第7話 楠部檸檬の物語
ベンチに座って、五月の空を見上げる。
快晴というわけでもなく、雲が多いわけでも、少ないというわけでもない。
いたって、ごくごく普通に晴れている。そんな天気だ。
視線をすこし動かすと、ベンチの後ろの囲いの中に植わっている桜の木の枝が見えた。当然、花はだいぶ前に散っている。
この大学の入学式の頃にはまだ満開で、友達と一緒に「葉桜になったね」「そろそろケムシがつくんじゃない?」など、季節によってワイワイと会話を弾ませるのだろうと、そんな妄想をしていた。
「はあ」
楠部檸檬は、空に向かってため息をついた。
高校までは髪の毛を伸ばしていたのだが、大学入学のために東京に来るにあたってボブカットにしてみた。が、癖っ毛が想定以上に暴れまわっており、すこしイメージと違ってしまった。
視力が悪いので、これも高校まではメガネをかけていたのだが、同じく東京に出るに当たって、勇気を出してコンタクトレンズにしてみた。こちらは視界まわりがすっきりしたので、なかなかよかったと思っている。
落ち着いたグリーンのワンピースに、厚底スニーカー。教科書を入れた黒のショルダーバッグという服装で、自分では「大学生っぽい!」と自画自賛したいところなのだが、生憎、周囲には、だれもそう言ってくれる人物はいなかった。
まさか、入学から一ヶ月経って、ひとりも友達ができないとは。
高校までのようにクラスというものがないので、どうやら自分から積極的に行動しないと友達はできないらしい。
ベンチの前の通路を行き交う学生の集団を、すこしだけ妬ましい気持ちで見てから、いやいやと頭を振った。
わたしは友達がいなくても平気なタイプだから。
漫画やアニメさえあれば、どこででも生きていけるんだから。
誤魔化すように、そう自分に言い聞かせた。
どこででも生きてはいけるのだが、その中でも東京という場所はすばらしかった。大きな本屋や、アニメショップが充実しているので、とてもオタ活がしやすい。
実家から東京に出てきてからというもの、週末ごとにひとりで都心に遊びに出ていたのも、友達ができない原因かもしれない。引っ越してきたばかりの檸檬のアパートの部屋は、早々にアクリルスタンドやキーホルダー、缶バッジなどのグッズが充実し、たいへん快適な生活環境が整っている。
「うん。わたしはこれでいい」と、あらためて自分に言い聞かせていると、横から「ふう」と、ため息が聞こえた。
そちらを見る。おそらく檸檬と同じく新入生と思われる男の子が、隣のベンチに座って俯いていた。
短髪というよりもボウズ頭に近い。青みがかった長袖のTシャツと、ベージュのチノパンという簡単な服装だが、長身のその男子には、よく似合っていた。
孤独仲間だろうか。
どこか親近感を覚えながら「元気を出して、青年。友達ばかりが人生じゃないから」と、心のなかでエールを送った。
二ヶ月が経過し、七月になった。
セミはまだ鳴いていないが、気温は日に日に高くなっていく。
遠くに背の高い入道雲が見えて、本格的な夏を感じさせた。
「はあぁぁ」
檸檬はいつかと同じように、ベンチに座って空に向けてため息をついていた。
友達ができない。
さすがに焦る。
昨夜、地元の幼馴染から「そろそろ、友達できた?」というメッセージが入り、見栄で「当然でしょwww」という返信をしてしまった。
誤魔化すように、オタクにとっての東京が、どれだけ素晴らしい環境なのかを一方的に送りつけてやったが、実際には冷や汗を浮かべていた。
見栄はさておき、純粋に友達がほしい。友達がいなくても平気なタイプだとかウソだった。普通にアニメとか漫画について語り合いたい。そうでなくても話し相手が欲しい。
だんだんと、東京での孤独感を噛みしめるようになっていた。
サークルに入ればいいのだろうか。入学式からしばらくの間は勧誘の人が立っていたが、東京の大学生と話すのが怖くて、逃げ回ってしまった。
絵なんて描けないが、漫研とか入ってみようか。
そんなことを考えながら、ぼんやりと空を見上げていると、「ふう」とため息が聞こえた。
見ると、隣のベンチでは、いつぞやの男の子が、いつぞやと同じ姿勢で地面を見つめていた。たまに講義で見かけては「あ。あの人だ」と思ったことがあるので、やはり同学年らしい。
彼も友達ができないのだろうか。
こういっては失礼だが、自分だけではないのだとわかると、すこしだけ気が楽になった。
「帰ろ」
今日はもう講義もない。
ベンチから立ち上がり、正門に向けて歩き出す。
座っている青年の前まで来て、檸檬は足を止めた。
「あのっ」
思わず声をかけていた。
自分に話しかけられたのだろうか、と思ったのか、背の高い青年が頭を上げて、確認するように檸檬を見た。
「漫画とかアニメに興味ありますか?」
早口で一気に言い放つ。緊張で鼓動が早くなる。
話しかけられたことを理解した青年は、目を見開き、質問された内容を咀嚼する間があり、ややあって、こう答えた。
「すいません。できません」
「あるか」と聞いて「できない」という答えに「ん?」と思うが、おそらく、言い間違えだろう。
興味はない、という返事をしたかったに違いない。
「いきなり、すいませんでした」
ペコリと小さく頭を下げる。
恥ずかしくて足早にその場を去ろうとすると、「で、でも」と青年が檸檬の背後から声をかけた。
