終章

 成神の病室は三階にあった。そこは急ごしらえの入院病棟になっている。今まで入院患者がいた八階は、唯一の例外を除いて使用されていない。あれだけ血が流れ、命が失われたのだから無理もないことだった。

 御舟傑は、三階から八階に向かうため、階段に向かった。一段一段、ゆっくりと踏みしめながら、上へあがっていく。

 この事件において、警察と浮田利恵、泉屋若葉の意図していたことは、ほとんど一緒だった。すなわち――八年前に起きた『泣いた顔』事件の真相の隠蔽。

『泣いた顔』事件の犯人は、浮田日出美と御舟楓の親子である。

 といっても、共犯ではない。当初は日出美によるもので、彼の死も含めて、それ以降は楓の仕業である。

 警察は、動機は自警団的な活動、つまり裁かれていない犯罪者を私的に制裁していると見ていた。実際にそうであったようだが、さらにいえばそこにはサディスティックな欲望に悪人狩りという無理やりな正当性を包んでいるものだった。

 日出美は人を殺すのが好きで、楓もその性癖を受け継いでいた……らしい。

 殺人衝動、快楽殺人。そんな言葉はまやかしでしかないと、御舟は考えていたし、今もそう思っている。しかし、二人の犯行理由はそうとしか考えられなかった。

 もともと、この町には不審死がごくたまに起きていた。それは、日出美による定期的な衝動の発散だったにちがいない。

 だがそこに『正当性』を付与する方法を見つけた。弓削とのつながりでもできて、住民の暗部を知る立場に立つことができたからではないかと、御舟は見ている。

 そして、衝動が爆発した。ただ、日出美に誤算があるとしたら、楓も衝動を受け継いでおり、しかも発散する機会をいまだ得ていなかったところである。

 御舟は首を振った。

 楓とは何度も喧嘩をしたことがある。しかしただの一度も暴力を振るわれたことがない。本当に衝動を持っていたのか、夫の立場からは考えたくなかった。

 なんにせよ、日出美の犯行に気づいた楓が、実の父を殺し、拳銃を奪ったと考えられる。もしかすると、父の犯行を止めようとして、間違って命を奪ってしまったのかもしれない。事件は交番から署へ戻る途中で起きたところから、話し合いが当初の主目的だったと、御舟は思いたかった。

 とにかく、どこのタイミングかはわからないが、自らにも殺人に対する衝動があることを自覚した楓は、父に成り代わり、『泣いた顔』事件を続けた。

 そして、母である浮田利恵に気づかれた。

 利恵は加害者家族である。それゆえ、かなり辛酸な思いをしたという。警察官である日出美と結婚することでその重圧から逃れたはずなのに、また同じ立場になりそうだった。

 それはどうしても受け入れられなかった利恵は、実の娘を殺すことにした。

 おそらくかなり逡巡したであろうし、躊躇もしたであろう。

 結局、命を奪わずに済んだのは、その証左だろう。

 御舟は誰もいないのを確認してから、自嘲気味に鼻を鳴らした。

「誰しも身内の善性は信じたくなる」

 口にして、自分自身の善性をさほど信じていないことに気づいた。

『泣いた顔』事件は、御舟楓が意識不明になったことで、この時点では多くの人が真実を知らぬうちに終結した。

 妻が被害者になったと信じた御舟は、うすぼんやりしていた勤務態度を一変させ、苛烈な刑事になった。自分自身の変化に違和感はないが、あっさり刑事に転向できたのは、変だった。

 真相を探るうちに気づいたのだが、警察署の内部では、ほぼ真相にたどり着いていたのだ。しかし、表に出したときに降りかかる自分たちへの負の影響を恐怖し、意図的なのか無意識なのかわからないが、捜査は無限に引き延ばされていった。

 実のところ、犯人につながる物的な証拠は存在していないのだが、あえてそれを探ろうとする者はいなかったようだ。浮田家の家宅捜索は、やろうという声さえ出ていない。

 捜査が終わるのは、警察が対応策を立ててからにしたがっているのは明らかだった。かといって、都合のいい対応策など存在しない。

 だから、すべてを凍結させた。できる限り、人事さえもこの町の警察署は動かないようにした。いつか何かが起きるまでは。

 御舟が刑事になり、なおかつ『泣いた顔』事件に専念できたのは、彼が犯人の身内であり、真実を知ったとしても暴走の危険が少ないからだった。同時に、対外的に誰かが選任で当たる必要もあった。選択肢は、彼しかなかったと言えよう。

