第二部 成神尊 6

 巨大な門構えに、達筆な「相澤」という表札。僕が探偵として警察官の御舟に敗北した場所だ。まさか再びここに来るとは思わなかった。思えばあのときから、僕の人生にとって最悪の事件は始まっていた。常に僕の脳内には後悔が渦巻いている。それでもかろうじて動けているのは、探偵としての使命感と、浮田紘一の無念を晴らしたいがためだった。

 僕は汗ばんだ指で、インターフォンを鳴らした。

 しばらくして「入れ」とだけ返事が来た。インターフォンにはカメラもついているので、それで僕の顔を確認したのだろう。ほんのわずかしか顔をあわせていないのに覚えているとは、なかなか賢しい人物のようだ。

 門をくぐり玄関アプローチを通って屋敷のドアの前に立つ。

 ちょうど僕がたどり着いたときに、そのドアが開かれた。

「よう。まあ、中に入れ」

 醍醐祥だった。髪にちらほら白いものが交じりはじめている一方、肌は黒くぎらついている。ただ、目元のしわの深さが、見た目ほど気楽な人生ではなかったことを表している気がした。

 彼のあとをついて家にあがる。前にここを訪ねたとき、つまり相澤一郎氏の事件のときとは別の家に感じられるほど、不安になるくらい静まり返っていた。

「ここは売るつもりだ。だから、手伝いの婆はくびにしたよ」

「嫌がったのではないですか?」

 僕は彼に指示されるまま、応接間のソファに座った。前に座ったときと同じく、適度な硬さで心地よい。

「ああ、せめてもうしばらく物の整理でもさせてほしいと懇願されたが、そんなのは無理だ。他人を温情で雇えるか。相続もまだで、金がカツカツなのは俺も同じだ」

 そう吐き捨てた醍醐は、ペットボトルのお茶を二本、ソファの前のテーブルに置き、僕の向かいに座った。返答も行動も、これが彼の相澤家との距離感なのだろう。そこに部外者の僕が口を挟んでいいことはない。

「突然押しかけてしまい、申し訳ありません。実はお願いしたいことがあり、お会いしたかったんです」

 醍醐は僕を上から下まで――とはいえ、座った姿勢だが――眺めたあと、「へえ」とつぶやくと、目を閉じて沈黙した。露骨に僕の意図を推し量ろうとしている。

 僕はからっからに渇いた喉を、遠慮なくペットボトルのお茶で潤した。そして、彼が自らの中で結論を出す前に口を開く。

「この町から出ていってもらえませんか?」

 醍醐が両目を開けた。

「俺が邪魔か?」

 考えるのをやめたらしく、あっさり僕を揺さぶりにきた。ただ、会話が続けられそうな分、やはり小松原よりはましだった。僕は首を振る。

「あなたは狙われています」

「この間の銃撃のことか? あれはこけおどしだ」

「ええ、あれは確かにただの警告でした。しかし、今は違う。あなたが死ななければならない状況になったのです」

 醍醐がため息をつき、呆れたような目をする。

「日本語は大丈夫か? そういう状況など、この世にはない」

「僕の大切な友人は死にました。八年間、この町に帰ってこなかった人間が、事件に関わったために命を落とすことになったのです」

「町から離れていたから、死なずに済んでいただけ。そうとも考えられる」

 今度は、僕がため息をつく番だ。

「問答をしに来たんじゃないんですよ、僕は。それくらい考えなかったと思いますか? そもそも、条件はあなたにも当てはまる。事件の真相も見えていないのに、どうしてそんなに強気でいられるんです?」

「あ?」と、醍醐が声音に凄みを加えた。「俺は好意でここに招いてやったんだ。いつ帰ってもらってもかまわないんだぞ」

 僕はペットボトルのお茶を一口飲んだ。

 さすがにこんな脅しで怯むほど、やわな仕事はしてきていない。

「まさか。これまで僕をさんざん馬鹿にしておいて、今さら好意を示すわけがない」

「じゃあ、どうして俺は君を招き入れたんだ?」

 僕はつい相好を崩してしまう。本人は相手を試しているつもりなのだろうが、こちらからすると自分勝手なクイズを出して悦に入る愚か者と対峙している気分になる。これは少し言いすぎか。醍醐は僕の感情に気づいたらしく、わずかにむっとした。しかし、そんなもので僕の口が止まるわけがない。

