第二部 成神尊 1

 知らない番号からの着信で、僕――成神尊は目を覚ました。

『御舟だ。今から、紘一の家に来い』

「いつ、電話番号を教えましたっけ?」

 僕の問いかけに返事がないまま、電話は切られた。スマホの画面に現在時刻が映る。午前一時二十分。御舟の声はいつもと変わらず、何があったのかはわからない。

 まずは、浮田紘一に電話をかける。着信音は鳴るが、つながらない。嫌な予感がする。

 五分ほどでやめて、僕は御舟に言われたとおり、紘一の家に行くことにした。タクシーを呼ぶのももどかしくて走り出す。

 雨が降ってきた。傘は持っていないし、売っていそうなコンビニも見当たらない。

 雨は煮えきらない雨だった。降るならわっと降ればいいものを、視界がさえぎられない、しかし服が張りつく程度に降っている。不快だが、なんとか我慢できる。いや、我慢なんかしなくないのに、我慢せざるを得ない、どっちつかずの雨だった。

 だから、僕が到着したときも、紘一の家はまだ燃えていた。

 天へ捧げるかのように、一軒の住宅を生贄とした巨大な炎が、僕の視界に入る。まだまだ距離があるのに、その火が僕の頬を焼く。

 何重もの野次馬をかきわけ、消防署員にはサイレンに負けないよう大声で自分の立場を伝え、半ば強引に紘一の自宅に近づいていく。

 外には、紘一も彼の母の姿もない。心臓が早鐘を打つ。いてもたってもいられず、炎に包まれた家の中に飛び込もうとするが、屈強な消防士に羽交い締めにされた。さすがに、力では勝てない。諦めて、中の人のことを聞くが、彼も知らないという。

 そこで、御舟もいないことに気づいた。

 他の警察官は何人かいるし、彼の電話で僕は来たわけだから、知らないはずがない。

 雨とともに、消防士の持ったホースから勢いよく出る水のしぶきが僕にかかる。だが、そんなものを気にしている場合ではない。

 僕は、雨脚が強まる中で、徐々に消えていく炎をじっと見ていた。

 やがて紘一の家が炭の塊になったころ、隣に御舟が立っていることに気づいた。

「ずいぶんとお早いお着きですね」

「おまえまで皮肉を言うのか」

「そりゃあ、人を呼び出しておいて、自分はあとから来るんですから、嫌味を言われて当然だと思いませんか」

「それで、二人はどうした」

「わかりません。消防士もわからないそうです」

「電話はつながったか」

「いえ、あなたは?」

「同じだ。紘一だけでなく、義母さんもな。そっちはスマホの電源を切っているようだ」

 僕は、再度紘一に電話をかけた。やはり、着信音が鳴るだけだった。しかし――

「中にはいない、か」

 スマホの音量を大きくしていたためか、御舟にも聞こえたらしい。まだ紘一のスマホは生きている。御舟は僕に顎で道路を示した。ついてこい、ということだろう。僕は素直に従った。燃え尽きた家の周囲では消防士が今も火種を探している。少なくとも、しばらくは僕たちがいないほうがいい。

 道路の先に、黒のシトロエンエグザンティアが停まっていた。御舟がそこに乗り込むのを見て、私も助手席に乗った。

「濡れたまま乗るな」

「急いで来たんで、何も持ってませんよ」

 御舟はシートの脇に置いていた雑巾をこちらに放り投げた。思わず両手で受け取る

「これ、汚れていますよ」

「でも乾いているだろ」

 そう言って、御舟はスマホでどこかに電話をかけた。横を向いて小声で話しているが、どうやら紘一のスマホをGPSで追跡しようとしているらしい。

 いったん、電話を切り、御舟は正面を向いて深く息を吐いた。

「なぜ僕に電話をしたんですか」

「気の迷いだ」

 御舟は目を閉じてしまう。僕もそれ以上は何も言わず、じっとフロント窓に降り注ぐ雨を見ていた。

 数分後に、バイブ音がし、御舟が目を開けてスマホを取り出した。再び、私に背を向けて話しはじめる。そしてすぐに話を終えて、自動車のエンジンを始動させた。いまだ火事を見ている野次馬たちを轢きかねない勢いで発進し、住宅街に似つかわしくない速度と荒っぽさで走っていく。

「紘一の居場所がわかった」御舟の表情がひときわ厳しくなる。「山にいる」

「山のどこに?」

 私は最悪の予想をした。御舟は返事をしなかった。運転に集中しているのか、同じことを考えているのか。私はシートに深く腰かける。塗れた服が身体にこびりつき動きにくい。

 雨はいつの間にか、やんでいた。

 住宅街を抜け、暗闇の中を自動車のライトとカーナビを頼りに突き進んでいく。

 山に向かって傾斜をのぼっているはずなのだが、地獄へ降りていくような錯覚を覚えた。

 どれくらい経っただろう。長くはないが、決して短いとも言えない時間。自動車がゆっくりブレーキをかけて止まった。

「ここからは歩きだ」

 言葉とは裏腹に、御舟は駆け出した。僕も彼のあとを急いで追いかける。木々が生い茂っている山の中で、ぬかるんだ土に足をとられそうになるも、葉や木の枝といったものが落ちていないせいで、雨上がりにもかかわらず想像以上に歩きやすかった――つまり、走れるほどではなかった。

