第二部 成神尊 8-1
目を覚ますと頭がひどく痛むことに気づいた。頭の痛みで目を覚ましたのかもしれない。横たわっている身体を起こせば、にじんでいた視界も徐々に開けてくる。
冷たく固いコンクリートに、鉄のにおい。いやな予感。
横に何かが見える。醍醐祥だった。
彼も横たわっている。土気色の顔で天井を見つめていた。
僕は苦しくて、わずかの間だけ、自分のために目を閉じる。
開けて再び、醍醐を見た。目と同様、口がぽかんと開いている。額には穴が。後頭部からは血がまだ流れていた。震える手で、彼の頬に触れてみる。ぬくもりに欠けている。よくできた人形のようだ。これで生きているとは、どうやっても言えない。
ここに至るまでに、何があったのだろうか? 困ったことに、僕のすぐそばに拳銃が落ちている。幸い触れてはいないが、どう考えても誤解される状況だ。
周囲を見回すも、ここがどこだかわからない。コンクリートで囲まれた部屋で、窓もないところから、おそらく地下室だろう。相澤一郎の邸宅は調査しているから、ここは別の場所だ。ただ、相澤一郎の関係するところであることは、部屋の壁を見れば推察できる。
壁に備え付けられたガンラックが四つある。相澤一郎は猟銃や散弾銃を持っていると話していた。ここに保管されていたに違いない。今は一丁もない。
元からなかった可能性もないではない。
でも僕は、犯人が拳銃と交換で持っていったと思う。動機は思いつかない。
醍醐祥には割に合わない取引だっただろう。今となっては文句も言えないわけだが。
もう少し調べようと立ち上がりかけたとき、金属製の扉がぎいと重々しく開いた。
助けか? それとも、醍醐を殺した人間が戻ってきたのか?
すぐに、苦虫を噛み潰したような顔をした小松原が、革靴をことさら響かせておりてくる。まだどちらかわからない。僕と、おそらく醍醐を見て、彼はぎょっとした。だが表情を戻し、僕を睨みつける。
「探偵が人を殺すなんて、笑い話にもならんぞ」
小松原がどちらか、判定できるわけがなかった。危機だ。
「僕は殺していない!」
小松原は何も聞いていないかのように部屋を見回したあと、すでに立ち上がっていた僕を上から下へと眺める。
「室内には二人。片方は生きていて、片方は死んでいる。生きているほうの手元には拳銃がある。この状況で、その生きているやつが犯人でない確率なんて、どれほどあるんだ?」
「あなたがここに入ってくるとき、鍵はかかっていなかったでしょう? 僕は気絶させられて、ここに連れてこられた。目が覚めたら、隣で醍醐さんが死んでいて、すぐそばに銃があった。僕は罠にかけられたんです!」
小松原が口の端をあげた。
「今時、こんなちゃちな罠があるもんか。それよりも、犯行現場から逃げそびれた犯人の言い訳と考えたほうが、はるかにスジが通る」
そもそも聞く気がないらしい。彼はにやついた顔で手錠を取り出した。しかし、素直に逮捕されていいものか。自信がない。小松原が事件に突然介入した、別の殺人鬼ということも十分にあり得る。そもそも、どうやってここに来たのか? なぜ一人なのか? どうして醍醐を助ける気がはなからないのか?
