第2話 いい人で、いい声だったから

 撮影から一週間が経過した。

 今日は遅番の日だ。

 朝飯でも買ってこようと近所のコンビニに向かう途中、「デイサービス さくらの花」と書かれた建物の前で座り込んでいる高齢男性を見かけた。

 壁に寄りかかり、地面にあぐらをかいて、ぼんやりと道ゆく人々を眺めている。

 気になる。

「老人ホーム? みたいだし、開くのを待ってるのかもしれないし」

 雅親は、そう自分に言い聞かせると、コンビニへの足取りを早めた。

 アルバイト生活なので、当然、お金が有り余っているわけではない。

 おにぎりをふたつ、せめてもの栄養としてサラダをひとつ購入して帰路に就く。

 腹いっぱいになることはないが、空腹でつらい思いをするというほどでもない、なんとも中庸な腹具合のまま、日々の生活が推移していっている。

「う」

 さっきの高齢男性が、さっきと同じ様子のまま、座り込んでいた。

「まだ時間じゃないのかもしれないし」

 また自分に言い聞かせながら通り過ぎる。

 アパートへの角を曲がろうとして足を止め、三秒ほど悩んだ末にくるりと向き直った。

 男性のもとまで戻り、コンビニ袋を持ったまま、話しかける。

「おはようございます。いい天気ですね」

「おお、そうだな」

 歳のせいか、声に張りはないが明瞭な返事があった。

「ここ、よく来るんですか?」

「デイサービスだからな」

「なるほど」

 デイサービスってなんだろうか。

 さておき、さぐりさぐりの会話をはじめてみたが、ゴールが見えない。

 どうしたものかと思っていると、背後から女性の声が聞こえた。

「おはようございます。今日は日曜日だから、ここのデイは、お休みじゃないかな」

 雅親が振り返ると、三十代後半ぐらいの女性が立っていた。

 茶色に染めた髪の毛を頭の後ろでまとめており、襟付きシャツにチノパンというラフな服装。髪色のせいか、快活そうな印象だ。

 女性は膝をまげてしゃがみこみ、男性と目の高さを合わせた。

「あれ? 今日、日曜か?」

「そうだよ。おじさん、どこ住んでるの?」

「そこの不動産屋の裏だ」

「近いね。送ってくよ」

「あ、あの」

 雅親の声に女性が振り向いた。

「俺も、ついて行っていいですか? なんというか。また、次があるかもしれないし」

 さっきのように、どうしていいかわからないという状態にはなりたくない。

 女性はじろじろと観察するように雅親を見てから、「いいよ」と言った。

「怪しい人じゃなさそうだし、お兄さんも一緒においで」

「はいっ」

 男性が住んでいるという家まで、三人でゆっくりと歩いていく。

「おじさん、なんの仕事してたの?」

「職人だ。左官やってた」

「ああ。あのシャーってやるやつ? あれ楽しそうだよね」

 ふたりの会話を聴きながら、後ろをついていく。

 家には五分ほどで到着した。

 古くて小さな一軒家。

 男性のひとり暮らしのようだが、だれかが来て手入れしているのか、玄関まわりの雑草はきれいに抜かれていた。

「じゃあね。脱水症状おこさないように、お茶のんでね」

「おう」

 手を振って男性と別れる。

 女性とふたりで来た道を戻っていると、「ありがとね」とお礼を言われた。

「いえ、こちらこそです。俺じゃ、どうしていいかわからなかったので。ありがとうございました」

 ふふ、と女性が微笑む。

「きみ、いいやつだね」

「どうも」と返しながら、最近、どこかでだれかに同じようなことを言われたような気がした。

「ふわあ」と女性が盛大な欠伸をする。「夜勤明けだから、さっさと帰って寝るわ」

「なんのお仕事されてるんですか?」

「介護士よ」

「看護師さん?」

「おしい。高齢者や障害者を介護する仕事ね。わたしは高齢者介護やってる。介護士には、いつかお世話になるから覚えとくといいわ」

「はあ」

 雅親の祖父母は、全員、雅親が子供の頃に亡くなっているので、いまひとつ、ぴんとこなかった。

 ポケットに入れているスマホから着信音が鳴る。取り出してディスプレイを確認すると、ねこからの電話だった。

 女性に「すいません」と断ってから電話に出る。

「おはよう、雅親くん」

「おはよう。どした?」

「編集終わったから、作ったものを確認してほしいんだけど、いまから、さくら公園これる?」