「お話を、聞くことぐらいならできます」
檸檬は足を止めた。
「話を」
瞳を輝かせながら、青年の方に振り向く。
「聞いてくれるんですか!」
それが、楠部檸檬と卯之雅親との出会いだった。
ふたりで駅前のファミレスに移動する。
大学の最寄り駅なのに、他にはラーメン屋と居酒屋ぐらいしかなく、雑談に花を咲かせるのに、ちょうどいい場所はこの店だけだった。もうすこし駅前開発を頑張ってほしいところだ。
テーブル席に案内されて着席すると、檸檬はタオルで汗をぬぐった。
エアコンの効いた店内はありがたいが、油断すると冷えすぎてしまう。しっかり、体温調節用のカーディガンもバッグの中に入れている。
ドリンクバーをふたつ注文すると、いざとばかりに雅親に向き合う。
大学から駅前を目指して歩きながら、お互いの自己紹介は済ませていた。
「で、趣味アレルギーがあると」
「そう」
雅親がうなずく。
ふたりで歩いている途中、雅親から切り出された話題だ。
「俺は趣味アレルギーがあるから、あまり楽しい話し相手になれないかも」
そのようなことを、背中をまるめながら言われた。
趣味に反応してアレルギー症状が出るそうだ。
友達を作りたいのに、だれとも話が合わない。一緒に遊びに行きたいのに、それも身体が拒絶する。
高校までずっとその状態で、大学でも同じなのかとベンチに座って思い悩んでいたらしい。
檸檬の「サークルでも入ろっかな」という悩みが薄っぺらく思えた。
「そっか。それは大変だね」
「変なやつでしょ?」
「変? なんで?」
趣味アレルギーがあるのだと説明すると、たいていの人間は、まず信じてくれずに笑う。そして、実際の症状を目の当たりにしてから、距離をとりはじめるそうだ。
たしかに、なにもない状態でそういう話を聞いたら、檸檬も同じ反応をしたかもしれない。
「でも、ずっとベンチで悩んでる姿を見てたから。信じるよ」
「ありがとう。なんか泣きそう」
「大袈裟だなあ」
言いながら小さく笑う。
雅親にとっては大袈裟ではないのかもしれないが、一緒に深刻になってもしかたがない。
「でも、それなら、わたしの趣味の話もしない方がいい?」
雅親が手を振りながら「あ。いや」と焦ったように言う。
「聞くだけなら大丈夫だから。聞くだけしかできないけど」
「うん。話し相手が欲しかったから、それでも嬉しい。じゃあ、わたしが最近ハマってる漫画なんだけど」
ぐっと、檸檬は身を乗り出した。
『夜眠る君と昼眠る僕』
魔女の呪いによって夜中しか活動できなくなったウィッチハンターの少年、朝陽。
朝陽に呪いを返されたことによって力の源である夜を奪われた月の魔女、真里亞。
敵対するふたりは、険悪な関係ながらも呪いを解くために協力しながら、様々な事件に挑んでいく。
コミックの帯には、すれ違い現代ファンタジーラブコメディ、と謳われていた。
「でね!」
檸檬の話に熱が入ってきた。
「お互い惹かれ合いながらも、朝陽は服のセンスがない。悪いんじゃなくて、そもそもない! とか言って喧嘩してるのが面白いんだよね。次で最終巻らしいんだけど、ほんと終わってほしくない」
気がつけば、雅親はメモ帳にボールペンで、なにかしらを書きつけていた。
「なに書いてるの?」
「ん。聞いた内容をまとめてる。こんな感じ」
見せてもらうと、いま話した漫画の人間関係と、ストーリーの内容が書いてあった。
どんな事件が発生し、それによって、ふたりの関係がどう変化したのか。
さらには、関係が進展したことによって、どのように新しい展開につながっていったのか。
「これ、すごい。どういう物語なのか、俯瞰でわかりやすく理解できる」
雅親は、手を頭にやって照れたように笑ってみせた。
「勉強ばかりしてたからさ。ノート取るのは得意なんだ」
「うん!」
檸檬はメモを閉じると、テーブルの上に上半身を乗り出した。
「楽しい! 卯野くん、これ楽しいよ!」
「そ、そう?」
雅親は檸檬の勢いに気圧されながらも、すこし嬉しそうだった。
「わたしが一方的に話してるだけだけど、また誘っていい?」
「うん。もちろん」
「これからもよろしくね、卯野くん」
檸檬が握手を求めて手を伸ばす。
雅親はすこし戸惑ってから、「こちらこそよろしく、楠部さん」と、笑顔でその手を握った。
檸檬が住んでいるアパートは、大学の最寄り駅から五駅ほど離れた住宅街にあった。
電車で十五分ほど。駅から歩いて十分ちょっとだ。
玄関から室内に入り、明かりをつける。
机や小物棚には、東京に来てから買い集めたグッズたちが並んでおり、帰宅した檸檬を出迎えてくれた。
とても充実した気分になるが、今日はそれだけではない。なんと、大学生になって初めての友達ができたのだ。
遅ればせながら、今日から楽しい大学生活のスタートだ。
そんなワクワクとした気分で、心が満ちあふれていた。
昼間の熱気を追い払うためにエアコンをつけ、バッグをベッドに置く。
スマホを取り出してチェックすると、実家の隣に住む幼馴染からメッセージが入っていた。
「楠部のばあちゃんが、檸檬は元気か、だってさ」
おばあちゃんは心配性だな、と苦笑半分、嬉しさ半分で返信する。
「元気元気。そう言っといて」
すぐに返信がある。
「自分で連絡しろよ。なんで、おれ経由なんだよ」
「いいじゃん。どうせ毎日、顔あわせてるんだから。わたしは忙しいんだもん。友達に次はなんの話をするか考えなくちゃ」
