第6話 魚限定で

 いつも収録をおこなっているカラオケ店の一室。

 やりづらい。

 そう思いながらも、雅親はなんとか助手くんのテンションを保ったまま、ゲームを進行していた。

「助手くん。仕上げとして世界樹のてっぺんに記念碑つくろうよ」

「木製でいいですか?」

「ダイヤモンド製がいいな!」

「また掘らないと在庫ないですよ。今回で終われませんって」

「えー。じゃあ、木製で許す。しかたないな」

 空白の世界に降り立った「男」を操作して世界を作っていくゲームだが、土や木や金属のゴーレムを操作する協力プレイも可能だ。

 いろんな素材を集めて加工して、作れるものを増やしていった先にあるのが世界樹で、まさにいま、ゲームクリアを迎えたところだった。

「じゃあ、今回シリーズはここでおしまい!」

「よろしければ、高評価、チャンネル登録、SNSでの周知などお願いします」

「また次のシリーズで! まったねー!」

 余韻を意識してから、ねこがキャプチャーソフトをオフにする。

「はい、おつかれさま」

「おつかれ」

 返しながら、雅親はマイクのスイッチを切った。

「へえ、こうやって撮影してんだね」

 横で撮影の様子を見ていた菊乃が、ジュースを飲みながら感想を述べた。

 相変わらずの金髪で、今日は耳に蛇かなにかのピアスがついていた。

「すさまじく、やりづらかった」

「それはごめんね。ねこっち、動画の調子はどうだい?」

 雅親のクレームが、さらりと流される。

「登録者さんが二十人になったよ」

「いいね。このまま、二十億人までいっちゃってよ」

「ふふん。いまの勢いなら二兆人はいくね」

「すげー。地球の人口より多いじゃん」

「菊乃はなにしにきたんだ?」

 ケーブルを束ねながら、どうでもいい会話に割り込んでいく。

「知り合いに会いに来た」

「この前もそんなこと言ってたな。仲の良い人なのか?」

「この前とは別の人だよ」

 まさか、あやしい活動をしに都会に出てきているのではあるまいか。

 そんな疑念を抱いていると「なんか失礼なこと考えてんじゃん」と、あっさり見抜かれた。

「変なことしてないよ。地元にカレシもいるしさ」

「え、いるの?」

 ねこが反応する。雅親も、うっかり同じ反応をしそうになった。

「お菊ちゃん、モテそうだもんね」

「おう。モテまくりよ」

 ふたりのやりとりを聞きながら、ノートパソコンで管理者画面をチェックしていると、通知のところに赤いバッジがついていることに気づいた。

 開くと、これこれの動画にコメントがありました、というお知らせだった。

「あ。コメントきてる」

「やった! なんて書いてある?」

 ねこが素早く隣に移動してきて、画面を覗き込んだ。

 通知をクリックして、該当動画のコメント欄に飛ぶ。

 そこには短く、「編集ヘタだね」とだけ書かれていた。

「なんだこれ」

 一瞬で不快な気分になる。

「アンチコメってやつ?」

 やはり隣に移動してきた菊乃が言う。

 ねこがショックを受けているんじゃないかと心配して視線を向けると、「ちょっと貸して」とパソコンを奪いとられた。慣れた手つきで操作していく。

「このアカウント、いろんなところで挑発的なコメントしてる」

「愉快犯?」

 菊乃の質問に「ちょっと違うかな」とねこが答える。

「こうすれば視聴数が増えると思ってるっぽい。なんだこいつってなって、チャンネル見にいくもんね。ほら、怒りのコメントばっかりついてる」

 ノートパソコンを傾けて画面が見えるようにしてくれる。

 見ると「おまえの方が編集ヘタだよ」「二度とコメントすんな」など、感情的になったコメントがたくさんついていた。

「挑発に乗った人がコメントしにきちゃってるね。たしかに、視聴回数は増えるだろうけど」

「お金になんの?」

「ならないよな。登録者数が千人超えないと」

 ねこがうなずく。

「そう。こんなので登録してもらえるわけがない。アンチコメというか、ただの荒らしコメだね。本人にとっても時間の無駄なのに、それに気づけてない。だけど」

