第一部 浮田紘一 1
成神と私に、もはや相澤一郎邸に留まる理由はなかった。罪を犯していない方の使用人はいつの間にか奥に引っ込んでいた。そして、依頼人の鳥飼は「依頼料については後日相談させてください」と言ったきり、目を合わせるのを拒み続けた。
言わんとすることはわかる。おまえらが事件を解決したのではないから、必要経費も含めて一円たりとも払いたくない、ということだ。気持ちもわかる。
私はそれに返事をすることなく、いまだ呆然としている成神を引きずるように、彼の滞在しているホテルへ戻った。そして、彼の服を脱がし、熱めのシャワーにぶちこむこと三十分。ようやく、名探偵・成神尊の意識が地上に戻ってきた。
「ああ、浮田くん、僕は事件を解決できなかった。依頼人の期待にそえなかった。警察に……負けたんだね」
ここは、青雲町唯一の駅――青雲町駅から徒歩一分のところにあるビジネスホテルの一室だった。観光地のない、面白みの欠ける住宅街ゆえに、駅と同様にビジネスホテルも一つしかない。だからといって、高級ではないし、チェーン店のようにシステマティックな便利さもない。個人の営むなんの変哲もないビジネスホテルである。
ただし、六階建てで、周囲に高層建築がないせいで、遠くからでもなかなか目立つ。もう少し駅から離れれば、ここよりも大きい病院があるのだが。
部屋では、私が一つしかない椅子に座っているために、成神はちょっとダサい、ホテル支給の部屋着姿で、ベッドに腰かけていた。私は首を横に振った。
「あれが敗北なものか。組織の暴力という点を除けば、論点をずらしたにすぎない。私はそう思っている。成神尊は、少なくとも警察には、まだ負けていない」
成神はほんのかすかにだが、はにかんだ。案外、照れ屋なんである。
「ありがとう。君にそう言ってもらえると、本当に心強いよ。でも、僕の推理力が森羅万象を網羅するものではなく、しかも警察の組織力にかなわなかったことについては、僕たちの今後の発展のためにも心に刻んでおいたほうがいいだろうね」
「君が探偵をやめるなんて言い出さない限り、私は君を支持するよ」
成神は目を細めた。だが、すぐに真剣な表情で私を見据えた。
「あの刑事が言った、八年前の『泣いた顔』事件を調べさせるために、かな? その気持ちはずっと以前から、僕と出会った頃から持っていたんじゃないと思うんだけれど、どうだろう?」
私の心臓がはねた。急速に自分の顔がこわばっていくのを感じる。
ばれた。成神は正しい。この町に来たことで、遅かれ早かれ知られるのはわかっていたつもりだったのに、恐怖を感じる。だがそれが、成神を利用しようとしていたことを知られたせいなのか、もう利用できなくなると思ったからなのか、私の脳は決められない。決められなければ、答えられない。
うなずくことも、首を振ることも、怖くてできなかった。
先ほどはうまくいかなかったが、成神尊はやはり名探偵だ。わずかな情報であっさり真実にたどりつく。ましてや、私は彼の助手兼伝記作家として五年近く一緒にいる。たとえ取り繕っても、わずかな挙動で本心を見透かされるのは間違いない。
恐怖心は消え、私はごまかすのを諦めた。
「正直、その期待はしていたよ。君が名探偵なら、いつか『泣いた顔』事件も捜査してくれるかもしれない、と。相澤一郎氏の件で、この町に戻ってきたときも、そんな期待はした。真正面からは頼めなかったと思うから、事件が解決したところで、さりげなく君が興味を持ってくれるよう誘導する気でいたんだ」
そうだ。これは事実だ。今回の依頼で、この町に来ることになったのは、私にとって幸運であり、待ちに待った機会だった。しかし、その機会を有効活用するには、準備の時間が必要だった。それなのに、どのような用意をしようか迷うこともできずに、成神に知られてしまった。
「でも、信じてほしい。君の仕事を手伝うようになったのも、手伝っている今も、そのためだけに動いているわけではないんだ。私は私なりに、この仕事に生きがいを見出している。それもまた本心なんだ」
「もちろん、浮田くんの気持ちはわかっているよ」
成神がほほえむ。かえって、罪悪感が膨らんだ。きっと、私の言葉を信じてくれている。だからこそ、友人を利用しようとしていた自らのずるさに押しつぶされそうだった。
