教師近藤と教育実習

 これは、今から何年も前の話です。奥津大河という男子大学生が、近藤が勤務している中学校に教育実習でやってきました。

 彼の担当教科は保健体育で、近藤と接する機会は少なかったですけれども、指導を受ける体育教師に「あの人は変わっているから気をつけて。それで、ああいうふうな態度でいいとは決して思わないように」などと言われていたので、最初からその存在をしっかり認識していました。

「冬場の楽しみは、チョコレートを筆頭に、イチゴ味のお菓子がたくさん販売されることなのですが」

 職員室で、近藤が別の教師相手にそうしゃべる声が聞こえてきて、大河は耳を澄ませました。

「そのなかに、甘酸っぱいものがあるのが許せないんです。甘いだけでいいんですよ、甘いだけで。それが大方の消費者の気持ちだと、なぜメーカーはわからんのですかなー、まったく。プンスカ、プンスカ」

 何がプンスカだ。教師が職員室で口にする内容じゃないし、いいおっさんがイチゴ味のお菓子、それも甘いほうがいいだなんて、そっちこそがまったくだよ。

 他の教師たちから聞いた、奇抜で奔放な近藤のエピソードに加え、そうした振る舞いを直に目にしてもいた大河は、近藤をすっかり軽蔑するようになっていました。

 そんなある日のことでした。

「わ、わかりました。頑張ります」

 指導してくれている体育教師が具合を悪くして学校を休んだために、もちろん何かあれば他の教師たちも手を差し伸べてはくれるでしょうが、基本的に後ろ楯のない状態で、大河が授業を行うことになったのです。

 彼は不安を感じやすく、動揺はかなりのものでしたけれども、すでに授業はやっていて無難にこなせていたので、そのときのことを思い浮かべて「大丈夫、大丈夫」と心に言い聞かせました。体育教師を志しているくらいなので運動は得意でずっと携わってきて、スポーツの世界で今や当たり前の存在のイメージトレーニングになじみがあり、ネガティブな性格ゆえ熱心に学んでいた甲斐あって、上手に良いイメージを喚起できて、だいぶ落ち着くことができました。

 ところがです。

「え?」

 朝の予報ではその日一日良い天気になると言っていたのに、雨がけっこうな勢いで降ってきました。

「うわ、どうしよう」

 予定では、授業は校庭で走り幅跳びをやることになっていました。立て続けの思わぬ出来事に、またしても気持ちがマイナスな方向に傾きました。

「奥津先生、大丈夫ですか?」

「え?」

 彼の困惑を素早く察知して声をかけてくれたのであろう人物が、それまでほとんど関わることがなく、人格に問題があって最も手本にしてはならないと思っていた、まさかの近藤で、大河は驚きました。

「雨が降ってきましたけれども、授業は」

 やはり心配してくれたようで、近藤はそう続けました。

「あ、何をするかはまだ決めていませんが、体育館で行いますので。どうも、わざわざご親切に」

 平静を装って答えると、近藤は表情をゆがめました。

「あれ? 体育館はたしか、三年生が学年集会で使うんじゃなかったかな」

「え? 本当ですか?」

「ちょっと待ってください」

 近藤は横を向いて、大きめの声を発しました。

「鵜久森先生ー、今日の二時間目、体育館は三年生が学年集会で使用しますよね?」

「はい」

 訊かれた教師はうなずきました。

「ほらね」

 大河は、騒ぐわけにはいかないですし、顔に出さないようにもしましたけれども、内心パニックになりました。

 えー! じゃ、じゃあ、教室で保健をやるしかないか。でも急に、ちゃんとはできないよ。どうしよー!

 とりあえず授業を行うクラスの生徒たちに体育の時間は着替えずに教室にいるよう伝え、職員室に戻り保健の教科書を開いて何をやるか考えましたが、焦りから目の前の文字がまったく頭に入ってきません。

 そうこうしているうちにあっという間に時は流れ、授業の開始時刻となりました。

「やばいっ、行かなきゃ」

 結局何も決まらないまま小走りで向かい、教室に足を踏み入れました。生徒たちは、何をやるのかわかっていないために、問うような表情で大河を凝視しています。とにかく何かしゃべらねばと、彼が声を出しかけたところ——。

「ちょっと待ったー!」

 そう口にして、後ろのドアを勢いよく開けて現れたのは、近藤でした。

「ど、どうされたんですか? 近藤先生」

「今日の授業で使う資料を、奥津先生、忘れていますぞ」

 は? 授業で使う資料? 何のこっちゃ。

 大河が心の中でつぶやき戸惑うなか、近藤は生徒たちが映像を見られようにセッティングをし、持ってきた教材らしきものを再生しました。

 そうして画面に映しだされたのは、近藤がどこだかおしゃれな室内で、本格的な的を目掛けてダーツをする姿でした。

 ダンディーを意識したのではないかと思われる、かっこつけた近藤が、一人でひたすらダーツをプレーする(そしてその合間合間には、はっきり何かはわからないけれど、高級そうなグラスで氷入りの炭酸飲料をキザに飲む。また、ダーツはたいしてうまくない)その動画は、近藤の行動に慣れっこな生徒たちにはどうということのないものでしたが、大河には衝撃でした。

 授業はその鑑賞で、無事に終わったのでした。


「近藤先生。先ほどは、どうもありがとうございました」

 授業後の職員室で、大河は本人の席に座っている近藤に大きく頭を下げ、心の底から感謝の言葉を述べました。

 彼が衝撃を受けたのは、動画のエキセントリックさよりも、自分を助けるためにあんな恥ずかしい姿をさらしてくれたという点に対してでした。単なるふざけた人だと思っていたのが、というより、単なるふざけた人だと思っていたからこそ反動で、大河の近藤を見る眼が一気に尊敬と言えるくらいまでになったのです。

「いいかね、きみが教師になったら、今回と同じようなピンチが幾度も訪れるだろうが、そのときには私は助けてあげることはできないのだから、常に最悪の事態にも対処できる準備はしておくのだよ」

 近藤は気取った態度でそうアドバイスをし、できる教師の雰囲気に酔いしれました。

「はい!」


 そして現在、晴れて体育教師になった大河は、近藤から授かった助言通り、不測の事態にも対応できるように、何を行うときにも、いつも準備は怠らずにやっています。おかげで大きなミスを犯すことはなく、優秀な先生であると同僚の教師や生徒の保護者たちの評価は上々です。

 しかし、彼はわかっていないのでした。あの映像を近藤自身は恥ずかしいなどとは一ミリも思っておらず、むしろ自分のかっこいいプレー模様を生徒に見せられて大満足していることに。また、そういう展開に持っていけそうだったゆえに、あんなにも大河に親切にしたことに。

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