第二部 成神尊 2
長い長い時間をかけてホテルに戻り、すぐにシャワーを浴びた。普段はぬるめのお湯を使うのだが、今日は我慢できるぎりぎりの熱さにした。もはや熱いというよりも、痛いに近いものの、様々なものを落とせた気がする。きっと、すぐにまた溜まってしまうだろうけれど。
しかし、僕は探偵である。探偵であるからには、事件の真相を明らかにしなければいけない。誰かのためではなく、僕自身のために。でなければ、僕はもう何もできない。
もうすぐ夜明けだ。僕はホテルを出て警察署に行った。幸い、これまで署に出入りしていたおかげか、こんな時間でも速やかに中に入れてもらえる。御舟がまだ来ていないと聞いたので、受付の椅子に座って待つことにした。彼がいつ来るのかわからないし、裏口から入ってくる可能性のほうが高いと思いつつ、他の人の邪魔になるのは避けたかったのだ。きっと音でわかると考えていたのもある。
しかし、実際は違った。気がついたときには、肩を揺さぶられていた。いつの間にか寝ていたようだ。目の前には、疲れ切った顔をした御舟傑がいる。
「紘一の母親、理恵さんは無事だ。男のところにいたよ」
ほっとするのと同時に、不思議な気分になる。彼女を見た限り、もっと枯れている人だと思っていた。
「夫がなくなって八年も経つ。恋人がいたとしてもおかしくはない。たとえ、あの人だったとしてもな」
「どんな人なんです?」
口にしてみたが、僕の気持ちとはずれている。
「職場の同僚だそうだ。隣町に住んでいるらしい。それ以上は、必要があれば調べる。つまり、今からだ」
私はうなずいた。紘一の死に彼の母が関与している可能性は、理屈の上ではゼロではない。非情なようだが、例外を設けるわけにはいかない。だが――
「彼女には、浮田くんの死を伝えたのですか?」
「わからない。連絡がついたことも伝聞でしか聞いていないからな。だが、今はまだ男のところにいるらしい」
「男の住所と名前を教えてください」
御舟は首を振った。
「その前に、俺たちは少し話をするべきだと思わないか?」
僕は笑おうとした。でも、顔の筋肉はぴくりとも動かない。
「あなたからそういった提案が出るとは考えもしませんでした。ただ、提案そのものは賛成です」
「回りくどいな」
「それが探偵というものです」
私たちは適当な取調室に入った。刑事である御舟が当然のように手前の椅子に腰かけたため、私は奥の椅子に座った。悪いことをした気持ちにさせられる。
「コーヒーでも飲むか?」
「そんな気分にはとても」
「だろうな。俺もだ。では、さっさと本題に入ろう。この事件は、一体何なんだ?」
まったく同意見だ。この町に来てから、僕はあらゆる出来事に意味を見出せている気がしない。それは、この御舟傑の存在も含んでいる。だから正直なところ、おまえが言うな、と言ってやりたい。だが、そんなことをしたら、せっかくのこの情報交換の機会を失ってしまう。だから、僕はぐちゃぐちゃの脳内の中でも無理やり口を開く。
「僕たちから見ると、意味不明で脈絡もない事件ですが、犯人の中では筋が通っているはず。その筋さえ見つけられれば、少なくとも何が起こったのかはわかるでしょう」
具体性のない言葉だが、御舟がついてきたのは別の側面だった。
「それは、犯人がまともなやつの場合だ。名探偵と名乗っていい気になっている人間の前に、毎度毎度理性的な殺人者が出てきてくれると思うなよ」
僕はため息をついた。この期に及んで、萎縮も遠慮もする必要はない。
「嫌味の数を減らせば、それだけ真相にも早くたどりつけますよ。それとも、いまだに僕を事件から遠ざけたいのですか? 無駄ですよ、そんなことをしても。もはや、僕も事件の関係者です」
「おまえも、紘一のように殺されるかもしれない」
