第二部 成神尊 3-2

 目が覚めると、まだ夕方だった。身体が鉛のように重たい。僕は再び目を閉じた。

 また同じ悪夢を見た。

 それが翌日の朝まで続き、身体は軽くなったものの、精神的には昨日とさほど変わらぬ状態での覚醒だった。

 せめて腹を満たせば、気持ちも楽になると思い、ホテル一階のレストランで毎朝やっている朝食バイキングに行った。ここに来るのは初めてだった。これまでは紘一がいたので、朝食は他でとっていた。腹は空腹を強く訴えるが、脳の主張は真逆だった。僕は間をとって、軽めに済ませることにした。

 クロワッサンとブラックコーヒーを選び、外が見えるテーブルにつく。元は取れないが、ビジネスホテルの朝食バイキングとはそういうものとも思う。

 レストランは意外と混雑していた。正直、そこまでビジネスマンが滞在する町だとは思えないのだが……と、彼らを観察して気づく。報道関係者ではないだろうか? 今回の事件がどこまで報道されているかはわからないが、まったくの無関係でもいられず、とりあえず現地入りして情報収集している、というところか。僕のこともちらちら見ている。顔はあまり公表していないが、知っている人は知っているはずだ。ちらちらと視線を感じるのに、話しかけてはこない。正直なところ、マスコミとはもっとずけずけ来るものだと思っていたので不思議な心持ちだ。だが、その理由はすぐにわかった。

 僕の向かいの椅子に、勝手に一人の男が座る。

「さっさと食べろ。すぐに、出かけるぞ。ここには邪魔な虫が多すぎる。呼んでもないのにたいしたものだ」

 御舟傑だ。

 地獄から這い上がってきたのか、ひどく不機嫌そうな顔で、なるほど彼がいては僕に話しかけづらいのも当然だと納得してしまった。今回の事件の取材をしていて、御舟傑を知らない者はいないはずだ。その狷介な性格も、もちろん把握しているにちがいない。

 僕は彼をいないものとして、優雅に食事をする。文句の一つでも出てくるかと思いきや、眉間にしわを寄せたまま、じっと黙っている。気まずいのか、目線も外を向いていた。

 僕が食べ終わると、立ち上がってさっさと出ていってしまう。しかし、僕のほうはそうはいかない。レストランには報道関係者が充満している。彼らが僕たちの行き先を気にしないはずがないのだ。

 なんにせよ、僕はまだ支度ができていない。周囲の反応を気にしないようにして、エレベーターに向かう。数人が腰をあげたが、部屋に戻るとわかったせいか、追ってくるものはいなかった。

 考えてみれば、これまでも報道陣は僕と同じホテルにいたのに、ろくに接触をしてこなかった。なぜだろう……というのは、傲慢だろう。彼らにとって、僕はさした存在ではなかっただけの話である。それなりに探偵として活躍していた気はするのだが、世間での知名度はそんなものらしい。ありがたくもあり、寂しくもあり。

 自室に戻り、身支度を整える。

 さて、問題はここからだ。御舟と行動をともにする探偵は、格好の的にちがいない。

 ドアを静かに開け、頭を出して見回す。とりあえず、すぐに見つかる愚か者はいないようだ。じっと耳を澄ましても、何も聞こえず、気配を感じることもない。

 僕も無音のまま動きたいところだが、ドアを閉めるときに自動でロックされるときの音はどうしようもない。さすがに鍵をかけないわけにはいかない。かちり。やっぱり。

 床の絨毯を優しく踏みしめ、非常口を目指す。

 裏をかくつもりで、堂々とエレベーターを使うことも考えはしたものの、ずうずうしい人間がいたら、まったくの無意味だし、こんなので頭を使ったことに腹が立ちそうだ。ならば、露骨に避けたほうが、まだましだろう。どうせ、何人かには見つかる。

