第五章 「神様が、もしいるのなら」


 アカリは電話をやったその日に極楽浄土に現れた。


 久しぶりに見た彼女の目に、かつて母親だった人と同じ陰を見た。ぎらついたまなざし、どこか獣じみた獰猛な目つきは、精神を追いつめられた者特有の、理性を失いかけた危うさがよく表れていた。


 アカリは、表面上は大人しく装っていた。受付を済ませ、階段を上って二階へ上がる。指定した部屋にはすでに白が一人で待機している。


 部屋のドアがノックされる音。


「アカリさん? どうぞ」


 白は柔らかく、客の名前を口に出した。なるべく相手を刺激しないために。


 ドアが開かれた。ゆっくりと。


 アカリの鬼気迫った顔色。

 血走った目からは、今にも血涙があふれ出てきそうだ。しばらく見ない間にひどく痩せてしまった。肉感的だった色っぽい肉体は、痛々しいまでに削ぎ落とされている。


「アカリさん」


 白は彼女に呼びかけた。不安定に揺れる瞳がキラリとまばゆく光る。その一瞬だけ、正気だった頃の彼女が重なる。

 アカリは無言で笑みを浮かべた。


「久しぶり、白」


 本日発した一言目。何でもないように挨拶をした後、アカリは一歩ずつこちらに近づいてきた。


「どうして私を避けていたの?」


 アカリの口調には白を責めるような声色は感じられず、純粋な疑問を口にした趣だけがあった。


「ごめんね。スケジュールが立て込んでたんだ」


 白は申し訳なく謝った。嘘偽りなく、心からの謝罪だった。


 アカリは何も言わなくなった。代わりに少しずつ白に歩を進めていく。

 そっと、アカリは白に手を伸ばした。ベッドに腰かけている白の両頬を包むように撫で、感触を確かめるように触れた。


「白は肌の感じが硬くなった」

「はは、老けたかな?」

「ううん、男の肌になったの。大人の肌」


 白はアカリの指に自らの手を重ねる。「俺も会えなくて寂しかった」と常套句をささやき、潤んだ瞳でアカリを見上げる。アカリの痩せこけた頬が目に痛かったが、いちばん美しい女のように熱い視線を注ぐ。


「アカリさん。俺、アカリさんが好きだよ」


 血走った目が少しだけ柔らかな色を見せる。


「嘘つかないで」

「本当だよ。俺はいつでも、お客さんたちを、お金じゃなくて血の通った一人の女性だと思ってる。だから誠意のある対応をしたい。それが俺の仕事の義務だと思うから」


 頭を撫でつける手指がふいに地肌に食い込み、髪の毛を掴まれる。


「誠意のある対応? どんな風に接してくれるのかしら」


 アカリは泣きそうに顔を歪めた。今にも倒れそうな血色の悪い顔色で、白を掴む手の力も震えている。


 こうすることはずいぶん前から決めていた。選んだのは自分自身だ。


 白はアカリの手を握り、甲に口づけた。


「俺を、好きにして。どんなことでもしていいよ。俺は、そのためにいるから」




 窓の外の光は徐々に暗くなっている。今、何時だろうと、ふと思った。長時間この部屋から出ていないのは確かだが、時計を見れないせいで時間の感覚がなくなっていた。両手首に食い込む縄は白の自由を奪い、血の痕を刻み込む。何度打たれたかわからない顔と背中には無数の傷が出来上がっていた。


「綺麗だね」


 アカリはささやくように笑い、もう一度鞭で白を打った。切り裂くような痛みが襲い、白は呻く。アカリは楽しそうに白の反応を見て、なお笑う。


「白は傷ついている方が綺麗」


 髪を掴まれて上を向かされる。アカリは悦に入った表情を見せ、傷だらけの白がかわいくてならないというように力を込めた。


「わかってるよ。最後にしたいんでしょう?」


 白はこくりとうなずいた。

 瞬間、頬を張られた。その痛みはとても懐かしい暴力だった。唇に血がにじんで鉄の味が染みた。


「私もここで終わらせたい。白とはもう別れたい。だから最後にとびっきり嫌な思い出をあげる」


 アカリは白を引き倒し、床に押さえつけた。

 うつぶせに倒れた白の上に馬乗りになり、アカリは耳元で怨念をぶつけるようにささやき始めた。


「子どもが生まれないのは私のせいじゃない。不妊だなんだと決めつけて、自分の精子が死んでるなんて可能性は少しも考えない。私に責任はないわ。全部、全部、あんたのせいよ」


 ああ、混同している。


 白は虚ろになっていく意識の中、アカリをひたすらに憐れんでいた。


 好きな男の区別もできないくらいに、この人は疲れ果てていたのか。自分も夫も、この人にとっては同じ男で、同じほどの害悪でしかなく、憎むと同様に抗いきれないのだ。

 この人も、母も、世界に対して抵抗できなかった。


「無能。無能な生き物。女がいないと子孫を残すこともできないくせに、女よりえらいと思ってる」


 アカリは心底楽しそうな声で白をなじった。彼女と初めて出会った時から今に至るまで、最もはずんだ声だった。きっと今、彼女は生まれて初めて生きていて楽しいと感じているに違いない。


 背中に走る痛み。

 鞭が再び下ろされる気配がした。


「この世でいちばん馬鹿にされているのはあんたたちの方よ。力が強いとか、トップに立ってるとか言ってるけど、その足下で私たちは常にあんたたちをわらっているから。見下しているから。これほど愚かな生き物はいないって、みんな思ってるわ。あんたたちが精子ぶちまけてる相手は、いつでも心の中であんたたちを犯してるわ。奈落の底に突き落としてやるわ。男に生まれたことを後悔するくらい、ひどい記憶を植えつけてやるわ」


 アカリが話す間、白は襲い続ける鞭打ちにひたすら耐えていた。くぐもった声を出すたびにアカリは嬉しそうに白の背中を触り、爪を立て、苦しく呻くと小鳥のようにクスクス笑った。まるでここが楽園であるかのように、アカリは白をなぶった。「白が好きよ」とつぶやきながら、アカリは気のすむまで自分の鬱憤を晴らし続けた。


 意識が朦朧とする頃、アカリが飽きた気配がした。道具を床に転がし、白から興味を失ったように無言でドアを開け、部屋を立ち去る。


「性奴隷」


 去り際、アカリは吐き捨てた。


 せせら笑うように白を見下げ、「もう来ないから」と捨て台詞を残し、ドアを乱暴に閉めた。


 残されたのは、しんとした静寂。


 白はふいに眠くなり、目を閉じようとした。

 再びドアが開かれる音がし、彼女が戻ってきたのだろうかと視線をやった白の目に、作業着姿が映り込んだ。


「白、くん」


 園子が蒼白な顔で立ち尽くしていた。


「白くん」


 園子の目から一筋の涙が伝い、床に落ちた。


 園子は白に駆け寄り、傷で埋め尽くされた背中に恐る恐る、触れた。


 どうすればいいのかわからないというように、園子は泣く。小さな少女が迷子になって助けを求めるような、そんな錯覚を覚えた。


「アカリさんを、許してあげて」


 白が弱々しくつぶやいた言葉を、園子は首を振って拒む。


「で、できません。許せません」


 園子はしゃくり上げながら、アカリへの怒りを示した。珍しいな、初めて見たな、園子さんが怒ってるの、と白は新鮮な気持ちで目の前の作業着を見上げる。掃除用アルコールの匂いと園子の身体の匂いが混じった、生活の匂いがした。自分にはそのような匂いがなかった。あるのは高い香水と、今立ち込めている血の匂いだけだった。


 自分にないもの。園子にあるもの。


 羨ましかったのかもしれない。


 絶望も希望もなく、ただ淡々と一日を生きていく園子の、堅実な人生を、本当はずっと欲していたのだ。


 白は目を閉じた。

 ひどい眠気を感じていた。


「俺が、この仕事を始めたのは」


 途切れ途切れに白は話し出した。園子に打ち明けたい気分になっていた。

 園子は黙って聞いている。


「母親への、罪滅ぼし」


 しんとした部屋に、園子のすすり泣く声だけが響いている。


「俺が捨てたから」


 白は淡々と告げた。過去を話す気になっている自分に、白自身驚いていた。


「今どこで何してるかわからない、家族に、もう会う気はないけど、せめてもの謝罪のつもりで、アカリさんのストレス発散を受けてた」


 それから、白は身の上話を園子に語り始めた。


 園子が縄をほどいてくれ、自由になった腕で洋服を着る。頬にできた打ち身の痕を隠すように手をかざし、ゆっくりと立ち上がる。身体が悲鳴を上げたが、無理して動かす。園子がさりげなく支えてくれた。白は「ありがとう」と笑いかけようとし、無理に引きつった頬に熱いものが流れた。涙が伝ったのだとわかるまでに多少の時間がかかった。


 窓の外から、冷えた外気が壁を伝って二人の肌を撫でた。



   〇



 誰にぶつけたらいいのかわからない問いを、ずっと抱えて生きてきた気がする。


 中学を卒業し、行く当てもなく、優は一日の大半を外出して過ごした。目的もなしに街をさまよう。誰も優に気づかず、素通りしていく。すれ違う人々は赤の他人でしかなく、自分の人生に夢中で、行きかう誰かの孤独を知る由もない。


 胸の内に迫りくる衝動を、何と呼んだらいいのかわからない。怒りなのか、慟哭なのか、悲嘆なのか。何かを叫びたいのか、それとも抑え込みたいのか。


 こんな国、というフレーズが頭に浮かんだ。こんな国で生きていて、何になるというのだろう。生きていて特に楽しいことがあったか。幸せだと思えた時があっただろうか。この国から逃げようにも、外国語をしゃべれるような能力もなければ、学べる金もない。生活のすべてには金が要る。自分には手段さえないのだ。


 こんな国で生きていて何になるのだろう。

 生きることに意味などあるのだろうか。


 死ぬことが許されないのは、単に国としての都合が悪いからだろうに、生きろというのは実に勝手な話だ。

 どこかへ行ってしまいたい。


 この国から逃げたい。

 こんな国、消えてなくなってしまえ。


 誰か俺を遠い世界へ連れ去ってください。

 誰にも聞かれない願いを抱え、優は、東京の繁華街をふらふらさまよう日々を送っていた。




 その看板に目を向けたのは、偶然でも必然でもなかった。

 優は最初から、その店を目指してこの街に来た。


 ホストクラブ『HONEY,』と書かれた看板のそばに、地下へと続く階段。


 ホームページで高校生から働けると明記されてあった。優は迷わず階段を下る。自分自身の人生など、たかが知れているのだ。生きていくのが人間の義務ならば、せめてどう生きようが個々人の自由ではないか。


 優はここでの待遇に期待めいたものは持っていなかった。とにかく賃金がもらえればいい。門前払いされなければいい。支えなどいらない。そんなものはとうの昔になくなったのだ。


 扉は手動で開けるタイプだった。押すと、一昔前の鈴音のような、場に似つかわしくない音が響いた。

 中は営業前で、静かだった。ホストと思うような男はおらず、スタッフとオーナーらしき人物がばらばらにたむろしていた。


 みんなの目が一斉にこちらを向く。

 優は視線をはねのけ、オーナーと思しきガタイのいい男に近づいた。


「メールを送った、万城目優です」

「ああ、君が」


 男はやはりオーナーだった。すぐに別の部屋に案内され、そこで簡単な説明を受ける。


「ずいぶん若いね。未成年?」

「はい」

「さすがに義務教育は終えてるよね?」

「終わってます」

「なら、よかった。書類によると、まだ十六の誕生日が来てないみたいだけど、その間はホストとして迎え入れることができないから、しばらくは下働きとして扱うよ。いいかな。皿洗いとか、床掃除、トイレ掃除とかの、用務員みたいな仕事ね」

「わかりました」


 その他の説明事項にも、優は淡々と答えていった。いくつかの契約書にサインをし、さっそく本日から業務を行う段取りとなった。


 優の指導係に、いくらか年上の、線の細い痩身の男がついた。まだ年若く、それほど年齢は離れていないように見える。彼は明るい茶髪に、両耳に開けたピアスを光らせ、優に当店でのノウハウを教えていった。


「十九歳」


 男は少し得意げに言った。


「九条湊っていうの。お前は、万城目優ね。まきめじゃなくて、まんじょうめって読むのか。わりと珍しいよな」


 九条は、優がオーナーの前で自己紹介をしたことを覚えていた。人の顔と名前を忘れないタイプだろうか。何となく好感を覚え、優は九条には少しずつ懐き始めていった。


 二人は、時間をともに過ごすうち仲良くなった。九条が二十歳の誕生日を迎えると、優はささやかなプレゼントを渡した。「お前、いいやつじゃん!」と屈託なく笑う彼の笑顔は、案外かわいらしかった。優が十六になった日には、九条は少々値が張るアクセサリーをくれた。「お前のルックスに映えると思うよ」との言葉通り、そのネックレスは優の一日の気持ちを高めてくれた。彼は物選びのセンスがいいのだ。


 六月五日。万城目優は『HONEY,』にてホストデビューした。


 その年は早めの梅雨入りが発表された。柔らかく降る雨が空気を濡らして、繁華街にもいつもより落ち着いたムードが満ちていた。


 先輩の九条に引っ張ってもらいながら、優は客を得る手段を覚えていった。



   〇



 月日が経ち、業界にも染まってきた頃、その女はやってきた。


 第一印象は、ビジネススーツを着たキャリアウーマン的な雰囲気の女性。ただ、目つきが他の女性客と違っていた。切れ長の目は妖しく光り、見た者をどこか委縮させるような圧を伴い、それでいて目が離せないような蠱惑的なまなざしを持っていた。彼女はとても妙だった。正体不明の、得体のしれない女。


 彼女はカオルと名乗った。当店では客もホストも名前はすべてカタカナ表記で、優はユウと記されており、九条はミナトと呼ばれている。そのルールでみんなは楽しい時を過ごす。


 カオルは優を指名し、そのうち常連客になった。


 客とホストとしてのトークを存分に楽しみながら、優は彼女の正体を頭の中で妄想していた。カオルは三十代の見た目をしているが、実は某国のスパイで、とある刺客の情報収集のために当店に出没。または反社会勢力の一員であり、男を買うためホストクラブをはしごするのが趣味。そのような他愛ない想像をこっそり優がしていた時、カオルはふっと笑った。


「カオルさん、どうしたの?」


 優はめざとく見つけてカオルを誘惑する。


 二人の目が合う。

 優は知らずと高揚した気分になる。


 酒は入れてない。素面でこんな酔ったような感覚に陥るのは今までなかった。カオルは何者なのだろう。

 中学時代に付き合った恋人のことを、ふいに思い出した。彼女を見るたび、どことなく甘い酒に溺れるような気持ちのいい眩暈を覚えたものだが、その時の快感に似ていた。


 目の前のカオルはクスクス笑う。


「カオルさん?」


 優は不思議な気持ちで視線を合わせる。


「かわいいな、と思って」


 カオルは構える風もなく、ごく自然に言った。


「ありがとう」と、優は返す。にっこり笑うと、カオルも微笑み返した。


 グラスの氷がカランと揺れた。音楽も人の話し声もうるさく響く店内で、二人だけが互いの瞳しか映していなかった。


 何だろう、彼女は。

 優は抗いがたい興奮を静かに覚えていた。


「俺、カオルさんに気に入られたいな」


 優は彼女に一歩踏み込んだ。何となく、危険な賭けに出てみたくなったのだ。


「この後、抜けられるけど、どうする?」


 優はスッと流し目を送る。


「それは私にさらなる金銭を期待してのこと?」


 カオルは読めない表情で口元の笑みを深くする。


「それもあるけど、でも、それだけじゃないよ。俺、カオルさんに惹かれてるもの」


 優はうっとりと、カオルを見つめた。熱の入ったまなざし。瞳に潤みをためて、一途に相手を視界に収める。


「年下の坊やも悪くないわね」


 カオルは席を立った。了承の合図だろう。

 優はカオルをお持ち帰りした。




 梅雨明けの発表がされた日の夜は、気温がいくぶん下がったものの、肌に張りつくような湿気のうっとうしさに街を行く人々は若干だるそうに歩を進めていた。


 傘を差し、勢いの強い雨の中、優とカオルは歩いていく。優は店のビニール傘、彼女はグレーの花柄の折り畳み傘。雨が滴る水音が二人の間を無言にしていく。


「俺の家、もうすぐだから」

「ん」

「こうも雨がすごいとね。話す気なくすよね」

「梅雨は、私は好きよ」


 カオルは店の時とは違う雰囲気の声色を出した。


「雨が降ると、いろいろなものを、休んでいいのかなって思うの」

「休む?」

「ええ」


 カオルの表情は傘に隠れてよく見えないが、あどけないようにも感じた。梅雨が好きなのは、きっと本当だろう。彼女は、あからさまな嘘はつかないように思える。


「ギラギラに晴れた夏より、こういう雨の季節が好き」

「そうなんだ」


 二人はそれきり黙って、歩き続けた。その沈黙は、まったく怖くなかった。居心地のいい、無機質な時間が流れていた。カオルは人を静かにさせるのも得意なようだ。


 優の家に向かう時間は、実際十分程度だった。とても長い間、二人きりで土砂降りの雨の中を寄り添って歩いてきたかに思えたが、アパートはほどなく姿を現し、優はカオルを迎え入れた。


「ごめんね、狭いけど」

「いいわ」


 二人分のタオルを貸し、濡れた部分を拭いて、ワンルームの部屋、再び向かい合う。


「……どうする? もう、ベッド行っちゃう?」


 優はいたずらっぽくカオルに問いかける。


 カオルは優の手を取り、自らの頬に当てた。しっとりとした頬。女の頬。

 柔らかい。甘い。温かい。


「あなたには才能がある」


 ふいに彼女から放たれた言葉に、優は一瞬、虚を突かれた。


「……え?」


 カオルはまっすぐに優を見据えた。


「たぐいまれな才能が」


 もう一度、カオルは伝えた。

 優はわけがわからず硬直してしまう。


「……何言ってるの、カオルさん。俺がそんなすごい人間なわけないじゃん」


 いっそ嘲笑するように、優は吐き捨てた。


 自分の人間性なら嫌というほどわかっている。同情されるほど貧しくて、ひもじくて、けれど憐れまれるのが大嫌いで、プライドのために人を切れる男だ。この先、ずっと生きていたとしても同じ。自分はその程度の人生しか送れないのだ。

 わかっている。世の中の理なら、とっくの昔に。


「そんなににらまないで」


 カオルは悲しげに眉を下げ、笑んだ。優はとっさに目をそらす。

 部屋の中に、しんとした空気が下りる。


「私は、あなたを引き抜きたいの」


 思ってもみなかった内容に、優は息をのんだ。はっと顔を上げると、カオルは確信に満ちたまなざしをこちらに向けている。


「私には、夢があってね」

「……夢?」

「ええ」


 夢、という単語を、久しぶりに聞いた気がする。優が見たくても見れない夢。優には思い描く術さえない、あまりにも遠い夢。


「……どんな夢なの」


 優は尋ねた。

 カオルは真剣に、かつ不敵な笑みを浮かべて答えた。


「いつか、自分の風俗店を開業すること」


 風俗という単語を、カオルの口から聞くとは思わなかった。けれどどこかで、カオルにこれ以上ないほど似合う単語だとも感じた。カオルはなおも読めない表情で微笑む。


「私の親はホストクラブを経営していて、本来だったら跡を継ぐのは一人娘の私なのだけれど、親の店ではなくて、私が一から立ち上げたいお店があるの」

「……お店?」

「そう」


 窓がカタンと揺れた。風が強く吹き始めているのだろう。雨粒がガラスを叩いている。先ほどまでの男女の色事のような空気ではなくなったが、目の前の女のたわごとを、もっと聞いていたくて、優はじっとしていた。


「女性向けの、性風俗サービス店」


 ソープ嬢の男性版を作りたいということだろうか。いまいち店の趣旨を掴められない優に、カオルは説明した。


「レンタル彼氏とか、キス友だちとか、セフレ、いろいろあるでしょ。あれをもっとおもしろくしたいのよね」


 カオルは機嫌よさそうにつぶやく。


「女性を喜ばせるお店。ホストクラブよりも、もっと楽しい思い出をくれる場所よ。すでにそういう仕事を始めている男たちがいるけれど、個人営業のところがほとんど。私は会社として経営したい。男のための性のはけ口がこれほどあふれているのだから、女のための性を解放する場所があってもいいと思わない? 私は、ずっとそう思ってきた。そのために私はいるのだと」


 目の前の女は自信にあふれている。自分自身の人生を、自分のものにしている。誰にも己を捧げていないし、歯向かう相手がいれば屈服させそうな気配さえみなぎらせていた。誰にも邪魔はさせないと、語っていた。


 優は身動きできなかった。

 目を離せなかった。


「私は、あなたをスカウトしに来た。あなたがほしい。逸材だから」


 求められている。

 確かな快感が、よぎった。


 熱い衝動。静かに押し迫る、言葉にできない感情。

 カオルは優の頬を撫でた。


「今は人脈づくりよ。あなたは若すぎるから、もう少しあそこで女性客のための接待を学んで、経験を積んで、年齢を重ねて。色男になったら、迎えに来るわ」


 目を見開く。

 自分でも驚くほど動揺した。


 迎え。


 それはいつだ。迎えなんて、あるのか。自分に未来など。

 優はカオルの腕を掴む。


「今じゃ、駄目なの」


 乞うように、優は食い下がった。


「今、俺をさらってほしい」


 カオルは首を振る。


「時が来るまで待って」

「待てないよ」


 優は泣きそうになった。この人も俺から離れていくのだ。結局、誰もそばにいてはくれないのだ。


「地獄で待たさないで」


 心は疲れていた。安らぎがほしいと思い、果てには暖かな場所で永遠に眠っていたいという願望があった。とにかくここにいたくない。ここではないどこかをずっと夢見ている。


 しかしカオルは一笑した。


「――地獄? おかしな子ね。地獄なんてものはないわ」

「……は?」


 とたん、優の中に不満が湧き起こる。彼女も最終的には偽善的な言葉をつぶやき、こちらを懐柔しようとするのか。

 そんな疑いを見抜くかのように、カオルは続けた。


「あそこは、死んだ人間が行く場所だもの。生きてる人間は天国にも地獄にも行けないわ。そして、ここは地獄じゃない。天国でもない。ただの、日本という国。それだけの話」


 リアリストのような思想にも見えたが、彼女の放つ一言一言には不思議な重みがあり、拒絶できない熱さを感じた。彼女の目が強かった。優は文句も言えず、ただ見とれる。


「自分をかわいそうだと思わない限りは、ずっと幸せなのよ。不幸だと、地獄だと、そう思うのは人生に不利だわ。どんな状況でも、生きていればいい。食べて、寝て、洋服着て歩いていれば、それだけで幸せなの。人間って、本来は原始的だから」


 カオルは優の脇をすり抜け、玄関口へ向かった。帰ろうとしているのだ。


 振り向き、引き留めようとした優を、カオルは圧で黙らせた。

 一瞬の後に、見たことがないほど優しい表情を見せる。


「約束する。あなたが成人になったら、私は迎えに来る。だからあなたも約束して。地獄も天国も考えずに、一日を生きて。時間は過ぎるわ。過ぎたものは過去になり、過去はそのうち美化される。美化された思い出はとてつもなく甘い食べ物よ。大人の楽しみを味わうまでは、生きなさい」


 雨はいつの間にか小降りになっていたらしく、窓の外の音は一切聞こえない。しんとした静寂の中、二人は何も言わずに互いを見つめていた。


 心の中には、不思議な安心感と、切ない期待が半分ずつ溶け合っていた。


 ひたすらに静かな空気。


 優はうなずいた。

 カオルも微笑み、「お邪魔したわ」と玄関のドアを開けて外へ出ていった。



   〇




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