「おー。それはおめでとう。ようやく友達できたんだな」
「友達は四月からいたし! 新しい友だちだし! ちょっと体調面が大変そうだけど、なかなかな好青年だよ」
次の返信までには、すこし間があった。
「へー」
だいたい、週に二回ほどのペースで、雅親とファミレスで夕飯を食べるパターンが確立した。
檸檬が漫画やアニメの話をして、それを雅親がメモにまとめていく。
その内容を檸檬がチェックし、修正点があれば赤を入れる。
周囲から見たら勉強をしているように思われるだろうが、実際は「このときの登場人物の気持ちは?」を中心に、いろいろな作品について熱心に追求しているだけだ。
だが、そのおかげで、これまで読んできた漫画や見てきたアニメが、より深く理解できるようになった。作品のファンとして、すこしだけ高みに登れたような達成感がある。
「今度さ、ヨルヒルのコラボカフェやるらしいんだけど、一緒にいかない?」
ドリアを食べながら檸檬は雅親に尋ねた。
「コラボカフェとは?」
雅親が首をかしげる。
「キャラクターや世界観をテーマにしたカフェのことかな。ヨルヒルなら、真里亞をイメージしたパフェとか、朝陽が作ったオムレツの再現とかあるみたい」
「それは、面白そうだね」
なにかが引っかかったような反応。
檸檬はすぐに「あ」と気付いた。
「アレルギー、大丈夫かな?」
雅親は、すこし考えるような仕草をしてから言った。
「たぶん、お茶するだけだったら大丈夫だと思う」
「そっか。よかった。じゃあ、待ち合わせ場所決めよ」
翌週の日曜日。
檸檬は都心の大きな駅で電車から降りると、駅の構内にあるフクロウの銅像を目指して歩いていた。
東京に出てきたばかりのころは、押し迫ってくるような人混みに恐怖したものだが、この数ヶ月ですっかり慣れてしまった。
人の流れを読みながら、目的地に向かって進んでいく。
檸檬と雅親の住んでいる場所を考えると、大学の最寄り駅で待ち合わせするのが一番わかりやすかったのだが、それではなんだか面白くない。あえて現地待ち合わせとしたのだった。
そして昨夜、家でなにを着ていくか考えているときに、檸檬はなんとなく気づいてしまった。
「あれ? これってデートなんじゃ?」
幼馴染とはよく遊びに行っていたので、まったく違和感なく雅親を遊びに誘ったのだが、もう少しなにかを意識するべきだったのだろうか。
「まあでも、友達だしね」
そんなことを考えていると、人の流れの向こうに目的地の銅像が見えた。
その前では背の高い青年が、キョロキョロと落ち着かない様子で立っている。見つけやすくて、たいへん結構だ。
「おはよ。いつもの卯之くんな感じだね」
白い半袖の襟付きシャツとジーンズ。
普段、大学で目にする服装と、あまり変わらない。
「おはよう。ごめん、服、こういうのしか持ってなくて」
軽口のつもりだったのだが、もしかしたら傷つけてしまっただろうか。
慌ててフォローを入れる。
「いいのいいの。男の子はそんなもんだし、卯之くんって感じがして安心する。いこ」
「うん」
ふたりとも場所に不慣れなので、定期的にスマホで地図を確認しながら、コラボカフェの場所を目指した。
徒歩十分ほどで、目指すべき場所に到着。
「結構、列ができてるね」
大きなビルの一階にあるカフェ。
その窓ガラスには、真里亞や朝陽のイラストがディスプレイされていて、ひと目でこの場所だとわかった。
混むだろうと予想して開店前に来てみたのだが、すでに三十人ぐらいが列を作ってオープンを待っていた。
「ちょっと待つけど、いいかな?」
雅親に視線を向けると、やや顔色が悪いように見えた。
「卯之くん? もしかして具合悪い?」
「だ、だいじょうぶ。ちょっと暑さにやられてるだけだから」
たしかに、もう真夏といえる季節になっている。
とはいえ、今日はだいぶ夏にしては涼しい気温で、朝の天気予報を見て「やった」と思ったほどだったのだが。
「そう? 無理しないでね」
「うん」
列の最後尾に並んで順番を待つ。
すると「オープンまでもう少々お待ちください。これ、お使いください」と、スタッフの人がうちわを配ってくれた。
見ると、ヨルヒルのふたりが印刷されている。
「やった。レアアイテムゲット」
言いながら横に立っている雅親を見上げると、硬い表情で遠くの方に視線を向けていた。
なにやら、とても緊張しているように見える。
暑さによるものか、アレルギー反応が出ないようにしているのか。
もしくは檸檬と一緒にいるからか、というのは自意識過剰だろうか。
「卯之くん、暑い?」
言いながら、その横顔をうちわであおいであげる。
気づいた雅親が、こちらを見て言った。
「楠部さん。それ、うなぎ焼くときのあおぎ方」
ポンポンと、左手に軽くぶつけるようにやっていた。
「たしかに」
なんだか恥ずかしくてうちわで口元を隠す。
「ははっ」と、今日、はじめて雅親が笑顔を見せた。
オープンの時間になり、列の半分ぐらいが店内に入っていった。
そこからさらに三十分ほど待って、ようやく順番がやってきた。
「いらっしゃいませ。こちらにどうぞ」と、スタッフの人が席まで案内してくれる。
壁はもちろん、テーブルの上やメニュー表にまで、真里亞と朝陽のイラストがついている。店内カウンターの上には大型モニターが設置されており、そこではコミックの映像とともに、これまでのあらすじが紹介されていた。
物販コーナーもあるので、帰りには是非チェックせねばならない。
「これは……あがる!」
席についてメニュー表を開く。
昼に活動する真里亞。夜に活動する朝陽をテーマにしたドリンクもあって、目移りしそうだった。
「すごい。制覇したい! 卯之くんはどれにす」
向かいの席に座った雅親を見ると、真っ青な顔でテーブルに突っ伏していた。
「お……ぇ」
手で口元を抑え、必死で吐き気に耐えているようだ。
「卯之くん? 卯之くん!」
檸檬の叫び声にただならぬ気配を察したらしいスタッフが駆けつける。
「お客様、ご気分悪いですか? 救急車お呼びしますか?」
スタッフからお客さんまで、店内の注目を浴びる中、雅親はゆっくりと手を振った。
「だいじょぶ、なので」
その手が、震えながら物販コーナーを指さす。
「そこの、キーホルダーください」
「はい?」
スタッフと檸檬は、そろって変な声を出していた。
カフェを出たところにある木陰のベンチに雅親を座らせ、檸檬は自動販売機で冷たいお茶を購入した。
スタッフは涼しい事務室で横になってはどうかと提案してくれたのだが、暑さよりも、コラボカフェから距離を取る方が、雅親の体調に良いと判断したからだ。
それを持って戻ると、さきほどよりも雅親の顔色が良くなっていた。
「はい。ゆっくり飲んで」
ペットボトルのお茶を差し出すと、「ありがとう」と雅親が礼を言う。
檸檬も雅親の隣に腰掛ける。
「ごめん、楠部さん」
その声に横を見ると、雅親はペットボトルのふたも開けないまま、暗い表情で俯いていた。
「せっかく楽しみにしてたのに、台無しにしちゃって。お茶するぐらいなら大丈夫だと思ったんだけど、予想以上にこう……コラボな感じだった」
檸檬は「あはは。だいぶもりもりだったよね」と返す。
「わたし、卯之くんが具合悪そうだって気づいてたのに、テンションあがって強行しちゃった。わたしこそ、ごめん」
「そんな。楠部さんは悪くない」
「でも、卯之くんも悪くないでしょ?」
檸檬の言葉に、雅親が驚いたような表情になる。
「次は、卯之くんも行けそうなところにおでかけしようよ」
雅親はまた俯くと、「うん。ありがとう」と呟くように口にした。
その日は、雅親の体調のことも考えてお開きとなった。
ふたりとも口数が少ないまま、雅親が降りる駅まで一緒に電車に乗り、「またね」と笑顔で別れた。
檸檬はひとり、電車の中で立ったまま、すごく落ち込んだ気分になっていた。
楽しみたいことを楽しめない体質なんて、どんな呪いだろうか。きっと雅親は、子供の頃から今日と同じような経験を積み重ねてきたに違いない。
そのたびに何度も傷ついてきたのだろう。
ずっと、ひとりぼっちで俯いている少年の姿を想像し、胸が締め付けられるような気持ちになった。
「今日のお礼、いれとこ」
メッセージを送ろう。しつこいぐらい、今日のお礼と、次も遊びにいきたいと伝えよう。
スマホを出そうとショルダーバッグのポケットに手を入れると、カサリとした感触があった。
「ん?」
取り出してみると、白くて小さい包装袋だった。
そこにはボールペンで「今日はごめん。卯之」とだけ書かれていた。すっかり見慣れてしまった雅親の字だ。
脂汗を流しながらコラボカフェで買ったキーホルダー。
おそらく、檸檬がお茶を買いにいったときに、カバンに忍ばせたのだろう。
「これは……ずるいよ、卯之くん」
ぎゅっとキーホルダーを握る。
さきほどまでとは違う胸の痛みを感じた。
昼休みになり、講義室を出ながらなにを食べようかと考えていると、後ろから声をかけられた。
「楠部さんも、ヨルヒル好きなの?」
「え?」
振り向くと同学年の女の子だった。
たしか、砂映美という人だったはずだ。砂、という名字が珍しくて覚えていた。
色白で細い目。ほっそりとした身体つきということもあって、どこか人目を引くような存在感がある。髪の毛をポニーテールにしていて、それもよく似合っていた。
友達と一緒に行動しているところを見ていたが、「陽キャこわい」と思ってあまり近づかなかったのだ。
その映美が、檸檬に話しかけていた。
「な、な、なんで?」
「それ」
バッグにつけたキーホルダーを指さされる。
あの日、雅親が買ってくれたもので、真里亞と朝陽が背中合わせに、つんとした顔をしているデザインだ。
「あ、うん。面白いよね」
「最終巻読んだ?」
「読んだ! すっごいよかった!」
思わず、食いついてしまう。
昼の世界でしか活動できない呪いと、夜の世界でしか活動できない呪い。
最後のエピソードでは、朝陽と真里亞の魂を交わらせることで、それぞれの呪いを中和することができると判明する。
しかし、夜を奪われた月の魔女である真里亞が使える力は残り少ない。
その力を使うことで、真里亞はこの世界に存在できなくなるのだ。
最後の会話はこうだ。
「顔をあげなさい。昼も、夜も、この世界はきみのものなのだから」
「そんなものはいらない。ぼくは、あなたさえいればいいんだ。あなたのことが、好きなんだ」
真里亞は、無理やり笑顔を作って最後の台詞を述べる。
「ごめんなさい。わたし……服のセンスのない人は無理なの」
魂が交わる。
呪いが解ける。
ずっと一緒に暮らしてきた魔女がいなくなった世界の中で、朝陽は自分の中に、真里亞の魂が存在することを感じとる。
こんなにも愛されていたのだと、ようやく知ることができた。
朝陽が、登ってきた太陽を見上げているところで物語は終わる。
話しながら食堂に移動する。
途中で映美の友達も合流し、ひとつのテーブルを囲んで、お昼を食べていた。
「泣いた。ほんと泣いた」
「ね! コラボカフェもやってるんだって。楠部さん、行った?」
「いろいろあって、ちょっと行けてないの」
「じゃあ、今度わたしたちと行こうよ。カフェのあとは、グッズショップをハシゴするよ」
「行く! 行きたい!」
「おっけー。じゃあ、このまま計画たてちゃお」
流れるように話が進んでいく。
話もしないで怖がっていたが、思った以上にいい人達だった。
ふと、食堂内の離れた場所に雅親の姿を発見した。小さく手を振ると、それに気づいた雅親も手を振り返してくれた。
キーホルダーのお礼を言いたいが、さすがに女子の中には誘いづらい。
コラボカフェの話をしているのも申し訳ないし、また今度、ファミレスにでも誘うことにしよう。
季節はめぐり、だんだんと寒い日が増えてきた。
映美たちとは思いのほか仲良くなってしまい、一緒に東京でのオタ活を満喫している。
ヨルヒルのコラボカフェにもリベンジできたし、週末ごとに大きな本屋さんやグッズショップめぐりも実施し、とても充実した大学ライフを送っていた。
一方で、スーパーのバイトを始めたとかで、雅親とは、あまり会わなくなってしまった。
いや、「会わなくなった」は正確ではない。
コラボカフェの日以来、ファミレスに誘ってもなんだかんだと理由をつけて断られるので、「会ってくれなくなった」が正しい表現だ。
コラボカフェのことを気にしているのかと思ったが、それにしても引きずりすぎだろう。
「あ」
廊下でばったりと雅親と遭遇し、ふたり同時に声を出した。
まずい、という表情を浮かべる雅親の腕を掴んで逃げられないようにすると、檸檬はにっこりと微笑んでみせた。
「お久しぶり、卯之くん」
「ひ、久しぶり、楠部さん」
「ここ二ヶ月ほど、わたしの誘いがすべてお断りされている件について聞きたいんだけど」
言葉の最後の方には笑顔が消えて、睨むような目つきになっていた。
あきらかに避けられていると気付いたときは悲しくも思ったが、避けられるような理由に心当たりがないので、今度は次第に腹が立ってきた。
雅親がビビりながら答える。
「いや、ほら、バイトとかはじめたし」
「それは聞いた。バイトのない日はいつかも聞いた」
「なんか、いろいろと用事が重なっちゃって」
「具体的に。どんな用事だったの?」
「ええと、友達と遊びに……」
黙ってしまう雅親。
だんだんと、ひどいことをしている気になってきて、檸檬は雅親の腕を離した。
「もし……わたしが嫌いになったんだったら、そう言って」
「き、嫌いになんてなるわけない!」
思ったよりも大きい声が出たらしく、雅親が、はっとした表情になる。
周囲からなにごとかという視線を向けられるが、トラブルではないとわかると、またそれぞれの世界に戻っていった。
雅親が、申し訳なさそうに背中を丸めながら言う。
「俺も、楠部さんと話すの楽しかった。ああいうの、初めてだったから」
「なら、なんで、わたし避けられてるの?」
「それは……」
檸檬の電話が鳴る。
ショルダーバッグからスマホを取り出して通知を確認すると、幼馴染からの電話だった。
「ちょっとごめんね」
「うん」
雅親にことわってから電話に出る。
「ごめん。立て込んでるからあとでいい? え? うん。え!」
ただならぬ雰囲気が伝わったのだろう。
雅親が心配そうな表情で、電話が終わるのを待っている。
「わかった。うん。待ってるね」
電話を切ると、すぐに雅親が「だいじょうぶ?」と声をかけてくれた。
「おばあちゃんが……階段から落ちたって」
祖母の顔が脳裏に浮かぶ。
じわりと、パニックが襲ってきた。
「いま救急車で運ばれたって。どうしよう……どうしよう!」
最悪の事態まで想像し、怖くて手が震えだす。
「楠部さん、落ち着いて。大丈夫、大丈夫だから。連絡を待とう」
雅親は檸檬の肩に手を当てて、優しく声をかけてくれた。
肩から伝わる体温に、すこしだけ心を落ち着けることができた。
「卯之くん」
「ん?」
「怖いから……一緒にいてくれる?」
雅親はしっかりと檸檬と目を合わせると、「もちろん」と力強くうなずいてくれた。
駅前の、いつものファミレスに移動して、幼馴染からの電話を待つ。
暖かい紅茶を飲みながら、ぽつりぽつりと雅親と話をしていると、一時間ほどで幼馴染から祖母の容態についての連絡が入った。
「うん。よかった。……うん。なにかあったら、また教えて。ありがとね」
電話を切る。
「どうだった?」
「命に別状はないけど、太ももの付け根を骨折してるって。しばらくは歩けないかも」
「そっか。不幸中の幸いだけど、心配だね」
雅親も、檸檬と同じ種類の紅茶を飲んでいた。「紅茶ってあまり飲まないんだけど、どれがおすすめ?」「結構、うまいな」と言いながら、無理やり話題を作ってくれた。
その気遣いが嬉しかった。
「卯野くん。ありがと」
「ん?」
「一緒にいてくれたこと。あと、キーホルダーのお礼も言えてなかった」
雅親が首を横に振る。
「あれは、俺が倒れたお詫びだから。お礼を言われるようなもんじゃない」
「渡し方がだいぶカッコつけてたけどね」
「え、そう? 面と向かって渡すのが恥ずかしかっただけだけど」
「ふふ」檸檬は小さく笑ってから続けた。「うん。やっぱり、わたし、卯野くんといるの楽しいよ」
雅親は寂しそうな笑みを浮かべると、視線をテーブルの上に落とした。
「俺は……楠部さんといると、つらくなる」
「え?」
ぎゅっと、雅親の手に力が入った。
「本当は、同じものを読んで、もっといろんなところに遊びに行って、もっともっと楽しいことをしたい。でも、俺はそれができないから」
雅親が視線をあげた。
そこには、なにかしらの決意が含まれているように感じられた。
「だから、ごめん。俺は、楠部さんと一緒にいられない」
楽しいからこそ、一緒にいることができない。
それは、あまりにも悲しい言葉に思えた。
「うん。そっか。わかった」
「ほんとにごめん」
なんと言えばいいのだろうか。
アレルギーなんて気にしないで。そのうち、よくなるよ。ずっとファミレスで話してるだけでいいから。
どの言葉も、雅親を追い詰めるだけのような気がした。
檸檬の紅茶のカップが空になったことを確認したのか、雅親が伝票を手に持って立ち上がる。
「ここは俺が払うよ」
「でも、わたしのために来てもらったのに」
「お詫びだから」
一方的にそう告げると、雅親は会計カウンターに向けて歩き出した。
会計を済ませて、ふたりでファミレスの外に出る。
いつの間にか、吐く息が白くなっていた。
「じゃあ、元気でね。楠部さん」
「うん。卯野くんも。ごちそうさま」
決別のような言葉を残して雅親が去っていく。
檸檬はその背中を見ながら、ぽつりとつぶやいた。
「お詫びばっかり」
なにもしてあげられない自分が情けなかった。
段ボールだらけの部屋の中で、檸檬は悪戦苦闘していた。
アクリルスタンドなどの小物類はひとつにまとめて放り込んでおけばいいのだが、ぬいぐるみのようにかさばるものは、段ボール箱がいくつあっても追いつかない。
「買いすぎたぁ……」
約八ヶ月にわたる東京生活。その成果が、いま檸檬を苦しめていた。
実家の部屋には、すでに古参のグッズたちがテリトリーを主張しているので、東京からやってきた新参者たちを置く場所がない。
血で血を洗う、壮絶な縄張り争いが繰り広げられるぞ、と思っていると、棚の上にヨルヒルのキーホルダーを発見した。
コラボカフェに行った日、雅親が買ってくれたものだ。
映美たちと仲良くなるきっかけを作ってくれたキーホルダーだが、祖母が階段から落ち、雅親に別れを告げられた夜に、ショルダーバッグからはずして、ここに置いておいた。
それを手に取り、物思いにふけっていると、ピンポーンと呼び鈴が鳴った。
「あ、はい!」
だれだろうか。
一瞬、淡い期待が胸に浮かぶが、雅親が檸檬のアパートを知っているはずもない。
玄関ドアを開けると、そこに立っていたのは、案の定、このアパートの大家さんだった。
同じアパートの一階に住む中年の女性で、はじめてのひとり暮らしをする檸檬に、なにかと親切にしてくれた人物だ。
「引っ越しの準備は順調かしら?」
「はい。もうすこしで終わりそうです」
「そう。よかった。業者さんが来るのは明日だっけ?」
「そうです。あの、いろいろとお世話になりました」
頭を下げると、「いいのよ」と言って手を振った。
「若いのに介護なんて、大変ね」
「祖母の足が治るまでですから。大学も休学しただけなので、また、お世話になるかもしれません」
「その時は、またよろしくね」
「はい。明日、あらためてご挨拶にうかがいます」
大家さんとの会話を終えて、荷造りに戻る。
雅親からもらったキーホルダーを手に取ると、そっと「小物グッズ」と書かれた段ボール箱に入れた。
翌日の東京駅。
人が行き交う新幹線の改札近くで、檸檬と映美が最後の会話をしていた。
映美は、友人代表として見送りに来てくれたのだ。
荷物のほとんどは引っ越し業者にお願いしたので、檸檬はショルダーバッグと、小さいカートだけという身軽な恰好だった。
「戻ってくるの待ってるからね、檸檬」
「うん。映美ちゃんも元気で」
ふ、と映美が視線を檸檬のショルダーバッグに向けた。
「なんでキーホルダーつけなくなったの?」
すぐに、なんのことかを理解した。
「ヨルヒルの? ちょっとね」
誤魔化すように「そういえば」と続けた。
「あれで声かけてくれたんだったね。正直、こんなに仲良くなるとは思わなかったよ」
「ほんとだよね」
ふたりで笑いあう。
この居心地の良さも、しばらくお預けだと思うと寂しかった。
「でも、その前にきっかけはあったんだけどさ」
「きっかけ?」
「ウノくんだっけ? 背の高い男の子」
どきりとする。
「うん」
「講義室でリカたちとヨルヒルの話してるときに、彼が通りかかってさ」
――それ、楠部さんが読んでたやつだ。
「それだけ言って、どこか行っちゃったんだよね」
「……なに、それ」
「檸檬? なんか、怒ってる?」
「え?」
自分の顔に手を当てる。
わたしは怒っているのだろうか、と自問する。
怒っている、と自答した。
「……怒ってる。あの卑屈男に、すっごく怒ってる! ごめん、映美ちゃん。わたし、やり残したことある!」
「よくわかんないけど、荷物、見ててあげようか?」
「お願い! わたし、ひとこと言ってくるね! 急いで戻るから!」
