第六章 「闇をみつめる」


 風がかなり寒くなってきたと、白は感じた。季節の変わり目に入るたび、白は、あとどれくらい生きられるだろうと思う。まだ人生の半分にも来ていないと言われても、本当に今の年齢の倍を生きられるのか、誰にも保証はできない。明日はもう来ないかもしれない。確証がないまま自分たちは生きていくのだ。いつの時代でも、きっと。


「寒いねー」


 隣で佇む園子に、白は笑いかけた。園子は唇の端を歪に曲げ、それが笑顔を作ろうとした努力からだと多少間があって白は気づいた。


「晩秋ってやつだね。そろそろコートが必要かな」


 園子は無言で何度もうなずく。


 園子といる時は、香とは違う種類の安心を白は感じていた。彼女はしゃべるのが極端に苦手だから会話らしい会話はできないが、それをしたくない時もある。そういう時、彼女の存在は大きい。白が「ここにいるだけ」を許してくれる。


「園子さんはさ」


 話しかけられた彼女は、はっと白の方を見上げる。目が合うと、重い前髪に隠れた瞳がのぞいた。


「どういう学生時代を過ごしたの?」


 園子の目は悲しそうに曇る。幸せな日々ではなかったのだろうと、容姿から想像はつくが、白はあえて過去を探ってみたくなった。


「……孤独、で。一人ぼっちで」


 そうだろうな、と察しがついた白に、園子は続ける。


「でも、それは全部、私のせいで」

「……どうして?」


 不思議に思い、尋ねると、園子はますます情けない表情になった。


「みんな、優しかったから」


 園子の声は落ち着いていた。みじめな過去だっただろうけれど、それを懐かしむように訥々と語り始める。


「いじめ、とか、嫌がらせとか、もしされていたら、被害者になれていたのかな。本当に、周りはいい子たち、ばかりで。そういうの、まったく、なくて。ただ、私の扱いに、困ってただけで。私は、無視もされず、優しくしてもらって、そこから先に、進めなかった。友だちという領域に、踏み込むことが、できなかったんです」


 園子はふっと自嘲するように息を吐いた。


「だから、誰のせいでもない、私の、責任です」


 なおも自分を否定しようとする彼女に、白は言葉を被せる。


「園子さんは、すごく真面目で、生きること自体に真面目過ぎるんだよ」


 園子は時が止まったように固まった。瞳がこれ以上ないほど見開かれている。


「もう少し、自分を許してみようよ」


 白は笑いかけ、小さな子どもをあやすように諭した。

 何となくそういう気分になっていた。

 同士のような、妹のような、姉のような、近しい者に感じる情愛。


「みんな、生きるうちに少しずつクズになっていって、でも人として最低限の部分は良くしたくて、何とかかっこつけて、ギリギリ踏ん張って生きてる。そんな程度の努力でじゅうぶんなんじゃないかなあ。

 園子さんは、普通の人にはできないレベルの努力をしちゃっているから、本当はすごく偉い人だよね。俺には真似できない。

 だから園子さんも、クズになれるところはなってみな。ゆっくりでいいからさ」


 園子はぐっと声を詰まらせ、泣きそうな顔になった。

 安心したのかと思いきや、彼女の口から意外な台詞が漏れる。


「とっくに、クズです。私」

「……どうして?」


 胸が痛む気がした。なぜか彼女が自分自身を責めると、どうしようもない切なさを覚える。何とかしてあげたくなってしまう。


「私、本当は」


 園子はとうとう泣き出し、一言ずつ紡ぎ出すように語り始めた。


「まっとうな仕事を、して、まっとうな、暮らしをしろと、言われ続けて。自分でも、それを、疑わなかった。本当は、差別を、していたんです。私の、中に、差別意識、が、あったんです。あの人と、お、同じ、でした。白くんを、どこかで、差別、してました」


 そうか、と白は納得する。

 彼女はずっと後ろめたさを感じてくれていたのだ。


「あの人と、まったく、同じ、です。ご、ごめんなさい」

「あはは、そんなこといいのに」


 本心だった。差別には慣れているし、今さら痛む心もない。それに、それを悪だと自省する人には今まで出会ったことがなかった。


「気にしないで。大丈夫だよ」


 貴重な人だと、白は思った。心から園子という人間性を理解したいと願い始めていた。


「びっくりするよね、俺たちの仕事」


 園子は懸命に首を振る。


「い、生きているのは、みんな同じなのに」


 なおも頭を下げる園子に、白は手のひらをポンと優しく置いた。


「ありがとう。園子さんは、優しい人だ」


 冷たい風が吹いた。凍えるような冷気が一瞬、二人の肌を刺す。同じタイミングで身体を震わせた白と園子は、どちらからともなく顔を見合わせた。


 寒いねと声をかけようとした白に、園子が先に口を開く。


「あかり、です」


 彼女は絞り出すように、はっきりと告げた。


「私の、本名は、影山明かげやま あかりといいます」


 大きな声だった。彼女なりに最も声を張り上げたつもりなのだろう。世間から量ればそれほどの声量ではなかったが、白にとってはじゅうぶんだった。


 影山明。

 初めて、ほんの少し近づけた気がした。


「ありがとうね。明さん」


 白は名前を呼んだ。

 穏やかに、包むように、感謝を述べるように。


 出会った時から今までの間で、白はその日、最も優しく明の身体を抱きしめた。

 明がおずおずと白の背中に腕を回してくれる。


 確かな愛情を感じた。


 自分は香が好きだ。これからも、香のために働き、香のために生き、香のための白でいるだろう。それでも今、目の前の明を愛おしく感じている。明の人生を心から応援している。幸せになってほしい。胸の奥が温かくなっていくような、途方もない感情だった。


 しばらくの間、二人は抱きしめ合っていた。

 どちらからともなく、身体を離す。


 白は明に微笑んだ。慈愛と、尊敬の意思を込めて。

 明は不器用に唇の端を引き上げた。微笑んでいるつもりなのだろう。彼女らしくて、白は明をまぶしく感じた。


 影山明は、生きることに懸命だ。


 白は明の頬を取った。びくりとする彼女を落ち着かせるように、優しく指先で撫でる。


 これは、感謝のキスだ。

 今までと、そしてこれからの関係性においての。


 白は、明の額にそっと唇を落とした。


 目の前の顔が真っ赤に染まるのを見て、こそばゆい気持ちがした。大人になっても少女のような反応を見せる明がかわいくて、いじらしいと思った。


「幸せになってね」


 白は告げた。

 明は再び泣きそうな表情になるが、ぐっとこらえるように口を噛み、強くうなずいた。決意の表れだ。白はもう一度微笑んだ。


「ありがとう、ございます」


 私に優しくしてくれて。

 明はぽつりとつぶやく。消え入りそうな声でも、これまでの彼女の中で、最も確かな感謝の意だった。白はきちんとわかっていた。


「うん」


 短い返事だけをして、白は明から離れた。二人は先ほどと同じように肩を並べて立つ。


 視界の向こうに、走る人影が見えた。


 こんな暗い時間に全速力で走る者がいた。それはみるみるうちにこちらに向かってスピードを上げて近づいてきた。スカートが翻って足が見えている。女だ。長い髪の女。狂ったように二人に走り寄ってくる。


 アカリ。


 鬼のような形相をしたアカリが、両手にハイヒールの靴を抱えたまま、裸足で駆けつけてきている。


「ア、アカリさん!?」


 白は思わず素っ頓狂な声を上げた。明も絶句して固まっている。

 二人の間にはもはや目と鼻の先ほどの距離しかない。


「ちょ、ちょっと待って、アカリさん!」


 白が何か言うより先に、真っ赤なハイヒールの靴が二足、すさまじい勢いでこちらに飛んできた。

 目にも止まらぬ速さで靴が迫ってくる。


 ドゴッ、と音が響き、二人の身体にヒールが命中した。


 脳に直接響くようなダイレクトな痛みとともに、白と明は声を上げて悶絶した。激痛は次第にじんじん響くような鈍痛に変わり、視界が暗転するような目のくらみが襲ってきた。

 うずくまって痛みに呻く二人の耳に、聞こえる絶叫。


「ざまあああああああああ!!」


 アカリの金切り声が夜空に響き渡り、そのまま彼女は火がついたように泣き出した。そして今度は雄叫びのような笑い声を上げ、地面を転げ回って空気を引き裂くように笑い続けた。


 騒ぎを聞きつけた通行人が、後に野次馬と化す。極楽浄土の前は騒然とし始め、あちらこちらから人々の注目が彼らに集中した。



   〇



 アカリは傷害罪で逮捕された。


 白の身体の傷は入院ほどにはならなかったものの、完全に癒えるまでには時間がかかった。


 極楽浄土は一時期騒がれたが、メディアには「風俗店」とのみ取り上げられ、詳細の説明を省いたままアカリの罪状のみがくり返し報道された。


「香さん、やるなあ」


 自分たちの店が一部ぼかされ画面に映ったところでテレビの電源を切り、白は療養中の期間を気楽に過ごす。

 電話が鳴る。スマホを取って確かめると、九条からだった。


「もしもし」


 耳の向こうから、さも楽しげな声が聞こえてくる。


「むしり取れるだけむしり取れたか?」


 九条は自分が引っかけた相手を時々白にも采配するのだ。その恩恵にあずかれている白は、まだまだ彼に頭が上がらない。


「また、逃がしちゃった」


 ぽつりと言った。

 通話口から深いため息が聞こえる。


「……正気の沙汰?」

「うん。多分」


 へへ、と笑い声を漏らし、白は続けた。


「ごめんな、九条」

「それはいいけど、あの人は史上最高級のカモだと思ったけどなあ」

「正直、今まででいちばんの出来だった。でも、かわいそうだったから」


 一瞬間を置き、九条が発言した。


「お前はかわいそうな人が好きなんだよ」

「……そうだね」


 孤独は手ごわい。知らないうちに自分の内部を侵食し、精神を犯してくる。孤独の怖さならじゅうぶん知っていた。彼女には――アカリにさえも――これ以上の搾取はできないと自分自身が告げていた。


「それで、これからどうすんの?」

「今まで通りだよ。極楽浄土のキャストであり続ける。どっちみち、俺は変われないんだ」


 アカリを挑発したのは他でもない自分だ。正常な判断を下せなくなっていたアカリに、別れを言って逆上させたのは、店を守るためでもあったし、香の足を引っ張らないためでもあった。


 同じくらい、アカリの現状改善を願っているのも、決して嘘ではなかった。

 壊れていく人を、ずっと見続けてきた。


「俺は――俺たちは、この仕事を辞められないし、一生変わることはできない。だからせめて、その世界で一生懸命に生きる。導いてくれた人のための俺であり続けるよ」


 九条はふっと笑った。吐息が通話口越しに聞こえる。


「お前は、いい意味でずっと、お前のままだと思うよ。初めて会った時の、投げやりな目をした、でも甘え上手な、マイペースでお人好しの精神が残った、心優しい万城目優くんですよ」


 今度は白が笑う番だった。


「ありがとう」


 礼を言った。彼も彼のままで、ずっと変わらず、外れ者の仕事をして生きていくのだろう。その一生を、この仕事を、誇ることも卑下することもなく、ただ受け止め過ごしていく。


「怪我、お大事にー」と言い残し、九条は電話を切った。白も通話をオフにし、スマホをソファーに置く。


 蛍光灯がジジ、と点滅した。窓の外はすでに夜の帳を下ろし始めていて、冬が近いのだと実感する。

 極楽浄土がすでに恋しくなっていた。




 怪我から復帰し、店に戻る頃には騒ぎは完全に鎮静化し、客の足もいつにも増して健在だった。


 極楽浄土は、密かな知名度を獲得したようだった。今までと比べて、一見さんが多くなっていた。たいていの客は蘭堂に夢中になるが、白のような中性的な美貌の男を求めるファンも根強く、白も順調に新規の客を獲得していった。


 季節は進み、冬になった。

「クリスマスデートがしたい」と早くから約束を取りつけた女性客と並んで街を歩いていた白は、前を行く人々の中に、見知った背中を見つけた。


 相変わらず猫背で、うつむきがちに歩いている彼女。


 懐かしいと感じた。

 彼女も変われないのだ。望むと望まないとに関わらず、自分が自分であることをさらけ出して生きている。取り繕えない生身の人間の存在を感じた。


 彼女のそばに、数人の女性たちがいるのに気がついた。職場の同僚だろうか。

 話しかけられた彼女は、ふいと横を向く。


 白は目を見開いた。


 彼女が、笑っていた。

 ほんの少しだけ、微笑みに近いほどの静かな表情だったが、確かに笑顔を見せている。


 唐突に、脳内に光が走ったような気がした。


『優は、天使みたいな子だね』とささやいた、母の言葉がフラッシュバックした。


 母も、本当は彼女のような性格だったのではないか。


 知らずに過ごしていたかつての日々が、白の脳裏に浮かび始める。優しく頭を撫でてくれた母の手つき。頬を殴った時の、憎しみすべてをぶつけるような力強さ。


 父と、どうやって出会い、結婚するに至ったのか、母はいったい心の奥で何を思い、考えていたのか、欠片も興味を持てなかった親の過去が、白の中に巡る。


 お母さん、と、長い間口にできなかった親を、呼びたくなった。


 もう、どこで生きているのかも知らないけれど。

 つながりさえ持てなくなったけれど。


 何もかも許したくなった。

 母は、か弱い人だったから。


 白は少しだけ目を閉じた。

 一呼吸おいて、再び目を開き、世界を見つめる。


 女性たちのグループは歩く速度を上げ、白たちから遠ざかっていった。夜の大通りを楽しそうに、軽快な足取りで。


 白は彼女を見送った。

 懐かしいと、再び思う。


 心の中には、穏やかな感情の波が流れていた。


 白は隣の客の手を握り、自らのジャケットのポケットに一緒に入れた。恋人つなぎをされた女性客は嬉しそうにはにかむ。


 東京の空におあつらえ向きの雪は降らない。空は澄み渡った夜空で、ビルの隙間から星々がチカチカ光っている。都会の空気でも見える強さの星が、白は好きだ。輝かしい人工ネオンの光と溶け合うように、街行く人の何もかもを照らしているように感じる。


 自分は意外とロマンチストだから、これぐらいは夢想しても罰は当たらないだろう。


 白はふっと笑った。「どうしたの?」と愛おしそうに尋ねる女性客にぴたりと身を添わせて、幸せだと思った。


 はたから見たら外れているだろう。まともじゃないと、誰かは軽蔑するだろう。しかしそれでいいとも思う。白が今この瞬間を幸福と捉えているならば、誰に後ろ指をさされても、白は幸福な人間なのだ。


(だから、もう、いいんだ)


 白は、姿が見えなくなったあの日の彼女に、再びのさようならを告げた。


 またどこかで会うのか、二度と関わり合うことはないのか、白には判断もつかないけれど、あなたが幸福でありますようにと。


 女性客と寄り添い合うように、白はクリスマスのイルミネーションを眺めながら、ゆっくりと歩き続けた。


 夜が、更けていく。



   〇





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