第13話 極寒の訪れ
氷河期の序章が、静かにしかし確実に幕を開けた。
東京の街には雪が深々と降り積もり、人々はインターネット上で異常な寒波について騒ぎ立てていた。文句をこぼす者もいれば、雪の風情を喜ぶ者もいる。
しかし、誰ひとりとして気づいていない。この白銀の静寂が、一時の幻想ではなく、深く冷たい未来を告げる序章であることに。
やがて誰もが耐えきれないほどの災厄が、静かに静かに影を落としつつあった。
しかし、そんな未来をまるで気にも留めず、吾郎は自宅のソファで冷えたビールを片手に、ゆったりとした安らぎのひとときを楽しんでいた。ふと、携帯の通知音が鳴り、画面を覗くとグループの会話が映し出されていた。
友人、同僚、そして近隣の住人たちまでもが、雪について思い思いに騒ぎ立てている。
「なんでこんな急に大雪が?天気予報も当てにならないな!」
「夜中に寒さで目が覚めた…」
「エアコン、全然効いてないし…何で暖まらないんだ?」
「この寒さ、いつまで続くんだろう…冬服すら揃えてないのに」
皆が思い思いに不平や驚きの声を上げながらも、そのほとんどが急激な冷え込みをまだ一時の出来事だと思い、むしろどこか楽しんでいるかのようだった。
吾郎は、寒波がやがて消え去る一時現象ではないことを知っていた。だが、彼は動じることもなく、わざとらしく欠伸をかみ殺しながら画面を閉じた。
暖かな寝室へと再び戻り、倉庫から手に入れた上質なベッドに横たわり、しっとりとしたベロアの毛布に身を包んで目を閉じた。外では雪が吹きすさび、風が遠くでうなりを上げていたが、暖炉の火が静かに燃え続ける部屋には穏やかな温かさが漂っていた。この完璧な安らぎの中で、吾郎はゆっくりと、そして深く眠りに落ちていった。
翌朝、携帯のけたたましい着信音に目を覚ました。確認すると、それは梓からの電話だった。せっかく見ていた夢を妨げられた吾郎は、不機嫌そうに受信する、
「朝から何の用だ?」
冷ややかな声に、梓は一瞬戸惑ったように黙り込む。
だがすぐに、わずかに震える声でこう告げた、
「加藤さん、外が本当に寒いの…前に物資を備蓄してたわよね?もしかして、寒波が来るって知ってたの?」
その言葉を聞くと、吾郎は口元に冷ややかな笑みが浮かべた。
やはり、この女は頭が回る。
吾郎は気だるげに答えた、
「友達がなんとなくそんな話をしてたのを聞いただけだよ。まさかこんなに寒くなるとは思わなかったけどな」
毛布を剥いで身を起こすと、室内の暖かさでうっすら汗ばんでいることに気づいた。スリッパを履き、窓辺に歩み寄り、外の光景に目を細める。
雪が静かに降り積もり、都市の輪郭を埋め尽くし、かろうじてビルの影が見えるほどだった。そして、絶え間なく降り続く雪には、止む兆しなど微塵もなかった。
梓の声が電話越しに続いた、
「だから、あんなに備蓄してたのね。加藤さん、知ってたなら前もって一言ぐらい教えてくれればいいのに」
その言い草に、吾郎は眉を寄せた。まさか彼女が文句を言うとは思わなかったのだ。そのまま電話を切ると、携帯を無造作に放り投げ、気分を変えるように浴室へ向かった。熱いシャワーが降り注ぎ、吾郎はその温かさに身を委ねながら、束の間の安らぎを楽しんだ。
ゆっくりと高級和牛を取り出し、朝食としてステーキとパスタを用意する。朝の静けさの中、ステーキの焼ける音を聞きながら、彼はテレビをつける。この寒波の影響が本格化する前で、まだ停電にはなっていなかったため、画面は何事もなく映し出されていた。だが、仮に停電が起ころうとも、彼には多くの予備電源、数十台の発電機、さらに膨大な量のガソリンがある。エネルギーに関しては、少なくとも百年分の備えがあると、余裕を持って自負していた。
テレビをつけ、ニュース番組を見ながら淡々と状況を確認する。再び生を得た者である彼には、外の状況はすでに織り込み済みだったが、ニュースを眺めるのも一種の楽しみだった。
画面に映るキャスターは厚手のダウンジャケットを着込んでおり、その姿に吾郎は思わず笑みを浮かべた。電力供給が優先されるテレビ局でさえ、中央空調だけでは寒さを防ぎきれないのだろう。人々が日常を失いつつあるこの極寒は、既存の文明の枠をも超えて容赦なく迫っているのだった。
女性キャスターは凍えるような空気の中、カメラを見据え、平静を装いながら言葉を紡ぎ出した。
「昨夜、強烈な寒波が世界各地を襲い、気温が急激に下がりました。各地では50度から60度の異常な降温が記録されています」
彼女の声には冷えた空気を感じさせる硬さがあった、
「今回の寒波の原因について、気象庁が現在も調査を進めています。今後数日間、十分に暖を取り、凍傷にはくれぐれも注意してください。また、不要不急の外出は控えるようお願い申し上げます」
「政府も万全の対応を図っておりますので、どうか落ち着いて生活をお過ごしください」
キャスターの必死な訴えを耳にしながら、吾郎は鼻で笑った。
氷河期が到来した今、生き残りたければ誰かの指示に従うのではなく、自ら行動するしかないのだ。家でじっとしているだけでは、待っているのは確実な死だ。画面の右上に表示された東京の気温はマイナス25度。つい昨日までは25度もあったというのに、一晩で50度もの落差だ。吾郎は肩を軽くすくめ、心の中でほくそ笑んだ。これは、前世で見たのとまったく同じ光景だった。
外は極寒でも、吾郎はパジャマ姿でステーキとパスタの朝食を満喫し、快適なひとときを楽しんでいた。数億円を投じたこの住居は徹底した断熱設計が施され、外の冷気とは無縁の温もりが満ちている。
外の寒波など気にも留めず、彼は悠々と食事を続けていたが、その時、またしても携帯がメッセージを知らせる。彼は興味深げに携帯を手に取り、かつて自分を見下していた隣人たちが今どんな顔をしているのか、確かめてやろうと画面を覗き込んだ。
画面に最初に映ったのは、梓からのメッセージだった。
「加藤さん、どうして急に電話を切っちゃったの?」
「外は雪に埋もれて、出かけることもできないわ。確かたくさん食料を蓄えていたでしょう?少し分けてくれないかしら?雪が止んだらちゃんと返すから」
その言葉に、吾郎はわずかに眉を寄せて冷笑を浮かべた、抜け目のない女だ。これだけの大雪の中、食料がどれだけ貴重かを察し、マイナス25度の極寒を避けて自分に頼る道を選んだのだろう。
だが、彼は知っていた。この氷河期のような災厄が、決して短期間で終息するものではないことを。
梓に食料を分け与えるつもりなど、欠片もなかった。
前世で、彼女の言葉に騙され、自宅の食料を差し出した結果、命を失う運命を辿ったのだから。再び生を得た吾郎にとって、彼女が苦しみ、凍えていく様子を見届けることこそが、最大の復讐だった。
そう思うと、決意したかのように顔がキリッと引き締まった。
「言ってくれればよかったのに。うちの食料ももうすぐ尽きそうさ。今朝なんて、やっとステーキを焼いているところだよ」
そう言い添え、テーブルに並んだステーキとワイン、自らのパジャマ姿も含めて撮影し、わざとらしく梓へと送りつけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます