第一部 浮田紘一 7-1
目が覚めると、見知らぬベッドにいて、服を着ていない。隣には成神尊がおり、同じく全裸だった。彼は青い顔をして、うめいている。ばっちり目が合った。
反射的に起き上がろうとしたら、彼にあるまじき怪力で、私の腕をつかんできた。ここまでの経緯が思い出せない。
「え、いや、あ、その、まあ、とりあえず……話し合わないか?」
「違う、違うんだ、浮田くん」
手を振り払おうとしても、まるで引きはがせない。成神は苦しそうで、しかも必死そうだった。こんなにせっぱつまった彼を見たことがない。かの名高き名探偵が、こんな顔をするなんて……。そう思っているうちに、私は抵抗するのをやめていた。
「わかった、もういいよ」
成神は安堵した様子で、身を起こした。
「まずは、ありがとう。そう言わせてほしい」
反応に困る。そこまで言われるほどのことはしていない。記憶にある限りでは。
成神があぐらをかいた。名探偵の裸に動揺する。私たちは仕事仲間だし、大学時代からの友人で、一緒に風呂に入った経験くらいそこそこあるのだが、こうがっつりと全裸で対面したことはない。
私が気まずく成神の次の言葉を待っていたら、彼は突然そのまま頭を下げた。
「昨夜は、申し訳なかった」
「なぁっ」痰が喉にからまった。「な、なにが?」
語尾が不自然に跳ね上がる。成神が不審そうな顔をする。あまつさえ、顔をぐっと近づけてきた。
成神の顔の造作は整っている。学生時代は、私の片思いの相手も含めて、よく告白されていたし、現在でもファンクラブが本人に内緒で運営されているくらいなのだ。ちなみに、私は名誉会員らしい。だからどうした。
しかし、誰かと付き合ったという話は聞いていない。一度、軽く聞いてみたら、「仕事が恋人だよ」と宣った。ずいぶんといいご身分である。ただ、まるっきり嘘でもないと思える程度には、傍から見ていても探偵活動は好きそうだ。
「僕は実にダメなやつだった」
名探偵成神尊の、持ってまわった言い回しに加えて、なかなか本題に入ろうとしない態度に、こんなにもドキドキさせられるとは思わなかった。
しかも、私の目をじっと見つめて、反応を求めている。本当に、ここで要るのか? もう少しあとじゃないのか? 事件関係者を集めて真相を暴くときは、確かにみんながちょこちょこリアクションを取ってくれていたが、ここでも期待するのか?
だが、私も名探偵の助手。掟には従うべきだ。
「い、いや、そんなことはなかった……と思うよ」
うまく言えなかった。すまない、成神。
けれど、彼はなぜか目をうるませて、両手で包み込むように私の手を握った。
「ああ、そう言ってくれるのは君だけだよ」
あれ? 成神ってこういうやつだったっけ? 戸惑っているうちに――
「友よー!」
抱きつかれて、押し倒された。私は諦めて、運命の刻を待ったのだが……いつまで経っても何もない。しばらくして、寝息が聞こえてきた。成神は寝た。少しほっとする。
私は彼を引きはがして起き上がり、服を着ると、部屋に備えつけられた椅子に座った。時計を見て時間を確認する。午前二時。だが目は冴えていた。
そういえば、今日は昼から飲んでいたのだ。私も成神も酒臭い。
醍醐祥からうまく話を聞けず、調査も進展せずで、やけ酒をかっくらっていた。そしてそのまま酔いつぶれて記憶をなくし、今に至ったらしい。肝臓のあたりに重みを感じるが、二日酔いにはならなそうだ。
ということは、今の成神の言動は、酔っぱらっていたからなのだろうか。『ダメ』とは、真相に至ることができていない自分自身への不甲斐なさについて、だったのかもしれない。
裸であった理由は定かではない。ベッドのそばに脱ぎ散らかした私と成神の服が落ちている。まったく覚えていない。
とりあえず何もなかったようなので、このことはもう忘れよう。
スマホを見るが、特に変化はない。母親に連絡した形跡はなく、向こうからも何もなかった。一人暮らしをしているときも、こちらから電話やメールをしない限り、ほとんど連絡を寄こさない人だったが、帰省中で今までの夕食は自宅でとっているのに変わっていない。必ず手料理を食べさせてくれるのに、それがどうなっても気にならないのだろうか。