「了解。ちょうどいま外だから、このまま向かうよ」

 電話を切る。

 朝食は公園のベンチで食べることにした。

「俺、ここで失礼します」

「また、さっきのおじいちゃんに会ったらよろしく」

 ひらひらと手をふる女性に、軽く頭を下げる。

「はい。ありがとうございました」

 お礼を言って、女性と別れた。


 さくら公園のベンチに座って、おにぎりを食べる。

 フィルムをはがすときに、どうしても海苔の一部が持っていかれてしまう。世の中のひとたちは、うまくはずせているのだろうか。

 そんなことを考えながら梅干しおにぎりを食べていると、リュックサックを背負い、スーパーくまおかのビニール袋を持ったねこが現れた。

「あれ? おにぎり食べてる」

「なんでだ?」

「コロッケ。雅親くんにあげようと思って多めに買ってきちゃった。いる?」

「もらう。さんきゅ」

 正直、くまおかのコロッケは食べ飽きているのだが、せっかく買ってきてくれたので、ありがたくいただいておく。

「丸山さんに、いまなにやってるか聞かれまくっちゃったよ」

「あの人、配信に興味津々だもんな」

 適当な会話をしながら、ねこがノートパソコンを開き、電源ボタンを押した。

「編集して二十分ちょっとにしてみたよ」

「え? 二時間はやったのに?」

「あまりダラダラと垂れ流してもつまらないでしょ。ずっと喋ってたわけじゃないし。はい。確認してみて」

 そういうものか、と思いながらパソコンを受け取る。

 ねこが持ってきたリュックには、先日の撮影の時に使った機器も入っていた。

 中から「マサチカ用」というテープが貼られたイヤホンを取り出してもらい、耳に装着してから動画ファイルを再生した。

「ぐ、おぇぇ」

「マサチカくん!?」

 とつぜん、えずく雅親にねこが驚く。

「うぅ、すまん。マインドセットを忘れてた」

 ゲーム画面を見た途端、趣味アレルギーが発動してしまった。

「これはビジネス、これはビジネス」と、先日と同じように唱える雅親の横で、「本当に趣味アレルギーなんだね」と、ねこが不憫がってくれた。

 あらためて動画のチェックを開始する。

 ねこはその間、落ち着きなくコロッケをかじっていた。やはり、自分が作ったものを見られるというのは、落ち着かないものなのだろうか。

 二十分とすこしの再生が終わり、ねこちゃん博士の「まったねー」の声で動画はフェードアウトしていった。

 イヤホンをはずす。

「どうだった?」

「自分の声を聞くのって、なんか恥ずかしいな」

「わかる。編集しながら鳥肌たっちゃったもん」

「うん。でも」

 雅親は正直な感想を口にした。

「面白い、気がする」

「だよね! 面白い気がするよね!」

 ねこの目が輝いた。

「一発目の動画としては上出来じゃない? これで投稿してもいいかな?」

「いいと思う」

「おっけー。じゃあ、夜までにサムネとか作っとくね。あと、今日は遅番だよね? いまから続きの撮影しちゃわない?」

「え? でも」

 スマホを取り出し、いまの時刻を確認する。

「クリアするほどの時間はないから、半端にならないか?」

「そんなの、次に撮影する分と編集してつなげばいいでしょ」

「なるほど」

 編集とは便利なものだ。

「じゃあ、やるか」

「おう!」

 ふたりは食べ終わったおにぎりのごみや、ノートパソコンをまとめると、カラオケ店を目指して歩き始めた。


 カレーのにおいで目が覚めた。

 まくらの横の時計を確認すると、十八時をすこし過ぎたところだ。

 ベッドから抜け出し、パジャマ姿のままで台所に行く。

「おはよ。いいにおい」

 ねこが鍋をかき混ぜながら「おはよう」と返してくれる。

「もう、ごはん炊けるよ。お風呂洗ってきちゃうね」

「ありがと」

 里美は台所のテーブルにつくと、炊飯器の音を聞きながら、ぼんやりと台所の中を眺めた。

 カレーはもう完成したらしく、鍋の火は消えている。テーブルには皿が並べられて、あとは炊きたてご飯とカレーを盛り付けるばかりになっていた。

 ねこが学校にいかないと宣言したときはどうしようかと思ったが、こうして料理なんかをしてくれるし、これはこれで悪くないかもしれない。レパートリーの問題でカレーになることは多いが、十分に助かっている。

