断章1

 捜査会議を終えて署を出た御舟傑は、青雲町唯一の総合病院――小木総合病院の八階にいた。その深奥にある病室の前で、急いで来たために乱れた息を整えている。興奮状態は、見舞いにふさわしくない。

 彼は仕事がある日は午前中のどこかで、休日は朝から晩まで時間の許す限り、ここを訪れている。それは八年前からの習慣で、一日たりとも例外はなかった。上司や同僚も承知している。

 なぜなら、この病室にはいまだ昏睡状態にある御舟の妻がいるからだ。

 ドアの前で気を落ち着かせていると、音楽が聞こえてきた。

 シューマンのピアノ協奏曲。妻がかつて一番好きな曲だと言っていた。御舟は、ピアノ曲にしてはショッキングな展開をすると感じたが、妻が好きならばと、病室にCDを持ち込み、看護師にたまにかけるよう頼んでいる。たとえ意識がなくても、何かしらの慰めになれば、と御舟は考えていた。その何かしらの中には、御舟自身も含まれている。

 曲はまだ始まったばかりだった。もしかすると、今も看護師がいるかもしれない。

「楓、来たよ」

 御舟は囁くように声をかけると、ゆっくり静かに病室のドアを開けた。

 シンプルな個室で、手前にはほとんど誰も使わないトイレと洗面台、窓際には小さなテーブルとベッドがあった。そのベッドに、御舟の妻が横たわっている。

「楓、今日はいい天気だよ」

 御舟はいつも、最初に髪を撫でる。反応はない。脈拍を示す機械が、かろうじて彼女の生存を証明している。呼吸はしているはずだが、鼻に指をあてて窒息でもされたら事だと、実行に移せないでいる。ベッドの横にある丸椅子に腰かけ、彼の眠り姫を見つめる。

「君をこんなふうにしたやつが、ようやくまた動き出したよ。今度こそ、俺がそいつを捕まえる。この八年で、いろんな準備をしてきた。利用できるものは、なんでも利用する。もちろん、どんなことをしてでもね。だから、必ず見つけられる。そして、君の仇をとる」

 御舟は言葉を切って、首を振った。

 興奮しすぎたようだ。柄にもないことまで口にしている気がする。

「それと、君の弟さん――紘一君が町に戻ってきたよ。名探偵の助手をしているらしい」

 御舟は我知らず眉をひそめた。

「きっと、見舞いには来ていないだろうけどね。この八年間と同じく」

 言葉の最後で、ついため息が漏れた。これ以上は、義弟の悪口になってしまう。

「おはようございます」

 病室の扉が開き、花を持った初老の女性看護師が入ってきた。

 御舟は作り笑顔で軽く頭を下げる。

「おはようございます、泉屋さん。この時期にひまわりですか、珍しいですね」

「ええ、花屋さんで見かけたの。こういうのも、いいでしょ」

「楓も喜びます」

 御舟楓が入院した当初から、この泉屋が選任で世話をしてくれている。町のために犠牲になったためなのか、署から声がけがあったためなのか、病院の看護は手厚い。費用もそこそこリーズナブルにしてくれている。もっとも、それを署の予算と折半して、ようやく御舟が払えるレベルではあった。ただ、事情があって別居している妻の生活費を払っていると思えば、たいしたことはない。

 泉屋は、御舟や楓の親に近い年齢なのだが、立ち居振る舞いはきびきびとしており、凛とした美しささえ感じられる。かといって、決して冷たいわけではない。患者である楓や御舟たち家族と接するときの表情には、どこかほっとするような柔らかさがあった。今もそれは同じで――

「いつもありがとうございます」

 御舟は立ち上がり、頭を下げた。

「え?」

 ひまわりを差した花瓶を小さなテーブルに置こうとしていた泉屋は、御舟の唐突な行動に軽く驚き、振り返った。二人の目が合う。

「いえ、その、花を、ありがとうございます」

 御舟は顔を赤らめた。泉屋は無言で微笑む。こういったやり取りをしながら、八年が経つ。心地よさを感じるものの、拘泥してはいけない。やるべきことを見失うわけにはいかないのだ。御舟は息を大きく吐いた。

「また、明日来ます」

「お仕事頑張ってください」

 泉屋も、御舟夫妻の職業を当然ながら把握している。

 御舟は、八年前の事件の犯人が戻ってきた、という言葉を口に出しかけ、かろうじて呑み込んだ。マスコミにも伏せていることだ。しかも、そうしているのは御舟自身である。

 病室を出てすぐに、御舟は首を振って、気持ちを切り替えた。

 曾根葉月と里見茂の死の真相を探る。事件を解決するためにやるべきことは膨大にあった。ただ捜査していればいいというものではない。政治も関わってくる問題だった。

 

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