「あなたは、僕がどこまで事件の真相をつかんでいるのか、知りたかったんです」

「根拠は?」

 醍醐が一矢報いようとしているのか、不敵な笑みを見せる。これは虚勢だ。僕はゆっくり立ち上がった。

「僕が言うべきことはすでに言いました。あとは、あなたに理解してもらおうという良心の問題です。くだらない問答を続ける気はありません。いつ帰ってもいいんですよ?」

 醍醐が僕を睨む。本音とはいえ子供じみた反論にこうまで腹を立てるなんて、見かけよりもだいぶ追い詰められているようだ。ならば、素直に僕の忠告も聞いてもらいたいのだが。しばし睨まれたあと、醍醐はペットボトルの蓋を開け、お茶を一気に飲み干した。

「座れ」

 僕は黙ってうなずき、立ち上がるときと同じくらいゆっくり腰かけた。

 仕方なく、推理の結果を口にする。

「醍醐さん、あなたは曾根葉月さんの仇を討つつもりですね」

「そうだ」

 もう彼も駆け引きをしなかった。

「彼女の母親は、この家で家政婦をしていた。いい人だったよ。俺みたいに素行が悪い人間にも優しくしてくれた。そんな彼女が急にいなくなった。それまでも、家政婦が急にやめることがないわけじゃなかった。あんたは死んだ親父しか見ていないだろうが、まあ田舎のお殿様らしい暴君でね。みんな何事もなかったように受け入れた。ただ、家族と折り合いが悪く、彼女だけが安らぎだった俺にはきつかった。だから、成人し、この家と絶縁してから調べた」

 醍醐が首を振る。

「親父の子供を孕んで追い出された。もしかすると、おふくろの意向だったのかもな。真実はわからん。いずれもがあり得る家なんでな。子供は中絶されず、出産された」

「それが、曾根葉月さん」

「当たり前だ。彼女の話をしているんだからだな」

 確かに、僕もついヤボな口をはさんでしまった。

「認知はされていなかった。だから、相澤家は誰も彼女の存在を知らなかった。そのことが彼女の恨みを募らせる一因になり、また彼女が相澤家に家政婦として潜り込めた理由の一つにもなったんだろう」

 ん? おかしい。情報に齟齬がある。幸い疑念が顔に出ることはなかったようだ。

 少なくとも鳥飼は、曾根葉月の存在を知っていた。相澤一郎も知っていたと考えていいだろう。僕はそれを警察の資料室で知った。つまり、警察も把握していた。ゆえに、御舟傑は僕よりも早く「相澤一郎を殺したのは曾根葉月」という真実にたどり着いたのだ。

 だが、醍醐祥は知らない。醍醐に警察とのパイプはないということだろう。地縁を利用できずに自力で調べたにちがいない。ただ、つかんだ情報が間違っていたわけだが。

 他の事件に振り回されて、僕も今まで検討しなかったが、相澤一郎と鳥飼が曾根葉月のことを知っていたとすると、事件の意味がだいぶ変わってくる。

 二人は恨まれていることをある程度は承知の上で、曾根葉月を家政婦として雇ったはずだ。しかし、殺されるとは思わなかった? そうかもしれない。けれど、実際に殺されたとき、鳥飼はどう考えたのだろう。曾根葉月の出自を知る以上、彼女がもっとも怪しい人物である。彼女を告発するにしろ、見逃すにしろ、名探偵である僕を呼ぶ必要はなかった。

 鳥飼は何かを隠している。もしくは、すべてを台なしにするほど何も考えていない。前者だとして、きちんと彼を探る必要があるかもしれない。ただ、正直対局に影響する気はしなかった。彼が秘密を持っていたとしても、別の方向から暴くことができるだろう。

「どうした? 黙りこくっているということは、何かを知っているのか?」

 醍醐の声に、いつの間にか下げていた頭を上げた。

「いえ、新しい事実は何も。逆にお聞きしたい。曾根葉月さんと直接会ったことはあるんですか?」

 僕にとっては無意味な質問だが、真実を伝える理由を思いつけなかったから、何かしら話をしないことには醍醐に警戒されてしまう。

 醍醐は素直に首を横に振った。

「ない。俺があの親子に対して一方的に愛着を抱いているだけだ」

「正直、極端な執着に感じられます」

 醍醐が薄く笑った。

「俺もそう思う。認めたくはないが、おそらく、俺が思う以上に、俺は故郷や家族が好きなんだろう。その代替として、曾根葉月とその母親がいるんだ」

「苛烈な自己分析ですね」

「俺には必要だっただけだ。それよりも、いいかげん俺にばかり話をさせないで、おまえからも情報をくれないか? 俺の知らない事実なんか、期待していない。俺が知りたいのは、おまえの今の時点での推理だ」