そこへ、成神はさらに告げる。
「それに、前から知っていたよ」
まるで事件の真相を暴くかのように。
「これは、推理というほど大層なものではないんだけどね。僕たちが最初に遭遇した事件を覚えているかい?」
「大学一年のとき、黒狼島でやった推理小説研究会の合宿。忘れるものか。あれで私たちは多くの友人知人を失い、世間は成神尊という稀代の名探偵を得た……」
そこまで口にして、ふいに成神が変な誤解をしているように感じられたので、急いで手を振った。
「いやいや、私があのサークルに入ったのは、単純にミステリー小説に興味があったからだし、君がいるなんて知りもしなかったよ。もちろん、君に探偵能力があることも」
「うん。僕も自分にそんなことができると思ってなかった。それは、浮田くんも同じだよ」
成神はそう言って、改めて表情を崩した。
「私が?」
「僕は、推理はできるけれど、人の心にわけいって話を聞き出すようなことはできない。そこは君にずいぶんと助けられた。君が情報を集めて、僕が推理をする。あの事件は僕たち二人がいてこそ、解決できたものだった」
「そうだったかな」
そんなことをしていた記憶はない。知人しかいない孤島で殺人が起き、終始右往左往していたことしか覚えていない。
「浮田くん、君は他人が何かを隠していることを見つけ出すのがうまかった。隠し事を、じゃないよ。隠していることがある、その事実を君は見逃さなかった」
褒められたせいか、自分の頬が熱くなってきているのがわかる。
「私は、つい人に言わなくてもいいことを口にしてしまう性格だからね。それが、あの非常事態では、そんなふうに作用したんだろう」
「あのときに気づいたんだよ。君もまた、真実を暴かねばならない性分なのだ、と」
「かいかぶりだよ」
成神のように、高潔な精神で事件と対峙しているわけではない。私はどこまでいっても、矮小な一庶民なのだ。けれど、成神は私を逃がしてくれない。
「僕とのこの五年で、そのことは証明済みだと思うよ。僕は君がいるから、名探偵としてやっていけている」
照れくさい。普段の私なら大急ぎで否定しただろう。しかし――
「ありがとう」
成神の厚意に応えないのは不誠実な気がして、素直に受け取った。気持ちよかった。
ただ、この空気に耐えきれなくなってきたので、私には勇気がいるが、話を戻すことにする。どうせ避けては通れない。
「君はどうやって私の心情を察したんだい? この町に実家があることは口にした覚えがあっても、『泣いた顔』事件のことなんて、一言も話したつもりはないのだけど」
「うん、聞いた記憶はないよ」
成神はうなずく。謎解きというほどたいしたものでもないのに、こういう話をするときの彼は少し嬉しそうだ。
「どうやってかと言うと……そうだねえ……最初の事件のあと、僕のところに謎を解いてほしい、自分が巻き込まれた事件についてアドバイスをしてほしい、という人がたくさん来るようになったよね」
覚えている。名探偵、成神尊が世に出はじめた頃だ。
「どこから番号を入手したのか、成神の携帯端末に連絡がひっきりなしにきていたのを覚えているよ……。ほとんどは真相が明白な事件ばかりだったけれど、月に一つ二つ、本当に君の手助けを必要とするものがあった。結局、そうした生活を続けているうちに、事務所を立ち上げて、そのまま本業になってしまったな」
「そして浮田くんは、そんな僕を最初の事件以降も助けてくれた。おまけに、決まっていた就職先を蹴って、一緒に探偵事務所を立ち上げてくれた。最初は単なる好奇心だと思っていたよ。でも、それだけで人生を捧げられるわけがない。そのうち、僕たちの仕事を小説仕立てで売りはじめたときに、『はあ、これが狙いだったのか』と少しだけ考えた。『僕を上げることで、自分ものし上がろう』と。けれど、それも不自然に感じられてね」
「というと?」
追いつめられているのは私自身なのに、ついいつものごとく第三者の事件のことを話し合うような感覚に陥っていた。成神の柔らかな表情が、私の緊張をほぐしているのだろう。私にとってそれでいいのかは判断つかないが。
「僕のことを世間に広く知ってもらおうという気概はあるのに、自分自身の売りこみにはあまり熱心ではなかったよね。本名とはほど遠いペンネームだし、作中の趣味嗜好も君のものとはまるで逆だった。君の書いた小説を読んでも、君のことはまるでわからない。実際そうだろう?」
私は黙ってうなずいた。
「それでわかった。浮田くんは僕に解いてほしい事実があるんだ、と。自分では頼めない事情があるから、僕の名声をあげることで、誰かが君の目当てとする事件を依頼してくれることを期待しているのだと。……わずかな可能性だろうけどね。とにかく、そこまでいけば、あとはネットで調べ物をするだけだよ。すると、それらしきものがあった。八年前にこの町――君の地元で起きた連続殺人が、未解決だった。概要を知るだけで僕は確信してしまったから、詳細はあえて調べていないけど、被害者に身内がいるんだね」
「もしかしたら、と思っていた。実際、君は過去の、もはや法律的には時効となった事件も引き受けていたから、いつかは偶然に僕と同じく、八年前にこの町で起きた連続殺人事件の真相を知りたい人間が来るのではないか、と。でも……私は、こんな形で知られたくなかったよ。いや、どういう形がベストなのかは、まるで思いつかないんだけれどね」
言いすぎていると自分でも思っている。それが、醜い言い訳につながっているとも。
「浮田くん、どうして最初からストレートに頼まなかったんだい?」
成神、それを聞くか。だが、確かに言わねばなるまい。今ここで話しても、さらなる上塗りにしか感じられないだろうが……。私は答える前に、息を大きく吸った。
「君に公私混同していると思われて、友情を壊したくなかったからだよ。それは、この事件の真相よりも、私にとっては大事なものだった」
少しだけ間をあけてから、成神は嬉しそうに笑った。
「この事件、解いてみよう」
「本当か?」
「もちろんだよ」
私はほっとして、その場にへたり込んでしまった。
そんな私をしり目に、成神は顔を引き締める。
「それに、八年前の連続殺人の犯人が、相澤一郎氏殺害犯――曾根葉月さんを殺したというのなら、僕もまた借りを返す必要がある。ああ、御舟とかいう刑事に対してもね。彼よりも早く犯人を見つける。でないと、僕はもう探偵と名乗れない」
あまり自分を追い込まないでほしい――そう言いかけて、口が動かなくなった。事件を調べてもらうことが、私の願いである。その機会を自ら潰していいのか。たとえ成神の身を案じていても、私は自分のエゴに抗いきれなかった。自分の矮小さが恥ずかしい。しかし、成神はとっくに先に進んでいた。
「浮田くん、八年前の『泣いた顔』事件の概要をどこかで確認する必要はあるだろうが、まずは曾根葉月さんの事件を追おうと思う」
「たくさんの証拠が残っているうちに、できる限りのことを調べておきたいんだね?」
成神が探偵活動に入るというのなら、私も彼の助手に徹することにした。そちらのほうがありがたい。
「本当に概要しか知らないけれど、本当に八年前の殺人鬼と同じなら、動機は快楽に間違いない。いわゆる、シリアルキラーというやつだ」
私もうなずいた。そして補足する。
「『泣いた顔』事件は、十人の被害者には、二人を除いて共通点がなかった。だから警察も、そして住民の私たちも、動機は快楽によるものだと確信している」
この八年、私も事件についてさんざん考えてきたが、この結論だけは動かなかった。
「だとすると、犠牲者が無軌道に増える可能性もある。過去の情報をかき集めるよりも、彼らを救う方法を探るほうに力を使うべきだと思うんだ」
「同感だね」
反対する理由がない。犠牲者は少ないほうがいいに決まっているではないか。
成神が腕の時計を見た。
「だがなんにせよ、今日はもう日が落ちた。何かを始めるには遅い時間だ。僕たちだけの話じゃない。殺人鬼にしたって、今日さらに犠牲者を増やすとは思えない。行動は明日からとしよう。そもそも、僕たちにも限界というものがある。分を超えて英雄になることなんてできないんだからね」
成神は確かに、必要以上に無理をするタイプではない。しかし、それ以上に、御舟に手ひどくやられたことがショックだったようだ。でなければ、こんな物言いはしない。平気そうな顔をして、今もまだ自らを無力だと責めているのだろう。