 ゆっくりと重い扉を開ける。案の定、いた。自らが有能だと疑いもしない青年が、僕と目をあわせて笑った。顔のパーツひとつひとつが無意味に大きい。

「週刊情勢の崎本と申します。探偵の成神尊さんですよね」

 僕は隙を見せたくなくて、ことさら大きく微笑んだ。

「ちょっとお話しいいですか?」

 僕はさらに深く微笑んだ。黙って彼の脇を抜ける。いきなり質問しなかったのは、彼のミスだ。僕が階段を下りていくと、後ろからもコツコツという音が追ってくる。

 他の記者はいなかった。この青年が排除したのか、やはり僕など取材するほどの価値がないと思われているのか。

 青年はおどしたりすかしたり、色々呼びかけてくるが、僕が応じる理由はない。

 そのまま一階に着き、ホテル内に入る重い扉を開けてさっさと建物から出てしまう。そこまで来て、「おい、待てよ! 話しかけてんだろうが!」と荒々しく僕の肩を掴んだ。

 ただ残念ながら、僕の目の前にはまだ不機嫌そうな御舟が立ちはだかっている。考えを読まれるのは不快だが、今回は助かった。御舟は青年の腕をひねった。青年は苦痛の声をあげる。肩が自由になり、僕が振り向くと、彼は御舟を恨めしそうに睨んでいた。だが、御舟が何者か知っているようで、手を押さえるだけで、何も言おうとはしない。

 御舟も、物言わぬ人形には興味がないらしく、そのきつい視線を僕に向けた。

「こんなくだらないやつをつれてくるな」

 僕は肩をすくめた。すると御舟は、僕が今しがた苦労して出てきたホテルに入っていった。僕は慌てて追いかける。

「どうしたんですか、急に」

 まっすぐ受付に進んでいく御舟は、横目で僕を見る。

「ホテルを引き払う。毎朝、こんなことになっても、俺は紘一と違って面倒見る気がない」

「ここで、浮田くんの名前を出さなくてもいいでしょう!」

 周囲がわずかにどよめいたのが、耳に届いた。一方、御舟は動揺のかけらもない。

「おまえは俺の家に来い」

 それ以上は何も言わず、そして有無を言わさず、僕にホテルを引き払わせた。

 僕は洋服や日用品、パソコンその他を、急いでスーツケースに放り込み、しばらく滞在していた部屋を出た。その間も、傍らには御舟がおり、汚いだの、くさいだの、失礼なことばかり口にしていた。

 しかし、記者除けとしてここにいることもわかっているので、僕は黙って耐えた。

 僕の荷物を御舟の車のトランクに載せ、僕たちはホテルを離れる。

 十五分ほどで、車はマンションの地下駐車場にたどり着いた。勝手に僕の荷物を引いて、無言で歩いていく御舟のあとを追う。エレベーターに乗り、最上階の十階に来た。その十階の隅にある部屋のドアを、御舟が開ける。

 御舟の家にあがると、三つのドアがあった。左が書斎で、右が寝室。中央がオープンキッチンの備わったリビング兼ダイニングだそうだ。なかなかいい暮らしである。だが、そこに足を踏み入れて、絶句してしまった。

 家具は、ダイニングに一人用の机と椅子がかろうじてあるだけだった。

 リビングには何もない。カーテンさえも。

 御舟傑という人物の思考が、その寒々しさから伝わってくる。

 僕からすると、情にあつい浮田紘一とは真逆の存在だった。

 憐れみさえ覚える。

「あとで寝袋を持ってくるから、ここを自由に使っていい。料理をしてもかまわんが、食器類は何もない」

 いつの間にか横にいた御舟に声をかけられ、表には出さずに済んだが、ひどく驚いた。おかげで、僕は頭の中に浮かんでいたことを、つい聞いてしまった。

「本当にここで生活していますか?」

 御舟は肩をすくめる。

「楓が襲われてから、ここに引っ越した。生きていくのにも金がかかるからな」

「それにしても……」

「寝室に掃除機がある。それに、この部屋にもエアコンはある。男の一人暮らしだ、自炊よりも、外食か買ってきたほうが楽というだけにすぎない」

「テレビは?」

「ここにはほぼ寝に帰るだけだ。ノートパソコンは持ち歩いている。荷物を置いて、こっちへ来い。見せたいものがある」

 そう言われて書斎に行くと、三面の壁すべてが棚になっていて、ところせましと書類が押し込まれている。

「八年間の成果だ。署の資料室のすべてをコピーし、俺が調べたものも追加している」

 御舟に誇らしげな様子は微塵もない。

「一人で考えたかったから。それが、きっかけだった。だが、調べていくうちに、気になることが出てきた」

「――資料の紛失ですね」

 僕の言葉で、御舟が苦い顔をする。

「さすがだ、と言っておこうか」

「それはどうも」気持ちのこもっていない褒め言葉など、なんの意味もない。「念のために確認しますが、ないのは、『泣いた顔』事件の犠牲者に関する情報ですね。もちろん、浮田親子のを除いて」