 ピコン、と通知音が聞こえた。

 自分のスマホかと思ったが、ベッド脇に置いたままだ。ねこのスマホに着信があったらしい。

 見るともなく見ると、画面にメッセージが表示されていた。

「休憩中。あらためて、さっき見せてもらったやつはよかったと思う。今度、俺にもやり方を教えてくれ」

 送信者は「マサチカくん」となっている。

 一瞬でいろんなことを考える。

 なにを見せたって? マサチカくんってだれ? あきらかに男だ。娘を信頼すべきだろうか。あまり口を出すべきじゃないのでは。なにを教えるんだろう。見せたってなに!

「いや。いやいやいや」

 ここは冷静になって娘の話を聞こう。

 息を吸って、静かに吐き出す。

 よし。

「ねこ! こっち来なさい!」

「え? なに怒ってんの?」

 冷静になれなかった。


 もう少しで閉店時間だ。

 結局、アルバイトの時間ぎりぎりまでねばって撮影し、エンディングを見るところまでいってしまった。

 それはよかったのだが、朝のコンビニめしからなにも食べていないので、空腹がかなりつらくなっている。

 レジカウンターの中で夕飯はどうしようかと考えていると、速足に、ひとりの女性が入店してきた。

「いらっしゃいま」

 そのあとに続いてもうひとり、小柄な人物が入ってくる。

「ねこ?」

 ねこは慌てたような様子で、先に入ってきた女性に追いすがった。

「さとさん! さとさん、落ち着いて!」

 女性は野菜売り場にいた別のアルバイトをつかまえると、「マサチカっていう人いますか?」と尋ねた。

「おれ?」

 アルバイトと、ねこの視線がこっちを向く。

 ねこは、ものすごく気まずそうな表情だ。

 目指すべき人物を特定した女性は、ツカツカと足音を立てながらレジに向かってきた。

「あなたがまさち……あれ?」

「あ」

 今朝、デイサービスの前であった人だ。

 女性は毒気を抜かれたような表情を浮かべると、「あなたがマサチカくん? そう」と言った。

 すこし考えてから言葉を続ける。

「バイト終わったら、ちょっと時間ちょうだい」

「はい」

 なんとなく、この女性がだれで、自分がどういう立場になったのかが推測できた。


 スーパーくまおかから、ねこが住んでいるマンションまでは徒歩で五分ほどだった。

 そのマンションのリビングに置かれているソファに座って、雅親は小さくなっていた。

 隣では、ねこも同じように小さくなっている。

「で、うちの娘とどういう関係?」

 向かいにはねこの母親、羽黒里美が腕組みをしながら座っている。

「一緒にゲーム動画を作っています」

「ゲーム動画? なんで?」

「ねこ……さんに誘われまして」

 どうしても、ねこに責任を押し付けているような言い方になってしまうが、へんにウソをつくよりもいいだろう。雅親から誘った、となるとニュアンスがまったく変わってしまう。