ただ考えてみると、警察官を身内に二人も持っっている人間は、自然とそうなるのかもしれない。温かい料理を食べさせる努力など、簡単に無になってしまっていたはずだった。
そういう意味では、母は寂しい人なのだ。しかし、これまでそんな風に思うことがなかったのは、一緒に暮らしている間は自分のほうがつらいという思いが強かったからだし、離れていたときは母のことをほとんど思い出さなかったからだ。
薄情なのは、私のほうか。なんだか母が恋しくなった。今から帰っても寝ているだろうが、夕食は置いてあるかもしれない。冷たいのも含めて、浮田家の味だ。
――帰ろう。そして、成神はどうしよう。
彼は全裸で枕に顔をうずめている。ほんと、こういうノリの男ではなかったのに。これまで私の中で培ってきた、名探偵としての燦然としたイメージが崩壊していく。あっ、今おならした。結構かわいい音を出すな、こいつ。いや、こうして酒を飲むことが初めてで、私たちはまだまだ本当の自分を相手に晒していなかっただけのことなのだ。
ふふ、と思わず笑みがこぼれる。
エアコンにより室温は快適に保たれているから、このまま放っておいても問題はない。さすがに私の手で着替えさせるのはごめんこうむる。
じゃあな、成神。いい夢見ろよ。
人通りはなく、街頭でさえ申し訳程度にしかない暗い道を歩き、自宅へ戻った。蛍光灯のブーンという無機質な音を聞きながら食卓に行くと、果たして夕食が用意されていた。小さな声で「いただきます」と言って、ゆっくり静かに母の味をかみしめる。冷えていて、おいしかった。
だが、翌朝顔を合わせた母はやはり淡泊な人で、おはようの挨拶以上の会話をすることなく、私は家を出た。ホテルの前では、普段と変わらぬ成神尊が待っていた。
「やあ、浮田くん。昨日は楽しかったね」
肌がつやつやしている。私の知らない楽しかったことでもあったのだろうか?
私は黙って力強くうなずいた。こうすれば、もうこの話題に踏み込んではこないはずだ。
「さあ、行こう」
案の定、成神は私に背を向けて歩き出した。なぜか微妙に耳が赤い気もするが、私の見間違いかもしれない。
「なあ、もう警察署に行かなくてもいいんじゃないか」
「なぜだい?」
成神は振り向きもせず、歩みを止めることもなく答える。
「過去を掘り返したって、新たな事実が出てくるわけじゃない。捜査会議だって、中身がない。行くだけ無駄――いや、御舟がいる分、マイナスだと思うんだ」
「もし、何か起きていて、それが捜査会議で報告されていたら?」
「副署長の福島さんは、気がよくて口が軽い。ちょっと親しい人になら、かなり深いところまでべらべら喋ってくれるはずだよ。僕の父は彼と同期で、父が亡くなったあとも僕たちの家族にはだいぶよくしてくれている」
成神が立ち止まり、今度は振り返った。微笑んでいる。
「大丈夫。最初から警察署に行くつもりはないよ。これから、弓削さんのところへ顔を出すんだ。朝、電話がかかってきて、進捗を教えてほしいということだったんでね。町長は出張で不在らしいから、彼のところに直接行くよ」
肩の力が抜けた。
「なんだ。なら、そう言ってくれればいいじゃないか」
成神が再び歩き出した。
「せっかくの君からの提案だ。どこまで考えているのか、聞きたくてね」
表情は見えないが、きっと笑っている。私を試していたようだ。腹は立たない。いつもの名探偵の姿だ。私は安心して、後に続いた。
町役場にはそこそこ人がいた。平日の昼間で、殺人鬼が人々の生活に介入する余地はない。最初に遭遇した職員に私たちの素性と弓削の面会に来たことを告げると、町長室に通された。いくら町長が不在とはいえ、副町長も大胆なものだ。とってかわる野心でもあるのか? その割に、一度も選挙に出たことはないはずだった。
「成神さんに、浮田さん、お忙しいところ、すみません」
相変わらず印象の薄い枯れた老人だった。声に抑揚がなく、表情変化が少なくて、勘定がわかりづらい。
「いいんですか、町長室を使って」