「それは、真相とは言いませんよ?」

「おまえは名探偵なんだろ? なら、その推理は真相に限りなく近くあるべきだ。それとも、俺の代わりにおまえがこの町から出ていくか?」

 僕は気がつくと目を細くしていた。視界が悪い。

「お断りですね。僕も浮田紘一君のために、犯人を見つけなければいけない。いいでしょう。僕の推理をお聞かせします。でも、精度は保証しませんよ」

 醍醐が僕を小ばかにするように笑った。

「名探偵の看板を掲げている人間が、そんな雑な仕事はしないさ」

 おっしゃるとおりだが、ストレートに言われると腹は立つ。しかし、僕は黙ってうなずいてみせた。

「殺人犯は警察関係者で間違いないでしょう」

「根拠は?」

「推理の過程を話す段階にはありませんよ。ええ、これが僕の推理であることは請け負います。でも、どうやってここにたどりついたかは、解決のときまで話すことはできません。探偵とはそういうものです」

 醍醐は不満そうではあるが、探偵の話をしたのは自分だからなのか、しぶしぶながら首を縦に振った。

「小松原は?」

「彼は無関係です。間違った人間、つまり鳥飼さんですが、彼を疑っているのも、偽装ではなくて無能ゆえにです」

 この切り捨て方もずいぶん乱暴だと思うが、ここで引っかかっているわけにはいかない。

「だが、小松原がいる限り、俺たちはうかつに警察に近づけない」

「それはなんとかなると思います。だって彼は――」

 言葉が出てこなくなった。頭に浮かんでいた単語が、消えていく。強烈な眠気が僕に襲いかかってきた。僕のせいではない。先ほど口をつけたペットボトルの上部を見る。あった。小さな小さな穴が。続いて、醍醐を見る。

「睡眠薬。蓋が開いてないからって、油断しちゃだめだよ、名探偵さん」

 意識が朦朧としている。楽しそうな醍醐を殴りつけたかったのだが、身体が言うことを聞かず、僕は深い闇の中へと沈んでいった。

 こんな状況でも夢を見た。

 紘一の葬式を僕がとりしきっていた。彼の母も姉も、御舟もいない。全身真っ黒な参列者が大勢蠢いている。顔はわからないのに、僕は彼らを知人だと認識していた。

 紘一の遺体は、微笑んでいた。

 夢の中での死因はわからないが、皺だらけの彼は、現実と異なり自らの生をまっとうできたようだ。僕は影のような参列者たちに向かって、なにやら話している。内容は、自己満足としか言いようがないものだった。紘一の死を悼むのではなく、紘一に死なれた僕を悲しんでもらいたい、と大いにアピールしている。

 ただ、頭の片隅では、これが夢であることを悟っているし、どうしてこんな演説をしているのかもわかっていた。

 僕は、紘一の仇を討つために、他人の命を利用しようとしている。僕は醍醐をはじめとする何人かの命を、真相究明のために勝手に自分の賭けのタネ銭に使っていた。積極的に死んでもらうつもりはないし、そうならないように対策も講じる。だが本心では、彼らが生きようと死のうと、紘一を殺した相手を追い詰められるのなら、どうでもよかった。

 紘一がそんなことを望むとは思えない。彼は、最高にいいやつだった。彼が他人の犠牲を欲するはずがない。だから、これは僕の自己満足なのだ。でも、僕は止まらない。止まれない。誤算だったのは、醍醐が僕よりも老練でえげつなかったことだ。

