デイルカーンと魔王・1

今日も今日とて、デイルカーンは真面目に掃除をこなしている。

京子が彼と出会ってから一月以上が経ち、あれから毎日のように顔を合わせて(デイルカーンが京子を直視することはほぼないが)いるせいか、デイルカーンが嘔吐ずく回数は激減している。


それでもなにかの拍子にトラウマの琴線が揺れてしまい、大慌てで部屋の隅に置かれた嘔吐用バケツに頭を突っ込むところを何度か見てはいるが。


「ああ、あ、あ、あぁーあー(おつかれさまです)」

「…うるさい」


まぁ、嫌われてるよねぇ。


冷たい返事しか帰って来る事はないが、それでも京子が声を出せば何かしら返してくれるのがデイルカーンというオジサマだった。


(悪い人じゃなさそうなんだよねぇ)


毎日律儀に部屋を掃除し、籠もる悪臭をどうにかしようと魔法陣が描かれた羊皮紙を持ち込んでは風の魔法を起こしたり、水の魔法を唱えたりと、真面目に試行錯誤を続けているのだ。


「せめてこの匂いだけでもどうにかできれば楽なんだが……うっ…」


デイルカーンがそうとう参っている様子なのは京子にも分かる。

この部屋の悪臭については京子自身もどうにかしたいと常々思っている。思っているが京子にはどうにも出来ない。


何しろ身体がない。身体がないのだからデイルカーンを手伝う事も出来ない。


(掃除って言っても洗剤なんかを使ってる気配がないんだよなぁ。塩素系洗剤で床を洗い流せれば少しはマシになるんじゃないかなぁ?)


と思うものの、それを伝える術もない。


「んーーーーー(うーーーーん)」

「うるさい。唸り声を出すな。黙ってろ」


どうにか出来ないものかと考えながら、声を出せば何か返してくれる反応を楽しむだけの毎日だ。


そんな穏やか(?)な日々が続いていたある日。

4人の使徒が本日の作業を終え、部屋を出て行った後。デイルカーンがいつものように魔法陣を描くために使われた道具を部屋の隅に設置された大きな道具箱の中に片付け、近くに立てかけられていたブラシと木製のバケツを手に取るのを京子は眺めていたのだが、どうもいつもと様子が違った。


水の魔法で水がいっぱいになったバケツを持って歩き出したデイルカーンの身体がふらふらとふらついていた。呼吸も荒く、肩で息をしているのが分かる。

そんな状態のまま京子の頭の背後に進み、いつもに比べるとかなりゆっくりとしたスピードでザッシュ、ザッシュと魔心の下に溜まった血溜まりを掃除しはじめた。


「あぁーああー、ああぁーあー?(ねーちょっと、大丈夫?)」

「はぁ、はぁ…、うるさいぞ…声を、出すな…」

「ああ、あああああー、ああああ?(いや、無理しないで、休んだら?)」


京子から背後の様子は見えないのだが、燭台の灯りに照らされて四方の壁に浮かぶデイルカーンの影がふらふらと大きく揺れるので気になって仕方なかった。ブラシで床をかく音も非常に弱々しい。


デイルカーンの様子がおかしかったのは朝一番の掃除の時からだった。

此処のところ、京子にも慣れてきたのか嘔吐ずく回数は激減し、顔色も良くなってきているように見えていたのに、今朝京子の前に現れた時のデイルカーンの様子は間違いなく病人のそれだった。


「ああああーああー、あああー? ああああーああー!(デイルカーンさん、休もう? デイルカーンさん!)」

「うる…ぃ…」


ドサッと言う音と、びちゃっと言う音が部屋に反響したのは同時だった。


「ああああーああー!?(デイルカーンさん!?)」


あーあーあーと、京子の言葉にならない声だけが虚しく響き続けるだけで、デイルカーンから返事は返って来ない。


(うそ!? 倒れたっ!? ヤバイヤバイヤバイ! どうしよう…!)