「ウノくんを拘束しておけばいい?」
「え? うん」
スマホを取り出す映美。
「じゃあ、急ぐ必要ないって。ゆっくり焦らず、服も髪も、かわいいまんまでやっつけてきなよ」
「うん。ありがと!」
檸檬は、大学へ向かう電車のホームに向けて歩き出した。
ピコンと、スマホから着信音が鳴る。
歩きながら内容をチェックすると、映美が大学の友人グループに向けて発信したメッセージだった。
「緊急指名手配! だれか、ウノマサチカくんを確保して!」
すぐに反応がある。
「背が高くてボウズ頭の人だよね? だれか見た?」
「お昼に食堂で見かけたよ」
「午後の講義に出てた」
どんどんと東京駅の中を進んでいき、速足で目的の電車に乗り込んだ。
「トイレから出てきたところを確保! どこに連行すればいい?」
「桜の木のベンチにお願い!」
そう、檸檬はメッセージを送った。
数日前に、しばらくは見納めだと思いながら去ったばかりの大学の構内を歩いていく。
気がつけば十二月だ。
入学式の頃の浮かれたような雰囲気はなくなり、街路樹は枯葉ばかりとなって、物悲しい景色に変わっていた。
桜の木の下のベンチが見える。
そこでは数人の女子に囲まれた雅親が、可愛そうなぐらいに縮こまっていた。
「みんな、ありがと」
礼を言うと、友人たちは「がんばってね、檸檬」「よくわかんないけど、ぶちかませ」と口々にエールを送りながら去っていった。
立っている檸檬と、ベンチに座って小さくなったままの雅親だけが取り残される。
しん、とした空間でふたりきりになると、さきほどまでの怒りがどこかにいってしまった。
怒りと一緒になにかを猛烈に伝えたかったのだが、それがうまく形にできていない。
ぽつりと、檸檬は口を開いた。
「わたし、友達できた」
「そうみたいだ」
深い実感を込めて雅親がうなずく。
「本当は、こっちでみんなと一緒に年越ししたいって思ってたんだ。できれば、卯野くんとも初詣とか行ってさ。もうちょっとでお酒飲めるね、とか話して」
さぐりさぐり言葉を探す。
自分はなにを言いたいのだろう。
「卯野くんは、今年は実家に帰るの?」
雅親が首を横に振る。
「実家は、あんまり帰りたいところじゃないから」
「そっか」
では、雅親はひとりで過ごすのだろう。
そばにいたいけれど、しばらくそれはできない。
出会った頃を思い出す。
暖かい日差しの差すベンチに座って、じっと俯いていた雅親。
お詫びばかりしていた雅親。
檸檬は雅親と話していて、あんなにも楽しかったのに。
「あ、そっか」
なにを伝えたいのかがわかった。
檸檬はつかつかと雅親へ歩み寄ると、その頭を胸に抱きしめた。
「く、くくすべさん?」
とつぜんの抱擁に雅親が動揺する。緊張からか全身がガチガチに固まっていた。
檸檬は腕の中の雅親に言い聞かせるように言った。
「わたし、東京に来てすごく楽しかった。最初は友達ができなくて焦ってたけど、卯野くんが友達になってくれたから。卯野くんのおかげで、すごくすごくすごく楽しかった。だから」
身体を離す。
頬に手を当てて顔を上向かせると、ふたりを繋ぐ作品のセリフを口にした。
「顔をあげなさい。昼も、夜も、この世界はきみのものなのだから」
「俺は……」
雅親は真っ赤になった顔のまま、のぼせたように言葉を発した。
「楠部さんのことが好きだ」
檸檬は優しく微笑むと、心の底からの思いを込めて、こう口にした。
「ごめんなさい。わたし、趣味のない人は無理なの」
雅親の目が見開かれる。
「またね」
檸檬は雅親の頬から手を離すと、その場を後にした。
戻ってきたら、そのときは、もっとちゃんと向き合おう。
それまで、どうか、お元気で。
***
一年半後。
大学の最寄り駅にあるファミレスで、ふたりはテーブル越しに向かい合って頭を抱えていた。
「卯野くんに……ヨルヒルの最終巻の話……してなかったぁ」
「ヨルヒルの会話の再現とか……まったく、気づいてなかった」
雅親としては、場に流された部分はあったとはいえ、ありったけの勇気を振り絞った告白だったのだ。
それがあっさりとふられ、そのうえ、妙なディスりを含んだような返しをされた。
そのショックで雅親まで休学したと知ったときの檸檬は、膝から崩れ落ちそうな顔をしていた。
「わたしが呪いかけてて、どうするのよ……。ほんとゴメン。ほんっとゴメン」
「いや、うん、まあ。過ぎた話だし、お互いすれ違いがあったということで」
昼とか夜とか、なんの話だろうと思わなくもなかったのだが、ふられたインパクトが大きすぎて、その程度の違和感は粉々に吹き飛んでいた。
沈鬱な空気をなんとかしようと、雅親は話題を変えることにした。
「おばあちゃんは元気?」
「うん。骨折は治ってリハビリも頑張ってくれたんだ。いまじゃ、前よりも元気なぐらい」
「あははっ。それはよかった」
笑いながら言うと、じっと檸檬がこちらを見ていることに気づいた。
「どうしたの?」
「なんか……卯野くん、雰囲気変わったね」
「そうかな?」
心当たりは、おおいにあった。
黒髪の少女が脳裏に浮かぶ。
「うん。楠部さん。俺、趣味って言えるものができたよ」
「え! ほんと! なに!」
檸檬がテーブル越しに上半身を乗り出してくる。
初めて会った日を思い出して、すこし胸がざわめいた。
「映画。あと、動画編集もすこしやってる」