僕の逡巡をどう受け取ったのか知らないが、彼はスーツを広げ、脇につけたホルスターと拳銃を僕に見せつけた。
「変な真似をしたら、容赦なくいく」
まるで意味がわからない。野良犬に追いかけられるときだって、もっと犬の気持ちに寄り添える気がする。僕は両手をあげた。
「ここはどこです? どうやってここに? 一人で来たんですか?」
小松原は僕を後ろ手にして手錠をかけた。
「質問が多い」
彼は僕の手首をひねる。僕が痛みでうめくと、続いて背中を強く押された。歩けということか。腕力で勝てるわけもなく、理屈が通るわけもなく。仕方なく階段をあがり、彼が開けっぱなしにしていた扉を抜ける。
ここは、古い洋館だった。それも、第二次世界大戦の前、昭和初期のようなレトロさを感じさせる。……僕にこのあたりの知識はないので、あくまでも印象にすぎないのだが。
背中を殴られながら前に進むと、誰もいない玄関ホールに出た。
吹き抜けになっており、両側に階段がある。その階段そばに設置されたステンドグラス越しの赤や黄色や青といった不自然な光が、僕の気持ちをより一層不安にさせる。背中越しに外に出るよううながされたことが、自分でも驚くほど嬉しかった。
小松原に叩かれる前に、体当たりをするように玄関の扉を無理やり開ける。本来ならそんなもので開くことはない。屋敷の外に出てみれば、扉の取っ手を握るぶすくれた男がいたので、彼が開けてくれたようだ。僕の背後――つまり、小松原を見てうなずいた。
僕は小松原が一人で来たわけではなかったことに少し安堵する。彼は様々な蛮行をおこなっているが、まだ警察の枠内にとどまっているようだからだ。もちろん、そうでない場合もあり得るので、どう転んでも油断はできないのだが。
敷地も嘘みたいに広く、玄関先にまで覆面パトカーが乗り入れていた。運転席には、先ほどの小松原の部下と同じくらい不機嫌そうな男が、こちらはハンドルを握っている。
やはり押し込まれるように後部座席に乗れば、反対側には見知った顔がいた。
副署長の福島だ。普通はこんなところにいるような立場の人間ではない。
「御舟くんでなくて、すまないね」
僕はきっと面食らっていたのだろう。その顔を誤解した福島が、窓側に寄りながら言った。僕のほうは、小松原に突き飛ばされるように福島の隣へと座る。
小松原は僕を押しつぶしかねない勢いでパトカーに乗り込むと、汚い声でうめいた。どうもそれは日本語だったらしく、運転席の部下がうなずいて、車を発進させた。
扉の取っ手を握っていた警官は、そのままの姿勢で僕たちを見送っていた。
「なんですか、この状況は? 何がなんだかさっぱりわからないんですが」
福島に対するつもりだったのに、不快さをにじませてしまい、言葉にしている最中から後悔する。福島は僕の目を見て、困ったように笑う。それに対して返答しかけたとき、手錠をひねられ、呻きが口から漏れた。小松原だ。彼は前を向いたまま、その枷をいじくり僕をいたぶる。警察署に着くまで、僕はただただ苦痛の中にいた。
福島はずっと困ったような笑みを浮かべ、窓の外を眺めていた。
そして、見知った警察署の見知った取調室に乱暴に連れてこられた。もはや勝手知ったる我が家のようだが、胃がむかついて反吐が出そうになるほど腹が立つ。
憎悪を遠慮なくぶつけられる分、向かいに座る取調官が小松原だったらよかったのに、実際に座ったのは、福島だった。パトカーにいたときから、同じ表情をしている。
自分は今の状況を決して肯定するものではない、という顔をすることで、僕の恨みを買わないようにしているのではないだろうか。気弱な善人寄りの人間にありがちな行動だが、誰も彼もがそんな行動で矛を収めるとは考えないでほしい。
調書を取る人間がやってくる気配はない。結局、これも茶番だ。福島が口を開いた。
「君には申し訳ないと思っているよ」