 僕の不安が増大していく。僕たちが進んでいる道は、すでに誰かが通っている。

 全身から汗が噴き出し、息はあがり、目がかすみ、足は震える。それでも、先を行く御舟に食らいついていくと――開けた場所に出た。

 そこには草がなく、地面は土だった。それも、最近踏み固められたあとがある。

 ここで、御舟傑が立ち止まった。最悪だ。

「御舟さんは至急応援を呼んでください!」

 僕は叫ぶと同時にかがみ、素手で土を掘りはじめる。もちろん、踏み固められたところを。やばい。かきわける。土が穴に落ちては困るし、遠くまで捨てにいく余裕もない。だから、かくときはなるべく遠くへ遠くへと放り投げるようにする。それでも、全然穴は深くなっていかない。

「何か板とか探してきて、そいつを使ったほうが早くないか?」

「くだらないこと言ってる暇があるんなら、さっさと掘れよ!」

 御舟の提案に怒鳴り返した。紘一が嫌うのも当然の男だ。

「こんなところで僕の足を引っ張るな!」

 怒りを溜めていられなかった。

「落ち着けよ、名探偵」

 そう言いつつも、御舟も膝をついて僕のように素手で土を掘りはじめた。

 そこからは必死に掘り進めていった。何度か互いのかいた土が穴に入り込み、怒鳴り合いになったが、手だけは止めなかった。それでも、何も出てこない。何も聞こえてこない。

 やがて、御舟の出した応援がやってくる。御舟は立ち上がって、彼らにすべてを任せた。僕は無理やり引きはがされ、少し離れたところに座らされた。彼らは持参したスコップで乱暴に掘り進めていく。早い。僕は、スマホで紘一の番号にかけてみた。鳴る。しかし、こちら側では何も聞こえない。

「乱暴に掘らないでください!」

 彼らを指揮する御舟が振り向いた。

「土にスコップの先端を入れるときは、細心の注意を払っている! そりゃあ危険がないとは言わないが、のんびりやっているわけにもいかないのは、おまえにもわかるはずだ!」

「わかっています。でも、それでも気をつけてほしいんです!」

 御舟は首を振ると、再び穴に向き直ってしまった。

 何度か穴に近づこうとしたが、そのたびに邪魔をされる。

 目の前の光景を眺めているうちに、激情の中にも探偵としての本能が動きだしていた。それは、無慈悲に結論を伝える。いや、ここにいる他の人は、とっくにこの結論にたどりついている。僕が心をかき乱されていただけだった。

 やがて、彼らは何かを掘り当てた。

 これまでの騒々しい場だったが、それに輪をかけて怒号が飛び交う。御舟が顔をこわばらせて穴に駆け寄った。僕はただ見ている。行くだけ無駄だし、もう何がどうなるかわかっている。人間がどれだけ息を止めていられるのか?

 数人が穴に降り、何かを地上へ運び出した。

 木箱だった。もちろん、人間が一人余裕で入れるほどの。

 蓋は釘で打ちつけられていたようで、誰かがいったんその場を離れたかと思うと、すぐに釘抜きを持ってきた。すぐさま、蓋をこじあけにかかる。

 蓋が開いた。みなの顔から表情が消える。

 しばらく前から無表情だった御舟が、私を手招きした。要件はわかっている。私は立ち上がり、止まることなく木箱の中を覗き込んだ。

 ――ああ、やっぱり。

 横たわる浮田紘一を見て、僕は頭の片隅でそう思った。

 顔をあげて、御舟にうなずく。彼もわかっていたろうに、わざわざ私に確認させたのだ。それがどういう配慮なのかは、あとで考えることにしよう。

 再び紘一に視線を戻す。見るのはつらい。でも僕は見なければいけない。名探偵として、情報を得なければいけない。こんな気持ちは初めてだ。因果応報のひとつかもしれない。

 紘一は苦悶の表情を浮かべていた。目にはうっすら涙のあとまで見える。木箱に入れられ、生き埋めにされた。

 窒息による死。

 さぞ怖かっただろう。さぞ苦しかっただろう。手はスマホを強く握りしめている。きっと僕からの着信履歴が画面を埋め尽くしているはずだ。彼は僕の救いを求めていた。僕はそれに応えられなかった。

 触れたい。紘一に触れたい。でも、それはいけない。感情によって、現場の保存をおろそかにしてはいけない。僕はここにいてはいけない。

「帰ります」

 僕は近くにいるであろう御舟に声をかけ、この場を立ち去ることにする。誰もあとを追いかけてこなかった。それもそのはず。そうしてくれる人はもう死んだのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る