 ずるずると、ねこがソファの上で脱力する。

「初コメがこれっていうのはヘコむよね」

 やはり、それなりにショックだったようだ。

 雅親だってそうなのだから、実際に編集したねこにはもっとくるものがあるだろう。

「ねこの編集が下手なわけないのにな」

「お、信頼してるじゃん」

 すこしでもねこの気持ちを上げようと口にした言葉に、菊乃が乗ってくれる。

「そりゃ、もちろん。俺もちょっとは編集わかってきたし」

「あははっ。すっかり映画にハマってるもんね」

 ねこがソファから起き上がった。

「まじ? あのアニキが?」

「ああ、映画館に入る前のマインドセットは入念にやってるぞ。映画は動画づくりの勉強で、つまるところビジネスにたどり着く論法だ」

「なんだそりゃ」

「ややこしー」

 菊乃とねこが笑う。

 ねこがそんなに気にしてなさそうなので、ほっとした。ちょっとだけ、奔放な妹に感謝してみようという気になる。

 ねこはスマホで時刻を確認し、「まだ時間あまってるけど、どうする? すこしでも編集しとく?」と雅親に尋ねた。

「え、カラオケなんだから歌うっしょ?」

 当然のように言う菊乃に、雅親とねこは無言で首を横に振った。

「あんたら、マジ陰キャ」


 夕飯の買い出しをしに、三人でスーパーくまおかへとやってきた。

 カラオケで撮影をする前までバイトしていたので、なんだか変な感じだ。

 丸山は今日は休みのため、他のアルバイトがレジに入っている。

「カップラーメンでいいか?」

「いいけど。アニキ、そんなのばっか食べてんの?」

 ねこは夕飯づくりの食材を買いに、雅親は、菊乃が泊りにくることになったので、簡単に済ませられるものを買いに来た。

「マサチカくん、料理とかしないもんね」

「ねこっちは料理してそうだ」

「してるよ。さとさん――母親が介護士やってて不規則だからね。今日は夜勤だし、わたしひとり分だけど」

 菊乃が「じゃあさ」と提案した。

「今日はうちで食べていきなよ。わたし作るし」

「いや、俺んちだから。ていうか、鍋とフライパンぐらいしかないぞ」

「それ以外のなにが必要だと思ってんだ?」

「マサチカくんは、鍋とフライパンをなにに使ってるの?」

 女性ふたりから、責められているような、あきれられているような視線を向けられる。

 ねこの質問に、ちょっとおびえながら答えた。

「インスタントラーメンと、たまにスクランブルエッグ? 炒り卵? つくってる」

「まあ、卵焼こうとするだけ偉いかな」

 褒められたのだろうか。

 たぶん違う気がする。

 質問者が菊乃にチェンジした。

「塩、胡椒、醤油はある?」

「そのぐらいならある」

「砂糖は?」

「コーヒーに入れるやつなら」

 必要な情報を取得し終わったのか、ねこと菊乃が「砂糖は買った方がいいかな」「意外といけんじゃね?」などと話し出した。

「あ。雅親くんだ。おかえり」

 事務所から、熊岡が威圧感のある姿をあらわした。

「くま店長。今日のおすすめは?」

 いつの間にか熊岡と顔見知りになっているねこが尋ねる。

 すかさず、菊乃が「魚限定で」と付け加えた。

 なぜ魚しばりなのだろうか。

「魚? ブリが売れ残ってるから値下げするよ」

「ありがと、くま店長」

「じゃあ、ブリ大根ね。アニキは邪魔だから先に帰ってご飯セットしといて。明日の朝メシの分も」

「はい」

 反論の余地もないので、大人しく菊乃の指示に従うことにした。


 すっかり日が落ちた住宅街を、ねこは菊乃と並んで歩いていた。

 季節は六月に入ったところで、半袖のシャツでも十分に暖かい。

 動画配信をはじめたのが四月だから、もうそろそろ二ヵ月が経とうとしている。撮影、編集、投稿の流れも、助手くんこと雅親との掛け合いも、すっかり定着していた。

「マサチカくんって、どんな子供だったの?」

 歩きながら菊乃に尋ねる。

 菊乃は「素直ないい子だったよ」と即答した。

「あはは。いまと同じだ」

「成長しないよな」