治安維持は警察に任せておけ。そういった慰めの言葉がいくつか頭をよぎるが、黙っておくことにした。代わりに、私も時刻を確認する。もう九時過ぎだ。相澤一郎の家を出たのは、夕方だったはず。いつの間にこれほどの時が経っていたのかわからない。
成神だけでなく、私にとっても、御舟との遭遇はショックな出来事だったらしい。この町に来たからには確実にあり得たことにもかかわらず。
「では、私は引きあげるよ。明日、九時にこのホテルの前に来る。朝食は食べておいてくれな。おやすみ」
私は実家に戻ることにした。たとえ仕事で来たとはいえ、帰る家があるのにホテル代を支払うほど金持ちではない。
ちなみに、成神にも実家に滞在しないかと誘ったが、プライベートな時間が欲しいからと、断られている。彼にはこういうところがあった。仕事中は芝居がかったことも平気でやるが、本来の彼はナイーブな青年で、あまり社交的な人間ではない。仕事で無理をする分、最近は反動が強くなってさえいる。私とも顔を会わせたがらない日があるくらいだ。
だから、彼のホテル滞在は、私の非情さが理由ではない。今だって、彼が前言を翻してくれれば、喜んで受け入れてやろうと思っている。……私は寂しいのかもしれない。
「浮田くん、一つ教えてくれないか。御舟という男と君とは、どういう関係なんだい」
私は思わず天を仰いだ。
「ああ……悪い、肝心なことを話してなかった。今、『泣いた顔』事件には十人の被害者がいて、共通点があるのは二人だけだと言ったね」
成神は私の次の言葉を予測したらしく、つらそうに顔をゆがめた。
私としては、できれば安心してほしい。君の想像よりは少しだけましだから。
「二人は私の家族、父と姉だった。共通点は家族というだけじゃない。二人とも警官でね。でも、違うところもある。父は死んだが、姉は死ななかった。ただ、いまだに意識が戻っておらず、近くの病院にいる。そして、その配偶者が、あの御舟傑という男だ」
八年も経っていたせいか、父の死を口にすることに対しては、さほどの抵抗感がなかった。いや、これは私と父の薄い関係ゆえかもしれない。父はよくも悪くも仕事熱心で、家族に無関心だった。だから、私も父にさほど関心を払わなかった。なので、金の心配はしたが、当時も父の死をそれほど悲しいとは思わなかった。
だが、姉と御舟のことは違う。姉が襲われたことを思うと、胸がしめつけられそうなほど苦しく悲しいし、御舟のことを考えれば、視界が真っ赤になりそうなほど憤怒の情にかられる。今でも、以前となんら変わることなく。
「君にはお姉さんがいたのか」
どうも、成神にも私の気持ちが伝わったようだ。深く嘆息している。もしかして、軽く引いているのか?
「大学に入ってからは、誰にも家族のことを話していないよ。やっぱり、あまり気が進まなくてね」
成神は沈痛な表情をしている。ただ、私自身がその話題を避けていたせいでもあるが、私だって彼の家族構成を知らない。
「御舟さんが義兄……身内に警察官が多かったんだね」
私は首を振った。
「あの無能な男は、以前は交番勤務だった。姉さんが被害に遭ってから希望して刑事に異動したそうだが、自分の妻が今も意識不明にもかかわらず、いまだ犯人を見つけられていない。姉さんが意識を取り戻したら、あんな情けない男とは必ず別れさせる」
元々、結婚には反対だった。付き合っていると聞いたとき、姉の同僚から御舟の評判を聞いたが、悪いを通り越して『無』であった。仕事ができないどころではなく、いるかどうかさえ誰の関心も抱かれていない。最悪である。取るに足らぬ人間なのだ。そんなものと一緒になったら、姉の人生までもが、くだらないものになってしまう。
もちろん、嫉妬が含まれているのは、自分でもよくわかっている。本来は、姉さんが望む相手と結婚するのが、もっともいいことなのだ。本当に望んでいるのかは、慎重に確認する必要はあるのだが。
とにかく、内心の憎悪を押し殺しつつ、私は笑顔を作って賛成した。
しかし、御舟傑は、私の恩を仇で返した。
姉は刑事だった。連続殺人犯を追って、きっと追い詰めかけて、逆に襲われた。その頃、御舟は警察署の中でうすぼんやりしていたのだろう。彼が有能であれば、姉とともに連続殺人犯を追っていたはずだ。そして、襲われるのも彼になっていたにちがいない。
