元・使徒デイルカーン

「それにしても酷い悪臭ですね」

「あぁ、まったくだ。作業中は風魔法で常に空気を循環させてはいるが、服に匂いが染み付いているようで実に気分が悪い」

「さっさと魔法陣を完成させてしまわないと私達も保ちませんね…」

「デイルカーン殿。この悪臭なんとかしておいてくれないか…」

「…か、かしこまりま、った…っ」


あいつまた吐くんじゃないか? と、閉じかけた扉の向こうから誰かが嘲笑う声が聞こえた直後、「お"ぇっ」「ビチャビチャ」と、扉の外で人が嘔吐する音が聞こえた。


京子が魔王だと判明してから一ヶ月が過ぎようとしていた。

その間、京子はと言えば転生させられてから全く変わりなく、頭が天井から吊るされ、魔心は京子の背後でテーブルのような物の上に鎮座させられたままだった。


変わった事と言えば、その魔心が置かれた四つ足のテーブルのような物の上に『魔法陣』が描かれ始めた事だ。

描いているのは先程部屋から出て行った女神の使徒たち4人。使徒が全部で何人居るのかは不明だが、京子が見たのは全部で5人。

女神と一緒に現れた時の3人の男と、魔法陣を描くためにそこに追加された2人の男。


そしてその内の一人が扉の外でゲロゲロしているデイルカーンと呼ばれた男だった。


この男がPTSDを発症してしまっている事に京子は気付いていた。そしてその原因が自分であると言う事は間違いないと思っている。


(ごめんねぇ…。私のせいで吐いてるんだよねぇ…)


京子ばかりのせいではないが、トラウマの原因は概ね京子で間違いなかった。

暗くじめじめとした閉鎖空間に血肉の腐ったような悪臭。それだけでまともな人間なら部屋から飛び出したくなるだろうに、部屋の中には恐ろしく醜い人外生物。


デイルカーンにとっては悪い意味で最初からクライマックスだったのだ。

サイコパスな女神の使徒と言っても、デイルカーンはもともと、そういったグロに対する耐性が全くない平凡な人間だったのだ。

そんな平凡なデイルカーンが使徒として女神の側に居る事が出来たのは彼の豊富な魔力と魔法陣への知識があったが故だ。


魔法陣を描く5人の会話から、デイルカーンを含むこの5人が女神の使徒の中でも最も重要視されていた存在なのだろうと京子は考えている。

5人の年齢はおおよそ40代の終わりから50代で、みなスラリとした高身長にナイスミドルと言って差し支えない整った容姿をしていた。

髪の色は様々で、金髪、銀髪、赤に紫にそして青。

カラフルな色合いにそんな髪色が存在するのかと驚き、京子は思わずカツラじゃないと分かる生え際をまじまじと観察してしまったほどだ。


なお、その視線に薄気味悪さを感じて5人はそそくさと京子の背後に回ったわけだが。


ちなみにデイルカーンは薄紫の髪に薄茶色の瞳の50代と予想したオジサマだ。生え際に白い物が混じっており、この世界の人間も年を取ると白髪になるのかな? なんて思わず考えてしまう。


そんなデイルカーンだが、どうやら女神の使徒の一席から脱落してしまったらしい。


・理由は女神様の前で汚物を撒き散らした事

・重要な魔法陣を描くという大変名誉な職務中に汚物を撒き散らしてしまう事

・そんな彼と一緒に仕事をしたくないという4人の使徒からの嘆願


「はぁ……情けない…」


青白い顔で憔悴しきったデイルカーンの様子に京子の胸中は複雑だった。


(本当にスイマセン…。わたしのせいで…)


自分がこんな姿じゃなければ、デイルカーンは今も要職のまま、彼が崇拝する女神様の側に居られたはずなのだ。

そう思うと酷く悪い事をした気持ちになってしまい、どうにかしてやれない物かと考えてしまう。


しかし、今の京子には謝罪する術がなかった。


「ぁあーぁ、あぁ、ぁあー」

「な、なんだっ!?」


京子は「ごめんなさい」と言ったつもりだった。

しかし、漏れ出るのはほとんど「あ」という音の響きだけ。舌がないと音は言葉になって出てこないのだ。その声色もカスカスに掠れた呼吸音のようで聞き苦しい。

そのためデイルカーンには恐ろしい喘ぎ声のような音だけが聞こえるだけだった。


「…貴様も私を馬鹿にしているのか…っ!…ぉぇっ…!」


京子の声に反応して正面から京子の頭を見てしまったデイルカーンがまた嘔吐ずいてしまう。

こんな状態では例え京子に舌があっても会話は無理かもしれないとまた少し落ち込んでしまった。


とは言え、見目の良いナイスミドルなオジサマが、苦行としか言えないこの部屋の掃除を一人でやるのをただ見ているだけと言うのはどうにか出来ないものか。


(いや、見えないんだけどさ)


使徒の一席から脱落してしまったデイルカーンは現在、京子が居るこの部屋の監視員になっていた。

仕事内容はそのまま監視である。魔王の京子を監視するのではなく、部屋の外で女神と使徒以外の教徒が近付かないよう監視している。


これまでの5人の会話から、この部屋が教国にある教会の地下施設だと言うことは分かっていた。ちなみにこの部屋の真上は女神の居る神殿だそうだ。

魔法陣が完成したらその神殿へ魔王の魔力が流れ、更に教国全体に広がると言う話を女神が5人にしたのを聞いていた。


ザッシュ、ザッシュと、デッキブラシのようなブラシが床をかく音が部屋に響く。

デイルカーンが京子の背後で魔心から絶えず流れる血を掃除しているらしい。らしいと言うのは、京子自身がその姿を見ることが出来ないからだ。


血の掃除は監視員の仕事の内の一つだ。デイルカーンは嘔吐ずきながらも一日に三回~四回ほど、魔心から滴り落ち続ける血をブラシで掃除してくれている。


「はぁ……。魔法でどうにかしたいのだが、私の魔力では消し続けられん……」


(うん? 魔法って前に見た『クリーン』かな?)


「まったく…やっかいなモノだ…。魔王の魔心とは…)


(えっと、元はドラゴンらしいよ? あ、でも今の私は魔王らしいから魔王の魔心になるのかな???)


京子の世界は相変わらず狭いままだ。

入ってくる情報と言えば、使徒4人の会話とデイルカーンの独り言。

それらを合わせて想像を膨らませてあれやこれやと世界を推測する毎日だ。

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