何に対するものか、まるで不明なところが、僕の彼への評価を裏づけている。とはいえ、ここで福島を糾弾しても、意味がない。むしろ、マイナスでしかない――だからこそ、こういった人間はたちが悪いのだが。仕方なく僕は首を横に振った。
「福島さんのせいじゃありませんよ」
怒りで胃液が逆流しないか心配だった。うわべの言葉を最大限信じる福島は、僕の返答にほっとしたようだ。見るからに肩から力が抜けた。
「ですが、どうしてこうなったのか教えてください」
そのとき、開いているこの部屋の扉の向こうを、小松原に連れられた御舟が通りすぎた。薄ら笑いの小松原とは目があった。御舟は横目で僕を確認しただけで、無言でどこかへ消えていく。彼の顔は赤と青が入り混じり、おまけに各所がぼこぼこに腫れていた。小松原の仕業に違いない。二人の姿に息を呑んでいた福島も、僕に視線を戻した。
「そうだね、きっと話したほうがいいだろうね。小松原さんは、君と御舟くんが醍醐祥を殺したと見ている」
予期せぬ情報に、僕の頭脳が動きを止めた。
「どうして、そう考えるに至ったのでしょうか?」
問いを口にしてから、はっとした。福島が小松原と同様に僕まで疑っているとすれば、白々しい言い訳に聞こえるだろう。問題は、言い訳だと受け取られた場合、質問に答えてくれないかもしれないことで、そうなったら取調室に座らされた僕ではもう打つ手がなくなってしまう。しかし、それは杞憂だった。
「東京に戻った醍醐祥を呼び戻したのが、御舟くんだったからだよ」
けれど、僕にとって別の意味で最悪の返答だった。
小松原に任せるはずだった選択を、御舟自身がしていた。僕の覚悟が足りなかったためかもしれない。強烈な罪悪感に襲われた。
もしも、醍醐を殺したのが御舟だったとしたら、たとえ罪に問われなかったとしても、僕――成神尊は共犯者だ。少なくとも、僕は自分をそう規定する。
先ほどちらりと見かけた、顔面が怪物にみたいに変化した御舟の姿を思い出す。あの光景から読み取れることはほとんどない。わかるのは、小松原が無慈悲であったことだけだ。
「御舟さんは、なんと言っているんですか」
福島は頭を振った。
「今の君にそこまで教えるわけにはいかないよ」
柔和な物言いだが、彼に訴えかけるだけの材料が、今の僕にはない。
「成神さん、あなたがあの部屋にいた理由を聞かせてください」福島が腕の時計を確認して付け足す。「私が相手をできるうちに」
福島が取り調べをしていることが、せめてもの温情らしい。単なる脅しな気もするが、御舟の協力は得られない今、部外者の私には望外の幸運と受け止めたほうがよさそうだ。
「僕はしばらく前から、ホテルを引き払い、御舟さんの部屋に泊めてもらっていました。浮田くんのことを考えると一人で過ごしているのは危険だと思ったもので」
「御舟くんは、ここしばらく家に戻っていなかったと思うが」
問いではなく、純粋な疑問らしい。僕にとっては、糾弾にしか聞こえないが。彼の意図を取り違えては、深みにはまってしまう。あまり経験のない状況だが、とにかく冷静にいることを志向せねば。
「僕としても怖かったです。これでは、ホテルにいたほうがましだったかもしれません」
福島がうなずく。
「御舟くんは仕事熱心だからね。家に帰ることも忘れてしまっていたんだろう」
彼の疑問も霧散したらしい。ありがたいものの、拍子抜けしてしまう。親戚のおじさんと世間話をしている気分だ。ただ、これは僕の油断を誘う罠ということだってありうる。常に警戒を忘れるな。
「それで、御舟さんの家を出たところで、頭を殴られて気絶してしまいまして、目が覚めたら、醍醐さんの死体の隣にいたんです」
「つまり、何も知らないと?」
「そうです」
たいして意味がないと知りつつも、思わず声に力が入る。
「そうか」
福島がため息をついて、天井を見上げた。言葉の内包するものがまったくわからない。