 実際、御舟も捜査を開始してからさほど経たずに、御舟楓の正体を知った。

 彼は妻を深く愛していた。昏睡状態にいる彼女に手錠をかけることさえできない。ただ、これは真実と向かい合うことを拒絶する精神の現われでもあった。

 署の上層部の意図通り、御舟傑もまた来たるべき時が来るまで沈黙を続けることにした。

 とはいえ、気にかかることもないではなかった。

 弓削正範である。町の助役――ざっくり言ってしまえば、町の黒幕である彼は、警察とは別に自らのために住民の情報を集めていた。しかも、特に犯罪する部分である。表ざたになっていない罪を知ることで、人々を操る材料にしているのだ。

 正直、御舟にはそこまですることもないように思える。長年助役をやっていたという立場と、強気で恫喝も辞さない上に、大地主相澤一郎とも近しい関係を駆使すれば、この町でできないことはないだろう。それこそ、町長の首をすげかえることさえ自由自在だ。

 だから、これは弓削の歪んだ情熱の発露ととらえる他ない。彼は住民の暗部を独自に収集することに執着しているのだ。

 だが、なぜか『泣いた顔』事件の犯人はわからなかったようだ。警察にも知り合いがいる彼がそこにたどり着けなかった理由は定かではない。結果から類推するなら、警察は口が固く、住民は何も知らなかったのだろう。さらにいえば、警察にとって弓削は身内ではなかった。当たり前の事実だが、福島のような八方美人な人間がいてもなお、そうした扱いをしていたことに、御舟は妙に感心した。

 弓削の執着心は、時とともに膨らみ続けていた。

 ――そんな状況の中で、相澤一郎殺害事件が起きた。

 事件そのものは、たいしたことがなかった。長年にわたり住民の情報を集めていた警察と御舟にとって、犯人は考えるまでもない。

 しかし、警察が動くよりも早く、顧問弁護士の鳥飼が名探偵とやらを呼んでしまった。おまけに、探偵の助手は楓の弟である。

 鳥飼の心情はわからない。相澤一郎への忠誠心なのか、それとも警察への不信感なのか。今となってはどうでもいい。

 それはさておき。

 楓の弟、浮田紘一は、『泣いた顔』事件のあと、すぐに東京の大学に行ってしまった。さらに、昏睡状態にある姉の姿がきつかったのか、実家には一切寄りつかない。そのため、身内でありながら『泣いた顔』事件の真相に気づけなかった。

 母親である利恵は気づいていたというのに。

 それが、紘一を死なせる理由にもなった。

 利恵は、息子の帰還以上に、名探偵の来訪に驚いたことだろう。『泣いた顔』事件にも興味を示すかもしれない。そうしたら、娘の罪が暴かれてしまう。利己的なことを言えば、再び自分が加害者家族になってしまう。

 どうすればいいか?

 ――自分が『泣いた顔』事件の犯人になればいい。

 要は身代わりだった。しかも、楓の昏睡状態は最高のアリバイになる。

 加害者家族ではなく、加害者のほうがいいと考えるところに、利恵もまたどこか狂っている。それだけ、自分に罪がないことで糾弾されることがつらかったのだろう。

 問題は、利恵が高齢の女性で非力であることだ。一人で殺せるのは、老人か子供だろう。被害者に偏りがあっては、『泣いた顔』事件の犯人ではない。

 ただ、協力者は割合早く見つかった。

 それが、楓を看護する泉屋若葉だ。彼女は楓の正体に薄々勘づいていたようだ。利恵も知っていることにも気づいた。そんな中で生まれたのが、殺人者だと知りつつも我が子を献身的に世話をする利恵への同情だった。同情はほぼ愛情に変わったと言ってもいい。

 ともに楓を看護するうちに、二人は同志のような存在になっていたのである。

 ゆえに、利恵が犯行を決意したとき、若葉は共犯者となることに決めた。

 御舟は階段の踊り場で立ち止まる。利恵の犯行を頭の中で一から整理しているが、想像以上にしんどい作業だった。けれど、やめるわけにもいかない。

 改めて最後まで犯行をたどらない限り、楓と対峙できないような気がするからだ。

 このまま病室に向かったら、事件を整理しきる前にたどりついてしまう。御舟はそれを言い訳にして、途中の階で自販機を探してコーヒーを買った。こいつを飲みながら、ゆっくり考えていこう。そんなふうに、自分を許した。

