昨日、兄を殺した

惣山沙樹

昨日、兄を殺した

 アルコールの臭いが充満するワンルームで空き缶を灰皿代わりにしてタバコを吸っていた。

 ベッドの上に横たわった兄はぴくりとも動かない。昨日腹や胸をメチャクチャに刺した。

 カーテンの隙間から朝日が差し込んできて、兄の顔を照らした。撫でられている猫のように穏やかな表情だ。こんなことならもっと苦しめてからにするんだった。

 酒が足りない。

 タバコを消し、冷蔵庫を開けるとビールがまだあった。銘柄もろくに見ずに胃に流し込む。丸一晩寝ていない身体には、効いた。

 カーペットも何も敷かれていないフローリングに仰向けになった。今日は日曜日。兄の仕事は休みだ。月曜日になるまで放置すれば会社から連絡が来るだろう。それよりもまず、兄の婚約者だという女性が気付くか。兄のスマホならおそらく指紋認証だからロックが解除できるだろうが、そうする気力はなかった。

 昨日呼ばれたのは本当に嬉しかった。久しぶりに兄弟二人で宅飲みしようと言われて。その日を指折り数えて。兄が好きな店のコロッケと酒をたんまり持って、今いるワンルームに入ったのだ。

 昔から兄のセンスは良かった。ダークブラウンで統一された嫌味のないベッドや本棚も、機能性とデザイン性を兼ね備えたガラスの壁掛け時計も、兄に選ばれたことを誇っているかのようだった。

 ローテーブルの真ん中にコロッケ、それを取り囲むように酒の缶を並べ、笑みを交わしながら乾杯した。しばらくは、俺の大学の話をあれこれ聞かれ、それなりの過ごし方をしていることを説明した。

 そんなことよりそっちはどうなの、と聞いた時だ。報告したいことがある、と兄は照れくさそうに下を向き、婚約したと俺に告げたのだ。

 婚約者の名前も年齢も仕事も容姿もどうでもよかった。兄が結婚してしまう、その事実だけで十分だった。だから覚えていない。プロポーズの後に撮ったという二人の写真も見せられた。それにどう返したかも、覚えていない。

 一通りの話が終わったところで、兄が残りのコロッケを半分にしようと言い箸で分けた。すっかり冷めきった衣は砂利のようだった。勢いをつけてビールで流し込んだ。

 その時に殺すことを決めた。

 俺は兄にどんどん酒をすすめた。兄がそう強くないことは知っていた。遠慮する兄を煽り、茶化し、乗せた。

 兄が寝てしまったのを確認してから、キッチンにあった料理包丁を使った。一振り目が包丁の柄まで沈んだが、それからは何回か骨に当たった。もういいだろう、と心の声がなだめるのを無視して、力が入らなくなるまでやった。

 包丁はベッドの上に放り、血に濡れた手をよく洗い、兄を見下ろしながら、果たして最後の会話は何だっただろうと考えた。おやすみ、と言った気もするし、言っていない気もした。

 殺してしまったのは仕方がないから、これからどうしようと悩んでいるうちに夜が明けた。兄の死体を何とか隠したところで、俺と飲むことを兄が誰かに告げていればそこからわかる。逃げるつもりもない。なら自首すべきか。

 まあ、次に目覚めた時の気分で決めるか。

 ひんやりとしたフローリングの上で、俺は静かに目を閉じた。

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昨日、兄を殺した 惣山沙樹 @saki-souyama

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