第四章 「他人の領域」
お前は愚図らないし、あれ買ってってねだることもないし、わがままは言わないし、本当にできた子で、ママは嬉しい。
母が笑うと優も嬉しかった。機嫌がいいと頭も撫でてくれた。夜、母が仕事でいない時、一人で寝ている時は母の手の感触を思い出しながら目を閉じた。
目を閉じるのは、優のよくやっていた癖だ。
その場の空気が悪くなった瞬間、悲しい事件を目にした合間、優はよく目を閉じていた。視界を遮断して瞼の裏に隠してしまえば、心に迫ってくるショックをいくらか和らげる効果があると知ったからだ。
目を開ければ、世界はいつも騒がしい。
誰かに怒られた時、いわれのない悪意をぶつけられた時、優は怒りよりも先に、恐怖と悲しみを感じて心をスッと閉ざしてしまう。その後は、反撃の一言も返さず、ただ相手が落ち着くまでニコニコ、ヘラヘラ笑っている。優の中に激しい気持ちは一切ない。あるのはただ、茫漠とした虚しさと、人生は思い通りにいかないという悟りのような心境だけだった。
優は、一人で生きる子どもだ。
誰と一緒にいても、何を見ていても、優に安らぎはない。優はそのように生まれ、育ってきた子どもだったから。
何かあったら、目を閉じること。世界は暗闇に包まれ、一人きりの優しい無の時間が広がる。
その日も優は一人で目を閉じていた。
両親が何度目かの喧嘩をしていた。お金がない、なぜこんなに貧乏なんだ、世界は不平等なんだと、互いにぶつけ合うような口論だった。壁一枚挟んだ寝室で、今日も父と母が一緒に寝てくれることはないなと思っていた。親子三人川の字で寝ていた日が、もういつだったか思い出せない。
優は小学校に進学していた。ボロボロの服、履き古した靴で毎日登校する優を、周りの子は笑ったけれど、優はそれがつらかったわけではなく、気丈に学校へ通っていた。馬鹿にされるのは慣れていたし、悔しくて泣くのも何かが違う。それに親からもらったものを笑うような子とは、仲良くしなくてもいいのだと知っていたのだ。
だから、優にとって学校生活はつらいものではなく、子どもの義務として勉強をするための、ただの教育機関だった。
寝室に母が入ってきた。父は今頃ソファーで横になっているのだろう。
母は隣のベッドにもぐり、優の頭をそっと撫でた。
優は寝たふりをした。母の泣きはらしたであろう目を見るのがつらかったからだ。
「お前は天使だね」
母の声はかすれていた。
「愚図らないし、ママの味方をしてくれるし、本当に嬉しい。ママ、お前のこと大好きよ」
母の手はしばらく優の頭をさわり、頬にすべり、労わるようにそっと触れてから離れた。
その後は、母は寝返り一つ打たず眠り始めた。
優に友だちができたのは、一学期が終わる七月の初めのことだった。
うだるように暑い、湿気に満ちた夏の入り。
飲み物代を浮かせたくて、水分補給は水道の蛇口から出る水のみでしのいでいた日々。さすがにこたえて、帰り道、優はふらついた。その場にしゃがみ込んで、身体が持ち直すのをひたすら待つ。顔からは汗が吹き出て、目に入ってしみた。
「どうしたの?」
自分よりいくらか高い声が、後ろからした。振り向くと、半ズボンを履いた見慣れない顔が、こちらを見下ろしていた。
「具合悪いの? だいじょうぶ?」
その子はまだ舌足らずな口調で、優を案じていた。優が何も言えずにいると、男の子はランドセルを地面に置き、中から細い水筒を取り出した。
「まだ中身入ってるの。全部飲んでいいよ」
優は戸惑った。この子は誰だろう。
男の子は
恐る恐る、口に含んでみる。味は麦茶だった。家庭でよく作られる味だったに違いないが、優にとってはこの先一生忘れられないような美味に感じられた。
「おいしい」
思わず、顔をほころばせる。
すると相手もふわりと笑った。
「お母さんの麦茶は世界一なんだよ」
その表情が誇りに満ちたいい笑顔で、優は何となく好感を抱いた。