 御舟はうなずいた。

「彼らの個人情報と犯した罪についての資料。後者については、捜査報告は残っていたが、その犯罪を誰がどのように探り出したかが、わからない状態だ」

 僕は、微笑んでみせた。

「御舟さんも、それがどういうことか、把握しているようですね」

 彼は気だるげに、棚に寄りかかった。

「おまえは今、『紛失』と言ったが、それは間違いで、そのことを承知しているな。これは、資料の紛失じゃない。元から『泣いた顔』事件の資料には含まれていなかった。他のところにある資料をもとに、捜査報告書を作った。ただそれだけのことだ」

「どうやって気づきました?」

「ずっと資料室にこもって書類を読んでいたら、誰でも気づく」

「資料がないことを他に気づいた人はいましたか?」

「俺たちほど資料室にこもるようなやつは、いないんだよ」

「そうでしょうね」僕はため息をつく。「でも、最初は違っていましたよね?」

 御舟が顔をゆがめる。

「どうしてそう、いちいち確認したがる。お得意の推理でわかるだろう」

「もちろん、わかりますが、それでも本人の口から聞くほうが確実ではありませんか」

「その本人が嘘をついている可能性は?」

「嘘をついても、わかります。探偵ですから」

「都合がいいな」と、御舟が鼻を鳴らす。「だが、おまえは正しい。俺は資料が紛失したと考えたから、いつ失われてもいいように、こうして秘密裏にコピーをして、自宅に置くようになった。これを知る者は俺とおまえの二人だけだ」

 僕は棚から、最近の日付が書かれた資料を取り出して、ぱらぱらめくってみる。

「紛失ではないと気づいてからも、コピーは続けていますね」

「警察内部におかしなやつがいることは間違いないんだ。いつ本当に紛失するかわからんだろう。それに、中途半端は好きじゃない」

 次に僕は、背に御舟楓と記されている資料を手に取った。怒り出すかと思ったが、御舟は何も言わない。中を見てみると、警察署で見たものと変わらない、報告書の束があった。

「一緒ですね。追加の何かはないんですか?」

 御舟の暗い顔を見る。彼は首を振った。

「楓のことは、何もわかっていない」

 僕は資料を閉じて、元のところに戻した。

「ああ、そうだ。あなたの机にあった弓削正範さんのファイルも拝見しました。こういう言い方はなんですが、とんだ悪党ですね。捕まえようにも、地元警察の動きさえ封じてしまうほどの実力者だった。浮田日出美さんは内偵をしていた。そして、その動きを身内にさえ気づかれないように、自宅に情報を隠していた」

「それが、家が燃やされた理由だと思うか?」

「可能性はあります。でも、当の弓削さんはその前に殺されていた。タイマーのようなもので事前に火がつくようセットしていたものの、先に真犯人に殺された。こちらも、可能性だけならゼロではありません。しかし、どちらもかなり低いでしょう」

「疑問は減らないな」

 僕は口角をあげた。ただ、あげすぎると浮かれている気がするので、かなり抑える。

「そうでもありませんよ」

「なに?」

 御舟が怪訝そうに僕を見る。期待よりも先に疑いが出るなんて、どんな人生なんだろう。

「弓削さんが模倣犯になった動機と、殺された理由はわかりました」

「あのファイルからか?」

「いいえ」

 僕は久しぶりに右の人差し指をあげてみた。うん、仰々しく何かを明かすのは、少し気持ちがいい。

「警察の資料室に、あるべき資料がないことからですよ。僕の探し方の問題かもしれないと思っていましたが、今、御舟さんと話をして確信しました」

 しかし、御舟は面白くなさそうだった。

「わかるように話せ」と、いらついている。

 こういう態度を取らせるのが、僕は大好きだ。

「彼が殺されてしまったから、という逆算によるものですが、僕たちがないと話していた、『泣いた顔』事件の被害者の犯罪に関する情報は、弓削さんが集めていたものです。管理していた人間も、警察の人間かもしれませんが、少なくとも資料室に置いておく必要はないと考えたのでしょう。弓削さんが模倣犯として里見茂さんを殺せたのは、今もそうやって町の人々の暗部を収集していたからですよ」

