第二部 成神尊 4

 警察署に入る前から、嫌な予感はしていた。とはいえ、こうもストレートに的中すると笑ってしまう。いや、笑っている場合ではないのだが。

「素人の出番なんか、ありゃあしねえんだよ」

 灰色の短髪をした中年の男が、つばのかかる距離で僕を怒鳴りつける。煙草と歯周病のにおい。僕としては、何かしら言い返してやりたいのだが、物理的に言葉が出ない。

「俺は、他のお優しい連中と違って、おまえみたいなやつに容赦はしねえ!」

 僕は、彼に思い切り胸倉をつかまれていた。胸は痛いし、服にはアイロンをかけてもとれなそうな深いしわができている。昨日までは確かにここにいなかったこの人物が、御舟の言う県警本部からの応援にちがいない。御舟の態度から、敵視されているのはわかっていたが、対応が度を超えている。

 たまたま署の廊下で鉢合わせるなり取調室に無理やり引きずり込まれて、この有様である。椅子に座るよりも早く胸倉をつかまれ、名前も教えてもらっていない。一緒に来たはずの御舟はいつの間にか姿を消していた。僕は囮にされたのかもしれない。

「ああ?」と、意味もなくすごまれた。

「あ、あなた、本当に刑事ですか?」

「うるせえ、ばか!」

 胸倉をつかんでいた手で、思いっきり突き飛ばされた。僕は部屋の壁に背中を強く打ちつけ、へたり込んでしまう。ただ、ありがたいことに、暴力の追撃はなかった。

 これなら、会話も可能だ。……物理的には。

「僕の顔を知っていたんですね。光栄だな」

 ふん、と鼻を鳴らして、男は一人だけ椅子に座った。横にある机に肩ひじを乗せ、僕を見下すように足を組む。

「本庁の河田のことは知っているな」

「ええ、よく事件の現場で顔を合わせていますよ」

 僕の返答に、男は文字通り腹を抱えて笑いはじめた。しばらく癇に障る声を僕に聞かせたかと思えば、急に真顔になった。

「素人探偵に手柄を横取りされて困ると言っていた」

「河田さんとはいい関係を築けているつもりですけどね」

 嘘ではない。彼の管轄の事件にかかわることがたびたびあったが、僕は迅速に真実にたどり着けるよう、警察にはずいぶんと献身的に協力してきた記憶がある。その中で、河田は大学生の子供がいるくらい、僕らとは年が離れていることもあり、友人とまではいかないが、事件が解決したら握手をするくらいには親密であった。僕はそう思っている。

「そいつはひとりよがりにもほどがあるな」男が実に嬉しそうに顎を撫でる。「警察が地道に調べた情報を横からかっさらっていって、さも自分が犯人を見つけたかのように語る。そう言っていたぜ」

 表現の仕方次第では間違ってはいないかもしれない。僕からすると、それは非常に悪意に満ちた言い方なのだが、河田が本当にそう思っているのなら、何も反論できない。

 ただ、ショックだった。けれど、落ち込んでいると目の前の男に悟られるのはよくない。

 僕は、先ほどの彼よりも大きく、鼻を鳴らしてみせた。

「河田さんは、どうして僕よりも早く真相にたどり着けなかったんですかね」

 言ったとき胸が痛んだが、その瞬間、男に腹を蹴られて意識がそちらに向いた。こちらのほうが、胸よりはるかに痛い。床に倒れこんでしまった。

「警察を挑発して、ただで済むと思うな」

 頭上からそんな言葉が降ってくるが、痛みにのたうちまわっている僕にはどうやっても返せない。勘弁してくれ。荒事は僕の専門じゃない。

 幸い追撃はこなかったので、時間をかけて息を整え、ゆっくり立ち上がった。ここまでしておきながら、男が不機嫌そうなのが腹立たしい。

「よくわかりました。警察はもう協力できないということですね」

「正しくは、協力の必要がない、だ」

 僕は後ずさる。背中に壁がついた。

「容疑者を見つけた。今、取り調べ中だ」

 だめ押しのように、男が告げた。

「誰なんですか」

「民間人に話せるものか。いいな。事件は終わった。おまえはさっさとホテルを引き払って、家に帰れ」

 男はまたも、僕に顔をぐっと近づけた。

「次に見かけたら、即刻逮捕してやる」

 言いたいことはすべて言ったらしく、彼は足を乱暴に踏み鳴らして、部屋から出て行った。扉は開いたままだった。閉めようと歩き出したところで、膝が笑っていることに気づいた。だがどうにか目的を果たすと、椅子に腰かけた。ため息ともうめき声ともつかないものが、僕の口から流れていく。動悸がとまらない。手もまだかすかに震えている。暴力は慣れていないし、苦手だ。息を整えて、脳の働きをいつもの状態に戻さなければ。

 重要なのは、僕への脅しではなく、彼が容疑者を特定したことだ。それが本当だとしたら、僕は確かにお役御免で、友人の仇を討つこともなく、逃げかえるしかない。確かめる必要がある。事件の調査はやめられない。

 でも、たった今言われた、男の脅し文句が僕を凍らせる。逮捕が怖いわけではない。悔しいが、彼と対峙することが怖いのだ。

 これまでも事件を調べる段階で、警察なり事件関係者なりに脅迫された経験はあった。しかしそれはあくまで言葉のもので、暴力を伴うものではなかった。いや、違う。犯人に襲われたこともあったし、誤解された関係者に怪我をさせられたこともあった。それでも恐怖などかけらも感じなかったのは、浮田紘一がいたからだ。彼といたときは、恐怖を捜査へのエネルギーに変えられていた。

 孤独が僕を萎縮させる。そして、孤独が僕の退路を奪った。たとえ殺されても、僕はこの事件を最後まで見届けなければいけない。

 僕は、浮田紘一が横に立つ相手と定めた、探偵なのだから。

 息を大きく吐く。まだまだ身体の震えは収まらないが、覚悟だけは決まった。そこで、せっかく僕が閉めた部屋のドアがあっさり開いた。

 入ってきたのは、御舟傑だった。顔を見るなりぎょっとしてしまう。左目の周囲が内出血で青くなっていた――殴られたようだ。

 御舟は僕の顔を見るなり、皮肉げに口元をゆがめた。

「おまえは民間人だから、それだけで済んだんだよ」

 そして、机を回って奥の椅子に座る。

『その目で確かめろ』とけしかけたからには、僕がこうなることは予想していたのだろう。ただ笑みも怒りも見せていないところを見ると、自分がそうなるとは思っていなかったらしい。なんだろう、二人で損をしただけのような気分になる。

「あの人は、何者なんですか?」

 なんにせよ、聞かないわけにはいかない。

「小松原勲、県警で一番有名な刑事だ」

「有名? 有能ではなく?」

「有能ではないな。部下に恐喝まがいの情報収集をさせて、怪しい人間を片っ端からかき集め、拷問のような尋問をして犯人を逮捕するんだからな」

 聞くだにひどい話だが、自分がやられたことを考えると、さもありなんと思う。

「しかし、そんな強引なやり方をしていて、警察内でも問題にならないんですか?」

「結果は出している。多少方法に難があったとしても、文句をつけられる人間はいない」

「冤罪の可能性だって否定できないでしょう」

「否定はできないが、そうだという事件がまだない。あれで案外、嗅覚は鋭いみたいだ」

「じゃあ、今回も彼は真犯人を見つけていたと?」

 失礼にも、御舟は指を僕に突きつけた。

「それを考えるのは、おまえの役目だ」

 勝手な言い草だが、違うと言うのも変だし、一緒に考えようと言うのも不愉快だった。やむなく、僕は首を縦に振る。御舟が満足そうに鼻を鳴らした。なすがままでいるつもりはないので、僕も彼に自分の立場をわかってもらうことにした。

「僕が推理をするのなら、御舟さんは情報を集めるのが役目でしょう。小松原さんが誰を拘束しているのか、わかるんですよね?」

 てっきり不機嫌になると思いきや、御舟は目に青タンを作っているにもかかわらず、ふっと余裕の笑みをかましてきた。

「待っていろ、もうすぐだ」

 彼がそううそぶいたのとほぼ同時に、ドアがノックされた。

 来たのは、若い刑事――スーツを着ているところからすると、間違いあるまい――だった。彼には見覚えがある。確か、浮田の同窓生だという……嶋田盛順だ。

 この間は親しみをこめようとして卑屈な薄笑いを浮かべていたが、今日は打って変わって顔がこわばっている。

「嶋田、何かわかったか」

「何もわかりませんでした」

 声に感情がこもっていない。あえてそうしているように感じる。御舟も同じことを感じたようだ。

「小松原の指示か?」

「そうでは、ありません」

 嶋田は一瞬だけ返答に逡巡した。まだ御舟の影響力が残っている。

「そうか」

 しかし、御舟は興味をなくしたようにそっけない。

 嶋田がわずかに安堵した顔で部屋を出ようとするのを、「待ってください」と僕が声をかけた。彼は振り返り僕の顔を見るが、以前とはまるで違い、怪訝そうな表情をする。ずいぶんとこれまでに比べて落差のある返事だ。若干の敵意さえ感じる。