いいことだ。御舟は無駄口をやめ、話題を切り替えてきた。もしくは、その道筋をつけた。顔と声からは、僕を心配する様子はまるでないので、そういうことだと解釈してかまわないだろう。僕も、彼に心配されるいわれはない。
「まず、もしあなたが言うように、浮田くんを殺したのがまともでなく、筋の通っていない人間だとしたら、僕が殺される可能性はかなり低いでしょうね。逆に、一連の事件に何らかの形で関係している者が浮田くんを殺したとしたら、確かに僕の命も危険ですが、それ以上に大きな疑問が生まれる」
御舟が首をかしげる。
「俺は紘一とは違う。考えない。ひたすら情報を集めるだけだ。だが、犯行の瞬間に至るまでの情報を集められれば、真実は自然に明らかになる」
「僕が探偵で、彼が助手です。なぜ、探偵ではなく助手を先に殺したか? これがその大きな疑問です」
「単なる傲慢だな」御舟が包み隠さず僕をあざける。「おまえよりも、紘一のほうが真実に近かったからに決まっている」
僕も笑ってみせる。そんなことは、とうに考えついている。
「犯人は浮田くんがそこまで真実に迫っていると、どうして知ったんでしょうか?」
「たった今言ったように、俺は考えない。だから答える理由はない……と言いたいところだが、それでは確かに情報交換ではないな」御舟がわずかに笑う。「何にせよ、こういう場合は、深読みをせずに仮説を出すべきだろう。我々のほうから、わざわざ事件をこれ以上複雑にする必要はなかろう」
御舟がわずかの間だけ黙った。彼の言う仮説を考えていたにちがいない。しかし、それにしては次に話し出すのは早かった。『考えない』という言葉は、何かあると考えたほうがよさそうだ。
「紘一の考えを知る方法、それは三つしかない。口頭か文書か、存在そのものか。口頭は、すなわち犯人、もしくは共犯者にそうと知らずに情報を話してしまった場合。文書は文字通り、事件の情報を書き記したメモ、この場合はボイスメモもそれにあたるな。すべてを記憶できるほど、紘一の頭がよかったとは知らない。何かは残していたのだろう? 最後の存在そのものは、曖昧模糊としているが、そんなふうに表現するのが今は正しい気がする。事件調査とは関係なく、彼自身が元々持っている何かが、犯人にとって都合が悪かった、ということだ」
僕はゆっくり首を縦に振った。
「同意見です。そして、最後のものが原因であると見ています」
「根拠は?」
「彼が書き記したことは、その日のうちに僕のところまでメールで届くんです。僕が事件を検討するためと、データが飛んだときのリスクの分散のために。昨夜の分も僕のところに届いていますが、その中に犯人に迫れる情報があったとは思えない。もちろん、昨夜より以前のものも」
「おまえはまだ知らず、紘一だけわかったことがあるかもしれない」
「否定はしません。ただ、その場合、昨夜のうちに浮田くんが犯人にそのことを伝えない限り、犯人は浮田くんを殺そうと思うことさえできなかったでしょう。しかも、そんな重大なことを僕に何も教えずに動く彼ではありません。……彼のお母さんは、いつから恋人のところにいたんですか?」
紘一が事件の情報を手にしたことが死に至ったとしたら、一番疑わしいのは彼の母親になる。おぞましい推論だが、無視するわけにもいかない。
「安心しろ。昨夜は職場からそのまま恋人のところに行ったそうだ」
よかった。ならば、彼女は自分の息子を殺していない。とりあえず今のところは、そう考えておいていいだろう。
もちろん、紘一が二人の交際に反対していて、それを疎ましく思った彼らが犯行に及んだ――という想像もできなくはない。しかし、それは本当に重箱の隅をつつくような可能性にすぎない。なにせ、僕は彼がそんなことを思っているとは、かけらも信じていないからだ。おそらく、母親に恋人がいることさえ知らなかったにちがいない。浮田紘一は内心の葛藤を隠しておけないくらい、純朴で善良な人間だった。そう、『だった』。
「では、やはり彼の存在そのものが、犯人にとって不都合だったようですね。けれど、それが何か僕にはわからない。僕の知らない浮田くんがあるということなんでしょう。まったく想像できませんが。御舟さんは心あたりありませんか?」
御舟がわずかに顔をしかめた。
「あいつは楓――つまり俺の妻であり、あいつの姉に執着していた。いわゆるシスコンというやつだ。だから、俺は嫌われていたし、それより前は同じ町に住んでいたとはいえ、接点はなかった。おそらく、おまえのほうが紘一のことは詳しい」
「でしたら、僕たちは浮田くんの過去を調べる必要がありますね」
「ああ。だが、調べることは山ほどある」
私は首肯し、
「報告待ちですが、浮田くんの自宅の現場検証。浮田くんの検死結果。彼の過去。母親の恋人。それと、弓削さんのこと。もしかしたら、浮田くんの知らないところで接点があったかもしれません」
調べるべきことをあげるたびに、指を一本ずつ立てていった。
御舟が神妙な顔をして腕を組む。
「だいたいそんなところだろう」
「じゃあ、早速、浮田くんのお母さんのところに行きましょう」
僕の提案に、彼は渋い顔をする。
「今日は、ホテルに戻って寝ろ。一人がつらければ、むさい男たちに交じって剣道場で雑魚寝してもいい」
僕は鼻で笑った。
「なに言っているんですか。寝ている暇なんてありませんよ。情報には入手機嫌があるんです。大事な事件の手がかりが消えてしまうかもしれない」
「だめだ」
「寝てないのは、あなただって同じでしょう。抜け駆けはさせませんよ」
「抜け駆けとは、おかしな物言いだな。おまえらとはある程度協力体制を整えていたはずだし、弓削の件でより一層絆は深まったと思っていた」
なにが絆だ、ずうずうしい。
「ええ、だからともに行こうと、妥協しているんです。これはもう、僕自身の事件なんですよ。はっきり言うなら、住所を教えてくれれば一人で行きたい」
御舟はうんざりした様子で頭をかいた。
「俺が運転する。目的の場所までは三十分はかかるから、その間は休んでおけ。事情聴取で大事なものを見逃されたくはない」
僕は頬が緩みそうになるのを抑え、無表情を保ったままうなずくと、署の駐車場に向かい歩き出した御舟を追う。
雨が降っていない日の御舟の運転は驚くほど静かで丁寧で、僕はすっと眠りにつき、現地に着くまで起きることはなかった。そして目を覚ましたら、びっくりするくらい疲れが取れていた。少々癪に障る。
「御舟さん、あなた、ハイヤーの運転手のほうが向いていますよ」
車を降りた御舟は、雑な動作で扉を閉める。
「刑事に向いてないのは、俺が一番わかっている」
僕は肩をすくめた。
「そこまでは言っていませんよ。似合っているとは思いませんが」
他人だけでなく、自分の周囲まで荒らすような仕事をする人間が、長く刑事をやれるはずがない。御舟は、この事件の解決に警察官としての人生を懸けている。真実にたどりつけば、きっと燃え尽きるだろう。余生は虚無。恐ろしい覚悟だった。
外見はそこそこきれいだが、二階建てのなんの変哲もないアパート。御舟が、その一階の五号室の呼び鈴を鳴らした。何も返事が来ないまま、ぶっきらぼうに扉が開く。
四十歳前後だろうか。紘一の母親の恋人にしては、若い男だった。彼も寝ていないようで、目の下に疲れが浮かび、ワイシャツは着崩れている。
「なんですか?」
目が御舟を向いていたので、僕は慌てて口を開いた。
「警察です。昨夜の火事の件で、お話をうかがいにまいりました」
御舟に主導権を取られたくない。だが、男の目線は動かなかった。御舟が警察手帳を掲げていたのだ。やはり、そちらのほうが説得力はあるか。
「火事? 利恵の家の?」
「話が早くて助かります」
御舟は相手の返事を待たずに、うなずいた。それに流されるように、男もうなずく。反射のようだが、お互いに承諾と認識したらしい。
「では、間宮悠さん」
