第7話変態の理屈
「侵略戦争――?」
私はシェヘラの顔を見た。
ガリアスは指輪を両手に持ったまま、ぽかんとした表情を浮かべている。
「私も、あの戦いの最初は勇者としての使命を信じていた。私は世界の平和のために魔王と戦うんだ、って――でも実際は違った。あれは人間側が魔族に対して仕掛けた戦争だったのよ」
ガリアスの目には完全に『?』マークが浮かんでいる。
さっぱり話についていけていないのは私も同じだった。
「思えばおかしな話よ。五百年前、人類は魔族との戦乱に明け暮れていたかというと、そうじゃない。諍うことはあっても、基本的にはお互い不干渉を貫いて共存していた。それがどうして突然に全面戦争、という話になったと思う?」
そう問われても、私はその時代に生きていたわけではない。
同時に、ガリアスもシェヘラの問いへの答えに窮しているようだった。
「魔王戦争が終盤に近づき、後は本丸である魔王城を落とすだけ、という時点になって、私は当時私を庇護していた王国から密命を受けたの。私に降された命令は――魔王を倒すことが第一ではなく、この《僭主の指輪》を手に入れることだったの」
ガリアスが呆然と口を開けた。
この状況では悪いと思いつつ、私はシェヘラに尋ねた。
「あ、あの、ごめん、口を挟みたくないんだけど……その《僭主の指輪》って何?」
「一言で言えば、この世を統べる者が身につける指輪よ」
えっ、突然何を言い出しますの――?
私の珍妙な顔を見て、シェヘラは「この指輪は人間が作ったものではないの」と、机の上の指輪を見て言った。
「これは――この世界を作った神々が、混沌としていた世界を統治するために創った、支配と秩序のための宝物。この指輪は最初は神々の手にあり、その次に世界の混沌から生まれた魔族に与えられた。この指輪に込められた神々の圧倒的な恩恵と祝福は、それを身につける者を救い、励まし、地上の支配者にすると言われているわ」
つまり――物凄い指輪なのだ。
あまりのスケール感に二の句が継げずにいる私に、シェヘラははるか昔のことを思い出すような口調で言った。
「私がこの指輪を手に入れて魔王城から帰還したとき、当時の王は何よりも先にこの《僭主の指輪》の引き渡しを要求してきた。王は当初、この指輪を封印するつもりだと言っていた。もうこの世に二度と魔王のような存在を生み出さぬよう、魔法の叡智を以ってこの世の終わりまで封印するのだと。でも――それは真っ赤な嘘だった」
シェヘラは美しい顔を歪めて指輪を睨みつけた。
「王は私を裏切った、裏切るつもりで私を魔王討伐に向かわせていた。この指輪は封印しない、自分が手に入れると。そして――魔族に成り代わり、人間の王である自分が、地上の絶対的な支配者になると――私に面と向かってそう言った」
私だけでなく、ガリアスも目を見開いた。
シェヘラは憎しみの籠もった声で続けた。
「当然、私が拒絶すると、王は大軍を差し向けて私を追撃した。信頼していた人間たちに裏切られ、深手を負わされても――私は逃げた。あの戦争で散っていた全ての命にかけて、この指輪は封印しなければならない。その一心で私は逃げて逃げて逃げ延びて――ガリアス、あなたのところに辿り着いた」
「はっ?」
意外な話の結末に、ガリアスがはっきりと動揺した。
「な、何故だ!? 貴様と私は不倶戴天の敵同士だろう!? な、何故私にこの指輪を――!?」
大いに慌てているガリアスを見て、シェヘラが、ふっと笑った。
「不倶戴天の敵同士だからよ」
おお――なんだか、途轍もなくカッコイイな、今の一言。
私がしょうもない感動を覚えていると、「それに」とシェヘラが言った。
「それに、あなたは無敵要塞でしょう? この指輪を封印するには、地上にここより安全な場所はない。そうよね?」
「とっ――当然だ!」
ガリアスは立ち上がって胸を張った。
「私は魔王陛下の創り給うた大要塞だ! 封印しろと言うならこの世の破滅まで封印することなどお安いご用だ!」
それを見て、シェヘラがまた、呆れたように笑った。
あぁなるほどな。私もおぼろげながらに察した。