「資料室にはない」

 御舟がいつのまにか浮かない顔をしている。

「紙の資料は廃棄し、すべて電子化している。そして、それは副署長、福島の個人用ノートパソコンに保管されている。もちろん、弓削にも同じものを送っている。おまえに渡した里見茂も、そこにあったものだ。……つまり、俺も密かに利用させてもらっている、というわけだな。なにしろ、パスワードは机の付箋に書かれている」

「福島さんも大概ですね……いや、そんなレベルじゃないか……」

「擁護するつもりもないが、それが青雲町で生きていく処世術だ。ろくでもないが、集め方そのものは合法だよ。昔は俺もよくやらされた……。情報は手の空いた署員にやらせ、福島さんは集めた情報を保管し、弓削に渡すだけ。福島さんというのは、お人好しで深く物事を考えないタイプだ。あらゆる殺人に能動的にかかわっていることもない。彼はただただ情報を警察の外に漏らしているだけ。罪に問うのは。すべてが終わってからでもいい」

 有害な人物であるのは間違いないが、優先事項は別にある。

 僕がうなずいてみせると、彼の表情がわずかだが和らいだ。

「俺も定期的に福島さんのパソコンを調べて、情報を更新している。紙の資料はないが、家のパソコンにはデータを入れている。何かあれば、そちらを見てもいい。それにしても、弓削はなぜ、福島さんを使ってまで、住民の秘密を集めさせていたんだろうか」

「他人の後ろ暗い情報って、結構役に立ちますよ。何かをさせたいとき、逆に何かをさせたくないとき、相手の行動を操る力になります。ひらたく言えば、脅迫というやつです」

「それはわかる。そもそも、他の用途は考えられない。俺が知りたいのは、どうしてそんな力を欲したか、ということだ。普通に生きていくのに必要ないものだろう」

 僕は首を振った。

「長年副町長をやっていたせいで、町全体をコントロールしたかったのかもしれませんね。

 けれど、当人でない限り、本当のところはわかりません。単なる趣味の悪い収集癖だったのかも。いずれにせよ、弓削さんは住民の後ろ暗い情報を集めていた。ここに、警察がからんでいるのは確実です」

 御舟が実に嫌そうな顔をする。

「俺は若く、そして無能と評価されていたから、そういったことは知らない。だが、状況からして、こんなものを調べられるのは警察くらいだろうというのも、わかる」

 彼はさらに、表情を渋くした。

「異動がほぼないこの署に、この辺の事情を知っている……弓削の手先として働いていたやつもいるはずだ。たとえ定年を迎えていたとしても、探す手段はいくらでもある。前任のふりをする人間が、そうそう世間と関係を断てるはずがない」

 僕は息を大きく吐いてみせた。だが、御舟は何の反応も示さない。

「定年した人は省いていいと思います。今も署内にいる人だけに集中しましょう」

 やはり、御舟の様子に変化はない。

「話を戻しますが、弓削さんが集めていた資料が、彼を死に至らしめる原因となりました。『泣いた顔』事件の犯人は、弓削さんが住民の秘密を集めていることを知った。その資料をもとに被害者を選定したのが八年前の事件、というわけです。弓削さんもそれに気づいた。同時に、もしかしたら自分自身の命も狙っているのでは、と不安になります。これだけ悪いことをしていれば、殺害の対象となってもおかしくない。けれど、犯人は突如沈黙した。そうなると、弓削さんが下手に動くほうが危ない。わざわざ寝た子を起こす必要はない。そう判断したのでしょう」