二人はしばらく笑い合った。
月が替わる頃には、二人は互いを名前で呼び合うようになった。楓は違うクラスの子で、「うちの教室においでよ」と優を誘ってくれた。
優が顔をのぞかせると、楓はいつも快く出迎えてくれた。クラスの雰囲気もよく、ここのみんなは仲がいいんだなあと優はこっそりうらやましく思った。
しばらく、自分の教室には戻らずに楓のところで休み時間を過ごした。次第に友だちもここでできるようになり、優は、きっと自分はクラス編成の時に外れくじを引いたのだと納得するようになった。
季節が変わり、二学期の始まりに、楓は優を呼び出した。
楓の周りには友達の他に、よく話す間柄の女子たちも固まっていて、彼らのそばの机にはたくさんの文房具や生活品などが並べられていた。
楓たちは、優を見ると慈愛のこもったまなざしを向ける。
「私たちでね、優くんを助ける会を作ったの」
一人の女子が誇らしげに胸を張った。
「武田くんが提案したんだよ」
「みんなでいらなくなったものを集めてたんだ。全部あげるよ」
机の上に散乱された、優には手が出なかった人気のキャラクターのノート。誰かのお下がりの給食袋。
「お母さんが言ってた。優くんみたいなかわいそうな人を、助けてあげなさいって」
楓は、微笑んでいた。使命感に燃えているようにも、よい行いをした満足感にも似た表情だと思った。
「ありがとう」
優はそれだけ伝え、みんなからの贈り物を頂戴した。その日はみんなで家に帰った。一人、二人と別れ、最後に楓と手を振って別れた後、
「もう二度と同情しなくていいよ」
優はつぶやき、自宅アパートのゴミ収集所に彼らの寄付を丸ごと捨てた。
〇
中学に入り、楓とは進路が分かれた。彼は都内の私立学校に進学し、優は地元の公立校に進んだ。
中学二年の終わり、優は生まれて初めて、女子生徒から告白された。
恋がどういうものかは、優にはよくわからない。ただ、目の前の彼女が、あまりに懸命に、切実な瞳で、自分を熱く見つめていたのが、不思議と心をじわりと疼かせた。こんな感覚は今まで知らなかった。
優は、その場の押しに負け、彼女と交際を始めた。
女子の手の温もり、握った時の指先の細さ、肩幅も腰つきも胸のふくらみも、男の自分とはかけ離れた柔らかな甘みだった。彼女を見るたび、優の中の何かが音を立てて軋むようだった。その痛みを快感だとも感じた。欲情している事実を知るには、優の意識はまだ幼かった。
ある朝、優は担任教師に呼び出されて職員室へ向かった。
普段の行いは優等生的で、問題になるような生活態度ではなかったはずだが、と疑問に思っていると、優は担任から奨学金制度を薦められた。
高校に上がれるかどうかはかなり厳しい状況だと、優は担任に報告していた。家計は火の車同然の状態で、優は前から中学を卒業したら就職すると告げていたのだ。
担任は、教育を受けるのは子どもの権利だからと、優の成績を立ててくれた。迷ったが、担任の言葉を信じ、奨学金を申し込むことにした。
家に帰り、母に伝えた。優が中学に入る頃に、父と母は離婚して、親権は母が持っていた。父とはすでに絶縁状態で、父親という存在が本当にいたのかも、今ではわかっていなかった。
奨学金関連の書類を見せ、優は仕事帰りの母に直訴した。高校までは行かせてほしいと言った優の目を、母は胡乱に見つめた。
「学校、行きたいの?」
母は吐き捨てるように問いかけた。
優は音もなくうなずく。母は黙りこくった。
母はもう、優を天使とは呼ばなくなっていた。二人きりの暮らしが始まると、不思議と今まで調和が保たれていた三人家族が、空中分解してはじけた。母と優は些細なことで喧嘩をするようになり、互いに口も利かない状態が長く続き、家にいる時間が短くなった。優は学校へ、母は仕事へ居場所を求めるようになり、親子の意味をなさなくなった。
「学校なんか行かなくてもいいじゃない」