ガリアスだから、ガリアスがこんなやつだから、こんなやつだと理解していたからこそ、シェヘラはここへ来たんだ。
「でも――私はこの要塞に辿り着いたところでとうとう力尽きた。最後の力を振り絞って、私は指輪をガリアス・ギリの石畳の隙間に押し込んだ。そして――」
死んだ。そして五百年の時が流れた。
そしてさっき、そこへ何も知らない私がまろび込んだ。
後は、今しがた説明があった通りである。
長い沈黙があった。
シェヘラもガリアスも、あまりに空虚に過ごした五百年の重みが、今更胸に去来したのかも知れない。
私は――というと、押し黙ってしまった二人を交互に見つめ、ただおろおろするしかなかった。
長い長い沈黙の後、シェヘラが懇願するような視線でガリアスを見つめた。
「――ガリアス。過去のことを水に流してとは言わない。私が魔王を斃したのは事実だし、私のことを恨むなとも言わない。だけど――あなたにしか頼めない願いがある」
再び随分間があってから、シェヘラが決意を固めた目でガリアスを見た。
「ガリアス、お願い。この《僭主の指輪》をここに封印して。そしてもう二度と魔族や魔王のような被害者を産まないように、この指輪を守って。これはあなたにしか頼めないことなのよ」
シェヘラの声にも、俯いたままのガリアスは答えない。
シェヘラはその顔を覗き込むようにして哀願した。
「この指輪は誰の手にも渡してはいけない。もうこの地上にあんな争いを生むわけにはいかないのよ。あなたなら、あなたにならそれができる。ねぇ、ガリアス、お願いだから――!」
ガリアスは無言だった。
あまりにも不気味に静かなガリアスに、私は堪らず声をかけた。
「ちょ、ちょっとガリアス――」
そう呼びかけた、その途端。
くっくっくっく……という、低い笑声がガリアスの口から漏れ、私だけでなく、シェヘラも息を呑んだ。
「……なるほど、人間どもの狙いは魔王陛下ではなく、最初から《僭主の指輪》だったのか。如何にも人間どもの考えそうなことだ……」
ガリアスが顔を上げた。
その顔には――怒りでも憤りでもなく、ただただ莫大な徒労感が滲んでいた。
「魔王陛下は――そんなちっぽけな指輪ひとつのために、死なねばならなかったのか」
その一言に、シェヘラが息を呑んだ。
そのシェヘラの顔をじっと見つめて、ふっ、とガリアスは苦笑した。
「そんな顔をするな。確かに私はお前が嫌いだ。だが恨みはすまい。魔王と勇者はそうなる
ガリアスは弱々しく続けた。
「だが、今やその魔王陛下はいない。魔王陛下の凱旋を待つために五百年、今度は指輪を護るために幾千年――。お前は、魔王陛下が消えて存在意義を失った私に対して、こんなちっぽけな指輪を守るためだけに、まだこの世に存在し続けろというのか」
「ガリアス――」
その言葉に、シェヘラが流石に言葉を失った。
思えばあまりにも勝手な頼みだったことを反省するかのように、シェヘラは項垂れた。
「……ごめんなさい、ガリアス。私、あなたにとても残酷なことを言ってしまった……」
「言うな。お前などに謝罪されたくはない。それに、私だってお前の言うことの重要性は理解したつもりだ。そしてそれがおそらく、魔王陛下のご遺志と矛盾しないであろうこともな。だが、今はちょっと時間をくれ――五百年ぶりに外の空気が吸いたい」
そう言って、ガリアスはシェヘラに背を向けた。
「ちょ、ガリアス……!」
私の言葉には答えず、ガリアスの姿が一瞬で消えた。
後には、沈黙したままのシェヘラと、相変わらず蚊帳の外の私だけが残された。
「――虫のいい話よね。ホント、馬鹿馬鹿しい。敵のくせに
不意に、シェヘラが呟いた。
その顔にも、さっきのガリアスが見せたような莫大な徒労感が滲んでいる。
思えばこの娘は外見的に、この大陸のどの人種とも似通わない人だ。
彼女はこの大陸の人間ではないのか? いや、この褐色の肌や不思議な色の瞳には、もっと複雑な事情があるのだろうか。
その孤独な横顔が気になって、私はついつい口を開いていた。
「シェヘラは――どうして勇者になったの?」
その質問に、少し返答を言い淀むような間があって。
シェヘラは、覚悟を決めたかのように口を開いた。