私は落ち着かなくて、つい聞いてしまった。弓削は細い眉と目の端を下げる。たぶん、愛想笑いをしているのだろう。なら、少なくともすぐに怒られる事態ではなさそうだ。
「許可はもらっておりますよ。ここなら、どんなことも気兼ねなく話せますから」
物言いで腑に落ちた。長年副町長をやっている自分は、数年おきに替わる町長などどうとも思っていない、と言いたいらしい。枯れた容姿からは想像していなかった自尊心の高さだった。依頼人相手にこういった表現もどうかと思うが、手ごわそうだ。
「それで、どこまで進みましたか?」
私たちが勧められるままに椅子に座るや否や、弓削はそう尋ねた。直球すぎて一瞬面食らうも、私は成神を見る。裁量を持っているのは、彼だ。ただ、言えることはほとんどない。それでも、名探偵は笑みを湛えていた。
「残念ですが、まだ真実はわかっていません」
こちらも負けずにストレートを投げてきた。私が推察どおり、弓削が自尊心の高い人間であったなら、馬鹿にされたと思って怒り出すかもしれない。私は軽く身構えた。
「とはいえ、まったく収穫がなかったわけではないんですよね」
弓削の口調に怒気は見当たらない。しかし、愛想笑いらしきものは消えた。まだ安心はできない。私は成神を見つめる。彼はまだ笑顔だった。
「もちろんですよ」私をちらと見て、言葉を続ける。「犯人は複数です」
え、と声が出そうになった。私にはまるで教えてくれてないのはもちろん、まだすべてがわかっていない段階で少しでも推理を披露することが今までなかったからだ。
「ほう、根拠を聞かせてもらえませんか」
弓削も興味を持ったらしく、見えづらくわかりづらいが、眼光が鋭くなった気がする。
「単純です。一人では大変ですから。八年前の事件のことは?」
「よく覚えていますよ。いえ、忘れられるものですか」
声は表情と同じく淡々としていながらも、弓削の怒りが伝わってくる。
「犠牲者は老若男女を問いません。共通点はいまだわかっていません――」
弓削が成神を手で制した。
「存じ上げていますよ。被害に遭われた方は、みな罪を犯していたんですよね。私の町の出来事です。警察からは、一般人以上の情報をもらっております。私だけですけれど」
成神はうなずく。追及するつもりはなさそうだ。どうせ、情報源は副署長の福島だろうが。彼はよくも悪くも知人には親切だ。
「そうです。犯人は、殺しやすい人間を選んでいるのではなく、殺したい人間を殺しているのです。事実、荒事にも慣れたやくざだって殺しています。これはかなり大変な難事だったでしょう。綿密な計画と恵まれた身体能力が必要だったはずです」
「――もし一人でやるとするなら、ですか」
「はい。そちらのほうが目的を達成するための殺人だと考えたとき、合理的で効率的です。現段階では、自警団のような組織があった可能性も捨ててはいけないでしょう」
「なるほど」
弓削の声がわずかながら弾んでいるようにも聞こえる。どうやら多少は満足していただけたらしい。
「弓削さん」と成神。「私からもおうかがいしたいのですが、自警活動をやりそうな、正義感は強いけれど、暴走しがちな集団に心当たりはありませんか? 具体的に言えば、構成した暴走族のような人たちです」
これも成神らしからぬ発言だった。普段は自らの頭脳を頼りにするので、こんな警察みたいな、直接答えを要求する質問はしたことがない。
弓削はしばし考えたそぶりをしたあと、かぶりを振った。
「やんちゃなのや、やんちゃだったのはおりますが、町を暴力的な手段で変えたいと思う者はおらんでしょう。よくも悪くも変化の乏しい町ですよ。私のような老人には、快適ですがね。ただ――」
弓削が私の目を見据えた。
「あんたのお父さんは、私の知る限りで一番正義感の強い人でしたよ」
「父――浮田日出美が、ですか?」
「浮田さんは、警察官になるべくしてなった人でした。小さい頃から、いじめや不正を見逃せない人でね、それでまあずいぶんと嫌な思いもしていたようですが、それでも最初の志というのは変わらなかったらしく、そのまま警察官になってしまいました」
私は反射的に首を振っていた。成神と弓削が怪訝な顔をする。