優の申し出を、母は鼻で笑った。そのまま書類を優に突き返す。
「別にいいでしょ。どうせ行ったって貧乏人って言われていじめられるだけよ。ガキなんかそんなもんだし」
母はいつしか口汚い言葉を使うようになった。優に対しても同じで、優しく頭を撫でてくれた笑顔のたおやかな母は、面影すら見つけられなくなっていた。
「働きに出なさいよ。その方があんたのためになるわよ」
「俺は、あなたとは違う」
優が母を遮って言葉を放つと、母の目はますます胡乱に陰った。
構わず、優は続ける。
「自分が青春できなかったことや、夢を叶えられなかったことを、八つ当たりして人にぶつけるようなあなたとは違うから」
母の表情は変わらなかった。子どもにそう言われるのもわかっていたかのように、口元を歪めて「はっ」と馬鹿にするような笑みを出す。
「何も知らないくせに」
「書類にサインをして。そうしないと俺はここを動かないよ」
「脅しのつもり?」
母は優をこれ以上なく見下げた。
醜い人。優は直感でそう思う。次の瞬間、後悔が襲ったが、しかし自分の心はいまだかつてない、母への軽蔑で満ちていた。醜い人。かわいそうな人。幸せになれると信じて結婚して、子どもを産んで、実際は息子に対する愛情の欠片一つ持てない、愛のない人。きっとまだ再婚できると信じて、秘密に男を漁っているのだろう。中年になっても太っていないのが証拠だ。
優は母親を哀れだと思う心を止められなかった。
「何よ、その目は」
母はいよいよ怒りを抑えられないらしく、優を
「別に。かわいそうだなと思っただけ」
ひどく暴力的な感情が心を支配していた。なぜそんな言葉を吐いたのかわからない。言わなければよかったと思うのに、ついに言ってやったと悦ぶ自分がいる。
両極端だ。母も、父も、自分も。
万城目一家は、似た者同士の集まりだったのだ。
「もう家族なんてやらなくていいよ」
優の口は止まらなかった。
「しんどいでしょ。無理して母親の役目を負うことなんてないから。俺も息子の役をやるの、限界だし。他人になろうよ。その方が幸せだよ」
頬に強烈な痛みが走った。
一瞬おいて、殴られたのだと気づいた時には、優の手は母親の頬を張り飛ばしていた。
殴り返されるとは思わなかったのだろう、母は目を見開いて、ひどく傷ついたような苦しい顔をしていた。その顔が癇に障り、優はもう一度母親をぶった。何もかも壊したかった。すべて無茶苦茶にして、跡形もなく消し去りたかった。自分も、この人も、他人も。
母が掴みかかってきた。優も負けじと抵抗する。取っ組み合ううちにテーブルにぶつかり、物が激しく床に落ちる音がした。
母の伸びた爪が優の頬を引っかく。その腕を掴み上げて思い切り突き飛ばす。母は身体ごと壁にぶつかり、何事か低く叫んで、次の瞬間には優に向かって体当たりを食らわしてきた。
優も叫びながら母の頭めがけて拳を落とした。悲鳴ともつかない奇声が部屋に響く。互いに獣のような声を出して取っ組み合い続けた。
目から涙があふれていた。なぜこれほど凶暴な気持ちになっているのかもわからず、優は泣きながら母を殴った。無力で、みじめで、消えてしまいたかった。
気がつくと、部屋で一人、座り込んでいた。
母は床にうずくまり、動かなくなっていた。肩がかろうじて上下している。苦しくうなっていた。
息がしづらかった。
血がこびりついている手のひらを抱くようにして身体の震えを抑えようとしたが、呼吸は浅くなるばかりで、目の前がかすみ始めた。
這いつくばるようにして立ち上がり、部屋を出た。
玄関のドアを開け、優は外の世界に助けを求めようとし、そのまま地面に倒れ伏して号泣した。
○
