第一部 浮田紘一 7-2

 しばらく無言で歩き、蕎麦屋をすぎ、自販機のそばにあるごみ箱も通りすぎ、成神の滞在するホテルが見えてきたところで、ようやく彼が口を開いた。

「本当に手詰まりだね。もう言い切るしかない。御舟さんの前では、ここでなくてもできるよ、と強がったが、警察署内で情報収集ができないとなると、あとは……」

 成神は言葉を切って、首を振る。優しい彼は言えないのだろう。だから、私が代わりに声に出す。

「新しい犠牲者が出るのを待つ」

「それを求めるのは、探偵として負けだよね、やっぱり」

 成神が苦笑する。

「事実なら、認識すること自体は罪にならないと思うよ。それに、必ず死者が出ると決まっているわけじゃない。あの醍醐祥のように、未遂で終わる、もしくは警告もどきで終わる可能性だってある」

「そうだね、そうであることを期待しよう」

 私も成神も、そんな理想的なことにはならないと思いつつ、ホテルに戻るのはやめて、その辺をぶらぶら散歩することにした。田舎の町である。さして収穫はない。コンビニでシュークリームを買い、成神の部屋で食べて解散である。

 次の二日間、私と成神はどこにも行かず、ホテルの部屋にこもって悶々とした日々を過ごした。

 帰宅するのは、どうしても遅くなる。日付が変わるほどではないが、夕飯を食べるには適さない程度に。とはいえ、ただでさえ食が細いのに、仕事に夢中になると寝食を忘れてしまう成神の前で食事をするのも気が引けた。だから、帰宅した頃には、意識が朦朧とするほど空腹だった。

 母は二日とも夕食を用意してくれていた。もうすっかり冷たくなってしまったそれを、レンジで温めなおしている中、さして興味もなさそうに仕事の進捗を訪ねてきた。

 自分の母親ながら、無言も気まずいが、何か話さなければいけないという空気も気まずい。そもそも、私の顔を見ながら話もしないわけで。

「ああ、順調に進んでいるよ。相棒の名探偵が頑張っている」と一日目はあたりさわりなく言った。本当のことは話せないし、話しても意味がない。二日目の同じことを聞かれたが、そのまま同じ答えを返すのも嫌だったので、

「自分も単なる助手ではなく、真相解明の一端を担うことがよくあるんだ。特に今回は地元だしね。もう少しだよ、きっと。さほど時を経ずして、すべてが見えてくる」

 と、わずかに自分を持ち上げてみた。いくら溝のある親子関係でも、多少は自分をよく見せたくなる。もちろん、返ってきた反応は、レンチンした夕食よりも冷えていたが。

 そして、三日目の朝、寝起きだった私のスマホが着信を告げる。

 相手は御舟傑だった。

『成神をつれて、すぐに来い』

 同時に、メッセージに目的の場所の住所が送られてきた。それは個人宅のようで、心当たりはない。今回の事件だけでなく、あの男と出会ってから、一度もなかったことだ。

 私は全身の毛が逆立った。急いで支度をして成神を回収し、指定された場所へ向かった。成神も私の様子から、事情はわからなくとも何か重大なことが起こったと考えたらしく、その表情はこわばっていた。

 目的地は、一軒家だった。昭和の時代に建てられたと思しき、庭や勝手口がありつつもコンパクトにまとめられた一般的な住宅である。

 今は、門のところに警官が立っている。マスコミや醍醐の姿はない。

 表札を見て、私と成神は思わず目を見合わせた。

 ――弓削。

 だが、言葉を交わすことなく、私たちは警官に名乗った、すると成神から話が通っていたようで、すんなり中に通された。当然のことと言えばそうなのだが、ここまで便宜をはかった浮田に驚く。同時に、息苦しさを感じた。この家で何が起きたのだろう?

 扉を開けると、薄暗かった。さして広くない玄関には革靴が大量に散乱している。全員のものをきちんと並べる義務も時間もないので、私と成神は自分たちのものだけ隅にそろえて置いた。玄関あがってすぐのところに上へあがる階段があるが、話し声は一階の奥から聞こえてきた。成神と私はそちらへ足を向ける。

 そこは居間だった。燦燦と光が降り注ぎ、カーテン越しに庭が見える。ただ、そこは雑草が生え放題の殺風景なものだったが。御舟と鑑識の二人がいた。

「来たか」

 舌打ちのような物言いで、御舟が私たちに言う。しかし、私は返事ができなかった。おそらく成神も同じようで、横から息を呑む声が聞こえた。

 血を見るのも、死体を見るのも、初めてではない。それでも、思わず声が出るほど、凄惨な現場だった。部屋の壁という壁、そして天井までもが、血で赤く染まっていた。窓に血がついていないことが不自然に見えるほどだ。さらに、中央に横たわっている死体は、上半身が切り開かれ、内臓がむき出しになっている。死のにおいが、私の鼻を侵食する。

