第一部 浮田紘一 6
その後三日間、私と成神は警察署に詰めていた。ともに資料室にこもり、八年前の事件の資料にあたった。ただ、八年前の事件にしろ、今回の事件にしろ、模倣犯の事件にしろ、解決の糸口になるようなものはまだ見つかっていない。
「とりあえず、僕も八年前の事件について、正確なところがつかめた。それが収穫かな」
成神もそう言っていた。見ていない資料は残っているものの、四日目は資料室に立ち入ることがなかった。諦めたわけではない。犯人に動きがあったのだ。
私と成神も、毎朝の捜査本部での会議には参加している。これといった報告ができないので、私としたら居心地が悪いのだが、成神はまったく気にする様子がなかった。
「有力な情報を持ってきていないのは、御舟さん含めてみんな同じじゃないか。気にすることはないよ。どうどうと、そしてしれっと座っていよう」
頼りになるんだかならないんだか、そんなふうに言っていた。確かに、朝の会議はお互いの捜査の進捗を確認するだけに終わっていたのだが、この日は違っていた。
まず、署長や管理官を差し置いて前面中央にいる御舟の顔つきがひどく歪んでいた。写真を撮っておきたかった。この顔を見たら、姉もきっと離婚を決意するだろう。
「みんな、喜べ。我々が無能だったおかげで、犯人はまた一つ罪を犯した」
御舟の唐突な言葉で、場がざわつく。前に座っている管理官たちは渋い顔をしているが、他の署員は目に見えて動揺している。表情からすると、挑発的な物言いが問題なのではない。彼らも事情を知らされていないようだ。すべては御舟が手綱を握っている。
私は成神と顔を見合わせ、二人同時に首を振った。
「場所は白梅の交差点。今朝五時頃、フリーライターの醍醐祥、三十八才が何者かに銃で発砲された。本人は命に別状はないが、腕を撃たれて負傷。現在、病院で手当てを受けている。犯人は逃走中。電信柱に隠れて発砲したためか、醍醐は犯人の姿を見ていない。電信柱の下の方に、例の絵が置かれていた。コピー用紙にプリントされたものだ。紙もコピー機もメーカーを確認中だ。だが、さして意味はないだろうな」
御舟が最後に吐き捨てた。
「少し、いいですか」と、成神がひかえめに手を挙げた。「発砲音は何発でしたか?」
御舟が面倒そうに、少しだけ首を動かす。
「五発。すべて発見されている。早朝だったため、目撃者もいなければ、巻き添えを食らった人間もいない。不幸中の幸いというところだな」
事情聴取や現場検証はすでに済ませているようだ。
「もう一つ、お願いします」成神の口調は穏やかだが、どこか挑むような重さが感じられた。「この事件は、私と浮田くんも調べてもよろしいですか? もちろん、みなさんの邪魔はしませんので」
成神が目を細めてほほ笑む。なるほど、これは単なる問いかけではない。御舟の捜査状況と彼の考えをたずねているのだ。真っ向から聞いても、御舟は決して答えてくれないだろう。しかし、これでは返答しないわけにもいくまい。沈黙すれば、私たちの介入を許すことになる。わずかな沈黙のあと、御舟は口を開いた。
「結構だ。これは俺が見る」
これは模倣事件ではない。少なくとも、御舟はそう考えている。
成神は満足そうにうなずいた。彼が満足すれば、この会議も終わり、もしくは御舟の独演会になると思っていた。だが、成神の質問は終わっていなかった。
「凶器の拳銃については、何か判明しましたか?」
御舟は答える前に、一瞬だけ苦々しげな表情をした。
「三十八口径の九ミリ弾だ」御舟はさらに続ける。「拳銃はニューナンブ。線条痕を鑑定した結果、浮田日出美のものと判明した」
「どういうことだよ」
私は思わず立ち上がって叫んでいた。みんなの視線が私に集中する。急に恥ずかしくなり、すぐさま御舟の目を睨みつける。
「浮田日出美が殺害されたとき、彼が腰につけていたはずの拳銃が消えていた。その拳銃が、こうして時を超えて発見されたということだ。事実を話したにすぎない」
「あんたの義理の父親でもあるんだぞ!」
父自身ではなく、彼の息子である私の居心地の悪さのために吠えているのは、自覚している。御舟は私の馬鹿にしようと、軽く顎をあげた。
「これは事件の捜査だ。公私混同したいなら、この場にいる資格はない。出ていけ」
「話をすり替えるな!」
とっさの言葉で、根拠があったわけではない。それが伝わっているらしく、御舟は鼻を鳴らし、周囲の刑事も呆れた顔をした。場も白けた空気が漂う。ただ、これは一秒もなかっただろう。視界の端で、成神が立ち上がるのが見えた。
「御舟さん、浮田くんの言うとおり、話のすり替えですよ」
周囲がわずかにどよめく。
「成神」とつぶやくと、彼は私にほほ笑んだ。「君の直感は間違っていない」と言ってから、御舟に向き直った。
「浮田日出美氏の殺害時に拳銃が奪われていたことは、過去の報告書に書いてありません。当時のあなたは内勤で、刑事ではありませんでしたし、この署にも勤務していませんでした。さらに言えば、捜査会議にも入っていない。なぜ、そのことを知っていたのですか?」
御舟は苦笑した。
「署内で、しかも身内のことだ。嫌でも耳に入る。報告書はまあ、どれだけ管理が行き届いていても、何かのはずみでどこかに紛れてしまうことは、ないわけではない。だろう?」
めちゃくちゃだ。馬鹿にしているにもほどがある。怒りで全身が沸騰し、今にも暴れ出してしまいそうだった。
成神も私と同じ感情のようだ。顔を真っ赤にして拳を握りしめ、御舟を睨みつけている。
「こんなことで、真実にたどりつけるとでも?」
成神の声はまだ理性的だった。
「犯人を逮捕するのは警察だ。おまえたちではない」
成神がぐっと目を閉じた。内心の激情を抑えている。数秒して、目を開いた。
「ああ、そうですね、忘れていましたよ。僕たちはいつも、誰よりも早く真相を見通していたので」
「相澤家のことを忘れるな」
「忘れるわけがないでしょう」
辛辣な返しではあるが、揚げ足取りにすぎない。私は成神の反撃を期待する。だが、彼はそれで反論をやめてしまった。おまけに、首を振ってため息をつくと、静かに座る。
私が責めるように彼を見ると、不機嫌そうな顔つきではあるものの、怒気は感じられなかった。ただ、これは私だから気づいたことで、周囲の人間にはまだ成神は怒っているように見えるはずだ。
私は気が抜けてしまい、成神と同じく椅子に座り直した。とはいえ、彼がどうして怒りを霧散させたのかは知らない。一方、私のほうにはくすぶっているものがある。
会議は私の心情を慮ることもなく進行した。御舟が自分の言いたいことを言い終えると、他の刑事たちの現状報告に移る。といっても、何をした、誰と会ったという話ばかりで、目新しい情報はもう出てこなかった。
成神は会議中、目を閉じて黙っていた。眠っているように見えるが、さすがに揺すって確かめるわけにもいかない。最後列にいる私たちにもはや誰も関心を払わないし、成神も寝息らしきものは立てていないので、御舟への意思表示と解釈して放っておくことにした。
しかし、私としてはいつ咎められるか気が気ではなかった。おかげで、私の怒りもいつの間にか萎んでいた。よかったのか悪かったのか。会議から追い出されはしなかったが、私のプライドはボロボロである。こうして会議に参加できてしまう根性も含めて。
発言者がいなくなったところで、会議は終わった。
私たちに背中を向けている警官たちが次々と部屋から出ていく。そして、管理官、署長、副署長。副署長の福島は、動こうとしない私たちを憐れむような目を向ける。姉や父のときもそうだったが、時に彼の優しさは過剰なことがある。
残ったのは、私と成神と御舟だけになった。さっさと出ていけばいいものを、御舟は私たちを見つめながら動こうとしない。そして、成神は目を開けない。
「いつまで目を閉じているんだ」
御舟が渋々といったふうに口を開く。それにあわせて、成神がゆっくり目を開ける。
「今みたいに、僕たち三人になるまで」
「願いは叶ったんだ、早く帰ればいい」
成神が肩をすくめる。
「醍醐祥さんと会わせてください」
御舟が黙って成神を睨む。やがて、ため息をついた。
「この町で大きな病院は一つしかない」
彼の視線が私に向けられる。私は無言でうなずいた。姉がいる病院ということだ。
成神は私を見て、それを察してから、再度言う。
「あと、車を貸してください」
「民間人に警察車両を貸せと?」
成神が笑って首を振る。
「まさか。あなたの個人に使っているのを貸してください」
「歩いていける距離だぞ。頭脳労働ばかりしていないで、足も使ったらどうだ?」