 まいったね、こりゃどうも。

 僕が目を開けると、意識を失う前とは別の場所にいた。殺風景で、家具が何もない広い洋室。いや、家具はある。今、僕を縛りつけている椅子が。

 おそらくは相澤家の一室だろう。生活臭は一切ないが、それが奪われたのがいつかはわからない。もしかすると、相澤一郎が生きているうちから、こうだったかもしれない。

 カーテンは開かれていて、窓の景色からすると、ここは二階だった。

「起きたな、名探偵」

 ドアが開いて、醍醐が入ってきた。タイミングがよすぎるので、別室で監視していたのだろう。なかなか裏では苦労が多そうだ。

「僕を拘束する意図がわかりません」

 醍醐は肩をすくめた。

「多少のずれはあるのかもしれないが、考えていることは一緒だ。犠牲者が出れば出るほど、犯人の意図や動きは鮮明になり、証拠も増えていく。おまえは俺が死ねば、犯人の端緒がつかめると思っている。俺は、おまえが死ねば、犯人の端緒がつかめると思っている。探偵にしろジャーナリストにしろ、真相を追う者は犯人に命を狙われるものだ。おまえの相棒のように」

 僕は強がりたくて、彼と同じく肩をすくめようとしたが、手が椅子にくくりつけられているせいでうまくいかなかった。でも、僕が何をしようとしたかは、彼に伝わった。

「案外、ばかなんだな、成神」

「ばかなのは、お互いさまです。あなたは見誤っている。僕は殺されない。僕とあなたとでは、犯人にとっては役割が違うんです。僕は生きることで、あなたは死ぬことで、犯人は目的を果たせるんです」

「名探偵ってのは、命乞いも回りくどいんだな」

「ジャーナリストが人を殺してまで真相を追い求めるんですか?」

 醍醐が苦々しげな顔をする。そこには憎しみさえ感じられた。

「俺は食べるためにジャーナリストをやっているだけだ。おまえは、他人が心の底からその仕事を愛していると思っているのか? 世間知らずか、想像力が足りないのか、好きなほうを選べ。両方でもいいぞ」

 どうも、彼の逆鱗に触れたようだ。そして、僕はただでさえ非常にまずい状況にある。

「僕をあなたの身代わりとして、犯人に殺させようというのですね。あなたは先ほど、あなたの命が危険だという僕の忠告を鼻で笑いましたが、その反応は嘘だった。あなたも、自分が危険だと承知していた。だから、僕を身代わりにしようとしているわけですか」

 怒りよりも焦りが僕を苦しめる。どうにかして感情を抑え込まないと、醍醐にそこを突かれて本当に死ぬはめになる。まだ僕は死ねない。

「身代わりが欲しいのなら、こういってはなんですが、僕でなくてもいいのでは? 他にももっと捕まえやすい人間がいたでしょう」

 醍醐は眉をひそめた。

「おまえを身代わりにするつもりなのは正解だが、誤解が二つある。一つ。おまえは世界中の誰よりも捕まえやすかった。ここに訪ねてきたときは、チャンスだと思ったよ。しかも、勝手に家族関係を推理して、ペットボトルを出したことにも違和感を抱かなかった」

「すみませんね、間抜けで」

 こんな状況にもかかわらず、恥ずかしくなってつい口を開いてしまった。こういうのは、いつも仕掛ける側だったので、どうにもいたたまれない。

 だが、醍醐にとっては身代わりの羞恥心などどうでもいいようだ。

「もう一つ。おまえは部外者だ。この町の事件はこの町の人間だけで完結すべきだ。多くの人間にとって共通の願いだと思う。違うのは無能者だけだろう」

「無能者とは、御舟傑のことですか?」

「他に誰がいる? 署を支配し、自分が主体となって事件を追っていたにもかかわらず、八年経っても解決できずに模倣犯はおろか、本物まで活動を再開させてしまう始末。これほどの無能はないな」

 醍醐が笑う。だが、僕はそれ以上に笑った。

「あなたは、この事件のことを何もわかっちゃいない。そういう意味では、大昔にここから逃げ出したあなたは、僕と同じく部外者ですよ。御舟さんはね、もうとっくに答えを知っているんですよ。いや、彼だけじゃない。ここの警察署の面々は、みんなわかっているんです。ご存じでしたか? 彼らは八年間、ほぼ異動をしていません。そんなおかしなことができるのは、確固たる理由があるからです」

 僕の頭の中でもあいまいだったものを、あえて断定形にして醍醐にぶつけた。荒っぽい気がしたが、おかげで自分でも腑に落ちた。

 醍醐が眉を寄せる。事実かどうか考えあぐねているにちがいない。だがこれは、論理の問題ではない。信仰の問題なのだ。信じるほかないのである。

 違う反応を期待していたのに、醍醐は首を横に振った。

「俺は探偵と話しているつもりだったが、どうやらおまえは宗教家らしい。悪いが、俺に祈る神はいないよ」

 僕の考えを読んでいたかのようだ。もしくは、僕の物言いがあまりにうさんくさかったのか。もう僕が彼を説得するのは不可能に思えてきた。喋れば喋るほど、猜疑心を積み上げているだけにしか感じられない。いっそ、僕の推理をすべてぶちまけてしまうか?