たとえ八つ当たりだと言われても、本人にもそれが伝わっていたとしても、私は御舟の無能が許せない。
「私はあの男が大嫌いだ」
「その点については、僕も同意できそうだ。彼は僕のことを知らないと言っていたが、あれは嘘だね。僕たちがいつからこの町にいたのか、彼は正確に知っていたんだから」
「あっ」
思わず叫んだが、なぜなのかは自分でも名状しがたい。
「八年前は無能だったのかもしれないが、今は油断しないほうがいい。研鑽して相応の実力を身につけたか、あるいは何かを隠しているか。しかも、そんな状態で何がしかを目論んでいる。きっとそれは、本来の職務からは外れたものじゃないかな」
成神の言葉は、正直今の私にはどうとも取りかねた。
ただ、どのような形であれ、この街で悲惨な事件がまた繰り返されるという予感だけは、私の身体の中に違和感なく沈み込んできた。
成神の滞在するホテルから徒歩で十分ほどのところに、私の実家がある。
四十年くらい前に分譲された住宅地の一角で、周辺の戸建てと大まかなデザインは同じながら、当時から瓦の色や扉のデザインなど細かい部分で差が作られている。また、近頃は老朽化やバリアフリー化のためにリフォームをする家もあるようで、久しぶりに見る隣近所との差はますます大きくなっていた。
うちは変わっていない。古いままだ。おまけに、昔から常に冷気が漂っているような気がするくらい、陰気な家だった。記憶より薄くなった青い屋根がそれをより強く印象付ける。原因の一つは、姉の結婚だった。明るく爛漫な彼女が家からいなくなり、この家には氷河期が訪れた。そして、もう一つ。
「ただいま」
「おかえりなさい」
覇気のない声。母だ。
「夕飯は食べましたか?」
「いや」
「冷たくなっていますから、温めて食べてください」
母は私を一顧だにすることなく、自室へ戻っていった。
電話はともかく、久方ぶりに会っているのに、彼女の生活リズムは変わらない。彼女のリズムと私の動きがあえば食卓を囲み、そうでなければ単に同じ家に滞在しているだけ。昨夜は、友達の家に泊まりに行ってしまった。
まあ、食事は用意しておいてくれるし、何も言わなくても洗濯だってしてくれているので、私も不満や不自由があるわけではない。
母は、昔からこうである。とても暗い性格の人だった。実子の私に対してさえ、必要最小限のコミュニケーションしか取ろうとしない。笑ったところなど、微笑みレベルでさえ見たことがない。うつむきがちで、ぼそぼそと喋る。大きな鼻と異様に長い髪、それに深いしわのせいで、還暦にはまだ間があるはずなのに、三千年くらい生きている意地の悪い魔女のようだった。
とはいえ、私にとって母親のサンプルは彼女しかいなかったため、世の母親はみんなそんなものだと思っていた。……今考えてみると、私もまた、友達の家に遊びに行くような活発な子供ではなかった。
母が不気味で異常であることに気づいたのは、大学に入って一人暮らしを始めて、たまにしか顔を合わさなくなってからだ。
その頃には、私にも成神のような友人ができたのが、大きな理由だろう。
だがそれだけだ。私の家族という感覚は、姉に対するものだけだった。
ただ、幸いなことに、母の料理はうまい。
寒々しささえ気にしなければ、過ごしやすい実家だった。
とはいえ、久しぶりに直接会う母の陰気さは、かつてよりも磨きがかかっているような気がする。父が死に、私が家を出た今、日課といえば意識のない姉の見舞いくらいにちがいない。元々、社交性など言葉の意味さえ知らないであろう母だ。誰とも話さない日々を送るうちに、性格がより深化していったのだろう。
私は食卓に行き、用意されていた青椒肉絲とみそ汁を電子レンジで温めて食べた。この孤独なシチュエーションも含めて、実家の味だった。変わっていなくて、ほっとする。
食事と風呂を終えてからは、今日あったことは考えないようにして、自室に戻った。
そして、小学校の頃から使っている学習机。その上に乗っかった、ロケットと宇宙飛行士の針が宇宙の盤面を動く目覚まし時計を六時にセットして眠りにつく。
心臓の音が、やけに大きく聞こえた。
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