」と言いながら、自分の声が震えていないか気が気ではなかった。
「失礼ですが、この宿はよく利用されていたんですか?」
「よく利用していただなんで、昔のことですよ。ここ一年ほどは来ていません」
「なるほど。いや、失礼いたしました」
「いえ、それでは失礼いたします」と言うと、時田は夕暮れの中、駅の方へ歩いていった。
時田は、一度振り向くと、頭を下げた。
(律儀なやつもいるもんだな)
山下は、時田の後ろ姿を見送りながら、どこか既視感を覚えていた。律儀な態度、女将への敬意、そして何より、あの場に居合わせた時の微妙な緊張感。全てが何かを指し示しているような気がしてならなかった。
山井の心臓は激しく鼓動を打っていた。宿へは手を合わせに来ただけだった。誰かいるだろうと思ったが、刑事がいるとは予想外だった。なんとかごまかしたものの、まだ自分のことに気がついていないらしい。刑事だと言われたとき、心臓が跳ね上がった。できるだけ顔に出さないようにしたが、バレていないことを祈るばかりであった。いまだに足が震えている。とにかく、身を隠すことを考えた。
六
犯人逮捕の目処がたたないまま、三日が経った。
「安田班、似顔絵についてはなにかわかったのかね」
「店の関係者にあたってみましたが、客の中はおろか近辺で見かけたという証言は得られませんでした。ですが……」
「なんだ」
「殺された磯崎結衣ですが、当日は、嬉しそうにしていたと……」
「別に関係ないじゃないのかね」
「普段は、口数の少ない子だったようなので」
山下、右の眉毛がピクリと動いた。
(そうか!)
「つぎ、篠井班」
「靴から何も得られませんでした。どこにでもあるような靴で購入者も多くて絞りきれません」
「遠山班はどうだね」
「ひとりだけいました。真向かいの主婦が同じ男を何回か見かけたと言っていました。ですが、似顔絵の男ではありませんでした」
「山下班」
「近所の家に空き巣が入って、靴と上着が盗まれたという事件がありまして……」
梶谷が申し訳なさそうに言った。
佐々木は頭を抱えた。なにもわかっていないと同じだったからだ。
「どうなっているんだ!」
佐々木の怒号が、会議室に響き渡った。
「まってください」
山下が手をあげた。
「なんだ、山下君」
「さきほどの安田警部補の話ですが、関係あるんじゃないでしょうか」
「どういうことだ。説明したまえ」
署長の片平が、山下に言った。
「はい、服のことを覚えておられますか?」
「篠原信恵が買ったというやつかね」
「ええ、篠原信恵は買った服を磯崎結衣にプレゼントするつもりだったようです。それだけでも嬉しかったのかもしれません」
山下は一息つくと会議室を見回した。視線が山下に集まっていた。
「ですが、篠原信恵の体の上に置かれていた三百円の説明がつきません。わたしは、犯人の行動が読めませんでした」
「早く結論を言いたまえ」
佐々木が先を促した。
「ひとつの仮説を立てました。磯崎結衣は誰かを待っていたんじゃないだろうかと。そいつが誰かはわかりません。金は磯崎結衣を抜けさせるためのものであったはずです。蒲田ひとみが目撃したやつが磯崎結衣を迎えに来たやつではなかったかと思うのです」
「迎えに来たが、磯崎結衣が嫌になって口論の末に、殺したということは考えられないのかね」
「もちろん、その線もあるかもしれません。それだったら当日に服のプレゼントや嬉しそうにしないはずです」
「そいつは誰だ」
「推測ですが、山井という男では無いかと思うのです。磯崎結衣は新子という名前で客をとっていましたが、無口で愛想がなかったようです。ですが、事件が起こる三年前から、よく新子を指名していたのが山井という男でした。ですが、山井は犯人ではないと思われます」
「なぜだ」
「もしかしたら、あのカネは新子つまり磯崎結衣を見受けするためのお金だったかもしれません」
ここまでいったとき、会議室がどよめいた。
佐々木は唸った。
その時、鑑識の戸田が入ってきた。
「指紋の確定が終わりました。梶谷君、依頼された指紋の確定も終わったよ」
梶谷は嬉しそうに戸田に頭を下げた。
「まず、凶器に付着した指紋と梶谷君から依頼された指紋は同じものでした。指紋は山井幸三のものです」
「山井?」
捜査員の全員が山下の方を向いた。
「犯人は山井幸三と見て間違いないのか」
「残念ながら、そうとは言い切れません」
「というと?」
「まず、これを見てください」
戸田は、プロジェクタのライトテーブルの上に、フィルムを置いた。