 菊乃も一緒になって笑ってから、すこし真面目なトーンになった。

「親父の言うことを間に受けて、いつも傷ついてた。それを見て、わたしはイライラしてたな」

「そっか。だからかな。マサチカくんは人の傷に敏感な気がするんだ」

「かもね。もしくは、ただのお人好し」

「お人好しは間違いないけど」

 また、ふたりで笑いあう。

「ねこっちのお父さんは、どんな人だった?」

 今度は菊乃から質問された。

 過去形ということは、父親が亡くなっていることを雅親から聞いているのだろう。あえて触れてくれることが、菊乃なりの気の使い方なのかもしれない。

「素直ないい人だったかな」

「兄貴と一緒じゃん」

「だね」

 空を見上げる。

 満月にはすこし欠けているものの、白く輝く月が出ていた。

「わたし、いま学校行ってないんだけどさ。ちょっと前まで、がんばって行ってたんだよ」

「うん」

「結構キツいときに声かけてくれてさ……」

 月がゆがむ。

 涙がこぼれるのを感じて、あわてて手でぬぐった。

「はは、恥ずかし。ごめんね」

 謝ると、菊乃の手が伸びてきて優しく頭を撫でてくれた。

「いいお父さんだったんだね」

「うん。だと思う」

 六月の暖かな空気の中、二人はゆっくりと歩いていった。


 狭い折りたたみテーブルの上に、三人分の茶碗が乗っている。

 当然、茶碗など自分のものしか持っていなかったのだが、ねこと菊乃がくまおかで安いものを買ってきてくれたのだ。

 テーブルの中央に置かれた深皿には、作りたてのブリ大根が湯気を立てている。

 作り方はいまいち理解していないが、醤油色に煮られたブリと大根のうえに、刻んだ真っ白なネギが飾られていた。部屋の中に、いい匂いが充満していて食欲をそそる。

「いただきます!」

 三人で唱和し、それぞれが深皿に手を伸ばした。

「うま。お菊ちゃん、料理上手だね」

「でしょ。最近よく作ってるし。特に魚料理」

「なんで魚なんだ?」

「それより、明日ヒマならどっか行かん?」

「え、いいけど、どこ行くの?」

「でかい観覧車のある水族館。行ったことある?」

「二回ぐらい行った気がする」

「じゃあ、案内してよ」

「だいぶ前だから、忘れちゃったよ」

 ガールズトークのテンポの速さについていけないので、食事に集中することにした。

 あまじょっぱく味付けをされた大根が大変うまい。

 菊乃はフライパンで作っていたし、家にある調味料だけでこの味になるのであれば、今度、レシピを調べて試してみるのも悪くない。今度がいつかはわからないが。

「マサチカくん、何時に待ち合わせする?」

 急に話を向けられて、すぐに反応できなかった。

 一拍置いてから、なにを聞かれたのか理解した。

「え? 俺も行くのか?」

 ねこと菊乃が「え? 行かないの?」「当然だろ」と同時に答える。

 そういう流れだったのか。

 水族館には三人で行くことになった。


 ***


 アクリルガラスを通った光が、水の動きに合わせてゆらゆらと床を照らす。

 館内はどこも薄暗く、水槽の中を泳ぐ魚だけが、くっきりとした姿を見せていた。

「サメだよ!」

 ねこが水槽にぶつかりそうなぐらいに顔を近づけた。

 水槽内では、数匹のサメが悠々とした風情で泳いでいる。雅親も、ねこの隣に立って一緒にサメを楽しんだ。

「シュモクザメだ。面白い顔してるよな」

「ね。なんで、あんな眼なんだろうね。そういえば、マサチカくんは水族館は平気なの?」

 趣味アレルギーのことだろう。

 ふっ、と余裕を見せて答えた。

「こういう、アカデミックなところなら大丈夫だ」

「あかでみっく……」

 次の水槽に行こうとして、菊乃がついてきていないことに気がついた。

 背後を見ると、サメ水槽を見ながら、ぶつぶつとなにかを言っている。

「シュモクザメ、スミツキザメ、シノノメサカタザメ。軟骨魚類はまだちょっと弱いな」

「なにやってんだ?」

 声をかけると、菊乃は水槽から目を離さず、「最近、魚の勉強してんだよね」と言った。

 ねこも戻ってきて菊乃に尋ねる。

「サメって魚だっけ?」

「サメとかエイは軟骨魚類だね。タイとか、昨日、食べたブリは硬骨魚類」

「どう違うの?」

 菊乃は、ようやく水槽から視線をはずして、ねこの質問に答えた。

「硬骨魚類は、いちど陸にあがって肺を持ったんだけど、やっぱ海好きだわって出戻りしたんだよね。で、肺が浮袋になった」

「へえ」

「軟骨魚類は、ずっと海にいるから浮袋を持ってない」

「面白いけど、魚の研究者でも目指してるのか?」

 雅親が聞くと、菊乃は「まさか」と言いながらサメ水槽から離れた。

「でも、魚に詳しくなっておきたいんだ」

「なぜ?」

「さあね。いこ」

 三人で、いろいろな魚を見ながら順路を進んでいく。

 海中の岩場を再現した水槽を眺めているときに、雅親はふと気がついた。

「あ。菊乃のピアス」

「ん?」

 振り向いた菊乃の、その耳をよく見る。思ったとおりだった。

「ヘビじゃなくてウツボだ」

 ねこも菊乃のピアスを見て、「あ、ほんとだ」と言っている。

 ウツボが、渦巻のように丸くなっているデザインのピアスだった。

「ふっふっふっ。かっこいいだろ?」

「かっこいいのか?」

 たしかに、ウツボは魚の中では格好いいのかもしれない。

「ウツボって魚?」

 また、ねこが聞いている。

「ウナギの仲間だね。唐揚げにするとうまいらしい」

「レストランで売ってないかな?」

「さすがにないんじゃね? 小骨の量が半端ないっぽいし」

 なんでウツボ?

 と思ったが、たびたび聞いてもすべてスルーされ続けているので、もう聞く気にならなかった。

 菊乃が楽しいのであればそれでいいや、という、ふんわりとした気持ちになっている。

 大水槽の前にやってきた。

 ライティングによるものなのか、これまでよりも青みの強い光が、水槽とフロアを満たしている。

 イワシの群れや巨大なエイ。カツオの仲間などが、広い空間を泳ぎまわっていた。

 ねこと菊乃を残して、雅親はすこし水槽から距離を取った。

 スマホのカメラ機能を立ち上げて、画面に映る光景をチェックする。

「人が入らない方がいいかな? どこかに出すわけじゃないからいいか」

 いい感じの構図と距離感を探しながら歩きまわる。

 近すぎると水槽全体が収まらないし、遠すぎると迫力に欠ける気がする。

 スマホの画面いっぱいに水槽が入ったところで足を止めると、ピコンという音とともに動画撮影をスタートし、床から大水槽のいちばん上まで、ゆっくりと撮影していった。

「でかいぞってのを撮りたかったんだけど」

 停止して撮れたものを見てみるが、スマホだと画面が小さくて、思い通りの映像になっているのかがわからない。

 帰ったら、パソコンにファイルを移して見てみよう。

 ねこと早朝撮影をしてから、なにかを見つけては動画に撮ってみるのが習慣になっていた。具体的な用途があるわけではない。いまのところは、ただの自己満足だ。

 ねこと菊乃は、まだ水槽の前に張り付いていた。

 どうやら、ねこが魚の種類を質問して菊乃が答えられるか、という遊びをしているようだ。

 ふたりの笑顔が、やわらかい光に照らされている。

 雅親はふたたびスマホを取り出すと、その横顔を撮影した。

 それにねこが気づく。

「あっ! 撮られてる!」

「肖像権の侵害じゃね? 慰謝料だ、慰謝料!」

 ねこと菊乃が腕を振り上げて抗議してくる。

「わかったよ。アイスぐらいならおごるから」

「いぇい!」と、ふたりはハイタッチした。


 最寄駅の改札を抜けた雅親とねこは、夕方の町の中を歩きはじめた。

 帰宅ラッシュよりは、すこし早めの電車に乗れたので、座って帰ってくることができた。

 ねこは、里美へのお土産の入った紙袋を手にしている。

 雅親もスーパーくまおかの従業員たちに買おうかと思ったが、熊岡の「お土産は高いから原則持ち込み禁止。買ってきていいのは店長権限でぼくだけ」という言葉を思い出してやめておいた。つくづく、いい上司だ。