「あああーー!! あああーーー!!(だれかーー!! だれかーーー!!)」


人が倒れてます! 誰か居ませんか!? だれかーーー!! と、閉じられた扉に向かって京子は叫び続けたが、扉の向こう側に人の気配は全く感じられなかった。

おそらく、この部屋の扉も壁もかなり分厚いのだろう。実際、扉が開かれる時の様子からその扉の重さ、壁の厚さは想像出来ていた。


(あぁぁ!! どうしよう!! どうしたら…っ、何か私にできること…っ)


しかし、手も足もない身体で何が出来るだろう。


冷静に今の自分の状態を思い返して見れば何も出来そうな事はなかった。

ただ天井から生首を吊るされているだけで、身体が無い。

あるのは生首と魔心を繋ぐ数え切れない管だけ。


(……この管って何?)


以前から疑問に思っていたのだ。

首から魔心に繋がる幾千、幾万もありそうな細い管。遠目で見れば細めの縄にも見える物だ。


(これって…神経? いやいや、神経にしちゃ太すぎるよね…。血管?)


管の色は白と赤、黄色と緑の4色だ。その全てが宙に浮いた生首から背後にある魔心に繋がっている事を京子は知っている。転生の初日に女神が見せてくれたから。


女神は魔心を動かすために『脳』が必要だと言っていた。つまりこの管はすべて京子の脳と繋がっているモノなのだろう。


(脳と繋がってるなら動かせないかな…?)


それはほんの思いつきだった。神経なのか血管なのか、死霊術師ネクロマンサーではない京子にはこれらが何なのか全く分からなかったが、なんとなく動かせるような気がしてしまった。


視線を下に下げ、視認できたのは白い管が数百本。

それを腕を持ち上げる要領で動かそうとしてみれば…、


たわん…


と、まとまった白い管がわずかにだが確かに動いたのが見えた。


(う、動いた…!!)


この時の京子の喜びようは、まさに言葉では言い表せないほどだった。


「あああーーーーーーー!!!! あああーーーーーーー!!!!!」と叫ぶ声は動いた、動いたとでも言っていたのかもしれない。京子自身、後に振り返ってもこの時に自分が何を叫んでいたのか分からないほど喜びに溢れていたのだ。


転生以前から麻痺で身体が動かせなかった京子にとって、この瞬間は今までに経験したどんな体験にも勝る喜びの瞬間だったのだ。


この後数度、確かに管が動かせる事をしっかり確認し、京子は思い出す。


(た、助けなきゃ! デイルカーンさんのこと!)


京子の背後で倒れ、静かになってしまったデイルカーン。まずは彼を助けなければと、魔王の管が動き出す。


数回動作の確認をして意識したとおりに動かせるのは白い管だけだった。

京子はおそらくこの管は『筋肉』のような物だと考えた。

そしておそらく赤い管と緑の管が血管。黄色い管だけが何か分からなかったが、赤と緑の管に沿うように並んでいるのでひとまず血管と同じようなモノと考えておくことにした。


しかし動かせる白い管は京子が視認できるモノだけのようだった。だがもう何も出来ないまま吊るされている訳ではない。


(とりあえず、動かせる分だけを目の前に持ってきてーーー)


ブチブチブチッ! という、嫌な音が室内に響いた。


それらは京子の背後から白い管を引っ張った勢いに合わせて響いていた。


(あぁ、魔心から引き剥がしちゃったんだ)


管はすべて魔心と繋がっていたのだ。それが肉塊の魔心から千切れた。


(……痛くも痒くもないな)


当然だった。その管の中に神経は存在していなかったから。京子も自分の身体、正確には首から下に神経が通ってないことははじめから分かっていた。


管を引きちぎっても痛みを感じないならむしろ都合がいいと、引きちぎった白い管の束の先を京子は腕を持ち上げる要領で持ち上げた。


(やったーー!! 動いてるーー!!)


零れ落ちそうなギョロ目を爛々と輝かせながら醜い顔に京子は会心の笑顔を浮かべた。

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