第一部 浮田紘一 3-3

 私たちも捜査本部を後にして、御舟に指示された取調室を目指した。部屋の前には、若いスーツの男が立っている。おそらく刑事で、きっと御舟の手先だろう。

 彼は私たちと目を合わせると、黙ってうなずいて取調室を指し示した。私たちが会釈をして入室すれば、彼はそのままどこかへ去っていった。私たちには一切関心がないということだろう。下手な敵意を向けられるよりはやりやすい。

 狭い取調室の机の向こうに、小太りの鳥飼勲がかつ丼を食べていた。

 私たちを見るなり、箸をとめて、どんぶりを抱えるようにする。

「申し訳ないんですが、こいつを差し上げるわけにはいきません。なにせ、自費なもので」

「食事は済ませてきました」

 自分も空腹だろうに、成神は嘘をついた。直後に私の腹がささやかに鳴ったのだが、薄情なことに、誰もそれについては触れなかった。まあ、もともと他人の食事を奪うつもりは、私も成神もないのだが。

「こんなところで顔を合わせるとは、不思議な気分ですなあ」

 取られる心配がなくなったためか、鳥飼がまた箸を動かす。

「最初は事務所を訪ねたんですよ」と成神は苦笑した。「でも、いらっしゃらず、ここにいるとうかがったので、時間を節約したくて直接来てしまいました」

「仕事の代金の話ですかな? こういう状況だから、できれば後日にしてもらえるとありがたいんですが」

「その件ではありませんよ」

 それを聞いて、鳥飼が露骨に安堵していた。まさか踏み倒す気ではなかろうが……。

「里見茂さんのことです」

 鳥飼が怪訝な顔をする。覚えていないのか?

「十年ほど前に、あなたが強盗事件の弁護をした男です」

 鳥飼は目線を上にあげて、考えはじめた。かつ丼のにおいが、私の鼻に届く。小太りの鳥飼が、これを残す可能性はないだろう。

「ああ、いたな。確かにいた。いましたよ、里見茂君。この町で強盗事件は珍しかったですからね、結構前だけれども覚えていますよ。里見茂君のお父さんとは幼馴染でしてね。勝ち目は最初からなかったんですが、減刑を求めて雇われました。まあ、ダメでしたけど」

 あっけらかんと仕事が失敗したことを口にした。いや、案外こういう弁護士は、そこかしこにいるのかもしれない。

「最近、お会いしたことはありませんか?」

「なぜそんなことを聞くんです、成神さん」

 鳥飼に再び警戒の色が見えた。

「実は、里見茂さんは亡くなりました。殺人です」

「いや、いやいや、私は強盗事件以後会っていませんよ。電話だって、もちろんないですし。音信不通です、音信不通。だいたい、出所したときだって連絡をもらってませんから」

 露骨に目が泳ぎだした。よく見ると、全身が震えている。

「何か心当たりはありませんか?」

「ないないないないないない」

 どんぶりを持ったまま、鳥飼は首を振り続ける。成神がため息をついても、気がついていない様子だった。

「鳥飼さん、落ち着いてください。あなたが犯人だと言いたいわけではありませんから」

 鳥飼は動きを止めるも、目を細めた。

「名探偵は、証拠と関係者が揃うまでは、真相を話さないんでしょう? 私を油断させるために言っているのでは?」

 不信感がすごい。とはいえ、半分は成神の日ごろの行いだよな、と思って彼を見ると、目があってしまった。

「今後は気をつけるよ、少しだけ」

「身の丈に合わない約束はしないほうがいいと思うよ」

 私もため息をついた。そして、鳥飼に顔を向ける。

「鳥飼さん、あなたはどういった理由でここに連れてこられたのですか?」

 鳥飼は凡人の私を見て、ほっとした顔をする。つまり、里見茂の件ではないということだ。いい具合に話がそれた。

「相澤一郎氏の件について、話を聞きたいと」

「御舟からですか?」

「そうです」と、鳥飼がうなずく。

「その御舟とは、もうお話ししましたか?」

「いいえ、別の事件で忙しくなってしまったそうで。まあ、私も顧客を一人亡くしてしまい、時間があるのでいいんですがね」

 ははは、と鳥飼が愛想笑いをする。それを見て、ピンときた。成神を見ると、彼もうなずいた。彼も同じようだ。では、私から話そう。

「鳥飼さんは、御舟がここに連れてきた本当の理由に気づいていますね」

 鳥飼はカツを食べ、それを呑み込む前に、追加でご飯を口に放り込んだ。いいなあ。ついでに、卵と出汁の味も想像する。ゆっくり咀嚼したあとで、鳥飼がにやりと笑った。急に居直られた。