「私はね、魔族との混血なの」
え――? と私はシェヘラの横顔を見た。
「五百年後の今はどうか知らないけれど、魔族と人間との混血児は、当時は強烈な迫害の対象だった。当然よね、敵同士の間に生まれた子だもの、存在自体望まれるはずがないわ。私は物心ついた頃から一人ぼっちで、親の顔さえ知らず、色んなところを這いずり回って育ったの」
シェヘラは俯き加減に言った。
「皮肉なものよね――あるとき、混血児故に迫害の対象になっていた私に、女神の加護があるってことがわかったの。私は言われるがままに剣を持たされて、魔王討伐に出た。魔王を
シェヘラはそこからしばらく沈黙し、言った。
「首だけになった魔王がね、私を見て、血の涙を流しながら言ったの。大きくなったな、って。それが魔王の、最期の言葉だった――」
その瞬間、私の全身に嫌な衝撃が走った。
シェヘラの顔を凝視すると、私の視線に気づいてか、シェヘラは無理やりに笑顔を浮かべた。
「最期に魔王の言ったことが、どういう意味だったかはわからない。でも――きっと私は利用されていた。私が、私という存在を生んだ魔族に対する歪んだ復讐心があることを、当時の人間の王は見抜いていた。私はそれを自覚できなかった。勇者の使命と私怨を取り違えていたことにも気づけなかった――」
莫大な後悔に押し潰されそうに、シェヘラはテーブルに視線を落とした。
「私は結果的にあの侵略戦争に一番加担した存在になった。そして《僭主の指輪》を守り切ることも出来なかった。真実がどうあれ、結果はそうなった。そして今、私はまた五百年前の不始末にガリアスをつき合わせようとしている。ホント――私なんか勇者じゃない、勇者であろうはずがない。私はただの――ただの、殺戮のための道具でしかなかった――」
あははは……と乾いた笑い声を上げたシェヘラは、
一方、私は、と言うと。
私は、不意に――遠い昔に聞いた母の言葉を思い出していた。
『シャーロット、私はあなたの成長を見ることが出来ない。残念だわ。けれど、私の命はもう長くはないの――』
最後の冬――母は私の頭を冷たい手で撫でながら、言い聞かせるようにそう言った。
私の母は、私と一緒で、決して身体が強くない人だった。
本来なら私を生むのも命がけだったはずなのに、母は私という存在をこの世に生み出してくれた。
そして――私が八歳のとき、病を得て死んだ。
『でもねシャーロット、このことだけは忘れないで。私はたとえこの世にいなくなっても、あなたの味方よ。見えなくても、聞こえなくても、触れなくても――きっと私はあなたの側にいて、あなたを見守っている』
母は――薄幸の人だった。
経済的に困窮した去る伯爵家からジェネロ公爵家へ、その領土内の権益のすべてと引き換えに嫁いできたのが母だった。
もともと人間の情など紙くず程度にしか考えていない父は、生まれたのが息子ではなく、娘であったことに失望したらしい。
男の世継ぎを産めない母を父は露骨にないがしろにし、幼い頃の私はほとんど母と一緒に、潰すには長すぎる時間を過ごしていた。
『シャーロット、忘れないで。今のあなたは決して恵まれていないかもしれない。けれども信じて、きっと優しい、心の通じ合える人と出会えることを――』
母が死んですぐ――私も後を追うかのように高熱を出し、私の身体は成長を止めた。
おそらくきっと、母が消えたことで、私の身体はすべてを諦めてしまったのだ。
成長することも、遊ぶことも、学ぶことも、触れ合うことも――生きることも。
その成果を見てくれる唯一の人が消えてしまったことで。
私は私から母さえ奪った運命に、世界に、きっとその時、完全に失望したのだ。
『シャーロット。ねぇシャーロット。あなたにもきっとそういう人ができるわ。その人たちのためならなんだって出来るという人たちが、きっと――』
過去に飛んでいた私の意識が、十年後の今ここに戻った。
母は――私の母は、この非道を見たらなんと言うだろうか。
この不条理が地上に存在することを許しただろうか。
否――許さない。
絶対に許したはずがない。
おかしいおかしいおかしい。
何故こんなことが許される?
こんな健気で美しい少女に、そして亡き主へ今も忠義を貫き続ける立派な男に、なんでそんな運命が用意されているのだ?
こんなもの、不条理と言ってもまだ足りない。
私にしてみれば、それはもはや変態の理屈だった。
私の脳髄は今や正体不明の怒りに灼熱していた。
彼女も被害者なのだ。
ガリアスも被害者なのだ。
そして私も――彼らと同じ、被害者なのだ。
誰かの幸福と欲望のために。
誰かの利益と安寧のために。
そうでありたいと願ったことなど一度もないのに。
自分がいい目を見たことなど一度もないままに。
誰かに利用され、操られ――そしてその意に反した瞬間、捨てられる。
間違っているのは私たちじゃない。
間違っているのは――絶対に世界の方だ。
ブツッ――と、十年間、ギリギリのところで張り詰めていた何かが、ちぎれる音が聞こえた。
私は椅子から立ち上がった。
「シェヘラ、その指輪貸して」
「えっ?」
シェヘラが私を見た。私は幼女の顔と声で押し迫った。
「いいから貸して!」
ずい、と右手を差し出すと、シェヘラは戸惑いつつも指輪を渡してくれた。
指輪をしっかりと握り締めた私は、ずんずんと肩を怒らせて歩いた。
「ちょ――シャーロット、どこいくの?」
慌てて腰を浮かしたシェヘラを見ないまま、私は訊ねた。
「ちなみにシェヘラ、そのシェヘラを裏切った王様の名前って何?」
「え――? あ、あの……?」
「いいから答えて。そのクソ野郎の名前は?」
強めに私が押しかぶせると、シェヘラがおどおどとした答えた。
「う、ウェインフォード一世、って王様だけど……それがどうかしたの?」
ウェインフォード、やっぱり! 私は顔を歪めた。
私を捨てた、あの憎き王子の名前はライル・ウェインフォード。
女を泣かせるクソ人間の血は――五百年という時間が経っても立派に遺伝するものらしい。
今まではゆらゆらと揺れ動いていた天秤が、もはや迷うこともなく、完全に一方に傾いた。
私の意思は、私の中で完全に固まった。
「……わかった。ちょっと待ってて、シェヘラ。私、今からガリアスのところに行ってくる」
「ちょ、シャーロット……! その指輪は……!」
「シェヘラ」
私がちょっと大きな声で遮ると、シェヘラが口を閉じた。
私はシェヘラを振り返り、その美しい顔を見つめて、諭した。
「シェヘラは、悔しくないの?」
「え――?」
「人間に迫害されて、そのくせ勇者の加護があるってわかった途端、掌返されて、いいように使われて、挙句に裏切られて――悔しくないの?」
悔しい。その単語に、シェヘラの目が泳いだ。
私はぐっと、《僭主の指輪》を握り締めた。
「私は悔しいよ。シェヘラやガリアスにそんな酷いことを押し付けた奴らが許せない。シェヘラやガリアスとはまだ出会って一日も経ってないけど、酷い話だ、許せない、って、私はちゃんと思うよ」
私は随分素直に、自分の想いを口にした。
「だからね、この指輪を封印する、なんて簡単に言っちゃダメだよ。この指輪のせいで何人も傷ついて、死んだんだから。このままこの指輪を封印しちゃったら――その人たちの無念までなかったことになっちゃう。シェヘラは――それでいいの?」
はっ、と、シェヘラが息を呑んだ。
そうだ、この指輪の存在は、絶対になかったことにしてはいけない。
この指輪に、そして私の内側にこびりついた痛み、悲しみ、怒り、無念――それ以上に――屈辱が。
それらが、まるで共鳴して、私に言葉を与え続けているようだった。
「私は嫌だ。嫌なんだって今わかった。こんな世界には絶対に抵抗してやる。こんなの嫌だって、許せないって、私は、私たちは怒ってるんだぞって――今から、物凄い大声で、そう言ってくるから」
その言葉を最後に、私は怒りに燃えて指揮所を後にした。
◆
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