「あ、いえ、いや、あの、実の息子からすると、そんな印象がなかったので」
そう答えると、弓削は嬉しそうに何度もうなずいた。
「どんな偉人でも、自宅では凡人のように見えるものですよ」
大げさだと思うし、そもそも私が言いたいのはそういったことではないのだが、無理に軌道修正して不興を買うのも馬鹿らしいので、笑って首を縦に振っておいた。
その後しばらくは私の父の話になった。成神は居場所がなさそうだったので申し訳ないと思いつつ、初めて聞くことばかりだったため、私は楽しかった。
ただの仕事人間だと思っていた父が、弓削の目から見ると、この町の平和を守るヒーローになるのだ。新鮮だった。かといって、すぐさま父は偉大だったと思えるほど、私は単純でもない。そもそも、具体例をなかなかあげてくれない。
結局、具体例を聞くことなく、自然と話は終わりとなった。
町役場を出てしばらくすると、ほっと安堵の息が出てきた。
「弓削さんが焦るのもわかるけれど、呼び出されて進捗の確認をされるのは緊張するよ。それで、あの犯人が複数っていうのは、本当のことなのかい?」
成神が眉根を寄せた。
「嘘はついていない。何もなしに帰してくれるとは思えなかったし、作り話を構築できるほど材料もなかったんだ」
「私からすれば、今の段階でよくあそこまで確信できるものだと感心するよ」
「残念ながら、確信はしていないんだ。可能性はある、というだけで。一人でやるのは大変だからといって、一人でやれないわけじゃないし、一人でやれる工夫をしていたかもしれない。ただ、一人ではないと言ったほうが、真相に近づいている気がするだろう?」
「ほとんど詐欺じゃないか」
私は苦笑してしまった。
「まあ、ごまかしていることは認める」
「でも、嫌いじゃないよ、そういうの」
これも偽りのない本心だった。私たちも仕事だ。多少のごまかしは許容されてもいいだろう。渋い顔だった成神が、表情をやわらげた。
「君は僕に甘いなあ」
彼を見て、そして言葉を聞いて、私の緊張もほぐれていく。
「正当な評価だと思うよ。点数は厳しくつけている。ただ、一緒にいる分、加点ポイントも多くなるだけでね」
「それは光栄だ。ところで……というふうに話を変えるのも変だけれど、君のお父さんはたいした人だったみたいだね」
「外面がよかっただけだよ。家では、少なくともいい父親ではなかった」
自分から語るには、どうにも恥ずかしくて、ついぶっきらぼうな言い方になってしまう。成神も私の気持ちがわかったらしく、ふうんと優しくつぶやいたっきり、それ以上は聞いてこなかった。いつか、きちんと話してやろうと思う。
「それで、今度はどこへ?」
「やっぱり、警察署に行こう。僕は事件の情報を得たつもりだったけれど、だいぶ抜けがあることがわかった」
「そうかな」
「まさに今しがた知ったようなことだよ。事件とは直接かかわらない被害者たちの情報。僕は彼らを立体的にとらえられていなかった。みんな町の住民で、他の人ともかかわりあるとして、重層的に考えていかなくてはいけない」
なんとなく言わんとすることはわかる。わかるのだが……少しだけ悩んだが、やはり言ってしまおう。
「君らしくない。もっと論理を優先させていたじゃないか」
「これまでも、人間をないがしろにしたつもりもないよ」
反論されると思っていなかったのか、成神は面食らいつつも否定する。言葉の端々から、抑えきれない不愉快さがにじみ出ている。
「これまでは、人間を探るとしても、もっとピンポイントだったよ。今回は漫然としている気がする」
喧嘩になるとしても、言わないといけないと考えた。私とともにいる名探偵が、そんな中途半端な存在であってほしくない。彼が事件の真相をすべて把握するまで沈黙を続けるのを許していたのは、彼が美学とともに生きていると感じていたからだ。
「僕は今、打つ手がない」成神は弱音をはくも、弱々しさはまったくなかった。「今までなら、状況が変わるまで待つという手もあった。けれど、これは犠牲者が現在進行形で増えている事件だ。それに、御舟さんによって傷つけられた僕のプライドの問題もある」
成神は一度言葉を切り、足を止めた。つられて私も足を止める。
町役場から警察署までの舗装されたなんの変哲もない歩道。そばの車道では車がそこそこ行きかうが、歩行者はほとんど見えたらない。田舎の道で、わざわざ歩みを止めてまで、私をじっと見る。
「一番大事なのは、これが君の事件だということだ」
穏やかな口調。しかし、力強さが伝わってくる。
「君が長い間かかえていた苦しみ。その解決を僕に託した。ならば、僕もその期待に応えたい。たとえ、いつもの僕でなかったとしても、どれほど無様であろうと、僕はこの事件の真相究明を何よりも優先させる。いかに君が僕を軽蔑したとしても」
最初からここまで成神が考えていたかはわからない。私に言い訳をするうちに生まれてきたロジックなのかもしれない。だが、そうだったとしても、こう言われて心が動かないはずがなかった。謝るのも違うと思い、私は礼を言った。そしてその後は、素直に成神と並んで警察署に向かった。
毎日のように、それこそ学校のように通っているが、慣れるという感覚がどうにも生まれてこない。いつまで経っても、よそ者の気分だ。確かにそれは正しいのだが、人情から考えると不可解な気がしてしょうがない。
ただ、理由はわかっている。御舟傑しかない。私は彼が魂のレベルまで嫌いなのだ。彼がふんぞり返っている場所を慣れることなどあるはずがなかった。
だから、警察署に入るたびに、背筋がぞっとする。
成神がまっすぐ資料室に向かおうとしたら、まるで待ち構えていたように、部屋の前で御舟が立っていた。私たちが目前に来てもなお、不機嫌そうな顔をぶら下げるだけで、何も言おうとしない。
「中に入れていただけませんか?」
成神が穏やかに頼む。しかし、御舟の表情は変わらない。むしろ、口を開く直前、眉間のしわがより深くなった。
「捜査の邪魔だから帰れ」
「昨日までは何も言わなかったじゃないか」
腹が立って、反射的に叫んでいた。静かな署内に、私の怒声が響く。でも、誰も顔を出そうとしない。私たち三人だけ。
「事情が変わった。その事情は捜査上の秘密で、民間人においそれと教えるわけにはいかない。たとえ、捜査会議に出席できるような民間人であってもな」
「それは、これからもですか」
成神が割って入った。いや、割って入ったのは私のほうか。
「状況によってはそうなるな」
「話になりませんね」
成神は肩をすくめると、その場を離れようとした。私が慌てて彼の肩をつかむ。
「おい、捜査はどうするんだよ」
成神は顔だけをこちらに回す。
「ここでなくてもできるよ」
表情も声も、思ったより穏やかだった。しかし、私が再び止める間もなく、歩いていってしまった。私が立ち尽くしていると、御舟が声をかけてきた。
「早く追いかけなくていいのか。ここにいたって、何にもならないぞ」
私は彼を思い切り睨みつけ、悔しいが成神の後を追う。
さっさと外に出るかと思いきや、成神は署の受付に立っていた。そして私を誘って自動販売機で缶コーヒーを買う。やはり、署から出ようとしない。理由を聞きたいのだが、まずはコーヒーを飲むよう勧められる。意図はわからないものの、私は素直に従うことにした。しかし、おごってはくれなかった。
私にとって缶コーヒーとは、カフェオレのことだ。ブラックの苦さは、冷たくなったときに目も当てられない。少々甘すぎるとしても、カフェオレにしておけば、どんな状況でも最後までおいしく飲める。元々はブラックもカフェオレも気分によって飲み分けていた成神も、私の意見に賛同してからは、ずっとカフェオレを口にしている。
だから今も、私たちは同じカフェオレを飲んでいた。甘さが、疲労した脳を回復させてくれる。
「御舟さんは、どうしてタイミングよく、あそこに立っていられたのだろう」
「私たちが来るのを、じっと待っていたのかもしれない」
彼の頭の回転速度を考えると、十分ありえることだ。つまり、愚鈍で無策。
成神もうなずくが、その顔は神妙だった。私とは別の理由を考えているにちがいない。御舟という男は、そんなに深い人間ではないのだが。しかし、これは成神の善良さがなせる業。今ここで私が正さずとも、どこかで真実に気づき、軌道修正するだろう。