御舟は私が男の名前を知らないことを気遣ったのか、わざとらしく呼びかけた。とうの間宮は答えず、眉間にしわを寄せた。御舟はそんな反応を意に介さない。
「浮田利恵さんは、ここに?」
「いえ、朝出ていきました。着替えでも取りに行ったんじゃないですかね」
「自宅が燃えたのに?」
「さあ。様子を見に行ったのかもしれませんし、俺以外の知り合いのところに行ったのかもしれません」
間宮の口調はいかにも他人事だった。
「中でお話をうかがっても?」
御舟がそんな間宮の意識の流れを変えるように問いかける。間宮は面を食らったのか、素直にうなずき、私たちを部屋の中へと案内した。玄関から廊下を経てまっすぐ進んだところにある居間だ。廊下には両側に扉があるが、寝室か何かだろう。2LDK以上か。なかなかの暮らしぶりだ。
居間は驚くほど殺風景だった。テレビとローテーブルとゴミ箱くらいしかない。ミニマリストというやつだろうか。ただ、間宮の人生に倦んだような外見からは、そういった生活を楽しむタイプには見えない。
「水くらいしか用意できませんよ」
「結構。座る必要もありません」
間宮は無視してローテーブルのそばに座り、私たちにも座るよう促す。御舟は黙って従った。私も添え物のように座る。水は用意されないようだ。
「浮田利恵さんとは、いつから交際を?」
御舟がいきなり始める。まあ、前置きなど必要としていないのは、僕も同じだ。
「正式な交際ではありませんが、七年ほど前から親しくさせていただいております」
「出会いはどこで?」
「職場です。同じホームセンターで働いています」
「浮田さんはパートで、あなたは正社員ですか?」
間宮は首を振った。
「いや、私もパートです」
「失礼ですが、理由をおうかがしても?」
「理由とは?」
間宮の声が低くなる。確かにセンシティブな質問ではあるが、相手が不快になろうと、聞くべきことは聞いておかねばならない。御舟が聞かなかったら、私が聞いていた。
「間宮さんはおいくつですか?」
「来月で四十七です」
「正直に申し上げて、その歳の男性でパート従業員なのは、何かしら後ろ暗い事情があると勘繰るものです」
ストレートすぎだろう、御舟。もう少し言葉を選んでほしい。
間宮が赤くなった顔をゆがめた。
「偏見ですね」
「こういう仕事をしていると、そういった偏見に裏切られたことがないんですよ」
「私が放火犯だと疑っているのですか? だとしたら証拠を見せてください。ただの事情聴取で、少なくとも馬鹿にされるいわれはないでしょう?」
御舟が言葉に詰まった。さもありなん。胸の奥がすかっとするが、不利益をこうむるのは僕も一緒だ。仕方がないので、切り出すことにした。
「素直に喋ったほうがいいですよ」
「あ?」と、間宮が露骨に僕を見下す。
残念ながら、僕はそういった態度に出られると、わくわくするのだ。次の瞬間、相手が僕を怖がるようになるのがわかるから。
「あなたは放火犯ではないのかもしれない。しかし前科があり、かつ今も現在進行形で犯罪をおかしている。おそらくは詐欺、きっと結婚詐欺で」
御舟が横目で僕を見て、口角をあげる。
「なんですか、急に。失礼ですよ」そう言いつつも、間宮の顔は強張っていく。そして、ようやくまともに僕と向き合った。「だいたい、根拠はあるんですか? いきなりやってきて、人を馬鹿にするのはやめてください」
間宮は、自分が起こっていると、僕たちに思わせたがっている。でも、本当の今の感情は真逆だ。隠そうと必死になるあまり、表情や声から零れ落ちている。思ったより、素人の犯罪者らしい。僕は指を一本あげ、部屋全体を示した。
「根拠はこの生活感のないシンプルな部屋です。こういった暮らしを求めているとは思えない。なぜなら、ここには文化のにおいがしません。ではなぜか? そう、いつでもこの生活を捨てられるようにしているのです。パートというのも、同じでしょう。あなたはすぐに逃げられる生活をしている。だとしたら、他人とのつながりはリスクです。でも、女性と交際している。考えられるのは、女性と交際して何かがあったときに逃げられる生活を築いているのでしょう」