 苦いコーヒーを口に含みつつ、利恵の最初の殺人、曾根葉月殺しのことを考える。

『泣いた顔』事件の復活を告げるこの殺人は、相澤一郎殺害犯が被害者になるというものだった。わざわざ彼女をターゲットにした理由は――名探偵、成神尊へのアピールである。事実、「被害者家族」の紘一がいたおかげもあり、成神は事件の捜査に乗り出した。

 目的は成功しているが、犯人特定には大きな障害にもなってしまった。

 曾根葉月が相澤一郎を殺したことを知る者が、非常に限られるからだ。それでも、成神を『泣いた顔』事件に関わらせるためは必要だと利恵は判断したのだろう。ただ、そのせいで、彼の真相究明も長い時間を必要することとなった。

 どこで利恵は真犯人を知ったか。御舟の中に答えは出ている。

 情報提供者は、福島だ。ただ、この段階でなんらかの悪意が可能性はない。かつての同僚の妻である利恵に対して、どうも口が軽いところがあったのだ――もちろん、『泣いた顔』事件の真相以外は。いや、それを隠すために、他の部分を漏らした可能性もある。利恵たちがすでに気づいていることは、当然ながら思いつきもしていない。もしくはもっと即物的に、彼がずっと独身であることと関係があるのかもしれない。

 ともかく、利恵はそうやって曾根葉月のことを知り、殺害した。殺害方法に工夫はない。後をつけ、人気のないところで刺しただけだった。

 ただし、二人の犯行は成神だけでなく、御舟たち警察関係者をも大きく動揺させた。警察は『泣いた顔』事件の真相を解明し終えていた。にもかかわらず、犯行現場に『泣いた顔』の絵を置いていく殺人が起きた。これは何か、意味がわからなかった。

 おまけに、のちに弓削正範の犯行とわかったが、模倣犯による隣町での里見茂殺害事件まで発生する。

 こちらが、明確に模倣犯による挑発とわかった分、曾根葉月の殺害をどう解釈していいのか、警察は混乱した。そして、捜査は迷走を始める。

 成神の目には相当な愚か者の集団に映ったことだろう。そう思われてもしようがないほど、現場はしっちゃかめっちゃかだった。

 浮田はそのときのことを思い出し、薄く笑う。

 とにかく、あの頃の弓削は厄介だった。独自で『泣いた顔』事件を追うために、成神を雇ってさえ見せた。すべては自分のコントロール下に置きたいという意志だ。

 あれほどの権力者だったのに、警察が八年前の真相をつかんでいることを知らなかったための行動だった。そして、それゆえに死んだ。

 利恵と泉屋は、自分たちが『泣いた顔』事件の犯人だと主張するために、次に醍醐祥を狙撃した。死んでもいいし、死ななくてもよかったにちがいない。重要なのは、日出美が殺害されたときに紛失した拳銃から発射された弾丸を警察に回収させることだ。今事件を起こしている人間が、あの拳銃を持っている。つまり、『泣いた顔』事件の犯人である――そう思わせたかったのだ。

 拳銃そのものは、楓が持ち去ったものにちがいない。明確な理由は不明だが、何かに使えると考えたのではないだろうか。

 その後、弓削を殺した。

 これは、利恵と泉屋の二人と、弓削のどちらが先に相手の正体に気づくかの戦いで、利恵たちが勝利したことを示している。紘一から成神の見立てでも聞いたのか、警察の動きから推察したのか。いずれにしても、彼女らは里見茂殺害犯だけを追えばよかった。条件は成神よりも、警察よりも有利だった。

 ただ、条件は弓削も同じだったはず。組織力も桁違いだ。なぜ敗れたのだろうか。

 これについては、弓削は自分で動くことよりも、他人を動かすことに長けていた。成神に依頼した時点で、調査をやめ、彼や警察からの情報収集をメインにしてしまったのではないか、と御舟は考えている。

 本人はそれが動いているつもりだったようだが、彼の唯一にして大きな心得違いは、警察がにぎっている情報をすべて渡していると思ったことだ。実際には、警察は自らの身を守るために、町の権力者である弓削に決定的な情報を渡さなかった。渡した途端、生殺与奪の権利が弓削に移るのが間違いなかったからだ。

 そういう意味では、弓削は事件調査に乗り出すには力はありすぎた。しかも、実生活は普通すぎた。一般人と同じ生き方をしていると、暗殺にはめっぽう弱い。

 利恵と泉屋が訪ねれば、弓削は素直にドアを開けただろう。なにせ、事件関係者である。何か重大な情報を警察に先駆けて話に来たのかもしれない。そう思ってもいいほど――何度も繰り返すが――彼は自他ともに認める権力者だった。

