第一部 浮田紘一 5
八年前の事件について、成神とともに資料にあたった日の夜、私は実家の自分の部屋にいた。小学生の頃から使っている学習机の上で、愛用のノートパソコンを開いていた。今回の事件についての情報を整理、保存するためである。仕事で事件にかかわったときはいつもやっていることだった。
ちなみに、パソコンが破損したときに備えて、書いたものは逐一クラウドでも保存している。これを知るのは、私と成神だけだ。
事件が解決したところで、これをもとに小説仕立てにして、本にしている。
名探偵の経験を描いたノンフィクションの中ではそこそこ売れているようで、おかげで私と成神は無理に他の仕事をしなくて済んでいる。なお、依頼料から印税まで、すべて折半している。私の取り分は少なくていいと提案したことがあるのだが、そこは成神が頑として受け付けてくれなかった。そして、私も最終的に彼の厚意に甘えることにした。
仕事とお金、両方の以上により私と成神は同居しているので、生活費も含めて同じ財布で暮らしていると言ってもいい。
出版社は、最初に持ち込んで出版まで至った一社としかやり取りしていない。成神尊の名探偵としての名声が高まるにつれて、他の出版社から声がかかることはある。だが、それほど事件を手がけているわけでもないし、解決した事件でも公にできないものもあるため、いろんなところとやり取りはせず、最初の一社とだけ仕事をする形で落ち着いた。
中には伝記作家を複数かかえて、年に何冊も事件録を出す名探偵もいるが……まあ、人それぞれというところだろう。正解などない世界だ。
もちろん、これは小説に限った話で、単発のエッセイや対談企画は断っていない。むしろ大歓迎である。担当編集には、事件が解決し、それが本にできそうなときにだけ連絡を入れているので、今はただ事件の整理に集中すればいい。
……とわかっているのだが、どうにも気持ちが入っていかない。
ずっと解決したいと思い続けてきた事件を、成神が調べているのだ。喜びまではいかなくても、興奮や期待に四六時中包まれていてもいいはず。それなのに、今の私は倦怠感と失望感の渦中にいる。いや、理由はわかっている。改めてこの事件にかかわったことで、私は自分が目を逸らしてきたものと、正面から対峙させられているのだ。
私は姉から逃げていた。刑事だった姉が、追っていた事件の犯人に襲われ、意識不明に陥ってしまったことが、どうしても自分の中で受け入れられなかった。
私にとって姉とは、単なる姉ではなく、初恋の人であり母であり女神であった。
恋心を抱いており、愛情を感じており、崇拝していた。
姉は、容姿端麗で頭脳は明晰、運動能力も群を抜いていた。東京に進学しても、成功は間違いなかっただろう。これは、私のえこひいきでも妄想でもない。学力は模試なんかがあれば全国でも百位以内に入っていたし、部活でやっていた陸上では国体に出場している。さらに、中学高校と学内でファンクラブができていた。
ことほどさように、姉は最強なのである。別に、私は変態ではない。姉の近くにいて、その魅力にからめとられない人間は存在しないだけである。
それに、両親は私に関心を持たなかった。
母は今もそうだが、不自由はさせないものの、私の趣味嗜好や交友関係にはまるで興味がなく、知ろうともしなかった。逆に、母も自分から何かを語ることがないので、どんな人かはよくわからない。さらにいえば、母方の親戚のことも聞いていない。
父は父で仕事中毒だった。結婚を機に刑事から交番勤務に移ったというが、家にいた記憶はほぼない。非番の日も自主的に町を回って、顔見知りと話をしたり、家の様子を確認したりしていたらしい。それで窃盗犯を捕まえたことも何度かあるそうだ。
ゆえに、私にとって血の通った家族とは、姉のことだった。
つけくわえると、両親が共働きだったためか、姉は炊事家事までもが得意である。特にオムライスは絶品である。姉の料理を食べていたせいで、せっかく大学から東京に出たのに、何を食べても物足りなかった。満足したのは、量くらいだった。
まさに、藤原道長で言うところの、欠けたるところもなしと思えば、だ。
私の姉、楓はそういった女性だった。姉の前に人はなく、姉の後ろにも人はない。
逆に、そこまで無敵な姉が、どうして地元で警察官になったのかは、理解に苦しむ。彼女は、選ぼうと思えば、どんな未来だって選べたのに。
ただ、確かに彼女は警察官としても優秀だった。あっという間に刑事になり、県警本部の捜査課で大活躍していたと聞いている。だから、犯人に襲われるなんて、考えもしなかった。そんなのは姉らしくない、そう思ってしまった。完璧だった姉が、完璧ではないと思い知らされたとき――生身の存在として感じられた瞬間、私は私の世界が崩壊しそうになり、恐怖した。だから、いまだに見舞いにも行けていない。
病院のベッドで横たわる姉を見たとき、私は自分が平静でいられる自信がなかった。
その点についてだけ、悔しいが御舟傑のほうが正しい。私は臆病で卑怯だ。姉と向き合える力がある彼が正直なところ羨ましい。
夜だからだろうか、気持ちが後ろ向きになってしまう。頭に浮かんだ御舟の顔を消すべく、私は激しく頭を振った。軽いめまいとともに、嫌な像は消えていく。
代わりに、父の顔を思い出すことにした。
家庭に無関心な仕事人間。典型的な古い種類の男だった。職業が警察官なら、なおさらだ。そういうスタンスでいることに酔ってさえいたと思っている。やはり、父には辛辣になってしまう。彼がいたことで、私や姉や母が幸せになれたとはどうしても思えない。生活費を稼いで来てくれたことには感謝しているが、それで割り切れるほど、子供のころの私は達観していなかった。
彼が死んだとき、悲しみはしなかったが、違和感は抱いた。不思議な感じと言い換えてもいい。交番勤務の警察官が、勤務時間外に殺人鬼に襲われるものだろうか。
仕事人間ではあったが、汚職を含めて、悪事を働いている形跡はなかった。自宅からも、特に何かが見つかったということもない。ごく普通の、平凡な警察官だった。わざわざ狙って殺す必要があったとも思えないのだが。
しかし同時に、犯人は警察官であれば誰でもよかった可能性がある。そうなると、交番勤務の父は、探りやすい存在と言える。そして、こちらのような気がしてくる。父の死は理不尽の結果ではあるが、彼に責任がないほうが、私と父の関係からすると慰めになった。
なんにせよ、成神がすべてを暴いてくれる。私は彼のサポートに徹すればいい。
無理に向かい合う必要はない。御舟の感覚からすれば、私は卑怯者なのだろうが、精神を壊してしまったら、真相を知ったとしても意味がない。卑怯者で結構だ。どうせ結婚の挨拶で会ったときから、彼が嫌いだったのだから、今さらである。
結局、筆はあまり進まない。
椅子の背もたれに身体を預け、ぐっと伸びをする。椅子から、ばきっと不吉な音が出た。椅子ごとバランスを崩しかけるが、どうにか踏ん張って、後ろに倒れずに済んだ。
机ともども、子供の頃から使っているため、だいぶガタが来ている。特に、小学生、中学生の時分はかなり無茶な使い方もした。油断をすると危険だ。ただ、落書きや傷をつけるような真似はしていないので、今もって表面がつるつるしている。さわると気持ちいい。
そのとき、階下から扉がそっと閉まる音がした。
母だ。おやすみの挨拶もなく寝るのだろう。夕食も、私が帰ったときにはすでに一人で済ませていた。一緒に食べるつもりはなかったにちがいない。
彼女はいつも、ひっそりと息をひそめて生活している。昔はまだましだったが、父が殺され、姉が意識不明になるずっと前からだ。私が生まれる前はどうだったのか知らないものの、これが母の性格だと思う。
父はこんな母をどう思っていたのかは、少し気になる。とはいえ、それを母に聞くわけにもいかない。ただ女手が欲しいだけで一緒になったとは、息子としてはあまり考えたくない。保留である。永遠の保留。
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