僕の推理が今の段階では穴があり、不完全であるのは認める。だがその穴は、間宮の対応で埋めるつもりだ。
幸運なことに、僕の推理は正しいらしく、間宮はじっと黙っている。何か言わねばと必死で考えているのがよくわかる。それらしい言い訳が出てこないのだろう。
例えば、他にも部屋はあるのに、その話はしようとしない。きっと、他の部屋も居間と同じくらい何もないにちがいない。この町の家賃相場はわからないが、パート従業員が一人で住むには広い。収集癖もなさそうな彼が無理をして住むまっとうな理由は思いつかない。この広さに喜ぶような女性を標的としているのだろう。ワンルームでは貧乏くさいと感じたのではないか。
間宮の次の言葉を待っているが、一向に口を開こうとしない。じれたらしく、御舟のほうが動いてしまった。
「答えなくてかまいません。あとで警察のデータベースで調べておきますので。ただ、次に俺たちがここに来るときは、あなたの逮捕状を持っていると思ってください」
間宮ははっとして、御舟を見た。
「まだ何もしていない!」
「なら、何をしようとしていたんですか?」
このように人を追い詰めるときに御舟には、人間の心が失われているように感じる。抑揚も感情も感じられない。
間宮は唇を震わせると、自分に言い聞かせるように首を何度も振った。
「まだ、は言葉の綾です」
「人間、考えてもいないことを口にしませんよ」
御舟に慈悲はない。
「私に何をさせたいのですか?」
「真実」
間宮の問いかけは少しずれている気がするものの、御舟が即答したため、そのまま流れてしまう。間宮は座った状態でわずかに後ろへ下がった。うつむいたせいで顔が見えなくなったが、声は聞こえてきた。
「わかった、まずは訂正する。俺は過去に結婚詐欺で服役していたことがある」
御舟がわざとらしくため息をついた。
「さっきまで丁寧語だった人間が、本当のことを話すときになると急にため口になるのは、非常に不自然だと思いませんか?」
「は、はい。すみません」
「俺はどっちでもいいんです。だが、一貫していない人間の証言は信用に欠けるのも、残念ながら事実でしょう?」
「はい……」
あっという間に間宮が萎縮した。御舟はいつも、こうやって主導権を握っているのだろう。僕は好きになれないやり方だった。それに、法を守る警察官としては危うすぎる。
「では、間宮さん。最初から話してください」
こうして間宮は、ぼつぼつとだが、素直に話しはじめた。
結婚詐欺で懲役となった彼は出所し、まじめに働こうと、知り合いが誰もいないこの町に来たという。四十をすぎた前科者が、地縁のない中で職につくのは大変だったらしく、当初はコンビニバイトをしていた。
ただ、本人は覚悟していたこともあり、思ったよりも居心地はよかったとのこと。
しかし、今からすれば二年前のことだが、バイトを始めて半年ほどして、自宅に差出人不明の手紙が届いた。中には、彼の犯した罪が事細かにつづられていた。これでもう、この町には住めない。そう思ったそうだ。だが、手紙にはその先があった。
黙っていてほしくば、言うことを聞け、と。
中年で身寄りがなく、再就職先を見つけるのが困難な間宮に、選択の余地はなかった。
その「言うこと」というのが、浮田利恵と親密な交際をする、というものであった。方法の指定はなかったが、浮田利恵の写真と住所や職場といった個人情報は同封されていた。
「確かに私は詐欺師ですが、ナンパが得意なわけではないんです」
途中、間宮はものすごくどうでもいい愚痴をこぼした。苦労したのは事実のようだ。コンビニを辞めて、彼女の職場であるホームセンターにパートとして採用される。さらに、決して社交的とは言えない彼女と距離を詰め、こうして交際に至る。