 二人なら、息子がいない、一人でいる時間に弓削を殺すことも可能だ。ついでに、八年前の凶器を置いていくことで、『泣いた顔』事件の犯人であるアピールも行える。家に転がっていたものを持ってきたのだろう。楽な話だ。だが、不測の事態が起きた。

 紘一が真相に気づいた。いや、おそらく利恵にそう思わせる言動があった程度だろう。紘一自身がたどり着いていた気がしない。彼はそういった部分をすべて成神に担わせていた。だから、無意識に真相に近いことを口にしたにちがいない。成神が助手にするだけあって、みなが取りこぼしてしまう真実への道筋に意識せずに触れてしまうタイプなのだ。

 そして、利恵と泉屋は紘一を殺害することにした。紘一は利恵の実の子供だ。図らずもそれが、彼女が犯人であると気づかれにくくするカモフラージュになった。

 利恵が実の子を殺すには、きちんとした理由がある。楓のときと同じロジックだ。

 彼女は加害者家族で、そのことで地獄を見た。地獄から抜け出す機会を作ったのは日出美だが、結果としては彼女に違う地獄に案内しただけなのは、皮肉な話だった。

 とにかく、自分以外家族全員が人殺しだと世間に知られたとき、紘一が味わう苦痛は筆舌に尽くしがたい。――生きているよりも、死んだほうがましなくらい。そう考えたにちがいない。いや、そう信じたにちがいない。

 ついでに、拳銃やナイフのように、何が残っているかわからない自宅は燃やしてしまうことにした。紘一も焼死させたほうがよかったように思うが、利恵と泉屋は万が一にも生き残ってしまっては困ると考えたようだ。手作りの棺桶に入れた状態で地中に埋め、窒息死させるという悪趣味極まりない方法で命を奪った。

 想像はしても、受け入れがたいことだった。理由があったとしても、実行に移すのは悪魔的と言ってもいい。これに関しては泉屋が主導した、と御舟は思いたかった。いくら説明がつくとはいえ、良心の呵責なく、しかも親切のつもりの子殺しなんて狂っている。

 ひとつだけ、利恵の心情を代弁するとしたら――

 彼女は最初から、事件の最後に死ぬつもりだった。おそらく、実際にそうなったように銃撃戦の果てに。逮捕されて真実を話すリスクを負うことなく、自分たちが八年前の『泣いた顔』事件から続いてきた一連の殺人の犯人としてこの世から消えることを願った。

 自分も死ぬから、紘一も死んでくれ。そういうことなのだろう。

 御舟が紘一の立場なら、とうてい首を縦に振れない理屈ではある。

 少しだけ笑ってしまうのだが、そんな利恵と泉屋にとって、成神尊という男は眼中になかった。よそものに何がわかるのか、と思っていたにちがいない。それに、紘一を失えば、情報収集もままならないと考えていたはずだ。

 とはいえ、これが成神が殺されなかった理由でもある。脅威でなければ、未届け人にさせることにしたのだろう。最後には余計な動きをしたために、泉屋が襲いかかってきたが。

 御舟傑という人間も同じだった。利恵は楓の意識があったころ、警官としてはぼんくらだった御舟しか知らない。好きなように泳がせても問題はないと判断したのだろう。

 とっくに楓の正体に気づいていると知っていたら、相澤一郎よりも早く殺されていたはずだった。生き残ったのがよかったのか、悪かったのか、正直御舟は決めきれていない。

 警察にとっては、紘一が殺されたのが転機になった。正確に言えば、紘一の死が、御舟の真相究明の転機になった。

 利恵のホームセンターの同僚で愛人でもある間宮悠。彼は、御舟の狗だった。もっとも、当人は自分が誰の指示で動いているか知らなかったろうが。

 楓が『泣いた顔』事件の犯人だと知った御舟は、利恵がいつかそのことに気づいてしまわないか、本気で心配した。実際は無駄な努力だったのだが、ゆえに利恵を生活をある程度コントロールしつつ、監視しようとした。