 菊乃は途中の駅で別れた。いまごろは実家に向かう特急に乗っているはずだ。

「水族館なんて久しぶりだったな」

「楽しかったね。さっき撮影してたのは、なにかに使うの?」

「いや、ただ撮ってただけ。でも、使えそうな素材があれば実況に入れてもいいかもな」

「どのへんに住んでるかバレちゃうじゃん」

「そっか。やめとこう」

 雅親のアパートと、ねこのマンションへの分岐点にきた。

「編集終わったら、また連絡するね。次の撮影日を決めよ」

「了解。こっちも、バイトのシフトが出たら教える」

 お互い手を振って別れた。

 ゆっくりと暗さを増す道を歩いていく。ついさっきまで、水槽に囲まれた幻想的な空間にいたことが夢のように思えた。

 心地よい疲れを感じる。

 今日は早く布団に入ろうと思いながらアパートまでくると、雅親の部屋のドアの前に、だれかが座っていることに気づいた。

 足を止めて様子を見る。

 どうやら若い女性のようだ。

 眼鏡をかけた高校生ぐらいの女の子。大きな三つ編みを背中まで垂らし、白い襟付きシャツに、茶色がかったチェック柄のロングスカートという出で立ちだ。

 不安そうな表情を浮かべながら、廊下の床に体育座りしていた。

 ものすごく怪しいが、危険な人物ではなさそうだ。

「あの、うちにご用ですか?」

 声をかけると、女の子は弾かれたように立ち上がった。

 ちょっとびっくりして後ずさる。

「ああああの! 菊乃ちゃんのお兄さん? お兄さま? ですか?」

 なぜか、ものすごく緊張しているようだ。

 菊乃ちゃん、というからには菊乃の知り合いなのだろう。

「そうですけど、どちらさまでしょうか」

「わ、わたし、浪川沙耶と申します! 菊乃ちゃんの、あの、同級生です!」

「そうですか。ちょっとお待ちくださいね」

 雅親は笑顔で沙耶に告げると、後ろを向いてスマホを取り出した。

 画面を操作して電話をかける。

「すまん、ねこ。ちょっと助けてくれ」


 二十分後。

 雅親の部屋の中では、雅親、ねこ、沙耶が折り畳みテーブルを囲んでいた。

 三人とも正座しているのは、謎の緊張感のせいだ。

 テーブルの上には、沙耶の前にだけ、ねこに買ってきてもらったペットボトルのお茶が置いてある。ひとつだけある座布団は、今日はねこではなく、沙耶に使ってもらっていた。

「うん。うん、ごめんね。うん。菊乃ちゃんのお母さんから聞いたの」

 沙耶は菊乃と電話をしていた。

「ちょっと」

 横に座るねこに腕をつつかれたので、そちらを見る。

「どういう状況?」

「菊乃の友達らしいけど、よくわからん」

 顔を近づけて、こそこそと小声で会話する。

「わたしはなんで呼ばれたの?」

「俺しかいないのに、アパートに入れるわけにいかないだろ」

「それはまあ、そうだけど」

「うん。あとでね」

 沙耶の電話が終わったので、雅親とねこは、またピシッと正座に戻った。

「菊乃ちゃん、もう少しで着くそうです」

「そうですか。よかった」

 本当によかった。

 菊乃は雅親たちと別れてから、途中の駅で買い物をしていたらしい。

 そのおかげでまだ特急には乗っておらず、雅親の「浪川さんという人が来てるんだが」という電話を受けて、すぐにこちらに移動をはじめた。

 それはいいのだが、菊乃が到着するまで、沙耶となにを話していいのかわからない。

 油断すると、すぐに部屋の中が沈黙してしまうので、雅親は頑張って話しかけた。

「浪川さんは、菊乃に会いにきたんですか?」

「はい。わたしたち、喧嘩しちゃって。でも、ちゃんと顔を見て話さなくちゃって思って」

「うちの母親に、俺の住所を聞いて来たと」

「はい。あの、ご迷惑おかけしてすみません」

「ああ、いや。ぜんぜん迷惑ではないです。びっくりはしましたが」

 沈黙。

 助けを求めるようにねこを見ると、気まずそうにテーブルの上に視線を落としていた。

 そういえば、ねこは人と話すのが得意ではないことを思い出した。伊達や酔狂で不登校をやっているわけではないのだ。しかし、だとしたら、なぜ雅親には初対面で話しかけられたのだろうか。