 中途半端な推理を中途半端なタイミングで披露……探偵としての矜持をかなぐり捨てた行為だが、初めてではない。でも、意味はないだろう。彼は彼の考える真実に囚われている。僕からすればそれは間違いでしかないのだが、そうだと説得させるだけの材料がない。

 結局は、まだ動く余地のある頭と口でどうにかするしかなさそうだ。

「僕を監禁するだけで、犯人が殺しに来てくれるとは思えないんですが」

「俺がここにいると見せかけるだけでいい。室内に明かりが灯っていればそう思うだろうし、鍵がかかっていれば家に入らずに殺すだろうさ。浮田の家がどうなったかを忘れたわけではあるまい」

「殺し損ねることも大いにあるわけです。明かりを消さずに外出しているかもしれない。家にいたとしても玄関に近いところにいて、火をつけた途端に逃げ出すか、ひどいときには鉢合わせしてしまう可能性だってありますよ。犯人はリスクを負うでしょうか」

 醍醐が頭をかき、わざわざ近寄ってまでして僕を見下ろした。

「犯人がどう考えようとも、おまえをここに置き去りにしておくことは、俺にとってメリットしかない。どうしてそんなこともわからないんだ?」

 もはや交渉のしようもない。今となっては、僕たちはただただ立場の違い、見解がいかに異なっているかを声に出しているだけだ。しかも、相手の言葉なんて聞く気がない。

「あなたが僕を積極的に殺そうとしないだけでも、感謝するべきなのかもしれませんね」

 口にしてから、皮肉が強すぎたかと心配になったが、醍醐は鼻を鳴らすだけだった。

「冷蔵庫にはまだまだ食料が残っている。もし拘束が解けたのなら、好きにしていい。骨董品とかはやめておけ。めぼしいものは家政婦が持ち出しているし、あれはさばくのがなかなか面倒だ。これは、俺の経験談だよ」

 そう言って、彼は部屋から出ていった。親切心のつもりなのだろうか? 袖がないのであれば、黙って消えてもらったほうが、はるかにすがすがしい。

 やがて外から、バイクのものであろう爆音が響き、すぐに小さくなっていく。

 僕は他にできることもなかったので、ため息をついた。

 じっと目を閉じる。なるべく考えごともせず、周囲の音を拾おうとする。今はあれこれ悩んでいても意味がない。それよりかは、精神も肉体も休める時間にしたい。

 ここで監禁されていることは、まったくのマイナスではない。

 一つは、抜け出せれば醍醐を捕まえる正当な理由になる。

 もう一つは、ある仮説の確認ができる。

 特に後者は、真相の解明には必要なものだったし、これ以上はないほど僕の作為とは思われない方法で確かめられるのはありがたかった。

 もちろん、醍醐のいいかげんな思惑のとおりに、犯人がこの家に来なければの話だが。

 たまに目を開けて、窓の外を見る。

 日の光は徐々に赤くなり、すぐさま紫へと変わる。だが、それもすぐに黒く塗りつぶされてしまう。部屋の蛍光灯の光が、心をざわつかせる。

 醍醐には一つ嘘をついていた。僕の生と彼の死は表裏一体だった。彼の死の話しかしなかったが、実のところ、醍醐の言う通り、僕と彼の役割は交換可能な代物である。無論、僕の考えでは、犯人は僕を生かし、彼を死なせるのを第一としているはずだ。しかし逆でも、最悪問題ないと思っているにちがいなかった。