 里美の視線がねこに向く。

「やりたいことってこのこと? あんた、実況動画とか好きだったっけ?」

「え? うん。じつはそうだったんだ」

 ねこは「あははっ」と笑ってみせるが、里美はじっと娘を見たまま、視線を逸らさない。

 娘の方が根負けして視線を逸らした。

「ねこ。正直に言わないと、一週間ふてくされるからね」

 地味に嫌な攻撃だな。

 そう思ったが、声にも表情にも出さないだけの分別はある。

 ねこは、なにかを覚悟したのか、もしくは諦めたのか、ゆっくりと口を開いた。

「じつは……リョウタくんがゲーム実況やってたんだ」

「はあ? そんなの知らないわよ」

 リョウタくんってだれだろうか。

 雅親を置いてけぼりにして、母娘の会話が続く。

「ネットでつながってる人にも教えてあげた方がいいんじゃないかって思ってさ。パソコン開いたらSNSのアカウント見つけて」

「わたしたちに隠れてやってたってこと?」

 ねこが、こくりとうなずく。

 里美は難しい表情を浮かべると、人差し指をこめかみに当てた。

「まあ、浮気してたってわけじゃないならいいわ。それで? どうして、ねこもやってみようって思ったの?」

「それは、楽しそうだし、お金も稼げそうだなって思って」

「中学生にお金の心配をされたくないわね」

「う、ごめん。その……ダメかな?」

 里美は、今度は雅親に視線を向けた。

 緊張で身体が強張ってしまう。

「雅親くんはどうなの? ねこに付き合わされて、迷惑になってない?」

「ええと」

「迷惑じゃ、ないよね?」

 ねこからの、すがりつくような問いかけ。

 こんなに殊勝な様子のねこを初めて見た。

「迷惑じゃない。むしろ、俺が迷惑をかけてないか不安なぐらいだ」

 その言葉で、ねこは、ほっとした表情を浮かべた。

 ふたりの様子を見ていた里美が、「いいわ」と口にする。

「ただし、もしねこになにかしたら、この世で一番つらい目にあってもらうからね」

「絶対にそんなことはいたしません」

「よし」

 里美は、太ももをポンと手のひらで叩いてから立ち上がった。

「じゃあ、カレー食べていきなさい。お酒のめる? ちょっとつきあって」

「はい」

 ねこの母親にすこしでも信用してもらえるのならば、酒ぐらい、いくらでも飲もうと思った。


 ねこは、台所で食べ終わった食器類の洗い物をしている。

 リビングでは、雅親と里美がソファに座って酒を飲んでいた。

 ふたりともハイボールで、つまみはナッツの詰め合わせだ。

「嫌いじゃない感じね」

「はい。飲むのは好きです」

 経済的な事情で、いつも晩酌している、とはいかないが、たまに部屋で飲んでいる。

 羽黒家の部屋は、アパート住まいの雅親の感覚としては広く感じた。

 台所とリビング、バス、トレイに、ねこの部屋と里美の部屋だろうか。

 リビングにはソファとテレビ、小さい本棚や家庭用ゲーム機などが置かれ、ふたりの生活を感じさせる。

 雅親は、部屋の隅に小さな仏壇が設置されていることに気づいていた。

 仏壇には、男の人が映った遺影が置かれている。

「気になるよね」と聞く里美に、正直に「はい」と答える。

「良太くんはわたしの夫。ねこの父親。三月に亡くなったのよ」

「さ……そんなに最近……」

 いまは四月の中旬なので、つい先月のことだ。

 仏壇を見たときから、ねこの父親は亡くなったのだろうと察していたが、まさかそんなに近々の出来事だとは思わなかった。

「交通事故でね。コンビニに行く途中で、前方不注意の車に轢かれたの」

「そう、ですか」

 台所の方に目をやるが、リビングとの間のドアに阻まれてねこの姿は見えない。食器を洗う音だけが聞こえてきた。

 初めてねこと会った日。

 雅親に声をかけられて振り向いたとき、ねこが涙を流したことを思い出した。

 あのとき、もしかしたら父親のことを考えていたのかもしれない。

「ねこは、中学校があまり合わなかったみたい。毎日つらそうな顔してて……さらに父親が死んで、どうなっちゃうんだろうと心配したけど」

 里美の表情が、すこし和らいだ。

「ここ最近は、また前みたいな明るさに戻ってる。きみのおかげかもね」

「俺の?」

「一緒にゲーム実況やってくれてるんでしょ? なんで、そんなこと始めたのかわからないけど、なにかに没頭するのは、たぶん悪いことじゃないと思う。でも」

 里美はハイボールの缶を、ぐっとあおった。

 空になった缶をテーブルに置くと、じろりと雅親を睨みつける。

「しつこく念押しするけど、あの子になにかしたら、のたうち回ってもらうからね」

「しませんて」