 さておき、沙耶へなにかしらの話題をふらねばならない。

 共通の知り合いといえば菊乃しかいない。

「菊乃は学校ではどんな感じですか?」

「かっこいいです!」

「ほう?」

 即答だった。しかも、なんだか前のめりだ。

「成績は学校でトップクラスだし、運動もできるし、わたしなんかとも仲良くしてくれるし」

 沙耶が顔を赤らめる。

 なんだろうか。変な雰囲気だ。

 沙耶が話を続ける。

「ずっと自信をもてなかったわたしに、菊乃ちゃんが踏み出す勇気をくれたんです。だけどそのことが原因で喧嘩になっちゃって」

「そのこと、とは――」

 雅親が言いかけたとき、バンッと音がして玄関のドアが開いた。

 振り向くと、息を切らせた菊乃が立っていた。

「沙耶!」

「菊乃ちゃん!」

 菊乃は靴をいそいで脱ぐと、沙耶のもとへ駆け寄った。

 そして強く、沙耶の身体を抱きしめる。

「連絡ぐらいしろって! 心配するじゃん!」

「ごめんね。来ちゃダメって言われたらどうしようって考えたら怖くなっちゃって」

「バカ。そんなこと言うわけないだろ」

「菊乃ちゃん」

 沙耶も涙を流しながら菊乃のことを抱きしめ返し、そして、二人は熱い口づけを交わした。

 雅親の頭の中は真っ白だ。

 なんだ?

 なにが起こっている?