 気持ち悪い行為だと自覚しているが、夫を亡くした義母に愛人をあてがった。

 結婚詐欺を働いた間宮悠は、年齢的にも利恵とつり合い、なおかつ彼のテクニックで恋人関係になりやすいと、御舟は考えた。

 そこで、間宮に匿名の手紙を出し、周囲に前科をばらすと脅して、利恵と同じホームセンターで働くようにしむけ、傷をなめ合うような関係になるよう命じた。

 そして、人を使って監視を続けた。間宮のほうから状況を定期的に報告させることも考えたが、間宮のミスで義母に真実がばれるリスクを持っていたくなかった。もし台なしになるのなら、御舟自身の責任でありたかった。

 とはいえ、間宮の忠誠心は信じていなかったので、毎月五万円を彼の口座に振り込んでいる。間宮は、自分に関心を持つ変態がいる、とでも思っているのではないだろうか。

 成神と訪問したときに、

「あー……一度だけ。彼女、利恵さんがうちに泊まった翌日、ポストに封筒が入っていました。中には一言、『指示があるまで、この生活を維持しろ』と」

 と、間宮は言ったが、これはもし誰かに質問されたときのために、御舟が用意したものだった。御舟も、まさか直接この嘘を聞くことになるとは思わなかった。

 また、紘一が死んだ日、利恵は間宮の家にいたというが、それは正確ではない。

 監視の報告によれば、彼女が来たのは明け方のことだった。

 ゆるいアリバイ工作だが、いつかはあばいてもらう必要があったため、利恵はこの程度の強度にしたのだろう。

 しかし、彼女の想定よりも早く、真実にたどり着くことになった。

 きちんとしたアリバイがない上に、自宅が燃えている。彼女がもっとも怪しいのは間違いない。実子の死は、動機の説明しづらさにはなっても、潔白の証明にはならない。

 実際のところ、御舟はなんのためらいもなく、利恵を犯人だと確信した。

 それは、捜査会議の中で発表もしている。周囲は御舟の見立てゆえに信じたが、残念ながら逮捕するだけの証拠は提示できなかった。間宮に関することは、警察の仲間にも秘密にせざるをえなかった。さすがに知られれば、御舟は排除されるだろう。

 だから、犯人はわかっても、追い詰めるためにはまだまだ時間と手順を必要とした。もどかしさで、身体が引き裂かれそうなほどに。

 ただ、成神に間宮をあわせたのは、単なる気まぐれだった。

 成神のあまりの嘆きよう、憔悴ぶり。親友、仕事の相棒――彼にとって紘一はそれ以上の存在に見えた。本人がどこまで自覚しているのかわからないが、実際そうだったのだろう。それを見て、ふと連れていってみようと思ったにすぎない。

 彼は彼で真相究明に奔走したようだが、別れ際の反応を見ると、彼を不幸にしただけだったのかもしれない。

 ――まあ、人の心配をしている場合じゃないんだがな。

 またも、御舟は自嘲する。

 不幸と言えば、小松原勲だ。小松原は最初から死ぬつもりだったのは間違いない。おそらくは県警の意向も入っているはずだ。きっと捜査会議で御舟が利恵が犯人だと告げたことが、県警にも伝わったのだ――所轄がついに馬鹿げた妄想を始めたとして。

 彼らは彼らで、いつまでも所轄に任せるつもりはなかった。強引な手法でも、事件を終わらせる人材として、小松原を送り込んだ。

 彼の違法とも言える捜査が黙認されてきたのは、いつか警察の不祥事を隠蔽するときに詰め腹を切らせるためだったのではないか。御舟にはそうとしか思えない。小松原がそれを了承していたことが驚きだが、彼には彼の事情があったのだろう。調べればわかるかもしれないものの、今さらの話だった。

 事情を知らない御舟とは暴力をともなう形で対立してしまう。

 なんにせよ、小松原の存在が事件を大きく進めたのは確かだ。

 利恵と泉屋はすべてを終わらせる準備を始めた。

 自分たちが大量殺戮を行うことで、八年前の事件も犯人だと思わせる。しかも、二人とも死ぬことで、真実を闇に葬る。

 どの段階かはわからないが、利恵は醍醐の銃撃に使用した拳銃を、鳥飼の事務所に置いた。あの来るもの拒まずの事務所に何かを隠しに行くのは、決して難しいことではない。タイミング次第でいつでもいける。

 そこに弓削の息子がいるのを知ってのことなのは確かだ。息子のことを、弓削を殺害したときに知ったのか、福島が流したのかはわからない。ただ、後者の場合は、福島は深く考えずに町のゴシップくらいの感覚で利恵に伝えたのだろう。