 死者は、この町の副町長であり、私たちの依頼主の一人でもある、弓削に間違いなかった。小さく、とらえどころのなかった老人だったが、冷たくなった今は別の印象を受ける。

 きれいに真っ白な頭髪、まっすぐに伸びた鼻、意志の強そうな大きい口。

「なんという堂々たる姿。命を失った肉体を見て、はじめてこの人の真実が見えた。弓削さんこそが、この町の中心にいたんだ。いわば、この町の王が死んだ」

 成神がつぶやいた。私も同じ思いだ。

「正しくは、殺された」と、御舟が反応する。

 成神の目線が彼に向けられた。

「さらに正確を期するなら、弓削氏は『泣いた顔』事件の犯人に殺害された」

「なぜわかる」

 私が問いかける。しかし、答えたのは微笑んでいる成神だった。

「ご丁寧に、御舟さんは事件現場をそのままにしてくれている。そこを見てごらん」

 彼が指をさす先には、一本の血まみれの包丁が落ちていた。刃が十センチ程度と短い、小出刃包丁と呼ばれるものだ。

「こんなもので、弓削さんの上半身を切り裂いたのか。いかれている」

「いや、犯人はきわめて理性的に殺している」

 以前のような成神だ。楽しげで自信に満ちている。

「浮田くん、簡単なことだ。犯人は、この小出刃包丁を使って人を殺さなくてはならなかったんだ。つまり、凶器は先に決まっていたんだ」

「なぜそう言い切れるんだい?」

 私は当然の疑問を口にした。すると、成神は御舟に目線を向ける。

「僕からしたら推理なんだけれど、ここは真実を知っている御舟さんに教えてもらおうじゃないか」

「えっ」と私は間違いなく眉をひそめたはずなのに、意外なことに御舟はうなずいた。

「いいだろう。俺もくだらぬやり取りで時間を浪費するつもりはない」

 御舟が手袋をした手で、小出刃包丁をつまみあげた。

「こいつは、八年前の事件で使われた凶器――より正確に言えば、暴力団員の林正治の命を奪った包丁だからだ」

「はっ」私はつい、鼻を鳴らしてしまった。「自分が何を言っているのか、わかっているんだろうな。あの事件の凶器は、見つかっていないんだぞ」

 しかし、私の肩に手を置いたのは、成神だった。

「覚えているかい、弓削さんは左利きだった。でも、この小出刃包丁は右利き用だ。片刃の刃物には、利き手の概念がある。右利き用を左利きの人が使っても、切れやしない。もちろん、刺すだけなら利き手なんて関係ないのかもしれないが、これだけ切り刻まれていれば、この小出刃包丁が弓削さんのではないは明白だろう」

 私は肩に置かれた成神の手を、ゆっくりおろした。

「それはわかったよ。でも、凶器が弓削さんのではないということが、八年前の事件の凶器である証拠にはならないだろう」

「もちろん。それだけじゃない。御舟さんが意味もなく僕たちを呼び出すとは思えなかった。だから、この件は何かあると思っていた。君もそうだろう? 最初は、模倣犯の犯行だと判断し、僕たちに任せるために呼んだ可能性を考えた。でも、この陰惨な光景を見て考えが変わったよ。もっと大きい話ではないか、とね」

 御舟の手に負えなくなったんだろう、と私だったらぶちかますが、成神という男は思慮も分別もあるせいで、ここまでマイルドになってしまう。それでも――

「ただの勘、ということか」

 御舟が皮肉を飛ばした。だが、成神は朗らかに笑う。

「僕にしては珍しらしく非論理的ですが、間違っているとは思いませんね。さあ、くだらぬやり取りで時間を浪費するつもりはないんですよね。早く根拠を教えてください」

 言ってやったつもりの御舟が、反対に口をゆがめた。そして、懐から小さなビニール袋を取り出し、包丁とともに掲げた。ビニール袋の中身は、小さな金属片だった。

「公表されていない情報だが、林正治の体内には、こいつが残っていた。そして、この小出刃包丁を見ろ。先端が欠けていて、この金属片とぴったりあう。これが、根拠だ。八年間見つからなかった凶器が、再び人を殺した」

 成神は口をすぼめて、少し嬉しそうだったが、私は呆然としてしまった。まずは、指摘しなければ気が済まない。

「え、証拠品を持ち歩いているのか」

「持てるものはな。当たり前だ」

「きもっ」

 私は素直な感情を吐き出した。

 鼻で笑うかと思ったが、予想に反して御舟は眉間のしわを深めた。しかも、それ以上はそのことに触れず、成神に目を向けた。

「名探偵、動機はどう見る」

「この数日で『泣いた顔』事件の犯人による犯行と考えられるのは、二件ありました。曾根葉月さん殺害と醍醐祥さん襲撃。前者はおそらく私に対する、後者は醍醐さんに対する警告と考えられます。では、今回はどうか。弓削正範さんは殺害されたから、彼自身に対する警告ではない」

