第二部 成神尊 3-1
今の僕には、資料室の孤独が安らぎだった。ここには、僕以外に誰もいない。
先週までは隣で一緒に事件資料を漁っていた友人は、もうこの世の人ではない。あのときは、そんなことをかけらも想像しなかった。彼の顔を思い浮かべるだけで滲む視界を服の袖でぬぐう。
御舟の机にあった弓削正範のファイルを見た。紘一の父、日出美は弓削の不正を内偵していた。警察署内にその成果が見えなかったということは、自宅にあった可能性が高い。だが、今となっては無意味なことだった。すべては灰になってしまった。
弓削の不正の証拠を消すことが、浮田家が燃やされた理由だろうか? 十分考えられる動機ではある。けれど、弓削は浮田家が燃える前に殺害されている。彼の他に誰が彼の不正の情報を葬りさりたいのだろう。
きっと別のものもあったのだ。しかし、それを調べるのは今ではない。
今回資料室に来たのは、『泣いた顔』事件の犯人が、どうやって僕よりも早く相澤一郎殺害犯を特的できたのかを考えるためだ。八年前のことも、過去からではなく現在から見てみたかった。
初めて会ったときのことを思い返す限り、御舟――つまり警察は、僕よりも早く真相にたどり着いていた。そして、それと同時期に、『泣いた顔』事件の犯人は曾根葉月を殺害している。
曾根葉月は別の犯罪に手を染めていて、相澤一郎殺害を知られる前に、それが原因で殺された。その可能性は考えなくていい。他の罪であれば、相澤一郎の子供三人も対象になるし、彼らは単独で外出することも多かった。僕が数日見た限りは、彼らのほうが殺しやすかったのだ。
一方、相澤家の女中である曾根葉月は、一郎の死後ほぼ家にいて、外部の人間が殺すのは困難だった。殺害されたときの外出は、確かに一人であったが、食料品を買いに行っただけで、いつ出かけるかは誰にもわからなかっただろう。僕も事前に知っていたら、止めていた。殺人犯を一人で外に出すわけにはいかないのだ。
とはいえ、出てしまったものはしょうがなかった。気にしないふりをして、彼女の帰宅をじっと待っていたが……くそっ。
とにかく今は、僕が知らなくて、御舟と犯人は知っている情報が何かを知りたい。
だが、御舟に聞くわけにはいかなかった。一から十まで彼に尋ねなければ事件の捜査ができない探偵など、現場から排除されるに決まっている。
失態続きの僕は、警察から見切りをつけられる前に、多少なりとも有用性を示す必要がある。そう思うと、心臓の鼓動が早くなり、胸が締めつけられるように痛む。自分でも精神的にぎりぎりの状況でいるのがわかる。かといって、逃げている場合ではない。
まずは、資料室に相澤家に関する情報がないか調べよう。
資料室には歩くのに苦労するほど棚が並び、棚には事件の資料が入った段ボールが年代ごとに並べられている。見える場所には、事件名と日付しか書かれていない。
では、関係者の名前のように、より具体的なことを知りたい場合は、いちいち段ボールを開けるのかといえば、そうでもなかったりする。
先日、御舟から聞いたことだが、過去とのつながりを調べやすくするため、事件の概要や凶器、犯人、証人といったものは、この部屋の片隅にひっそり置かれたパソコンの中にデータベース化されているそうだ。
そして僕は、パソコンの暗証番号を聞いた。こいつで、相澤家を検索する。
データベース化したのは、ここ八年以内のはずだが、パソコンが起動の段階から遅い。もしかしたら、中古品を買ったのかもしれない。ネットにつながっていないクローズドな使用だからそれでいいのだろうが、ストレスは溜まる。
三十分かけてわかったのは、『泣いた顔』事件のことではなく、相澤家にまつわるいくつかの事実だった。予想外の事実が、予想外のところから噴き出してきた。僕はこれをどう受け止めればいいのかわからない。
『泣いた顔』事件とどうからむのかもわからない。
謎の一つは解けた。だが、処理すべきことはそれ以上に増えてしまった。
署内の自動販売機でホットコーヒーを買い、再び誰もいない資料室に戻る。
頭を無にするように、ゆっくりコーヒーを飲んだ。大きく息を吐く。さらに、トイレに行き用を足したあと、顔を洗った。小さいハンカチがびしょびしょになる。もう一度ホットコーヒーを買い、今度は一気に飲んだ。舌がやけどした。
そして、改めて資料室のパイプ椅子に座る。
「なんだこれ?」
当然だが、誰もいない部屋で返答はない。だから、じっと黙って頭を整理する。
警察が僕よりも早く、曾根葉月を犯人と特定できた理由がわかった。非常にシンプルで、幼い頃から――おそらく生まれてすぐに――彼女の存在を警察は把握していた。
彼女は、相澤一郎の隠し子だった。いわゆる愛人の子というやつである。
僕はそれを遺伝的形質が出やすい耳の形から察していたのだが、警察のアプローチはもっと根本的なところからだったようだ。
三十年ほど前、生まれてすぐに彼女の母親とともに、遠く離れたところにひっそりと移り住んでいた。そのときは、曾根葉月ではなく、名字も名前も違うものだった。
その後、養育費のためなのか、相澤一郎の弁護士である鳥飼が定期的に連絡を取っていることも記載されていた。
相澤一郎が知っていた可能性も非常に高い。
残されている写真は去年のもの――正体を隠して相澤家で働くようになってからのものである。最初から、警察には正体がばれていたのだ。そうなれば、潜入した動機も推察が可能だし、そこから殺害の動機も見えてくるにちがいない。
警察にとっては、最初から怪しい人物で、そのまま真犯人だったわけだ。
もちろん、曾根葉月の正体を知っていた鳥飼も、うすうす勘づいていた可能性はある。僕を呼んでおきながら……。
『泣いた顔』事件の犯人も、相澤家や鳥飼に近しい、もしくは警察から何らかの形で情報を手に入れた、と考えるのが妥当だろう。
みんなが参考書の答えを持っているのに、僕だけ自力で解かされたのかと思うと、腹の中が黒く重いもので充満してくる。ただ、この感情をぶつける対象はどこにもない。
相澤家に関する事実は、これだけではない。
三十五年前に、殺人事件が起きていた。
データベースによると、相澤一郎の叔父が殺され、犯人はひどく遠い親戚だった。動機は金銭トラブル。借金漬けの犯人が、薄い血のつながりを根拠に、金を借りに来たのだ。当然拒絶され、激高した犯人に相澤一郎の叔父が殺害されてしまった。
犯人は即座に逮捕され、今から五年前に出所しているが、直後に病死となっている。タイミングがよすぎる気もするが、資料を見る限り、不審なところはない。
だが、曾根葉月の素性以上に、私が驚いたことがある。
犯人である相澤家のひどく遠い親戚は、浮田紘一の母、利恵の兄だった。
浮田家が相澤家の遠い親戚であることは知らなかったし、利恵の兄が殺人犯だったのも初耳だった。
紘一は知っていたのだろうか? いいや、彼は知らなかった。彼を長いことそばで見ていたが、そういった暗さを見せることはなかった。
そもそも、知っていたとしたら、僕に黙っているはずがない。僕と彼の関係性だけの問題ではなかった。僕は推理をするときに、事件に関するあらゆる情報を欲する。紘一はそれを重々承知しているのだから、そんな仮説はあり得ない。
そうなると、利恵は自分の息子にその事実を伏せていたことになる。そして、紘一の周辺の人間もそのことについて触れなかったということでもある。後者については、理由がわかる気がする。ほぼ絶縁状態のようだが、相澤家に連なる者に対しては、周囲も遠慮するのだろう。そういえば、紘一は地元をあまり好いていなかった。彼は孤独だったのだ。
この署に、彼の同級生という嶋田盛順なる人物がいた。今度、彼に話を聞いてみようか。しかし、今の紘一を知って声をかけてきただけのように思えるので、期待はしないほうがいいかもしれない。
それは置いておくとして、浮田利恵は暗い人だった。三十五年前の事件が原因にちがいない。では、夫である浮田日出美と出会ったのも、事件がきっかけだったのか? きっとそうだ。浮田紘一という男は、僕よりも犯罪に縁の深いのかもしれない。
……本人が聞いたら本気で怒り出しそうなので、この考えは撤回しておこう。
驚いたことは、まだある。
相澤一郎の正妻の子供は、春夫、秋子、冬彦の三人だけだと思っていた。春、秋、冬とくれば、夏がないことに違和感を抱くのが自然だ。だが、すでに亡くなっている可能性だってあるのだし、一郎の死でやってこないのならば、僕がその人物を考慮する必要がないと考えていた。
それは大いに間違いだった。
夏はいた。三十五年前はまだ三歳だったが、夏樹という春夫の弟であり、秋子の兄がいた。
データベースには彼のその後が入っている。警察は定期的に相澤家を調査している。守るためだったのか、それとも監視だったのか、今の僕には判断がつかない。
夏樹は、十代で親に反発し、家を出た。そして、名前を変えて、東京で雑誌記者になる。
現在彼が名乗っているのは――醍醐祥。あの真っ黒な悪党ジャーナリストだ。
どうにもおかしな動きをするかと思ったら、この町の関係者だったのか。鳥飼も彼の正体を知っていたにちがいない。それをいうなら、御舟も、か。
醍醐はこの町の人間ということは、僕よりも深いところまで掴んでいて、だからこそ僕たちよりも先に犯人に襲撃されたのだと思う。
ただ、引っかかるのは、彼は紘一とは違って、命までは取られなかった。
……いや、僕の考えは甘い。
醍醐はまだ命を取られていないだけかもしれない。少なくとも、そう考えておかないと、どこかで確実に足元をすくわれる。
僕は頭をかきむしった。事件を整理するために警察署の資料室に来たのに、ますます気になる点が増えている。思考回路はショート寸前だった。
今まで、どれだけ疲れていても、どれだけ寝不足でも、僕の頭脳の動きが鈍ることはなかった。やはり、紘一を失ったのは、僕にはこれ以上ない痛手だったのだ。こうして一人で調べ物をしているのは、つらく、悲しい。
だめだ。思考が後ろ向きになっている。まだ昼前だが、体力は限界だった。
最後に事件資料の入った箱をざっと見て、僕は警察署を出た。頭の中で仮説が積みあがっていく。精査するのは、起きてからにしよう。
ゾンビのような足取りでホテルに戻ると、『起こさないでください』の札をかけ、ベッドに潜り込んだ。
夢の中では、浮田紘一は生きていて、僕のそばにいた。最悪の夢だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます