第二部 成神尊 8-3
目を覚ましたら、病院のベッドだった。個室で、誰もいない。もう血のにおいはしなかった。僕の脇腹以外は。服装も入院着で、もともと来ていたものはどこにあるかわからない。捨てられていなければ、まだ洗濯でもしてくれているということになり、意識をなくしてからさほど時間が経っていないことになるだろう。脇腹の痛みからも、そんな気がした。まだまだものすごく痛い。ナースコールをする。
来たのは、看護師でも医師でもなく、刑事の御舟傑だった。予感はしていた。
「よう、元気そうだな」
何事もなかったような顔をしている。その態度に心底怒りを覚えるが、表に出す理由ももうないので、ぐっとこらえた。
「事件は、終わったんですね」
御舟が答える代わりに新聞を差し出した。地方紙のようだ。受け取って社会欄を見る。
この病院で浮田利恵と泉屋若葉が入院患者とその見舞客を襲い八名を死亡させた、とある。二人は鎮圧にあたった警察官、小松原勲により射殺されたが、彼も銃弾を受けて死亡した……そうだ。さらに、犯人の二人はこの町で起きている一連の殺人事件にも関係しているとみて、警察は捜査を進めているのだとか。
八年前の『泣いた顔』事件に関しては、一切言及されていなかった。ただ、これを読んでいる人間は、そちらもこの二人による犯行と考えたとしてもおかしくはない。そうなるように書いているのだろう。
「なるほど、事件解決ってわけですね」
「これで町も平和になる」
そこになんのてらいもなく、御舟はうなずいてみせた。
「最初から、これが警察の狙いだったんですね」
言うつもりはなかった。僕の出る幕などとっくにないのだから、怪我を治して素直に町を出るつもりだった。しかし、怒りは僕の固い口を緩めてしまった。いや、噴き出したというのだろう。御舟は何も言わない分、僕が喋る。
「小さな町の事件です。人間関係もそれなりに濃密な世界で、真相を何年も隠し通すことなんてできません。証拠なんかはなくても、何人かは少なくとも察していたんですよね」
僕は少し唇を噛んだ。
「だから、今回の件は事件ではなく陰謀でした。必要なのは真相を解明する探偵ではなく、誰かが望む結末になるよう秘密裏に動く工作員であり、それを疑いなく見届ける証人でした。特に証人に関しては、犯人側だけでなく、警察側も必要としていた。動きからすると、確かにそうとしか考えられないのですが、しかしながら警察が証人を求めた理由が僕にはわかりません。この新聞のように、都合のいい情報だけを流せばいいんですから。特に証人――つまり僕に真相をわざわざ見せた理由がわかりません。僕が黙っているとは思っていませんよね?」
御舟は当初、床をじっと見ていたが、やがてため息をつくと、顔をあげて僕を正面からとらえた。
「我々の良心、とでも思ってくれ。おまえの言う『証人』を外部の人間に求めたのは、その証しだ。なんだかんだ言って、いつかは誰かが真相をきちんと見つけられるようにしたい。我々は警察組織だからな」
「でも、陰謀を主導した。ある意味、犯人たちよりも罪深いでしょう」
「そのとおりだ。そこは都合のいい話で恐縮だが、真相が明らかになってほしいのは、今回の件に関わった者全員が地上から消えてからだ」
「本当に虫のいい話ですね」
「八年。悪いことをたくらむのにも、良心が芽生えるのにも、十分すぎる時間だったのかもな。真相を生のままで世間に出したら、町の人間は誰も得をしない。警察署は総入れ替えになるし、悪評から町に来る人間はいなくなる」
後者はとってつけたものだろう。事件があっただけで、忌避する人はいる。けれど、僕は一度開いた御舟の口を妨げるようなことはしなかった。これは、御舟傑の懺悔だ。ただし、不完全で不誠実な懺悔だった。でも、しないよりははるかにましだと思う。
「できる限り世間に忘れてもらうしかない。だから、こんなことをした」
懺悔は、急に終わってしまった。僕の想像以上に中途半端なものだった。それにも腹が立つが、今となっては僕が糾弾する資格はない。
「頼みがあります。住所を伝えますから、荷物はそこに送ってください。医者に確認する必要はありますが、僕は今日中にもここを出ていきますよ。まっすぐ家に帰りたい」
これ以上は語るつもりはなかった。でも、やはり一度声を出してしまうと、感情というものはどれだけ抑えても、言葉に変換されてしまう。
「こんな町からは、一秒でも早く離れたい。自分たちの都合のために、他人の命をもてあそぶ人間ばかりだ。責任を取った、いや、取らされたという側面もたぶんにあるでしょうが、まだ自分でけりをつけた小松原さんがまともに見えるくらいです」
「返す言葉もない」
さして傷ついた様子もなく、御舟は肩をすくめる。
「もうお互いに話すこともないでしょう。今後、会うこともないと思います。僕は探偵をやめます。どこかに就職活動でもして、ひっそりと生きていきますよ」
御舟が目を見開く。
「なぜだ?」
「これが、僕の責任の取り方です。意図しないとはいえ、陰謀に加担しました。大切なパートナーも含め、何人もの死を見過ごしました。こんなのが、名探偵でございますと人前に出てはいけないんです。だから、謎解きもしません」
「……残念だ」
「そりゃどうも」
彼が本心かどうかさえ、どうでもよかった。
「でもね、御舟さん。僕は記録を残しますよ、この事件のことを。表に出せないにしても、浮田紘一の手記として書きます。たとえ、あなたが反対してもね」
「いや、反対はしない」
御舟がぼつっとつぶやくと、会話が途切れた。僕たちに沈黙は必要ない。
「もう用はないんでしたら、出ていってください。事情聴取が必要なら呼んでください。でも、そんなことはないでしょうね。僕にまだ真実を語ってもらっては困りますからね」
御舟はあいまいに首を振った。事件が終わった以上、警察署での発言力も失われていのかもしれない。もう彼も警察にとっては用済みだ。
ある一点を除いて。それが、もっとも大事であるのに。
「ああ、そうだ。御舟さん、僕が事件をすべて見通せたのは、福島さんが風邪で数日仕事を休んだと聞いたときです。その数日とは、浮田くんが命を落とした日を挟んでいました。にもかかわらず、利恵さんと泉屋さんは、浮田くんの死因を知っていた」
「他の者が伝えた可能性がある」
「そんなわけがないのは、御舟さん自身がわかっているでしょう。捜査中の情報を簡単に流すはずがありません。被害者の身内とはいえ、誰が犯人かわからないのに」
御舟は反応しなかった。別にかまわない。僕は伝えるだけだ。
「最後にもう一つだけ」
「なんだ」
不快そうだが、興味は持ったようだ。それも、当然か。
「僕が真実の端緒をつかんだのは、最初に御舟さんの部屋に入ったときです。何が言いたいかわかりますね?」
「もちろんだ」
御舟は僕のそばを離れ、扉に向かいかける。数歩進んだところで、振り返った。
「……成神尊、いろいろとすまなかった」
御舟は深々と頭を下げた。
悲しみがこみあげてくる。もう何もかもが手遅れだった。
「……それはお互い様ですよ。こういう形で出会わなければ、友人になれたかもしれない。それがとても残念です」
僕はゆっくり息を吐いて、目を閉じる。足音のあと、扉が静かに閉まる音がした。
御舟もまた自らの果たすべき責任が何かを自覚したにちがいない。今までのことは、警察官としての責任に過ぎない。御舟傑としての責任を果たすのは、これからだ。
そして、その背中を押した僕もまた、新たな責任――いや、罪だろう、もはや――を背負うことになった。浮田紘一がいなくなった今、ひとりで背負っていくのだ。僕はこの孤独の中を、死ぬまで生きていかねばならない。目の前の闇が広がっていくようだ。
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