「もちろんです。ただ、いきなり名探偵さんから犯人扱いされるのは、想定外でしたがね」

 変な誤解をしている。年季の入った弁護士であるだけに、それなりにふてぶてしさは持ち合わせているようだが、根っこの部分は小心者なのか、突発的な出来事は苦手らしい。そういえば、相澤家でもなかなか真相を話そうとしない成神に焦りを見せていた。

 そのため、現実の捉え方のほうに調整を加えたのだろう。

「鳥飼さんの考える本当の理由、おうかがいしても?」

 私は取調室の扉を閉めた。それにより、鳥飼は身構えるかと思っていたが、意に反して破顔した。

「いやあ、葉月ちゃんを殺したのは、『泣いた顔』事件の犯人なんでしょう? あの連続殺人の。動機は快楽って言われていますが、相澤家に出入りしている人間が狙われている可能性だってあります。まあ、あの場にいた相澤一郎氏のお子さんは、三人とも安全な場所に確保されているわけですが」

「物は言いようですよね」

 つい、突っ込んでしまった。だが、それに対して特にレスポンスはない。

「だが私は違います。それを警察は心配して、こうして保護してくれたんではないかと思っていますよ。まあ、自分で言うのもなんですが、この町で開業している弁護士は私一人だし、警察にも友人が多いですからね」

 鳥飼の満面の笑みを、どう解釈したものだろうか。見たままを受け取ればいいのか、裏があると取ればいいのか、はたまた、こちらが裏があると取ると想定しているのか……。いや、やめておこう。それは成神の仕事だ。

 私は、成神の肩を叩いてこちらに目を向けさせると、うなずいた。あとは任せたぞ、と伝えたつもりなのだが――

「ありがとうございました。また何かありましたら、おうかがいさせてください」

 成神はそう言って、取調室からさっさと出て行ってしまった。私も慌てて頭を下げて、彼の後を追う。背後からは、再びかつ丼をかきこむ音がした。

 私たちは警察署を出て、どちらからともなく、すぐ近所にある蕎麦屋に入った。そして、どちらもかつ丼を頼んだ。私の推理が正しければ、鳥飼が食べていたかつ丼は、ここのものだ。そしてそれは、十分後に証明された。

「鳥飼氏との最後のところでは、私は何か鋭い質問をぶつけてくれないか、と言いたかったんだ」

 かつ丼を半ば食べ、お腹が落ち着いてきたところで、私は成神に問いかけた。

「あの目は、そういうことだったのか」

「悪かった。目力を鍛えておくよ」

「根本的な解決ではないよね」

「それはそうと、本当によかったのかい? 成神自身に聞きたいことはなかったのか?」

「彼はどの事件とも無関係だ」

「じゃあ、御舟が君に無理やり推理させた、鳥飼氏を確保した理由も嘘だったと?」

 成神は首を振る。

「御舟さんがそれを信じているのは間違いない。これは印象でしかないが、彼は無駄なことをする気がしないからね。実際のところ、御舟さんというのは、どういう人なんだい?」

「昔は違っていた。私からはそれしか言えない」

 私が御舟のことを知っていると思われていることが、成神に対してでさえ、やはり心の奥底では不快なようだ。極力感情を抑えたはずだが、にじみ出るものがあったらしい。

「すまない、そんなつもりじゃなかったんだ」

 成神の狼狽に胸が痛む。

「いいんだ。これは、私と御舟の問題。君には関係ないことだから」

「そんなこと言わないでくれ。君の問題なら、僕にも少なからず関係があるよ。それに、同じ事件を追っているわけだしね」

 私は笑顔を作ってみた。

「成神はどう思う? 鳥飼氏のこと、御舟のこと。よければ、君から見た二人のことも教えてほしい」

 成神は微笑んだ。

「もちろんだよ。まず鳥飼氏のことだけれど、僕も今の彼が事件解決につながるとは思わない。なにしろ、曾根葉月さんが殺害されたとき、僕たちと一緒にいたからね。これはアリバイとして十分だろう」

 こいつは誘い水だ。大事なのは、アリバイだけじゃない。単体ではまやかしにすぎない。成神がわざと私に穴を突かせるような物言いをするのは、事件について二人で検討したいときだ。私はかつ丼をかきこみ、コーヒーを注文した。成神はまだかつ丼を半分残したままだった。それは、彼の挑戦状にちがいない。

「曾根葉月さんは相澤家の人間であったわけだし、鳥飼氏も相澤家の顧問弁護士だった。まったく動機が思いつかないわけじゃない。例えば、彼はその立場上、曾根葉月さんが一郎氏の子供だと知っていた。そして、彼の公式の子供三人のうち一人に、そのことを話した。その人物は、通常通りにわけてしまうと遺産の取り分が減ることを危惧し、鳥飼氏と共謀して殺した、とか。この場合、事件の動機が生まれたのは、相澤一郎氏が亡くなってからだから、曾根葉月さんが彼を殺害したとしても、真相を知らなければ十分にあり得る。そして共犯者がいる以上、他にも実行犯がいたとしても不自然ではないし、彼らが私たちとともに相澤一郎邸にいたとしても、なんの問題もない。おおっと、待ってくれよ、成神。証拠がないなんて、野暮なことは言わないでくれよ。今はまだまだ前の段階なんだから」

「はは、言わないよ。証拠証拠と連呼するのは、警察だけでたくさんだ。僕たちは、それだけじゃすくいとれないものを、暴き出すんだ」

 湯呑に入ったコーヒーが僕の前に置かれた。それを口に運んでいると、成神が続ける。

「だが浮田くん、その仮説は里見茂さんのことを考えれば成立しない」

「そういえば、アリバイを聞いてないね」

「あの調子じゃ、聞いても答えなかっただろうし、聞く必要もないよ。重要なのは、里見茂さんが彼の顧客だったことだ」

「というと?」

「相澤一郎氏の顧問弁護士であり、強盗事件を起こした里見茂さんの弁護も担当した。もしかするとこの町唯一の弁護士かもしれないし、少なくとも駅前に事務所を構えていることもあり、この町有数の弁護士の一人であることは間違いないだろう。言ってみれば、彼もまた相澤一郎氏と同じく、町の名士なんだ」

 確かに町の名士と言えるが、彼の言動を思い返すと、それにしては落ち着かない人だった。そこは、ある意味では彼の美徳なのだろうが。

「つまり、彼の生活は相澤一郎氏に依存していなかった。要は、わざわざ犯罪をおかしてまで金を得る理由がない」

「我々が持っている情報だけで判断すると、鳥飼氏には動機が存在しないということか」

 成神はうなずく。

「君が話してくれた仮説は、そこで行き止まりになる」

「鳥飼氏がもっと深く、相澤家に入り込んでいて、何かしらの恨みを抱いていたとか」

「可能性としてはあるけれども、かなり低い。他に取れる手段がまだまだありそうだからね。彼はそれぐらい、やろうと思えばできるはずなんだ」

 取調室でかつ丼を食べている鳥飼のことを思い出す。思った以上に小市民で、思った以上に屈託がなかった。まあ、彼の影響で、私と成神はこうしてかつ丼を食べたわけだが。

「そうだね。何か新しい事実が出てきたときに考えよう。そんなことはなさそうだけど」

「ああ、僕もそう思う」

「じゃあ、鳥飼氏のことは以上ってことかな?」

「いいや、ここでようやく本題だ」成神がにやりと笑う。「彼自身は事件に関係なくても、彼が手がけた事件はそうでないかもしれない」

 私は自分の眉間にしわが寄るのを感じた。成神はその意味を正確に読み取る。

「考えてみてくれ、浮田くん。鳥飼氏は町に住む人々の弁護を数多く担当してきた。本人が忘れても、彼らの事件の記録は残してあるはず。それは言わば、この町の悪の歴史だよ」

「すごい表現だな、悪の歴史って。そんなにひどい町でもないぞ」

「僕が言うのもなんだけど、十人殺した殺人鬼が捕まっていない町って、相当だよ」

「そう言われると、返す言葉もない」

 私は降伏の証に肩をすくめた。

「だから、その記録を見れば、何かがわかるかもしれない。犯人につながるのか、被害者につながるのかはわからないけれど」

「しかし、八年前の事件の被害者は、表立った犯罪をおかしていなかったはずだよね。警察も表向きは『快楽殺人』と謳っていたわけだし。鳥飼氏の記録を漁ったところで意味があるとは思えないけどな」

「いや、そんなことはないよ。被害者たちがおかした、表ざたになっていない犯罪を、『泣いた顔』事件の犯人はどうやって知りえたのかが見えてくる。ただの市井の人間が、簡単に調べられるような情報じゃないよ。どこかに何か、そういった情報が集まっていなければおかしいんだ。弁護だけでなく、相談の記録が残っていれば、そちらもわかるだろう」

「そこまで期待していいものかな。そんなにマメな人とも思えない」

「ない場合は、情報源がほぼ一つに絞られるだけだよ」

 そう言って、成神は自分の背後を指さした。その方向には警察署がある。

「犯罪の情報が集まりやすいところといえば、他にはそこしかないよ。実際、そちらのほうが確率は高いね」

「内部に殺人犯がいると?」

「飲食店で物騒な物言いはやめとこうよ」

「あ、すまない」私も自分で気づいて恥ずかしくなった。

「それに、そう断定するのも早いよ。情報源がありそう、以上のことは判断できない。今のところはね」

 私はうなずいた。

「御舟を疑っているのか?」

「まさか。あれで事件を隠ぺいするつもりだとしたら、もうとっくの昔にぼろを出していると思うよ。彼は、異常な情熱で事件を追っているだけだ。そう、異常」

「認めたくはないが、それだけ姉さんのことがショックだったんだろう」

 言ってから、父のことを入れたほうがよかったかと思ったが、成神に自分の気持ちを偽る必要もないと考えなおした。父は警察官の中でも職務熱心だったため、家庭では幽霊のような存在だった。育ててもらった恩は感じるが、親としての愛情を感じたことはない。

「昔の御舟は、客観的に見ても冴えない男だった。出世する気もなく、事務方で淡々としていた。普通より、やや低めのテンションで、いまだに姉さんがなぜ彼と結婚したのか、理由が分析できない。嫌悪を抜きにしてもね。無色透明の無害な警察官だった」

「あの攻撃的な性格は?」

「全然。私の挑発には乗らず、うつむいて無言でいるだけだった。だから、昨日久しぶりに会って、びっくりしている。あれは、完全に別人だよ」

 成神が深くゆっくりと、首を縦に振った。

「彼の持っていた里見茂さんの資料、あれはおかしい。かつて強盗事件を起こしたとはいえ、その後の情報も載っていた。時間を逆行していないとしたら、罪を償った人間を調査していたことになる」

「前者の可能性は? 本当に時を駆けたとか」

「あったとしたら、彼は先に、君のお姉さんを助けに行くはず。だから後者だ」

「なるほど合理的だ」

「しかし、それはタイムトラベルと同じくらい、おかしな話だよ。犯人が即座に捕まっていないところからも、御舟さんは里見茂さんがこのタイミングで被害者になるとは考えてなかった。それなのに、微に入り細を穿つ個人情報は持っている」

「つまり、あの男は町にいた犯罪者の現在を、個人的に調べていたってことか」

「もしかすると、この町にいた人間、すべての情報を可能な限り集めているのかもしれない。昨日の相澤家での出来事を考えると、僕はそちらの可能性のほうが高いと思っている。ただ、それはまともな人間がやれることじゃない」

 成神の黒目が広がったような気がした。

「おそらく御舟さんは、『泣いた顔』事件の犯人を総当たりで探し出そうとしているんだ」

「町の人間、全員を調べるってことか?」

 飲食店にいるのに、私はつい大声をあげてしまった。だが、客は他にいなかった。店員の老いた夫婦二人は、まったく気にせずにテレビを見ている。それはそれでどうなのだろう。無関心すぎるのではないか。

「無理だろ」と、今度は逆に小声で言う。

「不可能を可能にしようとしているから、言動がおかしくなっているのかもしれない。そして、里見茂さんのことを考えれば、その無茶は一定の成果はあがっていると見ていい」

「じゃあ、このままあいつに任せておけば、勝手に事件を解決してくれるってことか?」

 成神が笑った。

「合法的な調査方法とも思えないね。もし見つけたとしても、十分な証拠がなければ起訴までは持っていけないだろう。それに、こんなやり方ではいつまでかかるかわからない。彼も犯人も寿命で死に、真相は闇の中……ってことにもなりかねないよ」

 と、急に成神が身を乗り出した。

「そこで、僕たちの出番だ。自分で言うのもなんだけど、僕たちには推理力がある。それは、今まで解決してきた事件によって、証明されている。だから、御舟さんの集めた情報と鳥飼氏の記録を利用させてもらうんだ。僕たちに、この町に関する知識があれば、きっと事件を解決できる。僕はそう信じている」

 成神は力強くうなずいた。

「それに、相澤家での雪辱は晴らしてしまわないとね」

「あの男が、そう簡単に情報を渡すかな。そもそも、もし非合法なやり方で他人の個人情報を集めていたとしたら、存在すら明かさないだろう」

「なに、その辺はなんとかなるさ。僕たちの頭脳は、推理のためだけにあるんじゃないよ」

 成神が笑顔で、自分の頭を指で軽く叩いた。確かに、過去のことを考えれば、それは正しい。御舟傑にも付け入る隙がありそうに思えてくる。話は一段落したらしく、成神の視線はまだ半分残されたかつ丼に戻った。

「もうそのかつ丼、だいぶ冷えてるよ」

「いいよ、冷たいごはんは好きなんだ」

 成神は、割り箸をすっかり冷えたかつ丼に差し入れる。

「そういえばそうだったな。昔からか」

「昔からだよ」

 成神がどこか遠慮がちに笑った。食事を終えた私たちは、そそくさと店を出た。

 店員の老夫婦は、会計のときまでも私たちに興味がなさそうだった。なんとなく演技とも思えない。あまりじっくり聞いてほしくない話をしていた私たちにとっては、ありがたいことだ。もしかすると、警察官の客が多く、彼らを常連として取り込むために培った技術なのかもしれない。ここでなら、仕事の話も思う存分可能だ。不思議な進化をした蕎麦屋である。ただ、かつ丼はうまい。

 成神は店を出てどこへ行くのかと思いきや、そのまま警察署へと戻ろうとする。私は反射的に彼の肩をつかんだ。

「なんだい?」

「どこに行くつもりだ? そっちは警察署だぞ」

 成神の表情は変わらない。

「ああ。警察署に行くつもりだよ」

「どうして? 話の流れからしたら、鳥飼氏の事務所に行くと思っていたんだが」

「無駄だよ。鳥飼氏が不在の中、仕事の記録を漁るわけにはいかない。それに、あのアルバイトの男性は今もあそこにいるだろう。彼は一人で無限に時間をつぶせるタイプだ。いつまでもどこにも行かない。彼があの場を離れるときは、きっちり施錠するにちがいない」

「成神、偏見だよ。それに、鳥飼氏がいたって記録を漁れるとは限らないじゃないか」

「じゃあ、盗人のような真似をしようって話なのかい? なんとも物騒な!」

 成神がわざとらしく目を見開いた。だから私は、大仰にため息をついてみせる。

「今までのことを考えたら、君が鳥飼氏に許可を取りに行くとは思えなかったんだ。隙をついて盗み見るつもりだと」

 これは全面的に成神の責任だが、私たちが真相究明のために非常に強引な行動を起こすことは、ごくまれに必要最低限だが、ある。あらぬ疑いを招いてはいけないので、詳細を述べるようなことはしないが、褒められた行為ではない自覚があるものも、中にはある。

 ただ、私たちが強行したことで不幸になった人間はいないであろうことは、断言しても許されるのではないかと思う。……いや、もうこれくらいでやめておこう。

「なんだかひどい言いようだね」

「心当たりはあるだろう? それできちんと聞くけど、鳥飼氏の許可を取るつもりなのかい? 弁護士には守秘義務がある。たとえ彼でも、そいつを無視するとは思えない」

 成神は目を見開いたままだった。

「そんなこと思いもしなかった。僕だって許可を取る気はさらさらない」

「自分から言い出しておいて悪いけど、あんまり無茶はしないようにしようよ。探偵と助手が窃盗で逮捕なんて、笑えないからさ」

「ばれないようにやれるから、名探偵でいられるんだよ」

 先ほどから、成神が妙に不穏なことばかり言う。悪くない。彼の頭脳が動いている証だ。

 立ち番をしている制服警官に冷ややかな視線を向けられつつ、私たちは再び警察署の中に戻っていった。

「となると、ここに戻ってきて、何をするつもりなんだ?」

「そりゃあ、僕たちが御舟さんから与えられたのは、里見茂さんを殺した人間を突き止めることなんだから、その情報収集に決まっているじゃないか。そしてそのためには、『泣いた顔』事件のことを調べる必要がある。当然だよね。今の事件は、八年前に始まったものの続き、もしくは変奏、あるいは模倣であるのだから。僕も核となった事象を知っておかなければいけない」

「じゃあ、鳥飼氏が持っている情報は? あと、醍醐という男のこともそうだ」

「どちらも、僕らが動くには早い。おそらく、これから先どこかで必要になるのは間違いないだろうけどね。それに、『泣いた顔』事件の情報なら、御舟さんも嫌とは言うまい。ああ、僕がおかしなことをやりに行くのかと思っていたのなら謝るよ。誤解させて申し訳ない。なに、やれることを地道にやっていくだけさ。いつもの僕らのようにね」

「……いいよ、思わせぶりなのは、名探偵ならではの癖だと思うことにしているから」

 そう言いつつ、私はため息をついていた。

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