「凶器の柄のところに、親指から薬指までの指紋がはっきり付着しています。ここを見てください」
佐々木は眼鏡を下げると、スクリーンに顔を近づけた。
「ほんの僅かですが、指紋が付着しています」
「別におかしなことはないんじゃないのかね」
「いえ、この指紋は薬指の指紋で、山井幸三の指紋と別人です。山井幸三の指紋は、この上にかぶさる形で付着しています」
「なにい」
「もうひとつ、この指紋は、剛健組の構成員、橋本一のものとわかりました」
聞き終わった佐々木は、捜査員全員に向かって発破をかけた。
「よおし、山下君がいったことの裏付けが取れたな。橋本という男を徹底的に調べ上げろ。いいか気づかれるんじゃないぞ」
七
山井は、橋本一という男が逮捕されたというニュースを聞いたとき、驚くと同時にがっかりした。新子の敵を取れなくなったからだ。
(くそっ)
だが、ニュースを見ていて、ふとある考えが閃いた。新子を殺した犯人に近づくチャンスだろうと考えた。もしこれでうまく行かなければ刑務所まで追いかけることにした。
(絶対逃さないからな)
山井はテレビに映る橋本を睨みつけた。
橋本の自供により、捜査本部は解散することになった。犯人を検挙したことにより、お祭り状態になっていた。
「諸君、ご苦労だった。一時はどうなるかと思ったが、犯人を検挙したことは、喜びにかえがたい。山下君、戸田くん、二人ともよくやってくれた。それとみんなもありがとう」
佐々木が挨拶を終えると、片平の音頭により乾杯した。
そこへ、署員がやってきて、佐々木に何かを耳打ちした。みるみる佐々木の顔が凍りついた。話を聞き終えた佐々木は、全員に向かって静かにするように言うと、テレビを付けた。
「さきほど、篠原信恵さん、磯崎結衣さんを殺害したとして逮捕された橋本一が刑務所に移送する際に殺害されました……」
テレビには、殺害される様子が写っている。そして犯人の顔も。山下は、その犯人の顔をみて驚いた。時田だった。警護に取り押さえられている。
「梶谷! 行くぞ」
「あ、はい」
梶谷はあわてて山下の後を追った。
「山下君、ど……」
言い終わらないうちに、山下の姿は消えていた。
八
取調室に、時田と向かい合って座った山下は、どう切り出したらよいものか考えていた。取調室に沈黙が流れた。やがて、山下は身を乗り出すと、時田に声をかけた。
「時田さん、いや、山井くんか」
「はい」
山井はうつむいたまま答えた。
「私の顔を覚えているかね」
山井は顔を上げると、山下を顔を見つめ少し驚いた表情をした。
「あの時は私もまだ若かったがね」
山井は小さく頷くとうつむいた。
「磯崎結衣を殺した恨みから、橋本を殺したのか」
「そうです」
「理由はなんだ」
「ご存知だと思いますが、私は新子いや磯崎結衣さんを引き取るつもりでした。そのために働いてお金を貯めたのです」
「続けて」
「お金を貯めるのに一年かかりました。お金がたまったあの日、結衣さんを迎えにいったのです。女将である篠原信恵さんにも話してありました。そうしたら、信恵さんも、結衣さんが倒れていました。わたしは結衣さんに刺さっていた短刀を抜きました。すると、結衣さんが目を開けて……」
そこまで話すと、山井は泣き崩れた。
「そこを見られたのだな」
山井は鼻をすすりながら頷いた。
山下は、山井に同情した。刑事として失格だろう。だが、犯行が行われた当時に、信恵の体の上に貯めたお金を置いたことは、理解できるような気がした。正直で律儀な男なのだと思った。
山井の裁判が開かれ、懲役七年の刑を受けたのは、事件後、一年たった春のことであった。
刑務所に移送される護送車の中で、山井は窓の外を眺めていた。空はよく晴れ渡っていた。満開の花びらをつけた桜が車窓を流れていく。桜の向こうに川がゆったりと流れ、河川敷では一組の親子が遊んでいた。
満開の桜が舞い散る様子は、まるで新子が彼に微笑んでいるようだった。
「新子、もしもあの日、俺が間に合っていたなら、俺たちは一緒に桜を見ていただろうか…」
胸に重く残る無念、そして愛する人を守れなかった痛みが、彼の心を締め付けた。しかし今、彼はようやく心の奥底で、新子が静かに微笑んでいるのを感じていた。
彼の目から一筋の涙が零れ落ちる。桜の花びらがそれに重なるように舞い、護送車の中は静寂に包まれた。
護送車は桜並木をゆっくりと走り去り、山井の胸の中に、春の淡い光が残った。
最後の約束 八雲景一 @KeichiYakumo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます