第一部 浮田紘一 2
朝九時よりも少し早く、私と成神はホテルの前で落ち合った。
成神は気持ちを切り替えたのか、昨日のどんよりした様子はきれいに消え、どこかすっきりした顔をしている。
「おはよう、浮田くん」
ただ、声からすると空元気かもしれない。
「おはよう、成神」
挨拶を返しながら、私はあくびをした。
「おやおや。君は、ずいぶんと夜更かしをしていたみたいだね」
成神が苦笑した。こんなのは皮肉でもなんでもない。ただの挨拶だった。だから、私もつられて苦笑していた。
「夜行性の我々にとって、午前九時はじゅうぶん早朝じゃないか」
「まあね。でも、朝には朝しかできないことがある。さあ、歩こう!」
妙に溌溂としている成神は勝手に歩き出した。
「待ってくれよ、どこに行くつもりだ?」
「ここ青雲町は、君の故郷なんだろう? なら、僕が向かう方向から、なんらか推察できるんじゃないかな?」
私は朝っぱらから肩をすくめるはめになった。
「まあ、そうだね。推察できなくはないかな」
私は周囲を見回した。青雲町は発展期が過ぎた古い住宅街だ。
造成された土地であるがゆえに、町は整備されており、駅を貫く大通りの沿道にスーパーやレストラン、生活必需品を扱う店が各種立ち並んでいる……のは、かつての話だった。
高齢化の波が町に訪れたと同時に、シャッターが閉まったままの店や、空き地や駐車場になっているところも増えていった。少し離れたところに国道ができ、最近はそちらのほうが賑やかだという話もどこかで耳にした。
とはいえ、スーパーは外観を錆びつかせながらも夜遅くまで営業しているし、個人店も若者が店先に立っていて、ゴーストタウンと呼ぶにはまだまだ元気だった。
不自由はしないが、活動的な人間には退屈に感じる町、といったところか。
住むには悪くない。もちろん、まだ捕まっていない殺人鬼さえいなければ。
私たちはどこに向かっているのか?
足は、駅前に向かっている。だが、成神は手ぶらだから、さほど遠くへ行くわけはないし、行く理由も見当たらない。この時間に開いている店はなく、コンビニは通り過ぎている。レンタカーを借りようにも、私たちは二人とも免許を持っていても、教習所以降は車を乗ったことがない完全無欠のペーパードライバーだった。と、そこまで考えれば、私でも答えがわかる。
「警察署か」
「正解」
成神は私を指さした。やめなさい、そんなことは。
「御舟と直接対決でもするのか?」
「まさか。武器も何もないのに、勝てない戦はしないよ」
「なら、なぜ?」
「そこはほら、あとのお楽しみじゃないか」
成神がウインクした。
におわせるだけにおわせといて、これである。いつもの通りの成神といえばその通りなのだが、だからといって腹が立たないわけではない。ちょっとむかつく。特に、とってつけたウインクが。
しかし、目的はわからなくても、目的地がわかるだけで、私は安心して歩けるようになった。私は彼を信頼しているのだ。
やがて、警察署が見えてきた。
さびれてきている町に相応しく、巨大な建物はくすんでいる。長い年月が、外壁を白から黒へと変えようとしていた。曇天とあいまって、不吉に思えて仕方がない。
署の前で棒を持って見張りをしている警官に胡乱な目を向けられつつ、私たちは気持ち胸を張って中に入っていく。
受付で成神が「福島副署長を」と頼んでいた。
福島。さほど珍しい名字ではないが、父の同僚にいた。あの陰気な実家にも、何度か遊びに来たことがある物好きだ。もしかしてと思っていると、果たして記憶よりも髪が薄く白くなり、代わりにしわと腹の肉がたんと増えた男が、廊下の奥からゆっくり歩いてきた。
「成神さんですね」と言ってから、私に視線を移し、二度まばたきをした。「おお、君はもしや……」
私は深く頭を下げた。
「ご無沙汰しております。浮田日出美の息子、紘一です」
福島が、しわで小さくなった目を見開いた。
「おお、おお、紘一君か! 大きくなったな! こんなところで、いったい?」
「今は名探偵、成神の助手をしております」
意外にも、福島は笑みを深めた。御舟の反応からして、招かれざる客だと思っていただけに、驚くとともに少し嬉しかった。
「そうか、そうか! 立場は違えども、お父さんと同じことをやっているわけだな!」
「それはどうでしょうか。近くもあれば、遠くもある。そんな気がします」
父と同じというのは、なぜだかあまり嬉しくない。だからか、肯定しづらいし、実際に違うとも思う。せめて、姉と同じと言ってほしかった。もちろん、彼の喜びに水を差すようなことは言えない。
「奇遇というほどでもないかな。地縁があり、亡きお父さんとお姉さんの職場だしね」
成神が流れを変えようとしてか、口を開いた。
私は成神にうなずき、福島と父との関係を軽く説明する。
「それで成神、福島さんにどんな要件で?」
「ああ、それだよ、浮田くん」
また成神が私を指さす。他の人にはやってはいけないよ。
「実はね、本庁の蜂谷さんに口を利いてもらって、捜査会議に入れてもらえることになったんだ」
蜂谷とは、警視庁の捜査一課の課長だ。押しが強く、威圧的な人なのだが、とある殺人事件で成神の探偵能力を披露して以来、懇意にさせてもらっている。
とはいえ、それでも捜査会議に潜り込んだことはなかった。いや、我々は警察官ではないのだから当たり前だし、成神の推理力はそんなところに混ぜてもらってまで情報収取を必要とするものでもなかった。
御舟に手ひどくやられたことが、彼にとっても大きな傷になっているのだろう。そのためには、手段を選んでいられないのかもしれない。
「いやいやいや、確かに蜂谷さんの後押しはあったが、高名な私立探偵である成神尊さんがこの街に来ていらっしゃるときに、力を借りないという選択肢はありませんよ」
福島が成神に気を遣ったのか、びっくりするぐらい持ち上げてくれる。
私もそれにあわせて、笑みを作った。
だが、捜査に関わっているであろう御舟傑の反応は気になる。彼は、私だけでなく、成神にも敵意を向けていた。福島の後ろ盾があったとしても、何をしてくるかわからない。油断しないようにせねば。
私たちは、捜査本部となっている柔剣道場に案内された。その広い部屋には、大量の椅子と長椅子が整然と並べられ、まるで学校の教室だった。捜査本部の指揮を執る上層部の面々と向かいあうように大勢の警察官が座っていたところも、そう思った理由だ。
しかし、学校では考えられないくらい、緊張感が漂っている。
ここには、青雲署だけでなく周辺の警察署や県警本部から応援に来た警官たちもいるにちがいなかった。私たちを見る彼らの視線は厳しい。ただ、多少のざわつきがありつつも、それ以上の反発がなかったのは、隣に副署長の福島がいるからだろう。
相澤一郎の事件を担当していた柳川の姿もある。だが、周囲の景観と完全に同化し、なおかつ私たちを見る目には何の感情も見えなかった。もう関わることはなさそうだ。
なお、御舟傑は私たちを見るなり、露骨に顔をしかめた。怒っている。ざまあみろ。
私と成神はすまし顔で最後列に腰かける。さすがに、そこまで出しゃばりではない。
御舟も振り返ることまではしなかった。
前方には大勢のお偉いさんたちがこちらを向いて座っているのだから、やりたくてもやれなかっただろうが。
福島も前方の席の一角に腰をおろした。
お歴々は手元の書類をじっと読んでいて、しばらく捜査本部に無言の時間が続く。聞こえるのは、紙をめくる音だけだった。その間、私と成神も含めて、書類を提供されていないこちら側の人間は、ただじっと待つしかない。
やがて、お歴々が顔をあげた。彼らの目線は、なぜか御舟を向いている。御舟はそれに気づくと、うなずき立ち上がって、彼らのところへ行った。他の警察官らは、御舟を目で追いつつも、特に何かを気にしている様子はなかった。これは、私や成神以外の者にとって、不自然な出来事ではないようだ。
私たちの正面に座っている管理職たちが左右に分かれ、中央に御舟が収まった。
御舟傑が、捜査本部の指揮を執るのか? 彼は一介の警察官であるのに?
私は成神を見た。静かに首を左右に振るだけだった。
そして、御舟が仏頂面のまま口を開く。
「自己紹介は時間の無駄だな。みんなも知ってのとおりの理由から、この捜査本部は俺が仕切ることになった。よろしく」
さらに、最後列にいる私たちを指さす。みなが振り返った。いずれも訝しげだ。
「あそこにいる二人は、楓の弟とその友達の名探偵とやらだ。福島さんの願いで出席させているが、部外者だから、誰も仲良くする必要ないぞ」
どう聞いても命令だった。相変わらず陰険なことをする。さすがに無言を貫くのも限界があった。私は、敵は御舟であることを強調するために、彼だけを睨みつけながらゆっくりと立ち上がる。
「ここは、警察の捜査本部ですよね。くだらない嫌がらせをする暇があったら、早く事件を解決したらどうですか」
周囲の目が、よりきつくなった。やはり、御舟だけでなく、彼らも敵に回してしまったようだ。だがまあ、今さらだ。
成神の小さくため息をつく声がした。すまない。彼も立ち上がった。
「御舟さん、あなたは私たちにここから去ってほしいのですか?」
その声は、謎解きをするときと同じく澄んでいた。
私はこの卑屈にも思える質問に対し、「当たり前だろう」と即答されるものだと思っていた。しかし、御舟の目つきがよりきつくなった。怒り?
「そうだ、と言ったらどうする?」
「素直に従いますよ。それで答えは?」
不思議と主導権を握っているのは成神に見える。ふいに、御舟が表情を緩めた。
「ここにいてもらいたい。事件の解決には君たちの力がいる」
声には怒りも悪意もなかった。拍子抜けすると同時に、ほっとした。
「求められているのであれば、もちろん協力させていただきますよ」
話をこじらせる必要はない。皮肉を言うこともなく、成神は素直に答え着席した。
御舟は黙ってうなずく。そこに違和感を覚えた。そして――
「さて、本題に入ろう。まずは、本日未明に起きた殺人事件だ」
なんだそれは? 成神と顔を見合わせる。やはり彼も知らないようだ。
「まだ発表前なんだが、今日の午前三時四十分。赤江台四丁目で死体が発見された。被害者は里見茂、三十六歳。隣のS県の不動産会社勤務。住所もそこだ。死因は刺殺。腹を一突きだ。凶器のナイフは現場近くに落ちていた」
「その事件と、曾根葉月さんの事件は関係があるのか?」
たまらなくなって、私が声をあげた。
「ある」と、御舟は即答だった。
「おまえも知っているだろうが、八年前の事件から、犯人の手口は一貫していない。刺殺か絞殺か、あるいは自動車のひき逃げか。焼死もあったな。殺し方は様々だが、ひとつだけ共通点があった」
「マークですね」成神だ。「人が泣いている顔をデフォルメしたマーク。印刷した紙が落ちていたり、凶器に彫られていたり、地面にスプレーで描かれていたり。なんにせよ、その泣き顔マークが現場近くには存在していた。それが、この一連の事件を『泣いた顔』事件と呼ばれる由来となった――でしょう?」
「そうだ」と、御舟は肯定する。
「では、曾根葉月さんの現場にも、里見茂さんの現場にも、マークを示すものがあったわけですね」
昨日の相澤一郎邸で、すでにその落書きが描かれた紙が落ちていたことを、私も成神も聞いている。それでもわざわざ御舟に質問したのは、事前に捜査情報を私たちに教えていたことを隠す、成神なりの気遣いだった。昨日は御舟以外の警官もいたが、あえてばらすとは思えないから、心配はいらないだろう。
「そのとおりだ」
成神の気遣いを知ってか知らずか、御舟が懐からビニール袋を二つ取り出し、背面のホワイトボードに磁石で張った。中にはどちらも十センチ四方ほどの紙が入っている。その紙にはまさしく泣いた顔のマークが描かれていた。
御舟がさらにビニール袋を取り出した――彼のスーツには、なんでも入るのか? その中には、刃渡り二十センチほどのナイフが入っている。刃は血により赤黒く染まっていた。これもホワイトボードに磁石を二つ使って張りつける。
「これが、里見茂さんの遺体のそばで凶器とともに発見された」
私はもう一つのナイフが出てくるのを期待した。
けれど、御舟は一向にそうしようとしない。それどころか、私たちを見て告げる。
「さて、ここで俺からのお願いだ。著名で、かつ大変有能だという名探偵とその助手の二人には、里見茂さんの事件を調べてもらいたい。八年前の一連の事件とも、曾根葉月さんとの事件とも関連すると思われる事件だ。まさか断るまいね?」
よくわからない提案だった。曾根葉月の事件ではなく、こちらを求められている理由も、妙に威圧的な言い方も、心当たりはなかった。だが、成神は違うようだ。わずかだが眉をひそめ、何やら考えている。