 僕が彼に投げかけたように、醍醐祥もまた部外者だからだ。

 この事件には見届け人を必要とし、それは部外者でなければいけない。

 葬送とはそういうものだ。

 さらにその先へ進もうとしたとき、階下で物音がした。どうやら誰かが静かに玄関を開けたようだ。僕は安堵する。これは犯人ではない。醍醐の言うとおり、もし犯人だったら、家に火をつけたほうが早い。扉を開け閉めする音が聞こえてくる。来たのは一人のようだ。侵入者が階段をあがってくる。そして、この部屋の扉が開かれた。

「元気そうだな」

 やはり、御舟だった。朝方別れたときよりも元気そうに見えるのが、少し腹が立つ。

「拘束を解いてもらえますか? こうなってから、ずっとトイレに言ってないんで」

 さすがに彼も「わ、わかった」と焦ったように駆け寄り、僕のいましめを解いてくれた。ここで僕が漏らしたら後始末するのは自分だと気づいているのだろう。

 縄だか何かから解放された僕は、手首足首の痛みに悩まされつつもトイレに駆け込んだ――実際のところ、どこにあるのか少し迷ったが、致命的な結果をもたらすことなくすべてを終えた。トイレを出ると御舟がおり、階下を指した。

「監禁されていた部屋で話をするのも嫌だろ?」

 僕はうなずいた。意外な気遣いだった。ただ、代わりに行ったのは居間で、ここはここで僕が間抜けにも睡眠薬を盛られた場所であるわけで……まあ、それは言うまい。

 僕は先ほどと同じソファに腰かけ、御舟が対面に座る。もう二人の間にあるテーブルには、かつてあったペットボトルは二つともない。

「よくわかりましたね」

「俺には俺のやり方がある」

 むすっとした顔で御舟が答える。それでわかった。どこかでスマホをいじったのか、僕の身体に何かつけるかして、僕の居場所をわかるようにしているのだろう。

「お任せしますよ」

 僕にやましいことはなく、今回のように助けてくれるのであれば、そのままにしておくほうがいい。それから、僕はここに至るまでのことを彼に伝えた。訪問理由も、睡眠薬を飲まされたことも、何一つ隠すことなく、記憶違いがない限り正確に話す。

 すると、僕の推理どおり、彼はすべてを理解したように、深くうなずいた。

「醍醐さんんの行方はわかっているんですか?」

 御舟がじっと僕の目の奥を探る。僕はその沈黙が面倒だったので、手を振った。

「今更ですよ。僕に何を隠そうというんですか。全部話さないのは、あなたたちの邪魔をする気がないからですよ。それがもっとも早く事件解決にいたる」

 だが、御舟の瞳は微動だにしなかった。

「人が死ぬやり方だぞ?」

 一音一音を、かみしめるように言った。僕は驚いた。まだこの期に及んでそんなところで立ち止まっている警察関係者がいるとは。

「では、やめますか?」

「そういう問題じゃない」

「ならば、無駄な時間を使うのは、なしにしてください」

「そういう問題でもないんだが……そうだな、おまえの言うとおりだ。醍醐は町を出た。その先も監視をつけているが、今は東京のホテルに泊まっている」

 不思議な気分だ。ほっとしていると同時に、事件から逃げ出したかのごとき行動に怒りを覚えている。いや、不思議なものか。僕は事件解決のために、醍醐に死んでほしいだけだ。うすうす気づいていたことではあるが、改めて明確にすると、かなりきつい。他者に死を望む探偵など、いていいわけがない。

「確かに、そういう問題じゃないですね……」

 うまく伝わっているかは不明だが、御舟は僕に同意するように肩をすくめた。

「醍醐祥は戻ってくると思うか?」

「僕を監禁しておきながら町を出るとは思いませんでした」

「戻ってくると?」

「でないと、理屈にあいません。でも、人間は常に合理的とも思えません。僕を監禁したという罪の重さにたえかねて逃げた可能性もゼロではないのです。ゼロか一かで言えば、限りなくゼロのほうに近いですが」

 そこまで口にして、気づいた。

「醍醐さんは、東京に住んでいたはずですよね? そこは引き払っているんですか?」

「いや、そのはずはない」

「だとしたら、東京に戻ったのは武器の調達でしょう」

「自宅に戻らなかった理由は?」

「あなたたちが監視していることに気づいたか、気づいていなくても危ぶんだか。武器はおそらく非合法なもの。きっとこれまでにつちかった人脈を利用して、銃を手に入れようとしているはずです」