「だが、先日犯人は再び動き出した」

 僕はあえて首を縦に振った。

「相澤一郎氏の命を奪った曾根葉月さんが殺害された。それを知った弓削さんは、里見茂さんを殺し、模倣犯となった」

「まてまてまて」

 御舟は手にしたファイルの表紙を叩いて、僕の話を遮る。

「模倣犯になる理由がわからん。警察の内部につながりがあるのなら、手を回して先に真犯人を殺してしまったほうが、リスクも低いんじゃないか?」

「できなかったのには、理由があります。ひとつは、あなたがいたから」

「俺? なんで?」

 御舟が珍しくまぬけな声を出した。顔も崩すが、全身から漂う緊張感はいささかも緩まない。きっと、この八年で緩め方を忘れてしまったのだろう。地味にしんどい。

「捜査会議を見ればわかります。あなたは、署を牛耳っている」

「……へえ」

 微妙な反応には理由がありそうだが、追及するのは今じゃない。

「あなたは間違いなく、弓削さんとつながりがない。だから、彼も警察の手を借りるのは危険だと判断したのです」

「……もうひとつは?」

 自分に関する話は、あまりしたくないらしい。僕としても、そこはたいしたことではないから構わない。とはいえ、勝手だなーとは思う。

「弓削さんが安全に犯人を特定するには、表に出てきてもらう必要がありました。曾根葉月さんを殺害しただけで地下に戻ってもらっては困るのです。だから、挑発したのですよ」

「表に出てきてもらう必要?」

 僕はうなずいた。

「弓削さんも、警察内部に実行犯、ないし共犯者がいると思っているのです。しかも、自分の力が及ばない立場の人間の可能性がある。下手に手を出して隠蔽されたり、返り討ちに遭うことを警戒したにちがいありません。僕は二回しか彼に会っていませんが、権力に酔った独裁者ではなく、酸いも甘いも味わいつくした政治家という印象でした」

「俺は全署員のことを一通りは調べたが、何もわからなかった。確かに、そういった人間がいるはずなのに、まったく尻尾がつかめない」

 御舟はそう言って、棚の一角を指さした。三つのファイルにわたって、署員の情報が入れられているようだ。

「何かあれば、そこを見せてもらうかもしれません」

「いつでもいい。あとで、合い鍵を渡す」

 正直、欲しくない。しかし、断ることもできずに、表面上は素直に了承した。『そういった人間』とは、何を指しているのだろう?

「――弓削さんが殺された理由に戻ります。犯人は、何者かが模倣犯として自分を追っていることを知りました。そして、模倣犯が弓削さんであることにたどり着きます」

 御舟は興味深そうな表情だが、あえて続きをうながすのも嫌なようで、無言で僕をにらむ。僕は固くなった首を軽く回して、話を続ける。

「同じ資料を見ていれば、遅かれ早かれたどり着くことでしょう」

「そうだな」

 御舟が眉間にしわを寄せた。たぶん、同じ資料を見ていたのに、里見茂を殺害したのが模倣犯だとはわかっても、模倣犯が弓削とまではわからなかったからだ。

 黙ってしまった彼に対し、僕は水を要求した。長広舌は初めてというわけではないけれど、思った以上に緊張していたようだ。

 御舟はミネラルウォーターのペットボトルを投げてよこすと、ようやく口を開いた。

「飲みきらなかったら、持って帰ってくれ。おまえのごみの処理なんてまっぴらだ」

 翻訳すると、プレゼントするね、ということにちがいない。

 僕は礼を言ってから、一気に半分くらい飲み、蓋を締めた。どこかに置くと、忘れて帰りそうだと思われかねないので、しかたなく手に持っておく。

「どちらにとっても、資料はもろ刃の剣でした。たぐれば相手の正体にたどりつきます。ですが、不利なのは弓削さんのほうでした。まあ、結果から見ればおわかりですよね。弓削さんもそれを自覚していたから、僕を雇ったのでしょうし」

「なんの役にも立たなかったけどな」

 反撃のつもりかもしれないが、御舟の皮肉はキレが悪い。しかし、出ないだけましだろう。神妙な御舟は、付き合いの薄い僕ですら、君の悪さを感じる。今さらだが、彼は常に墓地にいるような男だ。本人も、そのつもりにちがいない。