「部外者に渡す情報はないよ」

 嶋田は冷たく言い残し、今度は止める間もなく出て行ってしまった。

 僕は御舟を見る。

「三十路前に長いものに巻かれることに慣れたら、その後の人生はろくなものにならないな。見ろ、あの変わり身の早さを」

「別に、僕はあなたから真偽不明の人生訓を聞きたいわけじゃないんです」

「落ち込むおまえを慰めようとしたんだよ」

 やっぱり御舟は青タンを作っているくせに嬉しそうだ。

「それに、あいつは元から期待していなかった。顔を出すだけましだ。他にも何人かに声をかけたが、誰も来ない」

「どうしてそこまであっという間に、あなたの力が及ばなくなったんですか?」

 僕は初めて参加した捜査会議の光景を思い出し、つけくわえる。

「管理官さえ遠慮するあなたが」

「案外、人間というものは品行方正に生きているものだ。全員に対して、ああいうことができるわけじゃない」

「なら、あなたの力の源泉はどこにあったんですか? 一介の警察官が、署全体の意向を左右させられるなんて、どう考えてもおかしい」

 御舟は肩の力を抜いた。

「みんな、それだけ八年前の事件を解決したいってだけだよ。だから、被害者の旦那である俺が最前線に立っていても、誰も文句を言わないんだ」

「嘘つけ」

 反射的に答えてしまった。心の中でそう思っていても、今言うつもりはなかった。しかし、御舟は「そうかもな」と軽く受け流す。僕は話の軌道を多少修正することにした。

「小松原さんのことを、あなたが知らなかったとは思えない。彼の手法を知っているのであれば、いつかこの町に乗り込んでくることも想定していたはず。それなのに、どうしてなんの手も打っていないのでしょうか?」

 御舟は眉間に深いしわを寄せ、しばらくじっと考えていた。おそらくまた嘘をつくべきかどうか考えているのだろう。やがて彼がどちらにするか決めたのか、口を開きかけたとき、この部屋に新たな侵入者が現れた。

「ちょっといいかな」

 副署長の福島だった。八方美人が行き過ぎて、頼まれれば誰にでも重要な情報を渡してしまう男。彼の実像はともかく、中肉中背で警官にしては険のない平凡な外見は印象が薄く、見た瞬間は誰だかわからなかった。

 福島が部屋に入るなり、御舟を見ていたのは、僕にとって幸いだった。話しかけられていたら、混乱して醜態を晒したにちがいない。……まあ、今さら取り繕うものなんてないのだが。

「もちろんです」と、御舟が答える。

「ありがとう」

 福島は妙に卑屈だった。本人の性格もあるのだろうが、まだこの人には御舟の力が及んでいるようだ。他にも何人かに、この部屋へ来るよう声をかけているのかもしれない。来ない人間もいる気がする。

「あまり時間がないので手短にするが、小松原さんが取り調べているのは、鳥飼さんだ」

 僕と御舟は顔を見合わせた。まったく予想外のことだった。あの、気弱で流されやすい弁護士の鳥飼が、一体何をやれば小松原に目をつけられるのか。

 福島はことさら御舟に近寄り、小声で告げる。

「彼の仕事場から、浮田日出美の拳銃が発見された」

「はあ?」と、間の抜けた声が、僕と御舟の口から放たれる。

 予想外どころか、僕の頭に描いていた推理の道筋にはまるで関係ないところに置かれている事実だった。

「どうして、そんなところから? 八年前に行方不明になった拳銃ですよね?」

 警官だった浮田紘一の父が死んだとき、現場から消えていたものだ。福島が僕を見て、目を丸くする。まるで、僕がここにいることに初めて気づいたようだった。

「ああ、君か。鳥飼のアシスタントとして働いているのが、弓削さんの息子さんでね。お父さんの死に思うところがあったようで、昨日、警察に届けてくれたんだよ。拳銃番号から、浮田のものだと判明した」

 弓削の息子。事務所を訪ねたときにいた青年か?