「銃?」と、御舟が怪訝な顔をする。なぜだろう。

「非合法で相手の動きを止めやすい武器ですから」

 それでも、御舟の顔は晴れない。

「銃も種類があるが、散弾銃でよければ、相澤一郎が免許も含めて持っている。醍醐が早速処分したとは考えにくい。家を探せばあるものを、わざわざ東京へ探しに行くものか?」

「ああ、そういうことですか」僕は肩の力が抜けた。「そこは矛盾しませんよ。醍醐さんが購入するとしたら、拳銃です。携帯できるところに意味があるんです」

「なぜだ?」

「彼は、曾根葉月さんの仇を討とうとしています。近づいて、動機なりなんなりを詰問するつもりでしょう」

「意味がわからない? 犯人がわかれば、後ろからずどんと撃てばいいじゃないか」

 僕は思わず苦笑した。

「そうもいきません。確認は必要ですよ。まあ、彼も頭がよすぎるんです。冤罪の可能性、もしくは予想していない動機など、不確定な要素があったら実際の行動に移すのが嫌なんでしょう」

「案外、複雑な性格のようだな」

 僕は肩をすくめた。

「だと思います。話を戻しますが、醍醐さんは自宅に戻りません。それは危険ですからね。特に今のあなたたちには、彼を拘束するにたる理由がある」

「それはなんだ?」と、御舟が至極まじめな顔をして聞く。

「僕の監禁ですよ」

「ああ、そうだったな」

 ひどく興味がなさそうな返答だった。ひどすぎる。

「しかし、だとすると、どうする?」

「どうする、とは?」

 言いたいことはわかる。だが、それを僕の口から言わせようとするのは卑怯だと思う。

 わずかな沈黙のあと、御舟はため息をついた。

「醍醐をどうするべきだろうか。監視を続けるにとどめるか、拘束してしまうか。放っておいても帰ってくるとはいえ、その場合は武器を入手してしまう。かといって、逮捕して署に置いておくのがいいのか」

 後者の場合、醍醐祥の保護にはなっても、真犯人への生贄にはならない。御舟もそこが引っかかっているにちがいない。僕としても、そんな無意味なことは気が進まない。

 しかし、事実を知り、それを受け入れることはできても、目的のために自ら率先して汚れる覚悟は、さすがにまだ持てなかった。

 だから、こう言うしかなかった……いや、こう言うことにした。

「小松原さんに情報を流し、彼に判断してもらいましょう」

 我ながら探偵にあるまじき卑怯さだ。舌を動かしても口の中が自分のものでないように思えてくる。御舟は一瞬だけ目を見開くも、唇をきっと引き締めて首を縦に振った。

「ならば、あとは俺が段取りをつける。それでいいな」

 鼻で笑いたくなるが、人のことは言えない。

「お願いします。どう転ぶかはわかりませんが、鳥飼さんを叩くのも限界でしょう」

「そうだろう。あの人からは、たいしたものが出てくる気がしない。たとえ知っていても、それが貴重な情報だと本人が気づいてないから、喋りたくても言葉にはならないよ」

「そこまでわかっていて、小松原さんの好きにさせるんですね」

 事情を理解しているはずなのに、僕はついまっとうに聞こえる意見を言ってしまった。

 だが、御舟は僕を非難しなかった。

「小松原が制御不能なのは、わざとではない。ただ、その性質を使用させてもらっているだけさ。仲間――どこまでかはぼかすが、みんな思っているよ、あいつがどうなろうと知ったことじゃないって」

「だから、彼もまた事件解決への生贄にするんですね」

 御舟は自嘲気味に笑った。

「生贄なんて大仰な。みんな、犯人を信じすぎている。そううまくやってくれると、どうして思うんだ?」

「僕たちみんな、頭がどうかしているんです。もう引き返せないところまで来てしまったから、地獄に落ちるを待っているわけですが、それがいつ訪れるかわからなくて、どうにも心の置きどころがない。そんな状況の中でまともに生きていけるわけがない。僕でさえ、この数日で同じようになってしまった」

 御舟は笑った。

「俺たちに比べたら、おまえはまだまだだ。ただ、確かに入口に立ってはいる。いいか。ここはとっくに地獄だよ。問題は、おまえの言うとおり、まだ落ちる先があるってことだ」

 つられて僕も笑った。笑うしかなかった。

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