「僕は弓削さんにとって、ただの陽動ですから。そもそもそちらでは当てにしてなかったでしょう。自分が自由に動けるようにしたかったんです」

「弓削はわざわざむだ金を使った、ということか」

「本人はむだだったとは思っていないはずです」

「それはお前の願望か? それとも、お得意の推理か?」

 どういうつもりか知らないが、皮肉を通り越して、もはやただの嫌がらせだ。とはいえ、僕はこれが彼の弱さの表れに見えてしかたがない。自宅というのは、本人の本質そのものだ。そこに他人という異物を入れて、不安にならない人間はいない。特に、妻以外の人間を拒絶して八年過ごしてきた彼のような人間にとっては。

 ――そこまで考えたが、悪口は普通にむかつく。

 自分もまた何かしらは言ってやろうかと思って、だが口が動かなかった。僕は推理の過程をべらべらと喋っているが、まだ事件の全貌を把握したわけではないのだ。何か見落としがあるかもしれないし、何か解釈違いを起こしているかもしれない。不安が急速の体内に浸透し、僕は震えた。

「なんだ、成神。風邪でも引いたか」

「まさか。僕は事件が解決するまで、病気になったことがないんです」

「ただの若さだ。年を取れば、どんなときにだって体調が悪くなる。そんなことより、これからどうする」

「そんなことよりって、あなたが聞いてきたんでしょうが。とにかく、僕たちが……いや、僕がやるべきことは、あなたが隠していることを聞くことですよ。言っていないことがあるでしょう?」

 御舟が面食らったような顔をした。だが、僕にしてみれば、なぜ聞かれずに済むと思っていたのか疑問である。

「どうしてそう思う」

 質問をすることによって時間を稼ぎ、気持ちを整えるつもりだ。

「でなければ、あなたが僕を迎えに来ませんよね。さらに言えば、それはあなたにとって愉快ではない話のはずです。逆なら、とっくに話しているでしょうからね」

 御舟が眉間のしわを深めた。

「他人の心に立ち入ろうとする行為は、相手をいらつかせるとは思わないのか?」

「相手を見てやっています」と、僕はわざとさらっと笑ってみせた。

 御舟は舌打ちをした。

「俺は捜査から外された」

 言うとしたら、そのあたりであろうと見当はついていた。

 しかし、捜査会議では管理官を差し置いて場を仕切り、署内のあらゆる資料を私物化しているこの御舟傑という男を、いかにして排除することに成功したのだろう。いや、そもそも、そうはいっても事件解決に尽力する御舟を遠ざけるに至った理由がわからない。

「県警本部から応援が来た」

 僕の疑問を悟ったらしき御舟が言う。

「どんな人ですか」

「直接その目で確認しろ」

 彼は皮肉げな笑みをこぼした。おそらく、僕も彼と同じか、それ以上に不愉快な思いをさせられる相手なのだろう。

「わかりました、行きましょう。ここにいても、もう意味がありませんし、捜査を続けるのなら、通すべきスジはあるでしょう」

「相手が否定してきたら?」

 僕は思わず苦笑してしまった。

「そんなことは、探偵にとって日常茶飯事です。やりようはあるんですよ、刑事さん」

 強がりでも、言わないよりはましだと思う。

「成神、おまえはどこまでわかっている」

 周囲を凍らせるような、冷たい物言いだった。僕に対してのものではない。彼自身の心が凍りかけているのだ。

「半分」――詳細を語るには早いが、嘘を言うつもりもない。

「残りの半分はまだまだ霧の中ですね。なにせ、矛盾していることが多すぎる」

「矛盾、か」

「ええ、率直に言えば、動機が見えてこないんです」

 そうか、と御舟は答えた。緊張感が少しだけ緩んだ気がする。

 おそらく、僕が考えている『矛盾』と彼の思う『矛盾』は違っていて、彼は僕の答えを僕の意図するものではない受け取り方をしている。だが、こんな曖昧なやり取りに救いを見出そうとする彼を見ていると、訂正する気にはならなかった。

 それに、どうせ僕たちは、いつかは真実と対決させられるのだ。

 今でさえ満身創痍なのに。

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