教師近藤とバス

 四十代の男性で、路線バスの運転手をしている中川基嗣は、充実した毎日を過ごしています。労働環境は良いとは言えないものの、幼い頃からなりたかった職業で仕事をできているからです。

 しかし、心が満たされるその運転中に、ほぼ唯一、不快になるときがありました。

 原因は、近藤です。

 近藤は通勤は電車を利用していますが、時折バスにも乗ります。彼が使う停留所は他に乗車する人がおらず一人の場合がほとんどなのですけれども、バスが来ると、彼は決まって右手を上げるのです。それはまるで、タクシーを止めるどころか、呼んだお抱え運転手に「私はここだ」と示す感じです。

 それゆえバスを走らせている基嗣は、「ふざけんじゃねえ。俺はあんたの部下じゃねえんだよ」という腹立たしい気持ちになるのです。

 ところがある日、そのとき乗っている客は近藤だけだったのですが、彼が下車する際に、何かあったのか、こう声をかけてきました。

「運転手さん、いつもありがとうございます。あなたの安全で快適な運転のおかげで、私は毎度バスの時間を満喫できております」

 そして深く頭を下げました。

「ああ……それはどうも」

 基嗣は驚きながら、おじぎを返しました。

 お年寄りには同様に感謝を口にしてくれる人がたまにいますが、中年の男性ではそれなりのドライバー歴になるなかで経験がなかったですし、あの乗車時の態度から、てっきり会社で同僚に嫌われたりしている横柄な奴だろうと思っていたのに。基嗣は簡単に人を判断するものじゃないと反省しました。

 けれども、それからしばらくして、停留所にまた一人で立っていた近藤は、変わらず「おう、ここだ、ここだ、マイドライバーよ。早く来たまえ」とでも言う感じで右手を掲げるのでした。

 それを目にした基嗣は心の中でつぶやきました。

 やっぱ、あいつ、ムカつくな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る