「ならば、再びおまえたちへの警告ととらえるか」

「まさか。私たちが何を見つけたというのです」

「依頼人だろ、弓削は」

「知っていたんですね」

 御舟はさして重要ではないと言いたげに、軽く肩をすくめた。

「依頼人だから殺された、というのは、『泣いた顔』事件の犯人の行動ではありません。弓削さん自身に何かがあったと考えるべきでしょう」

「それは何だと思う」

 御舟の追及に、成神は苦笑した。今はまだ推測の段階にあるのは、私でもわかる。確実でないことを口にするのは、彼の流儀ではない。しかし、御舟が許してくれそうにないので、仕方なしにといったふうに、成神は答える。

「弓削さんもまた死に値する罪を追った者なのか、私たちよりも早く真実に到達していたか。そのどちらかです」

「前者だ。なぜかは聞くな。だが、弓削が犯人を知っていたとは思えない」

 御舟が言うと、成神はかすかにうなずいた。

 私もわかった。御舟は弓削のことをかなり深いところまで調べ上げているのだ。もちろん、その情報は違法なものも含まれている。

「そうなると、弓削さんの罪はどこにあったのか。昔から悪人だった。そうだとしたら、八年前に殺害されていてもおかしくありません。それとも、八年前にはわからなかった事実が、ようやく手に入ったのか。それも違うでしょう。弓削さんの在り方は変わっていない。八年前も今も、彼に対するアプローチが変わったとは思いませんね」

「もったいぶるな。結論を言え」

 成神がわざとらしくため息をつく。

「どうせ、あなたも知っているでしょうに。わざわざ確認のために、人の意見を聞くんですか。そういうタイプだとは思いませんでしたよ」

「いいから、早く」

 御舟が本当にいらだっている。それを見た成神は心なしか嬉しそうだった。まあ、弓削の死体おまえにはしゃぐわけにもいくまい。

「弓削さんが里見茂さんを殺した模倣犯だった」

 成神が言い切った。御舟も苦々しげな顔だが、否定はしない。同じ結論なのだろう。にもかかわらず変な表情なのは、彼のねじくれた精神の表れである。

 もっと素直に、成神に驚くべきだ。私は驚嘆している。

 そんな人間には思わなかった。いや、これまで成神とともに解決してきた事件の犯人は、多くが犯罪などするようには見えない人ばかりであった。だがそれでも、あの影の薄い助役が人殺しとは思えなかった。なにせ、依頼人である……ん?

「ということは、弓削さんは模倣犯として八年前の事件を追っていたが、自信がなくなって私たちに事件解決の依頼をした、ということなのか」

 成神はかぶりを振った。

「まだわからない。ただ、あまり信頼されていた気はしないんだ」

 弱々しい。無理もない。この町に来てから、彼の誇りは様々な形で打ち砕かれている。これまでの功績を考えれば、不当な扱いなのは間違いなかった。

 それもこれも、目の前の御舟傑から端を発しているわけである。

 私がにらんでいるのを気づいたのか、彼が口元を吊り上げた。

「小さな町だ。よそ者と故郷を捨てた者には厳しいんだよ」

「それは御舟も同じじゃないか」

 御舟は私に返しに対して、眉ひとつ動かさない。

「そのとおりだ。だから、こうして苦労をしている」

 そう答えると、何も言わずに現場検証に戻ってしまった。

 自分勝手に動いていた御舟に、成神は呆れたようだ。

「彼の警官としての未来が非常に心配になるね」

「なに、以前から真っ暗闇だよ、あいつは。姉さんがいなければ、何にもできないやつだ」

 成神が無言になる。気持ちはわかる。これは感情の問題であり、個人的な問題でもある。今の様子を見れば、いいか悪いかはともかく、八年前のような無能でないことは確かだ。しかし、それを私が認めるのは、お門違いである。

 私はため息をつく。これをこの話題の終わりととらえた成神が口を開いた。

「僕たちはここを出よう。家宅捜索で何かしらが出るはずだ」

「御舟が教えてくれるかな」

 成神は微笑み、声をひそめた。

「きっと教えてくれる。こうして僕たちをここに呼んだように、彼は彼で打つ手がなくなりはじめている。僕たちも、利用しなければいけない駒と考えているはずだ」

「それでも、駒、なんだね」

「ああ、いいさ。捜査に関われるなら。浮田くん、君も同じ気持ちだと思うけれど、僕は弓削さんがたとえ模倣犯であったとしても、僕たちを利用しただけだったとしても、この事件の真相を暴くつもりだ」

 私はうなずき、そして不謹慎な話だが嬉しかった。八年前から続く事件が、私だけのものではなく、成神にとっても乗り越えねばならないものになったことに。

「成神、これからどうするんだ。今日も何もせず、あの男からの知らせを待つか」

「まさか」

「彼が僕たちを駒にしようというのなら、こちらも彼を利用させてもらおうじゃないか。さあ、急いで警察署に行こう。彼が不在の間に調べられるだけ調べるんだ」

 成神の笑みが不敵なものに変わる。

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