成神は御舟の嫌がる顔など気にも留めずに、手を差し出した。部屋の端から端なので、かなりの距離がある。だが驚いたことに、舌打ちつきではあったが、彼のほうから近づいてきて、あまつさえ車の鍵を差し出した。
「黒のシトロエンエグザンティアだ。いいな、決してこするな。ましてや、ぶつけるんじゃないぞ」
「外車かよ」と、私は思わずつぶやいていた。
「親父の形見だ。おんぼろだよ」
御舟がつまらなそうに答え、手を振った。
その後、部屋番号を聞いた私たちは、署の駐車場に置いてある、御舟のシトロエンのところへ行った。年式は古いが、きれいに磨かれている。
「ずいぶんと、大切に乗っているみたいだね」
「暇だから、休みの日は洗車くらいしかやることがないんだろ」
成神から鍵を受け取り、私が運転席に座る。彼はペーパードライバーだ。おそらく免許を取ってから一度も乗ったことがない。絶対に運転させてはいけない。鍵をさしてひねると、ドドドという昔懐かしい音とともにエンジンが動き出した。車体が震える。
「病院の場所はわかるから、助手席でゆっくりしていてくれ」
カーナビのような便利なものはついていない。もちろん、マニュアルだ。
警察署の敷地を出て、一般道に入る。途中で左のウインカーを出すと、成神が言った。
「まっすぐ行こう」
聞き間違えたのかと思った。
「いいんだ。病院は急がなくていい。適当にこの辺を流してほしい。少し話をしよう」
「どういうことだ?」
私は身をこわばらせた。何かをした記憶はないが、緊張で心臓が激しく脈打つ。顔にも出ていたのだろう、成神が苦笑した。
「違うよ、君の話じゃない」
私がとりあえず警戒を解いたのと反対に、成神の表情は引き締まった。
「前に僕たちが同意したように、八年前の事件の犯人は警察官、もしくは警察の情報を引き出せる立場にいる。そして、現在進行形で情報を得られると考えたほうがいい」
私は何か言おうにも言葉にならず、うなってしまった。
「僕が御舟さんから車を借りたのは、パトカーも含めて、彼以外の人間の自動車は、盗聴器が仕掛けられている可能性があるからだ。御舟さんもそう考え、警戒しているのは、この車を見ればわかる」
「というと?」
「連日捜査を続けているにもかかわらず、この車はきれいに洗われている。これは、洗車をしながら彼が、この車に何か仕掛けられていないかチェックしているからだよ」
私はまたもうなった。だが、今度は言葉が出てきた。
「それだけ警察に近しい人間が、どうして父を殺して拳銃を奪う必要があったんだろうか」
「うん」と成神が一瞬だけ間をおいた。「それを手にする位置にいなかったか、自分のものを使いたくなかったか。もしくは、何かに使えるかもしれないと思って、取っておいたか。実際、こうして八年間は使われていなかったし、曾根葉月さんを殺害するときには使っていなかった。残念ながら、僕はここに積極的な意味はなかったと考えている」
「そうか、ありがとう」
嬉しくない話ではあるが、成神がそう言うのであれば、受け入れるしかない。父が拳銃のために殺されたのか、もしくは無関係だったのか。捜査会議のときは、前者だと思って腹を立てていたが、後者だとしても気分はよくない。どちらにせよ、たとえ愛着がなかろうと、身内の死を身内が他人事のように扱うのが許せなかったのだ。結局、私は御舟の態度に怒っていたのか。
なんとなく自分の本心を覗けて、ほっとする。すると、別の疑問が湧いてきた。
「それで、車を借りた理由は?」
「僕たちは二人で情報を共有する必要がある。警察内部でさえ油断できないとなれば、この間のように蕎麦屋でのんきに話なんかしていられない。こうして車内で移動しながら相談する場合も出てくるだろう。まずはその手始めというわけさ」
「じゃあ、これからもこいつを、あの男から借りるのかい?」
「もちろんだよ! ガソリンは満タンにして返すつもりだけど、毎日洗車したくはないし、毎日使うものとも限らないからね。管理は彼に任せたほうがいい」
御舟がいいように使われていて、ちょっと笑える。成神だって、彼には思うところがあるようだ。よかった。
「それにしても、あいつはよく車を貸してくれたもんだ。それに、醍醐祥の入院している部屋まで教えるなんて。どういう風の吹き回しなんだろう」
「彼は彼で、僕たちと完全に敵対したくはないんだよ。真相を突き止めるためには、大嫌いな僕たちの手でも借りたいんだから」
「なるほどな」
そう答えつつも、私は心の中で納得するのを拒絶していた。やはり、私は御舟が大嫌いだ。話題を変えたい。何か言わねば……。そういえば、副署長の福島から聞いたところによると、相澤一郎の三人の子供――春夫、秋子、冬彦は、県警に身柄を移され、今も取り調べ中らしい。まあ、御舟の証拠が十二分にあるため、起訴は問題ないそうだ。ああ、そうだ。このネタがある。
「相澤家の子供は、名前が四季から取られていたのに、『夏』はいなかったな」
「いや、いるんだ。男性らしい。実は数日前に鳥飼さんから聞いたんだけど、奔放すぎて勘当されて、今は連絡先も知らないらしいよ。だから、相澤一郎氏が亡くなったときにいなかったんだ。しかし、相続権があるのが彼だけになったんだ。鳥飼さんもこれから探す必要はあるだろうね」
「そんな事情があったのか。警察署でかつ丼を食べていた鳥飼さんも、忙しそうだね」
返ってきた答え以上に、成神が何事もなく話してくれたことに安堵した。この話題はなるべく触れないよう、触れる場合も慎重にいこう。もう病院に着くまでは黙っていたかったのだが、それはそれで気まずいと思ったので、とりあえず思ったことを口にした。
「この車が盗聴されていない、というのはいい。でも、もっと直接的に、例えば尾行されている可能性はないのかな」
ちょうど信号が赤になり、車が停まる。すると、成神はこちらを向いて、にっと笑った。
「それこそ、こちらにとってはありがたい話だよ。追っている人間は、犯人か共犯者だ。顔を見てしまえばいい。しかし、残念ながら尾行されてはいない。こうして君と話をするために遠回りをするついでに、その可能性も探ってみたんだ。結論としては、いない。僕たちを脅威と思っていないか、尾行するほど手が足りなかったか、理由はこれから絞り込む必要があるけどね」
周囲を見回す。左右、後方、台数はさほど多くないが、いずれにも自動車はある。運転手は老若男女と幅が広い。確かに、この中に私たちを尾行する者がいる気はしない。ただ、それが敵の策ということもあり得る。そう考えつつも、実はさほど心配していない。
成神が違うというからには、違うのだ。彼には全幅の信頼を置いていい。
いくら遠回りをしていても、向かう意志さえ失われなければ、いつかは目的地にたどりつく。私たちの乗る車も、やがては病院の駐車場へと入っていった。
町で一番大きな病院――小木総合病院である。年月に晒されて白からくすんだ灰色に変化した壁を見るだけで気鬱になる。それに、姉がすぐそばにいるという事実にも。ちらと考えるが、やはりまだ会えない。
受付を通り、八階に向かう。入院患者はみな、その階にいる。つまり、醍醐祥だけでなく、姉も同じフロアにいる。息苦しさを覚える。エレベーターに乗るとき、成神が私の顔をうかがったが、私は首を振った。
エレベーターの中では無言だった。
八階についたとき、もう一度私は首を振る。醍醐の病室はすぐにわかった。護衛か監視か、部屋の前に制服警官が二人いる。見かけた顔だ。捜査会議に出ていたのだろう。成神が、御舟の許可を得ていることを告げると、面白くなさそうに脇にどいた。
成神はノックをするも、返答を待たずに部屋に入っていく。私も警官二人に会釈をしつつ、彼の後を追った。
「おお、あんたら二人か」
ベッドに身を横たえながらも、醍醐の力強い眉と鋭い眼光は健在だった。短髪で浅黒い肌から、怪我人にはとうてい見えない。腕に包帯を巻いているが、なんだか単なるテーピングにも見えてくる。
「こんにちは」
探偵としての能力を恐喝のような方向に使う醍醐に対して、成神は好感を持っていないようだ。その証拠に、成神の表情は硬い。
「平凡なジャーナリストの俺に何の用だ。もしかして、生八つ橋の礼か? わかるぞ、おまえたちも食べているな」
醍醐は薄笑いを浮かべた。成神は肩をすくめる。
「事件の被害者に話を聞こうと思いましてね」
彼もどこかトゲがある。
「もう警察に話したよ、あの御舟って男にな。二度も同じ話をする気はない。知りたきゃ、そいつに聞けばいい」
醍醐のにやつきを見ていると、私たちと御舟の間の確執についても承知しているらしい。調べたのか、推理したのかわからないが、本当に無駄なことに自分の能力を使っている。
成神はため息をついた。楽しそうではないものの、どこかすっきりしたようにも見える。
「本当に、知っていることをすべて話したんですか」
「もちろん。今朝、俺がどこで何をしていたのか。そのすべてを、まさに微に入り細を穿つようにな」
「――なぜ、が抜けているでしょう」
「ほう。根拠は何だ?」
醍醐が楽しげに眉を動かした。
「たいしたことじゃありません。あなたはジャーナリストで、事件を個人でも追っている。ここですべてを話してしまったら、警察を出し抜けないし、最悪町から追い出される」
「追い出されはしないだろう。そんな権限、あるものか」
「御舟さんなら、捜査妨害だと判断して、やりかねませんよ」
醍醐は少しだけ考えてから、ちょっと笑った。
「ああ、そうだな。あの男はやりそうだ」
なんとなく、既視感がある表情だ。親しみやすいのだろうか。しかし、そんな顔はすぐに引っ込んだ。
「理由なんて、たいしたことはない。健康のために、朝の散歩をしていたまでだ」
「いつからこの町に? その散歩は毎日の習慣ですか?」
「おいおい、ずいぶんと欲張るな。町には一昨日だ、散歩は習慣にしているが、時間は決まっちゃいない。これでいいだろう?」
成神はため息をついて首を振る。
「犯人に心当たりはありますか?」
「商売がら、敵は多くてね。誰だかしぼりこめないよ」
予想はしていたが、まるで話にならない。商売敵ゆえか、本人の生来の性格ゆえか。なんにせよ、ここにいるのは無駄であることがわかった。それだけが収穫だった。
成神が深呼吸をする。
「もう退散します。お邪魔しました」
彼も同じ気持ちのようだ。
「おう、残念だな」
「全然残念そうに見えませんよ」と、つい口を挟んでしまった。
変な顔をされるかと思ったが、醍醐はふっと微笑み、
「まあな」
と返すだけだった。親しみよりも、憐みをかけられている気分だ。名探偵の助手という立場に対するものだろうか。
「あなたはすでに気づいているでしょうけれど、他人に言われることが大切な気もしますので、一つだけ忠告させてください」
成神がそう口にする。柔らかな雰囲気はそのままで、しかし断れるような物言いではなかった。内心は見えないが、醍醐も静かに小さくうなずく。
「このままだと、殺されますよ。あなたは狙われている」
淡々とした物言いにもかかわらず、私は衝撃を受けた。自分のことではないのに、胸の鼓動が早くなる。だが、当の醍醐は口の端を上げている。
「名探偵成神尊は、犯人の目星がついているのかな?」
「まさか。そうだとしたら、こんなところにいませんよ。主義に反しますが、探偵としての勘がそう告げています」
「勘、ね。だが俺の勘では、俺はどうにか助かって、君らよりも先に犯人を見つけられそうだよ」
裏を返せば、まだ醍醐も犯人がわかっていないのだ。もちろん、彼が本当のことを言っている保証はないが。
醍醐祥との対面はそれで終わった。彼も午後には退院して、調査にあたるらしい。あんまり好きになれなそうだが、見た目どおりタフな男だ。
くだりエレベーターに乗る直前、姉に会うべきか一瞬だけ悩んだが、察した成神が先に一階を押してくれた。自分の手に汗をかいていることに、エレベーターから降りて気づいた。しかし、そんな気遣いをしてくれた成神は、車に乗り込んだときには不機嫌そうだった。私が声をかける間もなく、無言で発進させる。
「どこに行くんだ」
「警察署に戻るよ。車を御舟さんに返さなきゃいけない」
物言いもぶっきらぼうだった。
「実のある面会とは言えないけど、そこまで不満に思うほどでもない気がするがな」
「あ、ああ。すまないね。自分でも気づかないうちに、感情を表に出していたみたいだ」
すっと成神の態度が戻った。ほっとする。名探偵はそうでなくては。
「浮田くん、僕は悔しいんだ。真実がわからないばかりに、犠牲者が出ようとしているのを止められない」
口調は平静だが、私には彼の気持ちが伝わってくる。
「醍醐は、間違いなく犯人に狙われているんだね」
「ああ。模倣事件の発生で、存在感を示したくなったのだろう。いや、他にも理由があるのかもしれないが、今の段階ではそう考えておこう。模倣犯の目論見は成功したんだ」
「模倣犯の目論見?」
話が唐突に飛んだので、あまり呑み込めない。どういうことだ?
「そう。結果からわかったんだけれど、模倣犯の動機は、『泣いた顔』事件の犯人を挑発することだったんだ。似たような事件を起こすことで、犯人のプライドを傷つけた。捜査する人間がぼんくらであれば、模倣事件すら本物の仕業にされかねない。『泣いた顔』事件の犯人は、何らかの形で模倣犯にメッセージを送る必要があった」
「それが、醍醐祥の襲撃だったと?」
成神がうなずく。
「君のお父さんの拳銃を使うことで、模倣犯の可能性を自ら否定した」
「殺さなかった理由は?」
「拳銃の命中率の問題だろうね。訓練をした警察官だって、動いている標的を当てるのは至難だ。逆に言えば、これだけで犯人を警察の人間ではないと言えないんだけどね。ただ、相手が死ぬかどうかを度外視してでも、自分が『泣いた顔』事件の犯人であると証明したかった」
「じゃあ、これは一連の事件と犯人は一緒でも、性質は違うことになるね」
「そのとおり」ようやく、成神がほほ笑んだ。「けれど、醍醐さんの命が狙われているのは変わらない」
「そうか? 犯人の目的は達したんだろう?」
「ああ。でも、一度殺害しようとした醍醐さんを生かしておくのは、『泣いた顔』事件の真犯人のやることだろうか? 犯人が犯人であるためには、標的にした人間の命を絶たないといけないと思うんだ」
「ひどく抽象的な動機だね」
いつもよりワンテンポ遅れて、成神がうなずく。
「だが、本人に警告を出す程度には真実だと思っている。模倣犯に腹を立てるような人間は、まっとうな感性の持ち主でなくても、本人なりのスジを通すものではないだろうか」
強引な気もするし、そうである気がする。ただ、確定させるにはもう一押しが足りない。
平静を取り戻した彼を見てほっとしていたが、まだまだ彼も揺れているようだ。犯人が動いても、新たな謎が現れるだけなのだから、当然なのかもしれない。この事件は、一筋縄ではいかない。私はとっくに知っていたつもりだったが、改めて思い知らされている。
私が気をつかって何も言わないでいたら、そのまま成神が口を開いた。
「そもそも、どうして醍醐さんを標的に選んだのだろう? ジャーナリスト本人が襲われれば、大々的に宣伝されるから? さして効果はないだろう。御舟さんによって、意図的に報道は抑えられ、町長もそういったものは歓迎していないせいで、事件の取材が非常にしづらい状況だ。たとえ本人が襲われたとはいえ、そう簡単に記事にできるわけもない。個人SNS? ひとりだけで発信しても、みんなのおもちゃになるだけだよ。実際、御舟さんに何を言われたのか知らないけれど、醍醐さんも自分のことを記事にするようなそぶりは見せていないよね」
ああ、と何度かうなずいておいた。言いたいことはわかる。しかし、普段の彼とは考えられないほど、穴だらけの推論だった。私たちは煮詰まっていた。時計を見るとまだ午前中だったが、おそらく今日は仕事になるまい。
「なあ、成神。今日はもう店じまいにして、飲みに行かないか?」
分の悪い賭けだと思っていたら、なんと成神も乗ってきた。
私たちは黙って車を署に戻し、この時間からやっている居酒屋を探し出し、いそいそと向かった。故郷で酒を飲むのは初めてだ。
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