「思うところ、とはなんですか?」と、御舟が訊く。

「彼は善意の協力者であるというのが、我々の見方だ」

 福島の話し方を見る限りでは、どちらかといえば弓削の息子に関心を持っていない、というのが正しいように思える。御舟に顔を向けた。目が合うと、彼はうっとうしそうに目を細め、首を振る。正直、彼がどう思っているのかわからないが、ここでは触れるべきではないことは伝わってくる。

 僕は福島に視線を戻した。

「小松原さんがここへ来たのはいつですか?」

 福島は神妙にうなずく。しかし――

「悪いが、私はこれで失礼するよ」

 動作と答えは真逆だった。さらに、止める間もなく部屋から出て行ってしまった。僕は御舟を見た。

「ここへ来ることさえ、彼のような立場にしてみれば危険なことだった」

 恐怖政治にもほどがあるだろうに。

「県警本部から来たというだけで、それほどの力があるんですか? 正直、大げさに思えるんですが」

 言っている途中で腹の痛みを思い出したが、それはあえて無視をする。どのような形であれ、僕が小松原に屈していいことなど何もないのだ。

「暴力だけで、県警本部にいるわけじゃない。絶対服従を誓えば、有能で男気のある上司になるんだよ。あいつに借りがあるやつは大勢いる」

「この八年間、ほとんど人事異動がなかった署でも?」

「警察官は助け合うものだ」

 個人主義の最たるものである御舟傑が言うべき言葉ではない。おそらく、本人も違和感を覚えている。そこはおいおい考えるとして、やはり話を戻す必要があった。

「御舟さんは、僕の質問に答えられますよね。小松原さんがここに来たのは、いつですか?」

「今朝早く。午前七時には、署の会議室にいた」

「あなたも?」

「帰れなかったのは、俺だけじゃない」

 御舟が苦々しげな顔をする。僕に仕事で徹夜の経験がなかったとでも思っているのだろう。ずいぶんと舐められたものだ。かといって、訂正する意味を見出せないので、そのままにしておく。

「小松原さんは、拳銃の件を知っていたのでしょうか」

「俺には何の情報も入ってこない。七時五分には主導権を握られ、俺は担当から外された」

「手際がいい、いや、よすぎますね。情報を常に吸い取りつつ、あらゆることを事前に計画していたのでしょう」

「県警本部と情報共有するのは当たり前の話だからな。当たり前のことをしているだけなのに、なぜだろうか、署内にスパイがいるような気がしてくる」

「我々に不都合は情報を渡してしまうという意味では、まさしくスパイです」

 僕はうなずいた。そうしながらも、自分が御舟と小松原のいさかいに巻き込まれたことを悟り、腹が立った。僕らは同じ方向を向いているはず。事件解決のためには、手を組むほうがいいというのに、彼らは手柄争いにもなっていない競争に血眼になっている。

 そして一番腹が立つのは、そんな彼らに従うしかない無力な自分だ。名探偵などと呼ばれていい気になっていたが、警察がいなければ、ろくな情報収集もできない。自分の立ち位置に安穏としていたのは、僕なのだ。

 この場に座っているのが猛烈に我慢できなくなって、僕は立ち上がり部屋を出た。

「どうしたんだ、急に」

 御舟が慌てて追いかけてくる。しかし、僕は署を出てしばらく歩くまで無言だった。周囲に警官の姿が見えなくなったところで立ち止まる。

 振り返ると、御舟が不機嫌そうにしていた。

「俺は何度も呼びかけていたのに、おまえはそれをことごとく無視した」

 文句のつけかたが子供のようだ。しかも、何もわかっちゃいない。

「あの場で、きちんとした話なんてできるわけないでしょう。小松原さんが取り調べをしていたとしても、他にもスパイがいるんですよね? 密告されたら、また僕らは殴られますよ。僕はそんなのお断りだ」

 御舟にも理屈が伝わったようで――というか、指摘されるまで本当に気づかなかったのか?――舌打ちを追加しただけで不平は終わった。

「じゃあ、ここでそのきちんとした話とやらを頼む」

「正直なところ、追いかけるべき問題が多すぎて、どうすればいいか困っています。人手が欲しいところだったのに、あなたが小松原さんに椅子を取られたせいで、思うように動けるのが僕たち二人しかいない」

 本当はあなたも信用しきれないけれど――という本音は胸にしまっておく。

 僕は左右を見回し、ゆっくりと路地に入る。

「まず確認したいんですが、小松原さんは何なんですか?」

「問いかけが広範囲すぎる。もう少し狭めてくれ」

 それはもっともだと、僕は首を縦に振った。

「小松原さんが、もとからああいう手荒な捜査をする人だと言いますが、それでも異常に見えます。仕事に対する情熱を超えて、事件を憎悪しているとしか思えません。彼をそこまで駆り立てるものがあったのでしょうか?」

 御舟のお心に沿う問いではなかったようで、面白くなさそうな顔をする。よくも悪くも、というか悪いところしかないが、感情をストレートに表に出しすぎだ。警察官なのだから、本来はもっと抑えられるだろうに。