 ハッとしてねこを見ると、まじまじと二人の行為を観察していた。

「未成年は見ちゃいけません!」

 指で背後を示し、後ろにある玄関の方を向かせる。

 一緒に雅親もそちらに向きを変えた。

「んっ、ふ」

 今度は、お互いの唇を求めあう声が聞こえてくる。

「聞いてもいけません」

 ねこの耳を両手でふさいでやる。

 雅親の耳はノーガードだが、代わりに目を強くつぶって耐え忍んだ。意味はなかった。

 しばらくして、息を荒くした菊乃が話しかけてきた。

「アニキ」

「なんだ?」

 後ろを見たまま、聞き返す。

「ねこっちを送ってきたら? そして二時間ぐらい散歩してきたらいんじゃね?」

「あほか! 人の部屋でなにするつもりだ!」

「言えるか、そんなこと!」

 兄妹で大きな声をだしあう。

 部屋の中を見ると、ねこと沙耶が真っ赤な顔になってうつむいていた。

「とにかく」

 雅親は心を落ち着けるべく、テーブルに向き直って、その場に正座しなおした。

「状況説明をしてくれ」


 雅親は四人分のお茶のペットボトルを買ってきて、それぞれに提供した。

 冷たいお茶の効果かわからないが、部屋の中は落ち着いた空気になっている。

「なるほど、浪川さんは魚の研究者になりたいと」

 だから菊乃は魚ずくしだったわけだ。

 恋人との共通の話題が欲しかったらしい。何事もやりすぎる妹だった。

 ウツボのピアスは、沙耶から菊乃への誕生日プレゼントとのことだ。

「はい。そのために四国の大学に行きたいんです」

「四国か。遠いな」

「で、わたしと喧嘩したの」

「待て。話が飛びすぎる。浪川さんが四国の大学に行くと、なんで菊乃と喧嘩になるんだ?」

 菊乃が、愛おしそうに沙耶を見た。

「だって、遠恋なんて寂しいし。沙耶に好きな人ができるかもしれないじゃん」

「できるわけないって言ってるでしょ。わたし、菊乃ちゃんだけだもん」

 また妙な空気になるようならば、すぐにストップをかけよう。

 そんなことを考えていると、横にいるねこが口を開いた。

「ふ、ふたりは付き合ってるってこと? ですか?」

 そう尋ねるねこの顔は、ずっと赤いままだ。

「うん、そう」

 菊乃があっさりと答える。

「お菊ちゃん、カレシがいるって言ってた気がするけど」

「カノジョって言うとややこしいかなって思ってさ」

 十分にややこしくなったが、まあ、それはいい。

「で?」という雅親に、菊乃が「で?」と返した。

「仲直りしたのか?」

 沙耶が不安そうな顔で菊乃を見る。

 菊乃は、ふっとニヒルな笑みを浮かべると、その場に立ち上がった。

 固くこぶしを握り、「わたし決めたんだ!」と力強く宣言する。

「わたしは東京の大学に進学する! そして学生のうちに起業する!」

 菊乃以外の三人は勢いに飲まれるように、座ったままで菊乃を見上げていた。

「ここ半年ぐらい、いろんな経営者の話を聞けたし、人脈もちょっとずつ作ってる。経営の勉強して、資金を貯めて、沙耶の夢を全力バックアップする!」

「菊乃ちゃん!」

 沙耶の目が潤んでいる。深く感動したようだ。

 菊乃は膝立ちになると沙耶の手を取り、「将来のお金の心配はしなくていいからね」と言った。

 また抱きしめあうふたり。

 熱いふたりをよそに雅親の心は、すん、と静まり返っていた。菊乃の発想力と行動力が桁違いすぎて、特に感慨もない。

 雅親は冷たいお茶を飲みつつ、我が妹ながら、恋人の人生まるごと買い取ってやるという気概はすごいな、とだけ思っていた。

「あ、そっか。人と会うために来てるって、そういうことか」

 起業のための人脈づくりだったようだ。

 菊乃が「そうだよ」とうなずく。

「でも今日に関しては、ねこっちとアニキに会いに来たんだけどね」

「わたしたち?」

 ねこが自分を指さす。

「ふたりとも頑張って夢を追ってるじゃん? 沙耶と喧嘩してヘコんでたし、ちょっと夢エネルギーを吸わせてもらいにさ」

 菊乃の言葉に、すこし違和感を覚えた。

 頑張って夢を追っている?

「アニキ」

「ん?」

「今日はこの部屋に沙耶と泊まるから、アニキは明日の昼までどっか行っといて」

「あっはっはっ。ことわる」

 時刻は二十時を過ぎていた。

 なにはともあれ、まずは目の前の問題を解決しよう。


 菊乃と沙耶は駅前のビジネスホテルに泊まることになった。

 ねこを送りがてら、四人で駅に向かって歩いていく。

「なんか、疲れたな」

「あははっ。お菊ちゃんにエネルギー吸われちゃったよね」

 前を歩く菊乃と沙耶を見る。

 ふたりは、とても幸せそうだ。

「夢なあ」

「ん?」

「おれは、ねこの夢に便乗させてもらってるんだなって気づいてさ。だから、ねこの方が吸われたんじゃないか?」

「うん。……そうかもね」

 ねこが足を止めた。

 なにかあったのかと雅親も足を止める。

「マサチカくん」

 ねこは、地面に視線を向けたままだ。

「わたし、マサチカくんを……」

 言いかけて口を閉じる。

 そして、小さく笑いながら「ゲーム実況。嫌になったら、いつでもやめていいからね」とだけ言いなおした。

 それに答えず、ねこの様子を見る。

「ん?」

 不安そうな表情。

 雅親が、ねこに誘われて仕方がなくゲーム実況をやっているのではないか、という心配だろうか。

 ねこがなにを言いかけたのかはわからなかったが、安心させるようなことを言ってあげたかった。

「ぜんぜん嫌じゃない。ねこと一緒に動画つくってるのは、すごく楽しいよ」

「そっか。ならよかった」

 ほっとした声。

 ふたりは、また歩きだした。

「おかげで、趣味アレルギーもだいぶコントロールできるようになったしな」

「あははっ。セルフ洗脳、上手になったよね」

「マインドセットな。このままいけば、趣味アレルギーも、そのうち消滅――」

 着信音が鳴った。

 ポケットからスマホを取り出す。その画面を見た瞬間、雅親の全身をアレルギー反応が襲った。

「マサチカくん?」

「うっ、ぇ」

 胃がうごめく。血の気が引く。

 立っていられず、道の上に両手両膝をついた。

 脂汗がポタポタとしたたり、道路の上に染みをつくった。

「お、お菊ちゃん!」

 悲鳴のようなねこの声が、どこか遠くに聞こえた。

 メッセージの内容はこうだ。

「卯之くん、久しぶり。いきなりごめんね。あした会えないかな?」

 送信者の名前は楠部檸檬。

 一年半前に雅親が告白し、雅親をふった人物だった。

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