「福島さん、醍醐さんのことを、なんでもいいので教えてもらえませんか」
御舟がだめなら、こちら……くらいの意図でしかないが、四方を塞がれた僕はあがくしかない。顔を戻した福島は、ひどく悲しそうに首を振った。
「さっきも言ったとおり、君に教えるわけにはいかない」
普段はびっくりするほど口が軽いのに、僕にはガードがやたら堅い。
「御舟さんのことはそうおっしゃっていましたが、醍醐さんならまだいいのかな、と」
つい、はははと愛想笑いまでつけくわえてしまう。まるで僕がまるっきりのバカのようだ。実際、なすすべのないまぬけであることは確かだが。こんな状況に陥った自分に腹が立つ。僕は紘一がいないと、だめなのだ。しかし、嘆いていられる時間はない。
「……ああ、そうだ。鳥飼さん、鳥飼さんはどうしたんですか?」
本当に単なる思いつきだった。でも、反応は悪くなかった。
福島は机に肘をつき、乗り出すように両のてのひらを合わせた。
「彼は昨日、釈放されたよ。疲労困憊しているが、身体に異常はない」
「拳銃が彼の事務所から発見されたということでしたが、それは解決したんですか? 少なくとも、鳥飼さんは無関係だったと?」
「これは、話してもいいだろう」と、一度、福島はもったいぶった。
「御舟くんが、小松原さんの誤解を解いてくれたんだ」
「誤解、ですか? 無実の証明とかではなく、誤解?」
「そうだ。単語の使い方は間違っていない。鳥飼を拘束に足る理由がなくなったんだよ。より強く犯行動機を持っている人間が現れたからね」
「誰ですか、それは」
「弓削の息子だ」
僕は眉をひそめた。事務所にいたオタクっぽい彼の容姿を思い出す。
「自分の父親を殺す動機があった……?」
「彼――弓削廉太郎は、弓削正範の実子ではなく、相澤一郎の庶子だった」
「げっ」と、反射的に下品な声を出してしまった。だが、気を取り直して質問する。
「自分が実子でなかったというだけで、自分を育てた人間を殺すでしょうか?」
福島は心底うんざりしたような顔をする。
「金だよ。相澤一郎の子供であったなら、今回の事件で少なくとも醍醐祥と遺産を分け合うことができた。さらに言えば、今なら独り占めできる」
もし真実だとすれば、ずいぶんと情のない話である。だが、ありえないことではない。ただ、そうはいってもシンプルすぎる気がする。
「廉太郎さんは、自分の出自をいつから知っていたんですか?」
「御舟くんによれば、鳥飼の事務所で働くようになってから、ひそかにDNA検査をしたそうだ。そこで、弓削正範との親子関係が否定され、相澤一郎の子であることがはっきりした。『もしかしたら、そうなのではないか?』とは、もっと以前から思っていたはず、と御舟くんは話していた」
「なぜですか?」
「君も鳥飼の事務所に行ったことがあると思うが、人が要るほど忙しい職場ではない。そんなところに働くきっかけは、もちろん弓削正範のコネだが、コネならもっと他のところでも使える。だから、なぜ自分は鳥飼のところなのか、よく考えた」
私もピンときたので、つい口が動いた。
「弓削正範さんにしてみれば、相澤一郎氏の動きを把握しておく意味でも、顧客情報に手が出せる場所であるという意味でも、鳥飼さんの事務所に自分の意のままに動く人間を置いておきたかった。どういう事情かはわかりませんが、弓削さんは廉太郎さんを引き取っているからには、相澤一郎氏に借りがあると考えられます。表立って借りを取り立てるのはハイリスクですが、鳥飼さんの事務所に息子を送り込むという、共存共栄のようなスタンスであれば問題ないと思ったのではないでしょうか」
そうすることで何が得られるかは明確ではない。ただ、とにかく「いる」ことが重要にちがいない。
「おそらく」と福島も同意する。
では――『弓削廉太郎が弓削正範を殺した。そして、拳銃をどこからか入手し、鳥飼の事務所に置いておいた』――これは、真実か否か?
