楽園の夕焼け
尾八原ジュージ
楽園の夕焼け
地上に堕ちてからもう百年か二百年が経った。今はスミコさんの家に間借りしながら、お店を手伝っている。
スミコさんのお店は、クリーニングの取次をしている。家のカウンターで受け取った服たちは、毎朝八時に到着するクリーニング店のワゴン車に乗せられ、一晩か二晩を経てまたこの店に戻ってくる。わたしはカウンターの内側で日がな一日お客さんの相手をし、服を受け取って伝票を渡す。または伝票を受け取って服を返す。近所に大きな団地があるから、お客さんの数はなかなか多い。スミコさんは、店番をしているわたしの後ろで、背中を丸めて編み物をしたり、野菜の皮をむいたり、その他いろんなことをしている。
「このお店、配達はやらないの?」
ある日、セツコさんにそう訊かれた。スミコさんと幼馴染の、小さなおばあさんだ。「この年になると、家から出るのも一苦労なのよ。膝が痛くって」
「すみません。車を運転できる人がいないものですから」
そう答えると、セツコさんは首をかしげて、「あなた、立派な羽根持ってるのにねぇ」と不思議そうに言った。
確かにわたしの背中からは大きな羽根が生えているけれど、堕天のときに先の方を切られてしまったから、もう飛ぶことができない。そのことは何度も説明したことがあり、セツコさんはそのたびに「まぁ~お気の毒ねぇ」と言うのだけど、しばらくすると忘れてしまう。
「羽根の先を切られちゃったから、もう飛べないんですよ」
「まぁ~お気の毒ねぇ」
セツコさんはわたしに飴玉をくれる。口に入れると、あんこの味がする。
お店には、単にわたしを見にくる人もいる。「綺麗なお姉さん」と言う人もいれば「綺麗なお兄さん」と言う人もいて、わたしはどちらでも構わない。わたしが嫌がらないので、お店が混んでいるときを除けば、スミコさんはそういう人たちを追い返したりはしない。
水曜の昼は、ツブラヤさんがやってくる。
ツブラヤさんは美大生だ。今は卒業制作の準備をしているのだそうで、わたしの姿をぜひキャンバスの中に残したいという。スミコさんも心得たもので、ツブラヤさんがやってきたときには、お店の隅に小さな椅子を置いて、使っても良いよという。
水曜の昼は、比較的お客さんが少ない。スミコさんが点けた通販番組の音声をBGMに、ツブラヤさんは鉛筆を動かす。わたしはいつもどおりカウンターの中で、黙ってまっすぐ座っているだけだ。
「だめだなぁ」
一時間ほど経つと、ツブラヤさんはそう言って鉛筆を止める。スケッチブックの中には、何枚もの羽根が生えた大きな一つ目が描かれている。
「どうしてもこうなってしまうんだ」
わたしが何か言う前に、ツブラヤさんはスケッチブックを閉じてしまう。
「まだ僕の筆が、あなたの姿を写す段階にないのだと思います。精進します」
ツブラヤさんはわたしとスミコさんに一礼し、戸口に向けて踵を返す。
カラカラ、パタン。店の引き戸が閉まり、ツブラヤさんの姿は見えなくなる。通販番組の音だけが店内に響くようになる。
「あんた、あたしが死んだあとはどうするの? この店、継ぐかい?」
お客さんの切れたタイミングで、スミコさんがわたしに尋ねる。
今夏、スミコさんは少し重い風邪を引いた。それからというもの、自らの死について前より頻繁に考えるようになったらしい。「三途の川が見えたわよ」とスミコさんは言ったけれど、わたしは三途の川というものを見たことがない。でも、どこかにはあるのだろうと思う。
スミコさんの質問に、わたしは首を振る。
「いえ、どこかよその土地へ行こうと思います」
「よその土地ねぇ」
天の国へ戻ったりはしないの、とは訊かれない。以前「もう戻れないと思うから、いっそ戻らないつもりでいる」と答えたとき、わたしは我知らず、とても嫌そうな顔をしたらしい。
スミコさんはテレビに向き直る。彼女は通販番組が好きだ。何を買うわけでもないのに延々眺めている。今なら洗剤もお付けしてこのお値段、お電話はお早目に。ただいまオペレーターを増員して対応しております。
「スミコさんは、スミコさんが死んだあとはどうされるんですか?」
今度はわたしが尋ねる。スミコさんはゆっくりとわたしを振り向く。「わかんないわぁ。あたしが死んだあとのことでしょ」
「そうですか」
そうだったか。わからないのか。わたしは人間やほかの生き物にとって死がどういうものなのか、やはり把握しきれていないようだ。
「もしもあんたが天の国に戻るんなら」
めずらしく、スミコさんがそんなことを言う。わたしは、わたしが嫌そうな顔をしていないかどうか、気がかりになる。さいわい、スミコさんの視線はテレビ画面に向いているから、わたしがどんな顔をしていても、きっと傷つくことはないだろう。
「あんたが天の国に戻るんなら、あたし、死んだあとに会いにいくけど」
「戻れるかなぁ。難しいですよ」
スミコさんはそのとき、ぱっと振り返ってわたしを見た。顎の高さで切りそろえられた白髪が、遅れて顔の動きを追いかけた。
油断していたから、わたしは慌てた。自分がどんな顔をしたか定かでないけれど、スミコさんはわたしを見て、なにか苦いものでも食べたような顔をしていた。
「ああ、今日もダメだぁ。なんでかこれになってしまうんだよなぁ」
水曜の午後、ツブラヤさんはスケッチブックを眺めてため息をつく。
「よく描けてますよ」
わたしはスケッチブックを閉じられる前に、急いで声をかける。そこには相変わらず、羽根の生えた大きな一つ目が描かれている。
「いやいや、天使さんと全然違うじゃないですか」
「でもわたし、堕天する前はこんな感じでした」
そう言うと、ツブラヤさんはぽかんとしてわたしを見る。
「そうだったんですか?」
「そうですよ。だからツブラヤさんは、とても目がいいんだなと思いました」
絵描きの目を褒めたら喜ぶだろうと思った。実際、ツブラヤさんは照れて笑った。でもすぐにその笑顔がすっと引っ込んで、「あなたのようなひとが一体、何をして地上に落とされたのでしょうか」と、憂鬱さのある声色で呟いた。今度はわたしが固まる番だった。
「あっ、すみません!」
ツブラヤさんはすぐ我に返った。「その、急に、不躾なことを。本当にすみません」
「いえ、いいんです」
わたしは慌てて言った。「あまり面白い話ではありませんから」
スミコさんにも、以前、似たようなことを訊かれた。
わたしがこの店で雇われてから、しばらく経った昼下がりのことだった。六月のなんとなく薄暗い日で、雨がじとじと降っていた。
「あんた、何で堕ちてきたの。悪いことでもしたの?」
「そうですね、悪いことをたくさんしました」
どんな悪いことをしたのか、スミコさんは訊かなかった。代わりに「どうして?」と尋ねた。
「堕天したくて。わたし、地上から夕焼けを見たかったので」
わたしはそう答えた。本心だった。「上からじゃ、よく見えないので」
「本当に?」
スミコさんは驚いたようだった。小さな目をまん丸に見開いて、わたしの顔をまじまじと眺めた。でも最後には嘘をついていないと判断してくれたらしい。顔をそらすと、ふうぅとため息をついた。
「堕天なんかしなくても、時々地上に見にくるとかって、できなかったの?」
「やっぱり地面に足をついてってことになると、堕ちてくるしか」
「そうなの」
スミコさんはわたしの顔をじっと見つめた。そして、「で、どうよ? 地上の夕焼けは」と尋ねた。
わたしは答えた。「大好きです」
セツコさんが亡くなった。秋の終わりのことだった。
スミコさんはすっかり意気消沈してしまった。ずいぶん悩んでいるなと思ったら、突然お店を閉めると言い始めた。
「神奈川に住んでる息子夫婦が、そろそろこっちに来て隠居しちゃどうだって言うのよ。近所にちょうど貸家があるっていうから、そこに住めば同居よりも気が楽だし」
「いいんじゃないでしょうか」
「あんた、どこへ行くの」
「わたしはどこへでも」
スミコさんにわたしの心配をしてほしくなかったから、笑ってみた。スミコさんは笑わなかった。
「あんたも神奈川、くる?」
「いえ、わたしは一人の方が」
実際、定命の人間とずっと一緒にいるのは辛い。いつかは必ず死別しなければならない。わたしは一か所に住んで十年もすると、人間関係を一旦ぜんぶ更地にしたくなる。
セツコさんの訃報を聞いたその日は、夕焼けが見られなかった。
次の日も、次の日もだめだった。
その次の日は、見られた。赤い空、昼と夜との境目、紫からオレンジ色へのグラデーション。胸が苦しくなるような色彩を、わたしはカウンターの内側から一心不乱に眺めた。
スミコさんが、店の入り口を開けっぱなしにしてくれた。冬の匂いのする風が、のんびりと室内に入り込んできた。
お店のカウンターに「閉店のお知らせ」が貼り出された。
惜しむ人は多い。特に惜しんでくれたのは、ツブラヤさんだった。
「もっとあなたを描いていたかったです」
肩を落とすツブラヤさんに、わたしは「閉店までまだあと二週間ありますよ」と教えた。ツブラヤさんは少しだけ笑ってから、突然「大好きです」と言った。
「その、あなたのことが」
ツブラヤさんの耳は真っ赤になっていた。わたしは黙ってほほ笑んだ。何度か訪れたこういう告白の場面をどうやってやり過ごすか、ほかに手段を知らなかった。
その夜、お店を閉めてから、スミコさんと散歩に出かけた。人気のない公園で、ひさしぶりに羽根を広げてみた。羽ばたくと、夜の冷たい空気を含んで、ばさり、ばさりと音をたてた。
「飛べないの。それは」
ベンチに腰かけたスミコさんが、わたしに声をかけてきた。
「飛べませんねぇ」
「もったいないね」
「でも、雨宿りとかできますよ」
わたしはスミコさんの正面に立つと、羽根でわたしたちの頭上を覆った。
「ほんとだ」
スミコさんはそう言って、それから突然、しくしくと泣き始めた。
わたしはスミコさんが泣き止むまで、ずっと雨宿りの姿勢のまま、そこに立っていた。
楽園の夕焼け 尾八原ジュージ @zi-yon
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