成神は考えながら、たまにカフェオレを口にする程度だったため、私の方が先に飲み終わった。急速に冷たくなっていく缶を持っているのが嫌で、すぐにゴミ箱へ入れてしまう。
そこへ――「浮田」と、名を呼ばれた。顔をあげると、私と同世代の軽薄そうな男が立っていた。スーツを着ているところからすると、出入りの業者か刑事だ。いやに親しげな表情なのだが、こちらにはそのような態度を取られる原因がいまいち思い浮かばない。
呼び捨てなので、地元のつながりだと推察できるものの、私に故郷の友達などいない。私の戸惑いに気づいたらしい男は、気を悪くした様子もなく肩をすくめる。
「相変わらず友達がいがないな、浮田。俺だよ、嶋田だよ」
「ああ」と、とりあえずわずかで無駄な時間稼ぎをする。しかし、やはり思い出せない。
「嶋田盛順。浮田くんとは中学のときのクラスメイト。ただ、部活は違っていた。この間、そう話していたじゃないか」
成神の助け舟だ。それにしても、私でも知らない情報をするっと出すとはたいしたものだ。名前は捜査会議のときに見かけたのだろうか? 彼の記憶力なら十分にありえる。あとの二つは、確率の高いところをついた推理もどきだろう。
地元が一緒で、親しげに話しかけてくるのなら、中学までは同じだった可能性が高い。高校まで同じなら、私が覚えていそうだ。それは、部活が同じだったときにも言える。それに、私は地味で彼は軽い。部活での接点はなさそうだ。なにしろ、私は読書部。ごりっごりのインドア派だった。
成神の推理は、何もない私には、大変ありがたかった。間違っていても、軌道修正が可能な曖昧さだ。しかし、そんな心配は不要だった。
その嶋田という男が、にやっと笑う。
「なんだよ、覚えてたんじゃねえか」
私が答えたわけでもないのに、嬉しそうだった。目線も、成神のほうを向いている。目当ては名探偵のほうなのだろう。これで明確なつながりもできたわけだ。もしかすると、この嶋田自身も私のことは覚えておらず、成神と話をするきっかけを作るために、半ばあてずっぽうで私に声をかけたのかもしれない。
いずれにせよ、こちらとしても話ができる警察官が増えて悪いことはない。
「調子はどうだ」
わざととはいえ、私らしからぬ口調だ。
下手にプライベートや過去のことを聞いて気まずくなるよりも、未来について語り合うほうがお互いにとって利益になるだろう。そして、嶋田は私らしさなど知らない。
「俺も若手ってことで御舟班にいるが、最悪だな。特に今日は、朝から荒れている」
「それは興味深いですね」
成神が食いついた。嶋田の表情が露骨に華やいだ。
「そうなんですよー。どこに行っていたのか知りませんが、立ち寄ってから署に来たんですが、そのときからぷりぷりして。困ったもんです」
「心当たりはありませんか」
「ああーそうですねえ、御舟さんがああいう感じになるのは、捜査を妨害されたときなんで、どこかでそういうことがあったんでしょうねえ」
びっくりするほど他人事な口調だが、さすが内部の人間だ、よくわかっている。しかし、具体的な情報までは持っていないところは、御舟のいかれた情報統制の結果か。
「捜査には関わっていないのですか」
成神も、私と同じことが気になったようだ。
「みんながみんな、それだけに関わっているわけにもいきませんからね。といっても、刑事課が必要な事件なんて、この町ではそうそう起きませんけど」
急にお行儀のいい回答を一方的に押しつけると、嶋田とかいうやつはどこかへ行ってしまった。予感がしたので振り向けば、やはり御舟傑が自分だけが不幸だとでも言いたげな無責任な顔をして立っていた。
「俺は、捜査の邪魔だから帰れと言ったはずだ」
「ちょうど帰るところですよ」
成神は持っていたカフェオレを一気に飲み干した。どれほど残っていんだか。ゴミ箱には捨てず手に持ったまま、外へ向かっていった。私は御舟を睨みつけつつ、あとを追う。
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