「警察は、弓削廉太郎さんの身柄を押さえたんですか」
福島が首を横に振る。
「まだそこまで動けていない。至急に誰かをやるつもりだが、何も決まっていない。人がどうにも足りないんだよ、小さな町に殺人が何件も起きてしまうとね」
だとしたら、鳥飼を釈放したのは早計だったのではないだろうか。彼は無実であろうが、曾根葉月の件と同じく、廉太郎の出自を知っていたにちがいないのに。聞くべきことはあるのだ。そんな僕の疑問を、机の向こうの福島も察したらしい。
「鳥飼は町の名士だ。署にいさせる時間は少なければ少ないほどいい」
「小松原さんは賛成したんですか? 町の名士を無理やり引っ張ってきたのは、彼です」
「御舟くんの怪我の半分は、それが理由だ」
僕はうなずいた。福島はきっと答えてくれないだろうが、もう半分の理由は醍醐祥を勝手に呼び寄せたうえに死なせたことのはずだった。やったことを考えると、怪我は軽い気もした。ただ、相応の怪我となれば、御舟は生きていられないだろう。
とにかく、真相を解明するという点において、弓削廉太郎はノイズでしかない。私はそう確信している。これまで積み立てた推理を崩す必要はまったく感じられなかった。
しかし、事件をどのように終わらせるかについては、彼が何を知り、何を考えているかわからない以上、非常に危険な存在となっている。
ここで素直に尋問を受けている場合ではない。早く弓削廉太郎と会わなければ。
僕がなんらかの突破口を見出そうと、福島に話しかけようとしたとき――福島がひどい咳をした。
あまりに激しく、このまま命が燃え尽きてしまうか、少なくとも魂が飛んでいってしまいそうだった。いくら口を押えているとはいえ、正面から受け止めるにはきつくて、僕は少し椅子をずらした。当の福島は、僕の挙動を気にすることなく、咳を続ける。
すると、それを聞きつけた小松原が顔を出した。僕を睨みつけたあと、福島を見る。
「やっさん、病み上がりだろ。無理すんな」
小松原が福島を『やっさん』と呼んだ。意外な親密さと、福島の下の名前を知らないところから来る違和感で、僕は状況にそぐわぬ形で戸惑った。
どこからともなく僕と同じくらいの若い警官がやってきて、水の入ったコップを福島に手渡す。それをジェスチャーだけで受け取った福島は、一息で飲み干した。そこで、ようやく落ち着いたようだ。
コップを僕たちの間にある机にそっと置き、少しずれたままの僕に言った。
「この間、君と病院の前で会っただろう。あの日まで、一週間ほどインフルエンザにかかってしまい、仕事を休んでいてね。咳は出るが、心配はいらない」
咳があるなら心配なのだが、小松原に威嚇された状態で本音を話せるはずもなく、僕は「ええ、わかりました」と答えた。
そして、僕が次のアクションを起こす前に、小松原がこの取調室に入ってきて、福島の肩に手を置いた。
「やっさん。こいつのことは、もういい。しばらくブタ箱に入れておけば済む。御舟もあの怪我だ。しばらくはまともに動くこともできんよ」
福島はすぐに答えず、僕に困ったような顔を向ける。
つまり、小松原の意見に従いたいから、僕は諦めてくれ、だけれど恨みはしないでほしい、という実に身勝手な要求をしているのだ。
ただ、僕としてもここで小松原と話せるのは、ありがたかった。福島とつかみどころのない話をしているよりも、彼と直接対決してしまったほうが、はるかに気が楽だ。
事件は自ら終局に向かおうとしている。だが、人選はまるでなっちゃいない。きれいな解決編とはどうやっても不可能だが、ある程度はきちんと始末をつけないと、紘一が浮かばれないではないか。
小松原が僕から目線を外し、福島に何か言っている。これからのではなく、これまでの言い訳をしているようだ。
ただ、僕の意識は自分の内側に向かっている。仮説が浮かび、それがこれまで手に入れた情報によって補強されていき、確信へと変わっていく。
紘一を失った時点で、この事件を中心として解決できないと思っていた。
けれど、僕はノイズはともかく、この福島との対話の中で真相を掴んだ。
情報はもういらない。犯人の意図はわかっている。すると、必要なのはもう行動だけだ。