「県警で一番有名な刑事は、八年前も県警でひどく有名な刑事だった」

「悪名で?」

 御舟は肩をすくめた。

「悪評だけで刑事はやれない。ただ、八年前はそれが足を引っ張ったのも本当だ。当時から署内に犯人もしくは共犯者の存在が考えられていた。しかしそうなると、身内を取り調べする必要がある。あの拷問を、仲間にやる人間を捜査に協力させられないだろう?」

「捜査に手心を加えた、と取れますが」

「実際、そうだ。それでも事件は解決できると思っていたしな」

「けれど、実際はいまだ未解決」

「小松原は、それが不満だったらしい」

「捜査から意図的に外されたことが? それとも八年経っても解決していないことが?」

「両方だ」と、御舟が吐き捨てるように言う。

「あいつのプライドを刺激したんだろうな。こうして事件が再び起きたことで、今度こそ自分の手で解決したいと考えた……と俺は思う。そして、隙あらば首を突っ込もうと待っていたんだ。署内に情報源を作ってまでな」

 僕はため息をついた。

「小松原さんに頭を下げて、捜査に加わらせてもらえませんか? 僕も必要なら土下座しますから。警察の力がないと、この先はどうにもなりませんよ」

 御舟は僕の期待を裏切るように、即座に首を振った。

「不可能だ。頭を下げることが、じゃない。小松原を懐柔することが、だ。俺たちは完全に敵に認定されている」

 僕は腕を組んで目をつぶる。警察の手を借りずに単独で動いたとして、しかも依頼人がいないこの状況下で、いかほどの情報を集められるのだろうか? おまけに、警察にそれを見つかれば、暴力でもって排除されることも大いにあり得る。僕が暴力と対峙できるか? 無理だ。先ほどのことを思い出すだけで震えてくるというのに、自ら対抗などできるわけがない。もう、こちらからできることは何もない。

 僕は、目を開けた。御舟は目を閉じる前と同じ表情で僕を見ていた。

「なんだ、寝たかと思った」

「真実にたどりつくだけの情報を持たない僕たちは、犯人が動き出すのを待つしかありません。しかしそれは、犯人がまた殺人を犯すのを待つということでもあります。そんなことを許容していいのでしょうか? では勇気をもって、暴力に立ち向かわないといけないのでしょうか?」

 後半は御舟にとって唐突だったため、最終的に怪訝そうな顔をした。

「暴力はともかく、他に手がないのであれば、その状況を受け入れるしかないと思うがな。俺たちは神様でも英雄でもない。俺は捜査権を取り上げられた刑事で、おまえは他人よりも犯罪方面で頭が切れる素人にすぎない。どれだけあがこうが、できないものはできない」

「御舟さんはそれでいいんですか?」

「いい悪いで言えば、悪いに決まっている。だが、人間には限界がある。それを超える方法がない以上は、たとえ無力感を味わうとしてもそうする他ないだろう。俺は八年間、ずっとそうしてきた」

 先日までの僕なら、そんな無能自慢はつまらないですよ、とでも辛辣に返したにちがいない。けれど、今の僕にはただのブーメランだ。

 彼の言うことは正しい。とはいえ、呑み込むのもきつい現実だった。

 僕は首を振った。手詰まりでも、できることを探すしかない。暴力から逃げつつも、事件を解決する道は、そこしかない。それが本当に道になっているのか、不安でしかたがなかった。これまでの事件とは、僕を取り巻く環境が違いすぎる。

「ああ、そうだ。浮田利恵さんとは連絡がついた」

 御舟が急に話を変えた。彼としても、触れていたくない話題なのだろう。ありがたい。

「俺の電話には出なかったが、署からの電話にはすぐに出てくれたらしい。事件のあと、友人の家に泊まっていたそうだ。あの、間宮悠とかいう恋人のところでなく、な」

「友人とは、誰のことなんですか?」

 御舟が肩をすくめた。

「俺は教えてもらってないんだ」

 せめて質問をしたのかどうかだけでも知りたかったが、御舟の様子からすると本当にそれしか聞かされていないようだ。義理とはいえ身内のことなのに、蚊帳の外である状況は不満があるのだろう。今の言葉も、やや投げやりだった。

「彼女は自分の息子の死を知っているのでしょうか?」

「わからない。だが――」御舟は自分の腕時計を確認した。「取り調べがなければ、今はきっと楓の病室にいる。行って直接聞いてみよう」

 僕は黙ってうなずいた。浮田利恵とはいつか会わなければいけなかったし、御舟楓の病室もいつか行かなければいけなかったところだ。ただ、今だとは思っていなかった。気づかぬうちに握りしめていた手が、不快なほど汗ばんでいた。

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