 福島が事件を陰で操っていた可能性はない。そんな意図があれば、八年前にもっとうまくやれた。彼は当時からその立場にいたのだ。あれは本当に、利恵に親しみを感じて会いに行っていた。彼も今は、失意の中にいるだろう。下手をすると、自分にまったく関係のない問題として嘆いているかもしれない。それはそれで滑稽な話だった。

 似たような立場の御舟としては、身につまされもする。

 とにかく、弓削の息子は拳銃を素直に警察に届けた。彼にしてみれば、持っていても余計な嫌疑がかけられるだけだから、当然のことである。

 小松原が、それに過剰に飛びついた。鳥飼を締め上げ、御舟や成神をもいたぶった。弓削の息子にも疑いの目を向けた。だが、彼の行為は無駄に終わる。

 それはそうだ。拳銃を置いた動機は、時間稼ぎだからだ。

 小松原は利恵と泉屋の企みに、まんまと引っかかったのである。しかし、もしこのとき御舟に主導権があったとしても、何かできたとは思えない。ひたすら出方を待っていた、今となっては怠惰にもほどがある時間の使い方をしていたのだから。

 ただ、困っていたのは利恵と泉屋も同じだった。時間稼ぎが必要なのも理由がある。

 最後の大暴れには武器が足りない、と。刃物類はともかく、銃はほとんどない。『泣いた顔』事件で拳銃に関係するのは二件。ひとつは、当人の拳銃が奪われた浮田日出美の件。そしてもうひとつは、三人目の犠牲者である目黒大貴の件だ。こちらは彼が拳銃から発射されたと思われる銃弾で命を失っている。

 この凶器の出どころは、一番目と二番目の犠牲者である植田竜馬と林正治が暴力団員であったことから、どちらの所有物を強奪したと考えられている。なお、こちらは醍醐祥の殺害に使われたものであることが判明した。

 いずれにせよ、利恵と泉屋には銃が必要だった。なお、浮田日出美の拳銃は予備の弾丸などなかった。醍醐祥を銃撃したときに使い果たされている。暴力団員から奪ったほうも事情は同じであろう。だからこそ、使い捨てたのだ。

 しかし、そこまでして銃を入手する必要があったのか? 御舟は二人の行動をどう解釈すべきか悩んだ。結論が出ないことではあるが、自分なりの仮説はある。

 醍醐祥の銃撃で、影響力の強さを知ったのではないか。マスコミに大きく報道されたわけではない。世間に対する影響力ではさしたるものではないが、警察署内は大騒ぎだった。それは、浮田日出美の拳銃の存在が表に出てきたからだが、二人は福島から『大騒ぎ』の部分を違う形で強調されてしまったのかもしれない。

 御舟は首を振った。無駄な想像だった。福島に確かめるつもりもない。これ以上考えたところで、意味はない。

 同時に、相澤一郎が大量の猟銃を持っていたことを、利恵と泉屋がどうやって知ったのかもわからない。とはいえ、こちらは福島だけでなく、様々なルートから情報が入ってくる可能性がある。あの別宅に保管してあることも同じだ。

 青雲町には、他に猟銃を所持している人間は何人かいる。だが、あそこまで大量に持っていて、しかも知名度がある者はいない。猟銃を盗もうと考えたときに、最初に選択肢に入るのが相澤一郎であった。

 そこで、一度狙われて難を逃れたはずの醍醐祥が、再度標的となった。

 彼は相澤一郎に残された唯一の相続人で、つまり別宅の鍵を持っているであろう人物だった。都合のいいことに、利恵と泉屋はすでに彼の詳細な情報を持っている。

 おまけに、殺害をすることで『泣いた顔』事件の自警的殺人だとミスリードも可能である。事実、御舟も成神もその線で考え続けていた。

 ただし、その考えはまったくの的外れだったわけではない。対策として、醍醐祥に監視をつけておくのは有効だった。非合法に武器を入手しようと青雲町を出たのも、行動としては悪くなかった。

 問題は、戻ってくることを止めなかったこと。そして、小松原に情報を流して判断を委ねたこと。つまり、御舟傑のやったことだった。

 御舟は醍醐祥が死ぬのは、仕方のないことだと考えていた。すべてが終わった今、この考えもずいぶんとクレイジーなものだと思う。それでも、あの当時は事件解決にはそれしかなかったのだ。もちろん、利恵と泉屋が猟銃を大量の弾薬を手に入れて大量殺人を計画していると知っていれば、こんなやり方は決して取らなかった。

 御舟が身体をぶるっと震わせる。

 結果、醍醐だけでなく、病院の入院患者と見舞客八人が死んだ。小松原が自殺し、成神も頭部を負傷し探偵を辞めると言っていた。

 成神を待ち伏せて襲撃し、醍醐の死体の横に置いたのも、おそらく単なる時間稼ぎのためだろう。手間はかかっているが、実にくだらない理由だった。少なくとも、人を傷つけていいようなものではない。

 ――嘘をつかないでもらえますか?

