断章3

 家宅捜索を終えた御舟傑は、署に戻らずにそのまま自宅へ帰った。

 捜査本部があるにもかかわらず、しかも無断で帰宅することに、署長や管理官あたりは渋い顔をするだろうが、それだけのことだ。直接口を挟むことはない。

 もちろん、正義感にかられて、あらゆる事情を捨てて御舟を排除しようとする可能性はある。しかし、それはそれでいいと思っている。事件が終わるのであれば文句はない。たとえ、自らの身がどうなろうと。

 御舟は、自分に能力があるとは微塵も思っていない。覚えも察しも悪い。だから、どうしても解決しなければいけない事件のためなら、修羅になるしかないし、自分を捨てるしかなかった。感情を切り離して物事に向き合う。すべてを事件解決までの導線と考える。利用できるものはすべて利用するし、必要があれば法律も忘れる。

 自宅マンションの鍵を開けた御舟は、まっすぐ資料部屋へ行く。その六畳の部屋は、三面の壁それぞれに巨大な棚を置いている。そして棚には、署の資料室にある『泣いた顔』事件に関する書類のコピーと、八年前から秘密裏に集めた資料が収められていた。

 御舟は棚から、一つのファイルを取り出す。

 弓削正範の情報を集めたものだった。

 中身は覚えている。だが、御舟は自分の頭脳を信じていなかった。曖昧なところが少しでもあってはいけない。ゆえに、資料を改めて確認したかった。

 彼が殺された動機は、わかっている。

 弓削正範は、悪人だった。この町の副町長という立場を利用して、好き放題やってきた。町の公共事業に対する談合、およびそのキックバック。町の予算の私的な流用、横暴な人事考課に基づく町役場の私物化、軽犯罪のもみ消しの斡旋(これは彼だけの問題ではないが)、特定の町民への盗撮盗聴……

 役場の人間はみんな知っていたが、彼を告発すれば、その人物だけなく家族までこの町にいられなくなる。まさに、あの真犯人の標的にふさわしい。むしろ、八年前に無傷であったことのほうが驚きだ。可能性があるとしたら、犯人ですら、弓削の悪行の証拠をつかめなかったか。それは、ありそうだと、御舟は思った。証言は得られず、証拠も残さない。

 当初、弓削を調べていた御舟もそう考えていた。しかし、それは大きな間違いだった。弓削を調べただけではわからなかったが、警察署内部の調査をしていたときに知った。

 警察は、弓削の捜査を密かにおこなっており、不正の証拠を手に入れていた。だが、残念ながら逮捕手続きに入る前に消えている。実際、御舟は警察署の隅から隅まで調査しているが、弓削の不正にかかわるものはなかった。おそらく、弓削に近しい人間が、署にもいるのだろう。もみ消しもその人物が関わっているにちがいない。

 これは、御舟が警察でもあえて孤立し、一人で動いている理由でもある。

 署員に隠蔽に手を貸す者がいる。八年前の事件があったために、ほぼ人事異動がない特殊な警察署である。今もそいつは署内にいるのだ。それが誰なのかわからない以上、誰にも隙を見せるわけにはいかない。ただ、証言も証拠もないとはいえ、すべてが無というわけではない。弓削の内偵を担当していた人間はわかっている。

 浮田日出美――御舟の妻、楓と浮田紘一の父だ。

 彼が八年前に殺害される前に、交番勤務の合間を縫って調べていた。刑事課から異動になったのも、弓削を調べるためだったようだ。署員を内偵する可能性もあってか、そのことを知る者は上層部のごく一部に限られている。報告も署にはあがっていない。その前に命を落としてしまった。ただ、警察署にはなくても、彼の自宅には何かあるかもしれない。何か成果があれば、どこかに残しておく必要はある。

 数年前にはこの結論に至っていた。だが、いまだに義父の自宅を訪ねられていない。これを知ったときには、すでに楓の意識はなく、義母との関係は互いのプライベートに足を踏み入れられるようなものではなかった。しかも、弓削や彼の周辺の人間にはアリバイがあり、義父の殺害犯でも、妻の暴行犯でもないのは確定している。

 今までは無理に探る必要はなかった。もう、そうは言っていられない。弓削正範は八年前の事件について、何かを知っている。でなければ、模倣犯になどなるはずがない。

 しかし、その理由が手持ちの情報からは何も出てこない。

 御舟はため息をついた。

 諦めて、浮田と成神にすべての情報を提供すべき時期に来たのかもしれない。

 気は進まない。プライドと嫌悪と、自らの無力さをかみしめなくてはならなくなる。

 ふいに、机に置いていたスマホが震えた。署からだ。通話ボタンを押す。

 焦ったように話す署員の報告を聞いていくうちに、御舟の手も震えた。

 ――浮田の家が全焼した。

 彼は直感した。自分は真犯人に先を越された、と。

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