「よしよし。さ、そろそろお開きにしようか」

 気がつけば、雅親が持っている缶の中身も空になっていた。

 ほどよく酔いを感じながらソファから立ち上がろうとすると、ノートパソコンを持ったねこがリビングに入ってきた。

「帰るの待った! せっかくだから、動画のアップを一緒にやろうよ」

「あ、そっか」

 里美に詰められているうちに、動画投稿のことをすっかり忘れていた。

 ねこが雅親の横に座り、ノートパソコンを開く。

「サムネは昼に作っといた」

 そう言いながら、画像ファイルを開いて見せてくれる。

 ゲームのシーンに「ねこちゃん博士と助手くん。吸血鬼を喰らいつくす!#1」というテキストを重ねたものだ。

「おお、なんとなくそれっぽい」

「サムネって、こねくりまわしているうちに、だんだん正解がわからなくなっていくんだよね」

「へえ」

 いつか自分でも作ってみよう。

 ねこが、どんどんと操作を進めていく。

「投稿者ページを開いて、動画ファイルを選択して、サムネファイルを選択して」

 子供向けかどうか、残酷なシーンがあるかどうかなどを設定していく。ちなみに今回のゲームでは、残酷シーンは「ある」だ。

 出てくる画面に必要情報を入力しているうちに、ついに「投稿」ボタンが現れた。

「いくよ!」

「おう!」

 ねこが、カチッとマウスをクリックする。

「はい、投稿完了。これで、わたしたちが作った動画が地球上に公開されたよ」

「実感わかないけど、なんかすごい気がする。これ、どうやって見てもらうんだ?」

「サイト内検索がほとんどみたい。そのうち、大手の検索サービスにも登録されると思うけど」

「検索すると俺たちの動画がヒットするのか」

「そのうちね、そのうち。だれかに見てもらえたら、ここの視聴回数っていうのが増えるはず」

「へえ」

 ふたりで、じっと視聴回数のところを凝視する。

 ぷしゅっと、里美が次の缶を開ける音が聞こえた。

 ひと口のんでから、ねこに問いかける。

「これって、すぐに反応あるものなの?」

「ないと思う」

「じゃあ、お開きにしなさい。雅親くんを下まで送ってあげて」

 里美のそのひと言で解散となった。


 ねこと一緒にマンションの下までおりていく。

 マンションの自転車置き場で、ふたりは足を止めた。

「やっと一本できたね。次の素材もあるし、明日から編集はじめるよ。どんどんいこう」

「それなんだけど、俺にも編集を教えてほしい。役割分担できた方がいいだろ?」

「お。向上精神だね。いいね」

 そう言ってから、ねこは身震いした。

 四月の夜は、まだまだ気温が低い。あまり長話もよくないだろう。

 さよならを言う前に、ねこに聞いておきたいことがあった。

「ねこは、どうして俺に声をかけたんだ?」

「んー? 言ったじゃん。マサチカくんがいい人で、いい声だったからだよ。じゃあね! おやすみ!」

 一方的にそれだけ告げると、ねこは手を振りながら階段を駆け上がっていった。

 なにかをはぐらかされたような気がする。

 さっきまでねこが立っていた場所に「おやすみ」と言ってから、雅親は自分のアパートに向けて歩き始めた。

 歩きながら、里美に言われた「きみのおかげかもね」という言葉を思い出す。

 自分がねこの助けになっているのだとしたら、とても嬉しい。

 ねこ本人がどう思っているかはわからないが、雅親もねこに助けてもらったのだから。

「いや、ねこだけじゃないか」

 雅親は足を止めると、ねこと里美が住んでいるマンションを振り返った。


 空になった缶をテーブルの端によせ、次の缶を開ける。

 つまみはだいぶ前になくなってしまったが、台所に立つのも面倒なので、里美は酒だけで飲み進めていた。

「おやすみ。あまり飲みすぎないでよね」

「はいはい。おやすみ」

 パジャマに着替えたねこが、小言を言ってから自室に去っていく。

 ねこが見知らぬ男に会っていると知ったときはどうしようかと思ったが、雅親は思った以上にちゃんとした青年だった。

 もちろん、男であることには違いないので、親としては十分に注意しないといけないが、ねこにいい影響を与えてくれているようなので、活動を見守ろうという気になっていた。

 ピコンと通知音がした。

 見ると、ソファの上にねこのスマホが置きっぱなしになっている。

 ディスプレイには、こう表示されていた。

「おやすみなさい。ふたりとも」

「ふふっ。ねこをよろしくね」

 すこし、暖かい気持ちになった。

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