今までみたいに紳士的な解決ではないかもしれないが、他の誰でもない僕が事件を終焉に導く――その可能性が出てきた。とてつもなく魅力的な誘惑だ。
腕っぷしに自信はないが、目はいい。小松原は喧嘩慣れしているとはいえ、福島と同じご老体である。隙を見ての鋭い一撃なら、勝算もあろう。
他の警官たちは、小松原の命令なしにまともに動けるとは思えない。
小松原と福島が話を終える前、僕に関心を取り戻すよりも早く、僕は決めた。僕がこの事件を終わらせる。こんなところでぐずぐずしていないで、一刻も早く外へ出なければ。
僕はゆっくり立ち上がる。福島も小松原も、僕の動きに気づいていない。僕はできる限り素早く小松原の間合いに入った。小松原の目が見開かれる。だが、反応できたのはそれだけだ。僕は突き上げるように彼の顎目がけて掌底を放った。
「な、成神くん?」
福島の戸惑った声をBGMに、白目をむいた小松原が膝から崩れ落ちた。人を気絶させた経験は初めてだ。不謹慎ながら、非常に気持ちがいい。次に僕は、怯える福島を見る。
「御舟さんはどこにいますか?」
「君と一緒にこの部屋にいた私に、彼の行く先を知るわけがない」
もはや弁明に近いのだが、彼が部屋の前を通ったことは知っているらしい。
「知らなくても、想像はできますよね。あれだけの怪我です。普通、放置しますか?」
「刑事部屋か、でなければ病院だろう」
「病院!」
思わず大声を出してしまったら、福島が面食らったように目をまたたいた。
「署に医務室みたいなのはない」
「あの愚か者を外に出していいんですか?」
面倒になって、つい本音を出してしまう。もういいんだ。どう取り繕ろうとしても、この先にお上品な結末は待っていない。
「まだ病院と決まったわけじゃない。ただ、怪我人は怪我人じゃないか」
「ええ、確かにその通りです。でも、彼のせいで、何人もの人間が死んでいるんですよ。野放しにしていいわけないじゃないですか」
さすがに、福島の口が不快そうにぐっと引き締まった。
「醍醐祥の件について、君は完全に潔白というわけではない」
僕はほっとした。その一言を聞ければ、もう大丈夫だ。
「成神くん、何がそんなに面白いのかな?」
怪訝そうな福島に、僕はわざと笑みをさらに広げる。
「小松原さんは、そんなミスをしない。僕の発見された状況からしたら、『完全に潔白というわけではない』なんて言葉は出ません。黒か、限りなく黒に近いグレーですよ。それを覆す客観的な証拠はない。にもかかわらず、あなたは僕を脅すのに非常に弱い言葉を用いた。なぜなら、あなたは僕が犯人でないことを知っているからです」
「君は、私が犯人を隠ぺいしていると言いたいのか?」
福島の顔が赤くなってきた。わかりやすい人だ。僕は首を横に振る。
「いいえ。あなたは犯人を知っているわけではない。ただ、どんな人間が犯人かぼんやりとはわかっていて、僕がそこに当てはまらないことを知っているんです。ちがいますか?」
福島は返答せず、じっと僕の顔を見る。やがて、諦めたように息を吐くとともに肩を落とした。
「それは、君の譲歩なんだろうね」
「そうとっていただいてかまいません。小松原さんのことは、お任せしていいですね?」
福島はうなずく。
「しかし、目を覚ましたら、私らでは止められないよ?」
「かまいません。僕を追わせてください。そちらのほうがありがたい」
またも福島はうなずく。僕が何をするのか理解し、不本意ではあろうが許諾をした証しだった。
「それともうひとつ」僕はつけくわえる。「車を貸してください」
「警察車両はさすがに無理だよ。誰かの私物を貸すわけにもいかん」
僕自身もずうずうしい要求であるのは承知していたので、タクシーを呼びますよ、と答えようとしたら、誰かに手首をつかまれた。
ぞっとして床に目を向けると、上半身を起こした小松原が嫌な笑みを浮かべていた。
「追わせるなんて、寂しいこと言うなよ。俺の車に乗っけてやるよ」
復活が思ったよりも早い。僕も彼に負けないよう、わざとらしく微笑んでみせる。
「願ったりかなったりですね。ぜひ、よろしくお願いいたします」
小松原は僕の手に体重をかけつつ、ゆっくり立ち上がる。そしてズボンのポケットから車のキーを取り出した。
「行き先を指示されるつもりはない。ナビもあるから、おまえが運転しろ」
