僕、のバックボーンには、こんなエピソードがあったんですね……。
叔母さんのチカラが、もし、僕に備わっていたとしたら、と考えてしまうのは野暮になってしまうのかもしれません……が。
作者からの返信
西之園上実さま、こんばんは!
第4話の時に地の文でさらっと「家族はいないけどね」と書いたこともあり、『僕』にまつわるヒトとの縁のようなものや、耳の精度の高さに絡む背景を紹介しておきたいなと思いまして。
伯母のように察しのいい人が身近にいると話すことに対してサボりがちになって、コミュニケーションの取り方が逆に下手になりそうなものですが、『僕』はそうなっていないのは、亡くなった家族とたくさんやりとりをして会話をした体験や記憶が積み重なっているからだと思っていただけたら……!
伯母さん、生きづらそうですね。
人と接していたいのに、察しが良過ぎることで独りを選んだ。
そんな伯母さんに、主人公くんの存在は大きな支えだったのではないでしょうか。
そして、主人公くんにとっての伯母さんも。
カクヨムに公開しているもも様の作品を、初期から読ませていただいているわけですが。
いつのころからか、いや徐々にか、文章の表現が何かを突破していっているような……。
正反対の気持ちが身体の中で嫌な速度で混ざり合い、びちゃびちゃと浸しては溢れかえる。誰とも交わらない僕の周りを見えない箱が囲い、口からこぼれ出たいろんな感情に息が乱れて溺れそうになる。
↑
今回でいえば、こことか。
これが上達と成長というものですか。
置いていかないでとは言いません。
そのままの速度で走り続けてくださいませ。
私も、負けません!
作者からの返信
成野淳司さま、こんにちは!
コメントお寄せくださり、いつもありがとうございます!
昔通っていた大学受験の日本史の先生が「西郷隆盛は1聞いたら10を知る人だった」と話していて、だからこそ明治維新で武士の誇りを取り上げられ、不平不満がたまっていた士族たちのことを見捨てることが出来ず、それが西南戦争繋がったんだと。分かってしまう人というのはツラいなぁと思ったのですが、今の時代も察しが良過ぎる人は変わらずしんどいのではないかなぁと……。
『僕』の存在が伯母にとって良いものであったならいいなぁと思って、このエピソードを書いておりました。
表現の部分に関してお褒めの言葉(で合ってますよね?)をいただき、あわあわしております(汗)。
自分の中で絵として感情をイメージするのですが、そのイメージしたものを出来るだけ言葉として素直におろすよう意識してまして。その時に感じた質感さることながら、「苦しい」ということに対してそれがどういう苦しさで、どうして苦しいと感じるのかを深掘りするようになりましたね……。
昔は疑似体験するような感覚で書きながらこっちもしんどくなっていたのですが、今はキャラクターとしてダイブするようになったので、感情がごっちゃになることはなくなって良かったなぁと思っています。
成野さまの文章はエッセイと物語とでテイストの使い分けがきっちりなされているので、今連載されている『人生の思い出』とかは素な言葉遣いが読んでいて目が馴染みます!
また楽しいエピソードを楽しみにしております!