 ふいに、成神尊の声が聞こえた気がした。御舟は口元をゆがめる。さすが名探偵。わかってらっしゃる。理恵と泉屋が醍醐を殺すためには、情報が足りなかった。醍醐がどこにいるのか、何を知っているのか。醍醐にも餌を撒く必要がある。だから、御舟は動いた。

 小松原に主導権を奪われて焦っていたのもあるし、どうせなら自身の手で事件の終わりを見届けたくもあったのだ。

 醍醐が死ねば、利恵がやるべきことは終わる。もしかしたら自首してくれるのではないか、と甘い考えを抱いていたのもある。身内びいきだったのか、人間の心理というものをまるでわかっていなかったのか。おそらくはそのどちらもだろう。

 御舟は小松原には何も言わず、東京にいる醍醐と接触した。もとより彼も戻ってくるつもりだったらしく、話はスムーズに進んだ。

 とはいえ、こちらが要求を出したために対価を要求された。真犯人の情報である。伝えれば利用される。主導権が彼に移りかねない。

 それでも、御舟は伝えることにした。ジャーナリストである醍醐は利用する準備が整うまえ他人に明かさないことを、半ば確信していたからだ。

 これで醍醐のほうは大丈夫。次は利恵のほうだ。

 だから、楓の見舞いの際に、醍醐が戻ってくることをにおわせた。

 少なくとも、警官の妻で、ここが地元の利恵は、醍醐が相澤一郎の子供であることを知っている。戻ってくるときの滞在場所もある程度絞ることができるだろう。仕掛けることはわけない話だ。

 浮田も自覚している。

 ――醍醐祥を死に追いやったのは、自分だ。

 成神も気づいていたのだろう、病室で最後に見せた嫌悪の表情は、そういうことにちがいない。

 利恵と泉屋は、浮田の思惑通り、醍醐を殺した。醍醐は自分が勝てると思っていた。きっと準備もしていたはずだ。しかし、利恵と泉屋のほうが、動きが早かったのだと思う。まさか御舟が情報を犯人にも流すとは思わなかったにちがいない。

 それにしたって、利恵と泉屋のどちらかはわからないが、銃の腕がよかった。醍醐の額に一発。あれを狙ったところでの奇襲ならば、どうやっても醍醐に勝ち目はなかった。

 二人は、醍醐を殺すだけでなく、成神を誘拐し、醍醐の死体の隣に置いた。おまけに、小松原を名指しで呼び出した。

 理由がわからなかったが、こうして思い返すうちに、なんとなく想像がついた。

 猟銃が手に入ったことで、事件を終わらせる準備は整った。その結末を一刻も早く実現したかった。ゆえに成神と小松原にたとえ極端な方法でも、急いで醍醐の死を教えたかったのだ。

 御舟に関しては、伝えるまでもない。醍醐の帰郷をにおわせた段階で、彼が真相を知っていることを悟られたのである。

 成神と小松原、そして御舟は、見届け人に選ばれた。見届ける者がいなければ、利恵たちの望む真相にならない可能性がある。

 ただし、二人が来る前に病院での虐殺は始まった。

 引き金は、やはり御舟傑自身だった。

 あの日、小松原に殴られて、当たりどころが悪かったのか、骨折したような――結果、してなかったが――痛みに襲われ、病院に行ってしまった。他の病院にすることもできたのだが、行きなれたところだし、診察後に楓に会おうと思った。

 そして、いつもは訪れない時間に楓の病室を開けると、入手した猟銃と弾丸をチェックしている利恵と泉屋がいた。動揺した二人は、御舟に銃を向け、不本意なタイミングによる銃撃戦を始めた。御舟もなんとかその場を逃れて応戦を開始し、やがて小松原が来る。そんな流れだった。

 猟銃はすべてライフル銃だった。散弾銃が入っていれば、御舟と成神も命を落としていただろう。どちらが幸運だったかは、今の御舟には判断できなかったが。

 あれだけ派手に人を殺せば、『泣いた顔』事件の犯人だと疑う者はいなくなるだろう。そもそも、八年前の事件などどうでもよくなってしまうくらい、悲惨な事件だ。

 病院は動けない人が多いのもそうだが、立てこもりも比較的しやすいように思う。拳銃を持って立てこもれば、自殺しなくても射殺してもらえると考えたのかもしれない。

 御舟は首を振った。考えすぎだ。

 警察は、結果として利恵たちの案にのった。事実を公表したら、自分たちの不祥事も大量に暴かれる。事件は終わったのに、余計なことをする必要はない。それが、署も含めた県警の判断だった。

「ふう」と、御舟は大きく息を吐いた。

 事件は終わった。事件は終わった? いや、事件は終わっていない。

 成神は御舟を犯罪者だと糾弾し、事件の始末をつけるよう命じた。彼は自分の罪を自覚し、探偵をやめると言った。その決意を知った以上、御舟も逃げるわけにはいかない。

 御舟は歩みを再開した。もう迷わない。急がず、しかし緩めず階段をのぼり、八階へ行くと、黄色い規制テープがあちこちに張られている廊下を抜け、楓の病室の前に立った。

 ノブに手をかける。回そうとしたが、部屋の中から音が聞こえることに気づいた。誰かがいるのだろうか? 耳をひそめ、しばらくその音に集中する。

 会話ではなく、音楽が流れている。

 シューマンのピアノ協奏曲。妻の好きな曲だ。

 新しい看護師が気をきかせてくれたのか? しかし、利恵も泉屋もいないのに、誰から妻の好みを聞いたのか?

 御舟は、曲の邪魔をしないよう、ノブを静かに回し、そっと扉を開けた。

 予想に反し、病室には最愛の妻しかいなかった。だが――

「あら、あなた、久しぶりね」

 長い間使われていなかった声帯は、確かに彼女のものに間違いはなかったが、年齢以上に嗄れていた。上半身を起こした姿は、頬のこけも目立ち、寝ている状態よりもやつれているのが強調されている。

「楓――」

「ねえ、私がこうなってから、何年経ったの?」

「八年だ」

 御舟は、自分の心臓がかつてなく早鐘を打っていることを自覚しつつ、続けた

「どうして自分が入院したのか、気づいているか?」

 声は震えていた。しばらくして、楓は弱々しく笑う。

「全部ばれちゃったみたいね」

 刑事として優秀だった彼女だ。夫の様子で察したのだろう。

「ああ」

 御舟は、今度はどうにか絞り出した。

「お母さんと、紘一は?」

「……死んだよ」

「ふうん」

 楓はどうでもよさそうだった。八年前の彼女がどうだったのか思い出せない。もともとこんな人間だったのかもしれない。

「それで、私をどうするつもり?」

「俺、刑事になったんだ」

「でも、私の夫でもあるよね」

 御舟の脳裏に、かつての楓の面影がちらついた。

 成神は最後に『僕が真実の端緒をつかんだのは、最初に御舟さんの部屋に入ったときです』と言った。御舟の家には、ベッドがひとつ、食卓は小さく、そこにある椅子もひとつ――しかない。つまり、一人で暮らすことを前提としていた。

 妻がこの家に戻ってくると、御舟が考えていないのを察したのだ。昏睡状態にあるだけなら、可能性は低くても、元の生活に戻れるかもしれない。これだけ愛しているのだから、なおさらそんな希望にすがるはず。だから、理由は他にある。

 そのとき、成神は八年前の事件の犯人と一緒に、御舟がそれを知っていながら黙っていることにも気づいたのだ。

 醍醐祥だけではない、浮田紘一、弓削正範、曾根葉月、里見茂、小松原勲、病院で命を奪われた八人の人々、彼らの死にも、御舟は責任がある。少なくとも、彼はそう考える。

 真実と向き合う覚悟がなかったばかりに、多くの人が死んだ。

 みんながみんな、同じような目的を持っていたのに、立場の違いと後ろ暗さから行き違い、こんなみじめで陰惨な茶番劇になってしまった。

 成神は御舟に、本当の事件の幕引きを託した。

 ――そうだ。いつか俺の視点でこの事件を書き、そいつをあの元名探偵に送ってやろう。紘一の視点とあわせて、いい感じにまとめてくれるはずだ。

 御舟は目を閉じ、すぐに開ける。その様子に、楓が小さく笑った。

「楓、俺はどうするか、もう決めているよ」

「うん、早く教えて」

 御舟は楓に近づいた。夫は笑っていない。けれど、妻は微笑んでいた。

 永遠に。

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探偵は友を弔う どんより堂 @donyoridou

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