「作る方ってこと? すごい!」
雅親は「ああいや」と手を振った。
「ごめん。誤解させるような言い方になった。映画を作ってるってわけじゃなくて、ええと、友達と動画を作ってて、投稿もしてるんだ。映画は見るのが好きってだけ」
「それでもすごいよ。だって卯野くん、ずっと苦しんでたから」
涙ぐんでいる檸檬を見て、ずきっとした痛みを胸に感じる。
同時に、俺はいまでも楠部さんのことが好きなんだなと、どこか切ない気持ちと共に自覚した。
「だから、いま思えば悪いことばかりじゃなかったよ。一周まわって楠部さんのおかげだ」
「あはは。それなら、わたしもちょっと救われる。よかった……ほんと」
檸檬の目からポロポロと涙がこぼれた。
こんなにも雅親のことを心配してくれていたのだ。
さきほど檸檬から説明されたヨルヒルの最後の会話の内容を考えてみれば、あの日のやりとりは、とても前向きな意味に解釈できるのではないだろうか。
もしかしたら、今日から、あの日の続きがはじまるのかもしれない。
そう思うと、途端に緊張してきた。
檸檬が落ち着くのを待っている間に、注文していた料理が運ばれてくる。
雅親は大葉とベーコンのパスタ。それとコーンスープにした。以前、ねこが作ってくれたものが美味しかったからだ。
檸檬はドリアとコンソメスープだった。いつもと同じものしか頼まないのは、相変わらずだ。
パスタをフォークで巻きながら、会話を再開する。
胸の高鳴りを押さえながら、なるべく平静な声を意識した。
「楠部さんは、いつから復学するの?」
「うん。今日は退学の手続きしにきたんだ」
雅親の手が止まる。
檸檬が続けた。
「わたし、去年、地元の幼馴染と結婚してさ。しかも妊娠までしちゃってさ。ようやくつわりが落ち着いてきたところなんだけど、ちょっともう大学は無理かなって」
えへへ、と笑う檸檬。
こういうのをなんと言うのだったか。
オーバーキル、で合っていただろうか。
「それは……おめでとう」
それだけの言葉を口にするのに、かなりのエネルギーを必要とした。
「ありがとう」
檸檬は無邪気な笑顔でお礼を言った。
そのあとの食事の味はあまり覚えていない。
精神状態って味覚に影響するんだな、と思ったことだけは記憶にある。
食後のデザートまで食べ終わってから、「さて」と檸檬が言った。
「今日はわたしが払うね」
「いや、俺が出すよ。お祝いしないと」
「ううん。お詫びだから」
「あのときのことは、もう」
檸檬が手を伸ばし、雅親の言葉をさえぎった。
「それだけじゃ、ないから」
そう言って檸檬は伝票を手に取り、シートから立ち上がった。ショルダーバッグを持って会計カウンターへ向かって歩き出す。
そのバッグには、ヨルヒルのキーホルダーが照明の光を反射して輝いていた。
雅親は泣きたくなるような気持ちで、俺は本当に楠部さんのことが好きだったんだなと、あらためて、そう思った。
ドアをあけて、ゆらりと自分の部屋に足を踏み入れる。
「マサチカくん、おかえりー」
「お。どうだった?」
ねこは折り畳みテーブルの上で動画の編集、菊乃は寝っ転がって漫画を読んでいた。
昨夜、とつぜん道端に崩れ落ちた雅親は、ふたりにともなわれて、なんとかアパートまで帰ることができた。
今日も心配して、わざわざ雅親の部屋で待機してくれていた、という状況だ。
靴を脱いで畳の上にあがると、雅親はその場にへたりこんだ。
なにごとかと、二人の視線が集まる。
「子供って……できるもんなんだな」
ぽつりと言うと、部屋の中が凍りついた。
ねこと菊乃が、それぞれの作業を放りだして雅親に詰め寄ってくる。
「え、なに! わたし叔母ちゃんになるの! 甥っ子!? 姪っ子!?」
「やらかしたってこと! さとさん、呼ぶ!? 相談する!?」
「違う! さとさん、いらない!」
手を振ってふたりを追い返す。
とはいえ、いろいろと心配してくれたねこと菊乃には、説明する義務があるだろう。
「つまりだな」
ちゃんと正座をして、どう説明するか悩んでから、これだけを口にした。
「きっちり、ふられてきた」
「へー」
「ふーん」
リアクションが薄い。
「身内の恋愛話って微妙だよな」
「お前が言うな」
「マサチカくん」
ぽん、とねこが雅親の肩に手を置く。憐れむような表情で続ける。
「女の子って、いい匂いがするだけじゃないんだよ」
「そういうこと言うのやめてくれ」
「なんだ。あんまり面白いことにならなかったな」
「動画のネタになるようなの期待してたんだけど」
好き放題に言いながら、ふたりはそれぞれの作業に戻っていった。
もうすこし優しくしてほしい。
「ん? 菊乃、それ、読んでるやつ」
「これ? このまえ、友達からお勧めされたんだけど。夜ねむるキミと……なんだっけ?」
雅親が手を伸ばすと、菊乃はコミックを差し出した。
やはり、ヨルヒルの最終巻だ。
ペラペラとめくっていくと、ねこと菊乃が、ぞっとしたような顔になった。
「マサチカくん……大丈夫なの?」
「また倒れたら、ほっとくからな」
最後のページまでめくり続ける。
朝陽が太陽を迎えるコマを見ながら、雅親は「ありがとう、楠部さん」と、小さく感謝の言葉を口にした。
「呪いを解いてくれて」
趣味アレルギーが治っていた。
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