とはいえ、昨日は二人が一夜をともにしたにもかかわらず、肉体関係の伴わないきれいな関係らしい。浮田利恵が淡泊であることと、間宮が「どうしてもその気になれない」からだそうだ。命令とはいえ、奇妙だった。
奇妙といえば、もうひとつ。結局、働き先を変えられるのなら、間宮は正体不明の脅迫など無視してもよかったのではないか? この疑問は、実のところ口から出かかっていたが、どうにかこらえる。それは結果論にすぎない。うまくいったから、そのようになっているだけで、ダメだったときは別の、それもあまり考えたくもない手段を取っていた可能性は十分にある。
「あなたの過去を知っていると脅した手紙の主からは、その後何かありましたか?」
僕は別のことを口にした。
「あー……一度だけ。彼女、利恵さんがうちに泊まった翌日、ポストに封筒が入っていました。中には一言、『指示があるまで、この生活を維持しろ』と」
「それから指示はないんですね」
「そうなります。誰かが勝手にうちのポストをあさっていなければ」
「――じゃあ、利恵さんとこの関係を続けるつもりなんですね」
浮田が割って入ってきた。間宮は警官の前で、たとえ脅されているという事情があるにしても、詐欺に等しいこの行為を続けると明言した。浮田利恵という被害者がいる。放っておいていい話ではない、ということだろう。
「そうなる……と思います」
間宮は何も考えていないようだった。私たちに知られたことを、きちんと認識しているのか疑わしい。状況は大きく変わっているはずなのに、彼は手紙の駒であろうとしている。
もう少し追及が必要だろう、特に手紙の差出人について。そう思っていたにもかかわらず、御舟は立ち上がった。しかも、
「本日はありがとうございました。また後日、お話をうかがいに来ますが、そのときもよろしくお願いします」
と、部屋から出て行ってしまった。私も慌てて後を追いかける。間宮は何か言いかけていた気もするが、きっと急に聞き込みを終えた私たちに呆然としているのだろう。彼には失礼なことをした。しかし、フォローする余裕さえない。
御舟はさっさと車に乗り込んでいた。助手席に座った私は、まだ困惑していた。
「いきなりにもほどかありますよ」
しかし、御舟はけろっとしているし、いやらしくにやりと笑った。
「だが十分だろう、名探偵さん?」
悔しいが、彼はよくわかっている。
「ええ、今の僕たちの持つ情報では、間宮さんを有用に扱えない。それに、彼は手紙の主が誰か、想像さえついていない様子。さらに追及すると、手紙の主に殺される可能性がある。まあ、これはその人物が一連の事件の犯人だったら、という仮定のもとですが」
「ああ。保護しようにも、今のところは何もできない。逮捕しようにも、いい理由が思い浮かばない。だとしたら、あまり触れずに温存すべきだ」
御舟にしては考えが甘い。間宮が危険なのはわかるが、犯人を見つけるためには多少の危険をおかすべきだった。保護する理屈など、いくらでも作れるはずだ。間宮は犯人を直接知っていなくても、真実につながる何らかの情報を僕に与えてくれたかもしれないのに。
そんな思いを見透かすように、御舟は僕は見てから、車を発進させた。
「不確定なものに人員を割くほど、警察に余裕はない。人間が湧いて出ると思うなよ」
その理屈で来られると、僕はもう反対できない。
「わかりました。それに、間宮悠は逃げないでしょう。手紙の主に完全に支配されていますからね。あとはその主が、彼を殺さないことを祈るしかありません」
御舟は答えなかった。興味もなかったかもしれない。
ただ僕は、今のところ間宮の命が失われる可能性は低いと思っている。人を殺すと、隠しておきたい情報が思わぬ形で表に出てくる。僕の経験上、人を殺すのはかなりのリスクなのだ。場合によっては、即座に殺人者の破滅につながるほどの。
間宮悠というファクターは、僕たちの追っている事件にとって大きいものではない。犯人もそう考えていると仮定すれば、こうして放置を選択せざるを得ない。
実際、僕自身が面倒を見るほどの余裕も重要性もない。自分でも冷たい判断だと思うが、僕の目的はあくまでも浮田紘一を殺した犯人に裁きを与えることだ。僕は絶対にそのことを忘れて、ぶれたりはしない。
「成神、どう思う?」
彼が求めているのも、間宮のことではない。こうして彼と会ったことで、『泣いた顔』事件に関して何かがわかったか、と言いたいのだ。
「浮田くんを殺すつもりだったのは間違いありません。あの念入りで残忍なやり方からすると、それ以外考えられない。でも、それとは別に家も燃やす必要があった気がします」
「どうしてだ」
「あの家にあって、犯人がどこにあるかわからない何かを、絶対に始末したかったからです。場所が不明なら、全部灰にしてしまえばいい」
「……それはなんだと思う?」
御舟の反応がワンテンポ遅れた。何かを隠そうとしているのかもしれない。
「わかりません。もう一度、過去の事件資料に当たってみます。もう妨害しませんよね」
はずみで嫌味を口にしてしまった。とはいえ、取り繕う気も起きないのだが。
「ああ、許可しよう」
僕への意趣返しかもしれないが、改めて聞くと不思議な物言いだった。階級は巡査部長である御舟傑が、実質的にあの警察署を取り仕切っていることを明らかにしている。
署内に『泣いた顔』事件の共犯者――少なくともそれに類する――がいるのは間違いない。特殊な配慮によって、人事異動がほぼなされていないというから、御舟が箸にも棒にもかからない頃から、共犯者は署にいる。にもかかわらず、その人物は御舟が影の権力者になるのを黙って見ていたのだろうか? 数々の妨害に屈さずに、御舟が努力で権力を掌握した可能性ももちろんある。あるが、腹黒権謀術数劇に、そんな頑張りなんて似合わない。どうにも、わからないことが多すぎる。推察はできても、確証までは至らないものばかりだ。
・『泣いた顔』事件の犯人は?
・『泣いた顔』事件の犯人が本当に活動を再開したのか?
・悪人ばかりを狙う犯人は、どうやって被害者を選定している?
・特に、僕がここに来るきっかけになった相澤一郎殺害事件、その犯人が曾根葉月であると、どうして僕よりも早くわかったのか?
・弓削正範が模倣犯として動いていた動機は何か?
・そして、彼があのタイミングで殺された理由は何か?
・浮田紘一殺害の理由と、なぜあのような殺害方法だったのか?
・浮田利恵について、犯人はどう考えていたのか。
すでに僕の中ではある程度結論が出ているものもあるが、まだ曖昧な部分が多く、かつ解答を求めなければならないのは、こんなところだろう。
くそっ。頭の中がぐちゃぐちゃで、何も考えられない。かといって、止まるわけにもいかない。僕は探偵だ。パートナーの死の真相を知らずして、どうしてこの先を生きていけようか。いや、無理だ。
だから、まずは情報収集をしよう。もつれた糸をまずは整理するところから始めるんだ。
御舟とは会話をせずに、今後の動きについて考えていると、自動車が停まった。
「降りろ」
警察署の前だった。
「あなたは降りないんですか。捜査会議はすでに始まってますよ」
「あんなものに出ても得るものはない。進展があれば、どうせ俺の知るところとなるしな。ああ、そうだ。ちょうど今、俺の机に弓削正範のファイルが置いてある。あれは見ておけ」
彼はそのまま行ってしまった。特に止めるつもりもなかった。捜査会議をさぼってまで行くとしたら、彼の妻のところだろう。自分でもどういう心境の変化かは知らないが、私もそちらのほうを優先すべきだと思った。
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