僕は車のキーを受け取り、黙って外に向かった。少しほっとしている。先ほどまで脳震盪で倒れていた人を運転させるわけにはいかなかった。
僕のすぐ後ろを重めの足音がついてくる。
「ああそうだ、小松原さん」と、僕は振り返らずに声をかける。
「なんだ?」
和解したわけでもないのに、声からはどこか険が取れている気がする。
「拳銃は持っていますか?」
「仕事中は常に携帯しているが……いるのか?」
「御舟さんは持っているんですかね」
「わからん。持っていたとしてもおかしくない」
「ならば、持っていくにこしたことはありません」
足音が止まった。僕は振り返る。
「成神、おまえは御舟が犯人だと思っているのか?」
僕はため息をついた。
「そんなことは一言も言っていませんよ。ただ、彼の銃を奪われる可能性がありますし、彼が犯人側につく可能性もあります」
「いろんなことが考えられなくなるくらい、ぼこぼこにしたんだがな」
「だから余計危ないんですよ。元々ほとんど期待できない判断力が、完全になくなっているでしょうから」
僕は返答を待たずに歩き出した。すぐに、小松原の足音もついてきた。
念のために刑事部屋を除くが、やはり御舟はいなかった。病院に行くしかない。
警察署の裏手にある駐車場に出て足を止めると、小松原が横に来た。
「あの白いバンが俺のだ」
彼が指さしたのは、彼の態度とは裏腹に薄汚れた型落ちの車だった。どう見ても白くない。くすんだ灰色だ。ところどころ錆びていて、言われなければ廃車だと思ったはずだ。
キーもよく見れば、今主流のスマートキーではない。ドアにじかに差し込むタイプだった。意外だ。警察組織を私欲のためにフル活用していそうな人間が、ぼろぼろの乗用車を使用しているなんて。ドアも異様に重かった。ただ開けるのに一苦労させられる。妙に距離のあった座席の位置を調整し、シートベルトをぐっと引いて取りつけていると、小松原が助手席に乗り込んだ。途端、車が大きく沈む。
「オートマだから、若いやつにも運転しやすいだろ」
暴力警官が変に親しげな口調で偉そうに笑う。
ハンドルまで重い。意識しないと回せないのは、運転手にとってマイナスにしかならないと思う。キーを差し、何度かひねってようやくエンジンが動き出す。これもだいぶ古いカーナビに目的地の住所を入力する。病院の所在地を記憶しておいてよかった。
「小松原さん、シートベルトをしてください」
彼はシートに深く座り、ダッシュボードに足を投げ出した。本人のものなのでマナーはどうでもいいが、安全には注意してほしい。
「硬いこと言うなよ」
「あなた、警官ですよね」
「だから、捕まっても放免されるから安心しろ。免許に傷はつかん」
僕はため息で返すと、サイドブレーキをおろし、シフトレバーをDにして、アクセルをゆっくりと踏みこ――んだつもりが、緊張していたようで想像以上に踏んでいたらしい。
ぶおん、という轟音と「うおおっ」と小松原の悲鳴がして、前に停まっている車に軽く突っ込んだ。前のめりになっている小松原の手がサイドブレーキにあった。彼がとっさにあげてくれたようだ。
「おい! 放せ!」
姿勢を戻した小松原が叫ぶ。
「はい?」
「アクセルだよ、アクセル!」
僕も気づいた。アクセルペダルを踏みっぱなしだった。足をのけると、先ほどまでのじゃじゃ馬のうなり声が消えた。
「シフトレバーをパーキングに戻せ」
「あ、はい」
なんだか教習所みたいだ。こういうのは苦手で、既定の時間からかなり超過した思い出がある。はは。小松原が僕を睨んでいた。説明がほしいのだろう。
「ペーパードライバーでして。免許を取ってから、運転するのは初めてなんです」
「……運転を代わる」
小松原は苦々しげに言った。エンジンを切ってから、僕たちは席を代わるついでに車の様子を確認した。衝突しているが、小松原のおかげでお互いに多少へこんだくらいで済んでいた。ライトはひび割れが走っているものの、今日使う分には問題ないはずだ。
「……後始末は俺がやっておく」
小松原が一気に十年は老けた。声にあった威圧感ももはや消え失せている。
結果オーライかもしれない。
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