断章2
「どういうことか、説明をしてもらおうか」
御舟はいつにもまして不機嫌な顔で立っていた。彼は青雲町の町役場にいる。
目の前には副町長の弓削が自身の席に腰かけ、御舟を見上げている。
副町長に個室などなく、課ごとのパーテーションもない広いフロアの、せめてもの片隅である。当然、周囲では大勢の職員が忙しなく働いていた。そんな彼らも、御舟の剣呑な声に動きを止めた。だが、視線は決して弓削に向けない。
「警察の方が町役場に怒鳴り込みとは、穏やかではありませんな」
これまで御舟にとって、弓削は影の薄い枯れた老人という印象でしかなかった。だが、こちらの不機嫌さを意にも介さず、逆に品定めするかのような、ねちっこい目と対峙して、それはまったく正しくなかったことを悟る。
「じゃあ、別室で話すか? 町役場にも、会議室はあるだろう?」
「何かやましいことでもあるんですか」
「意味もなく仕事中に警察官が町役場には来ないよ」
「さあ? 今まで、そんな経験はないもんでして」
弓削がねっとりと舌にからみつくような喋り方で答える。なんともやりづらい相手だ。御舟はそう思いつつも、さして困ってはいなかった。のらりくらり、弓削のような手が通用するのは、周囲の反応を気にする類の人間だけだ。ただ、自分の要求を通せるかは、また別の話なのだが。弓削はわざとらしくため息をついた。
「こう見えても、町役場は忙しいので。手短に頼みますよ」
「町の意向で、醍醐祥の警護の人数が減らされたと聞いた。素人の分際で、警察の動きに口を挟むな」
御舟は五人つけようと思っていた。醍醐の病室の中に一人、扉の前に二人、病院の受付に一人。これは、警護だけでなく、犯人の特定と逮捕まで見据えたものであった。だが、扉の前の二人以外は、弓削の要望で帰らされたという。
副署長の福島の仕業だった。おそらく事件のことを知った弓削の問い合わせに、彼は一から十まで答え、おまけに弓削の要望に応じたのだ。きっと、快く。
副署長は、その署の広報も担当するもの。だから、彼がどの情報をどう扱っても、立場的には問題ない。ただ、福島は長いことこの警察署で今の地位にいるため、町の有力者ともつながりが深い。おまけに、八方美人のきらいがある。おかげで、ある程度までは有力者に便宜を図ってしまうことが多々あった。
御舟も当然、そんなことは承知しているし、普段はさして悪いことだと思っていない。しかし、当然、今回の事件では完全なる悪であった。狡猾な殺人鬼を追い詰めるのに、情報の統制は必ず必要だと考えていた御舟にとって、もっとも不安視していたところだ。福島にも釘は刺していた。そして、そうはいっても情報を流すのも織り込んではいた。だが、このような結果になるとまでは考えていなかった。
弓削は捜査に邪魔だ。にもかかわらず、本人は自らの行動に正当性があると思っているのか、眉間にしわを寄せている。彼は町の平穏こそを第一に考える。それこそ、犯罪者の野放しにしてでもだろう――これは、御舟の推測だった。
「私からしたら、あなたこそ町の運営のプロではない。町の未来に関する判断に口を挟まないでもらいたいですな。それに、判断したのは町長です。私は町長をサポートするのみ」
御舟が鼻を鳴らす。
「三十年以上、副町長をやっているおまえの判断だ。町長など、おまえの手先にすぎん」
これは、かつて弓削の経歴を調べたときに確認している。間違いのない事実だった。そもそも、今の町長はかつての役場職員。つまり、弓削の部下だった。おまけに、他に立候補者はおらず、無投票で選ばれている。他に立候補を検討していた人間がいなかったわけではない。しかし、実際に立候補することはなかった。彼らのもとに、弓削が個人的に尋ねたらしいという話を、御舟は掴んでいる。きっと脅したのだろう。そして、それが効力を発揮する。弓削はそういう男だった。
けれど、御舟が集めた情報からすると、弓削がこのような形で事件に介入するとは考えられなかった。法律を破ることは厭わないようだが、効率は尊んでいる。福島を介するなんて、妙に遠回りだ。何か、足りない情報がある。
「言葉がすぎますよ。町長は、町のためにつねに真剣に考えておられる」
「そんな心にもないフォローを入れたところで、町長本人だって喜ぶまい」
「まさか、褒められて嬉しくない人間がおりますか?」
「褒めていればな」
御舟は周囲を見回した。職員はみな、自分の机に向かって、二人のやり取りなど存在しないかのようにふるまっている。だが、誰も彼も手が動いている様子はない。
「八年前に、連続殺人事件が起きました。あの当時、マスコミや野次馬が大勢押し寄せ、住民が迷惑をしたのは、御舟さんもご承知のはず。事件が未解決でも、世間は別の派手な事件に夢中に興味を移しましたが、それでも元の生活に戻るまで、長い時間がかかりました。そこへ、また事件の続きです。私たちには、住民の生活を守る義務があります」
「開き直ったな、弓削。警備の人員を減らしたのは自分の要望だと認めるわけか。そうしたところで、住民の不安が増えるとは思えないがな」
弓削は首を振った。
「少なくとも、あなたの考える意味では何も認めていませんよ。私はただ役場の人間として、一般論を申し上げたまで」
「いや、一般論にしては、物言いにずれがある」
「それは、私の頭の出来の問題でしょう」
弓削は口元を緩めるが、目は冷めていた。自嘲しているように見せかけて、ただただ御舟を小ばかにしているだけだった。
御舟が内心の激情をおさえて、無理に笑ってみせる。口の端は少し震えていた。
「警察は、たとえ管轄に住民票がない人でも生命を守る義務がある」
弓削が目を見開いた。
「上司から同僚、果ては出入りの業者まで、多くの人の弱みを握って警察を牛耳り、好き勝手にしているあなたのセリフとは思えませんな」
御舟はすぐに作りものの笑みを引っ込めた。
「悪質なデマだな。俺はただの職務に忠実な警察官だ」
「ならば、私に直談判せず、上司にかけあうんですな。警護を手配するのも、あなたではないのでしょう?」
「醍醐祥が殺されたら、おまえはどう言い訳をするつもりだ。警察の方針に介入した責任は逃れられないぞ」
「そこは、警察が頑張ってほしいですな。私たちは町の都合でお願いをしているだけです。決して、醍醐さんに死んでほしいわけではない。あなた方が早く犯人を捕まえれば、それで済む話では?」
胸に一物あることをまるで隠していない、いかにも悪党が口にしそうな白々しいセリフに、御舟は思わず相好を崩した。これは、先ほどの偽物と異なり、心の底からのものだった。だから、最初は我慢したし、表に出たのも控えめだった。
「私が何かおかしなことでも言いましたか?」
弓削の声に、わずかだが不満が滲んでいた。御舟には、それもたまらなく心地いい。おまけをつけたら、引き時だ。
「事件の解決には、市民の協力が不可欠。だから、俺もこうしてお願いにうかがったわけだ。ああ、言い忘れていたが、俺がここに来ることは署長、副署長の許可を得ている。なんなら、電話で問い合わせてみるか?」
御舟は弓削の机にある受話器を取り上げて、差し出した。弓削は不快そうにそれを受け取り、そのまま戻した。
「結構ですよ。好きにしてください。ただ、町のためには呑み込まなければならないものだってあるということを、忘れないでください」
御舟は周囲を見渡した。相変わらず、耳だけが二人に向けられている。
「他の人はともかく、あんたは違うだろう。呑み込むとしても、好きでやっているな」
弓削はこたえず、急にねっとりとした笑みを浮かべた。
「それに、あなたは醍醐祥をご存じでない」
「俺は本当の意味では、誰も知っちゃいない」
御舟は肩をすくめると、役所を出ていった。
外に出て、無意識にポケットをまさぐり、車の鍵を探すも、浮田に貸してしまったことを思い出す。そういえば徒歩できていた。行きはよいよい帰りは怖い。歩く気はなかった。道を行くタクシーを捕まえて、病院へ向かった。今朝、一度病院に行っているが、それは醍醐と話をするためで、妻の楓とはまだ会えていない。
成神が醍醐に会いに行ったはずだから、浮田も同行しているにちがいない。しかし、きっと今日も姉には会っていないだろう。むしろ積極的に避けたに決まっている。浮田本人は自覚していないようだが、彼は自分の姉を人間扱いしていない。神のごとく崇めることは、相手の人間性を否定しているにすぎない。
御舟にはその浮田の心情が理解できなかったし、腹立たしかった。
胸ポケットに入っているスマホが震える。醍醐の警護を命じた警官のうちの一人からだ。
『あの、御舟さん、すみません。本当にすみません……』
声に怯えがまじっている。御舟のスマホを持つ手に力がこめられる。
御舟は被害者の夫という立場と、己に向けられる憐憫の情、そして横紙破りの手法を使って、捜査の主導権を握っている。しかし、階級が高いわけではない。電話の相手も階級は同じ、同僚にすぎない。だから、本来はこんなに怖がる必要はなかった。ただ、御舟はそうなるように仕向けてはいる。
『醍醐に逃げられました』
「どうして」
『知り合いに着替えを持ってこさせて、トイレに待機させていました。私たちが、彼をトイレに行かせたら、それに着替えて出ていったんです。その知り合いは中にいたので、捕まえましたが……』
「放っておけ。どうせ行き先なんて知らないんだろう?」
『はい……』
「まあ、いい。醍醐の病室にいろ。もうすぐ行く」
来るとは思わなかったのか、電話の向こうの男が息を呑む声が御舟の耳にも届く。御舟は電話を切ってから、腹立ちまぎれに鼻を鳴らした。
「なにが、『ご存知ない』だ」
弓削はこれを予想していたようだ。それにしても、ご存知させられるのが早すぎる。御舟は舌打ちをして、ため息をついた。気にしていてもしようがない。まずやるべきことは、メールだ。
御舟はメールを数件送る。内容は醍醐の面相、送信先は飼っている情報屋の連中だった。裏社会の住人から、会社員、自営業、専業主婦、ありとあらゆるところに情報の入手先を作り、全貌を知られない程度にゆるく組織化している。
それこそ、蜘蛛の巣のように町全体に御舟の情報網は張られていた。妻を襲った犯人を捕らえるため、八年かけて作り上げたものだ。醍醐祥がこの町にいる限り、どこにいるかはわかるだろう。町の外に出たとしたら、それはそれで事件に関係がなくなるのだから、どうでもいい。これでいい。しばらくは待とう。
御舟は肩の力を抜いた。弓削の言葉には怒りを覚えるが、この程度のこと大した問題ではない。少しして、いつの間にか自分が鼻歌を口ずさんでいることに気づいた。しかし、曲名が思い出せない。楓が好きだった歌なのは確実だが、彼女の声に聞きほれていたせいで、歌自体には興味が湧かなかった。歌詞もうろ覚えだった。もしかしたら、曲名は最初から知らないのかもしれない。どうでもいいことだった。
それでも、御舟は病院に着くまで歌い続けていた。病院では先に、醍醐の病室へ向かう。部屋のドアを開けると、警護担当の二人がうなだれていた。
「すみませんでした」
二人が微妙にずれたタイミングでそれぞれ口にする。
「醍醐が残していったものはあるか?」
御舟は答えず、室内を見回した。だが見事に何もなかった。
早朝、取り調べに来たとき、醍醐は入院着を着ていたし、傍らにはナップザックや上着もあったはず。それらを持ってトイレに行ったのに、この二人は見ていなかったのか。
御舟は二人を改めて見つめる。彼らのほうは、うつむいていて表情が見えない。いや、見えないようにしているのだと、御舟は気づいた。そして、その他についても。
「誰の指示だ」
「はい?」
「おまえたちは、誰の指示で醍醐祥を逃がしたと聞いているんだ」
二人は反射的に顔をあげて、御舟を見た。その表情はこわばっている。
「な、なんのことですか?」
「醍醐祥が逃げる隙を作るよう、おまえたちに支持をしたのは誰かと聞いているんだ」
「わ、わかりません」
声がかすかに震えている。小さくて、どちらが答えたのかもわからない。先ほどの電話でも怯えていたことを、御舟は思い出した。急にばかばかしくなった。
「もういい。署に帰れ」
急な指示に、二人は戸惑うが、御舟が再度投げやりに告げると、逃げるように出ていった。階段をかけおりる音が、御舟の耳にも届く。
二人は所詮、下っ端だ。追及したところで、単なる弱いものいじめにしかならない。
どうせ、副町長の弓削か、彼の意を受けた副署長の福島によるものだろう。他の心当たりもなくはないが、このタイミングでは考えられない。調べるのは彼らだけで十分だ。
それに、あの警護担当の二人は、今回のことでもう自分には逆らえない。他の人間に利用されることさえ警戒しておけば、いい手駒になるだろう。悪くない。
御舟は我知らず口角をあげていた。
念のために再度、部屋には何も残っていないのを確認してから、さして離れていない――でも、浮田紘一にとっては無限に遠いところにある――楓の病室へ向かう。
目的の部屋をノックする。
「はい」
返答があった。かつて同じことがあったとき、御舟は愛しい妻が目覚めたのだと思い、興奮気味に扉を開けた。しかし、もうこれもたまにある出来事にすぎない。
「お義母さん、いらしてたんですね」
義理の母――浮田利恵は、御舟に軽くうなずくと、途中だったらしき、花瓶の花を入れ替える作業に戻った。
「楓、遅くなってごめん」
御舟は楓のそばへ行き、髪を撫でた。背後で、ぎしと音がする。浮田利恵が丸椅子に腰かけたのだろう。しばらく妻の顔を見てから振り向くと、案の定、義母は座っていた。
「平日にお会いするのは、久しぶりですね」
「紘一が帰ってきているので、仕事はお休みしたんです」
「ああ、そうなんですね」
無言も無礼と思って自分から聞いたことではあるが、御舟は興味がなかった。陰気な義母は苦手で、楓の病室でなければ、電話が来たふりをしてすぐさま消えるところだ。ただ幸いなことに、彼女はめったに話しかけてこない。
昔、楓や紘一に聞いても同じだったので、正直なところ、利恵が仕事を休んで息子に何をしたいのか、よくわからない。そもそも、仕事上のパートナーである成神と一緒に動いていて、夕方まで帰ってこないだろうに。
無意識に義母を中傷していた自分に気づいた御舟は、彼女のいい面を無理やり思い出すことにする。そういえば、食事は美味しかった。けれど、常に冷たかったような……と再び雲行きが怪しくなってきたので、もう義母のことを考えるのはやめることにした。改めて、妻の楓を見る。
毎日見ても飽きることがない。むしろ、彼女への愛がさらに深まっていくような気がする。しかし、できれば反応が欲しい。眠りについているよりも、喜怒哀楽、どんな感情であれ、自分に向けてほしい。とはいえ、それが難しいのもわかっている。
医者によると、殴られたときに脳を損傷したらしく、いつ目覚めるのか、治療法含めてまったくわからないという。処置のしようがなく、気まぐれに意識が覚醒するのをじっと待つしかないのだとか。
御舟は楓の頬に手をやった。ほのかに温かく、やわらかい。でも、かつてよりもずっと痩せてしまった。そう思うと、胸がしめつけられる。
「あら、お二人ともいらしてたんですね」
いつもの看護師が入ってきた。ノックの音は気づかなかったが、気心は知れているので特に問題はない。それに、彼女は唯一の楓担当の看護師だ。いくら身内がいたとしても、世話をしてくれる彼女のほうが、病院での楓に対する優先度は高い。
「いつもお世話になっております」
利恵が立ち上がって頭を下げた。御舟は、彼女のこういう仰々しいところも苦手だった。彼女は他人との距離を縮めない。八年も付き合いがあるのに、いつもこうだった。看護師は柔らかく笑う。
「いいんですよ、仕事ですから」
そして楓の血圧を計りはじめた。
「楓さん、旦那さんとお母さんがいて、よかったですね」
「楓が喜んでいてくれればいいんですが」
御舟が遠慮がちに言った。
「もちろん、喜んでいるに決まっていますよ」
看護師の明るい声が、御舟の心に染みる。義母とは同年代だが、性格は真逆だった。
ただ、看護師は仕事というのもあるだろうが、義母を拒絶しないし、義母も本心は見えないものの、看護師を排除しようとはしない。二人の間の空気も悪くない。必要最低限の会話しかしていないように見える二人だが、信頼関係があるのかもしれない。それは御舟にとってもありがたいことだった。楓はきっと喜んでいる。
ここは個室ではあるが、楓以外に三人も入ってしまうと手狭になる。名残惜しかったが、御舟は仕事に戻ることにした。部屋を出るときに、ふと思う。利恵は、紘一の仕事ぶりについて聞こうとしないのだな、と。それが、あの親子の距離感なのだろうが、御舟自身も驚いたことに、少し寂しさを感じた。
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