「名探偵、成神尊。どうする?」
返事をしない成神を追い詰めるように、御舟が問いかける。
「ああ、すみません。やりましょう」
成神の返答は軽かった。先ほどの態度といい、一体何を考えているのだろうか。
「こいつは頼もしい答えだ」
御舟が満足そうに言う。ただ、個人的には虚勢を張っているようにも感じられる。そこは、私の願望が入っているのかもしれない。御舟は手元にあったファイルを持ち、私たちのほうにやってきた。そして、それを成神に差し出す。
「里見茂さんの事件に関する資料だ。これはコピーだ。他に流したりしなければ、外に持ち出してもらってかまわない。というか、持ち出せ」
成神はすんなりファイルを受け取った。
「今から、ですか?」
御舟が口角をあげる。
「意図が伝わって嬉しいよ。俺たちはこれから、曾根葉月さんの事件の捜査会議を開くんでね。担当が違う人には出ていってほしいところだったんだ」
「なんだと!」
思わず私が声をあげた。無関心を装っていた周囲の目が私に集まる。この一瞬で、成神の立場をなくしてしまったようだ。挽回せねばと頭を動かすが、次の言葉が出てこない。
すると、成神が私の肩に手を置いた。
「行こう、浮田くん」
その顔に怒りや焦りはなく、なんなら余裕の笑みさえ浮かんでいる。私は面食らって、「あ、ああ」と彼と一緒に、捜査会議をあとにした。
成神はこの柔剣道場を出るときに、御舟たちに対して一礼した。私はタイミングを逸して、ずいぶんと恥ずかしい気持ちになった。
私たちは、成神の滞在するホテルに戻る。
そしてホテルの部屋についてそうそう、私は座るのももどかしく成神に問いかけた。
「君はなぜ、御舟の言うことを素直に聞いたんだ? あいつはただ、私たちを捜査本部から追い出したかっただけなんだよ」
「まあ、浮田くん、まずは落ち着いて」
成神はなぜか苦笑する。
「君が落ち着きすぎているだけだ。こんな侮辱を受けて、どうして穏やかでいられる?」
「いやあ、浮田くんの言う通りではある。でも、事はそう単純でないと思うんだ」
「どういう意味だい?」
「まず、御舟さんが僕たちを捜査本部から追い出したかったのは本当だろう。でも、考えてほしい。そのために、里見茂さんの事件の調査を頼むのは、おかしいよね」
「それは……福島さんや管理官たちの手前、名高き名探偵を手ぶらで追い出せなかった、苦肉の策じゃないか」
「僕たちを手ぶらで追い出せなかった、というのも真実の一面ではあるだろうね。しかし、もっと大きい理由が存在するように感じられてね」
里見茂の事件を調べてくれ、と御舟に言われたときに考えていたのは、これだったのか。
「御舟さんが自分の手で『泣いた顔』事件を解決しようと思ったら、関連するどんな事件だって、僕たちには関わらせないはずだ。僕は、彼のそんな考えが一日で変化したとは思わない。蜂谷さんからの圧力で、僕たちを捜査会議に参加させなければならなかった。そこから推理をしてみると……」
私にも、成神の言わんとすることが見えてきた。
「つまり、里見茂さんの死は、一連の事件とは無関係だと言いたいのか」
成神がうなずいた。
「僕にはまだ理由はわからないけれど、少なくとも御舟さんは模倣犯だと考えている」
「まさか」
「いや、間違いないよ。彼の言動を見れば、八年間ずっと『泣いた顔』事件を追っている。だから、真犯人と模倣犯の区別がつくんだ。ただ、それは半分は直感で、そこから先に推理を進めることができないんじゃないだろうか」
私には一向に話が見えてこない。
「成神、悪い。戻るのかもしれないけれど、君は里見茂さん殺人事件が模倣犯だと知りつつ、捜査を引き受けたのか?」
成神は深くうなずいた。
「浮田くん、申し訳なかった。確かにそこから説明すべきだったよ」
「それは君の悪いくせだよ。まあ、いつものことだけどね」
「本当に申し訳ない。ただ、御舟さんが里見茂さん殺害事件に大きな意味があると考えている。それがひどく重要に思えて仕方ないんだ。具体的には見当もついてないけどね」
結局、成神も御舟もまだ直感段階のようだ。そこへ、私のような知識もない凡人が訳知り顔で意見を述べるのも違う気がした。
「なんとなく考えているのは、模倣犯が単なる愉快犯のような存在ではなさそうだというところかな。さあ、まずは資料を確認してみよう」
私たちは、机の上に資料を広げる。さしたる量がないところに、これからの困難さが象徴されている気がして、少しげんなりした。
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