空が明るみ始める頃、カーテンを開けて、窓の外の動き始めた街並みを見るのが好きだ。乗用車がぽつぽつと道路に出始め、街灯や街ビルのネオンは光の具合を少し弱めている、朝方の仄暗い空気。マンションの七階から眼下の景色を覗くと、地上から十メートル強も離れていないのに、ずいぶんといろいろなものが小さく見える。もっと上の階――それこそ最上階にまで行けば、見渡す景色のさまざまは、ミニチュア模型の果てなき宇宙に思えるだろう。人や動物が暮らす地面の、人家の明かりやいろいろな光は、夜空でいえば星々のようだ。わかってる。自分はけっこうなロマンチストである。
白は本日着ていく服をクローゼットから吟味して、涼しくなったら袖を通そうと思っていたハイブランドのカットソーを選んだ。アウターには薄手のジャケット、下はあのデザインのデニムで足りるだろう。コーディネートが決まり、洗面台でスキンケアのチェック。準備が整い次第、出発する。
玄関のそばに立てかけた姿見に全身を映して己の容姿を確かめる。今日も悪いところはない。上出来な男が得意げにプロポーションを見せつけている。
満足し、ファッションの最大の注意点、足元の見栄えを考える。
今日はこれにしよう。そう思い、靴下をはいて足を入れたが最後。
「……か」
痛かった。かなり。
これはどういうことだろう。
「……か」
この前までは難なく履けたはずだ。が、無理やり足を動かしても痛みはいっそう強くなり、そのまま玄関を出れば靴擦れどころではない大惨事を引き起こしかねない現実が、白の脳天を直撃する。
「……革靴が、入らない……!?」
さー、と全身の血液が冷えていくようなおぞましい感覚がした。白は半ばパニックになり、とりあえず手近にあったスマホを手繰り寄せ、かつての旧友に緊急の連絡を入れる。
五回ほどのコールで、友人は応答した。
「はい、どうした?」
電話の向こうの相手は心配そうに声を落とす。
「九条、どうしよう! 俺、太ったかも! 激太りしちゃったかもしれない! 身体が資本なのに!」
泣き言をぶつけたとたん、右耳の向こうから三秒ほどの深いため息が聞こえる。
「何だよ、お前。そんなことかよ。痩せろ、がんばって」
九条は心底あきれたように、先ほどとは打って変わって声の調子を強くする。次いで「切るぞー」とやる気のなさそうな返事をすると「あ、ちょっと待って、もっと相手してよ」と白が引き止めるのも構わず、通話をブツリと遮断した。
「薄情者ー」
白は文句を言いつつ、出社の時間に遅れないように急いで代わりの靴を見つけ、慌ただしく玄関のドアを開けた。
家から『極楽浄土』までは県をまたいで離れている。あの店に通うために近場のマンションを借りたかったのだが、仕方ない。働くことは生きること。極楽浄土は、白にとっての生きがいだった。
白は一人で生きている。
肉親はいない。親族もいない。正確には、いるにはいるが、家族という役割を果たしていない。血だけが繋がっている、それだけの関わりしかない。
雨季が終わり、夏と台風の季節も過ぎて、穏やかに晴れる日の多い、少し肌寒い日。この時期は人寂しさからかお店の方がわりかし繁盛するので、指名客は増える。現在、スケジュール的には忙しい毎日を白は送っている。
電車に乗り、始発の車内の人混みは意外に混んでいて、スマホをいじりながら時折車窓の外を眺める。速度をつけて流れ去る民家の数々を目で追っていると、日本にはまだこんなに人間が住んでいて、一日を生きているのだと感じる。幼い頃より、年寄りが抱くような心境を白は度々感じる時があった。「年寄り臭いよ」と仲間からしょっちゅうからかわれる、昔からの癖である。
今日はお店に赴き、ミーティングを開く日だった。久しぶりに店長に会えるのだと思うと、胸の中をうずうずと甘いしびれが広がるような、落ち着かない気分になる。だがこれは恋心ではない。言うなれば、親愛の情というべきか。
電車は東京を出た。陸橋を渡る無機質な機械音が響き、窓の向こうでは多摩川が緩やかに流れている。すぐに景色は移り変わり、煤けたビルや十数年以上営業し続けているような地元の店が建ち並ぶのが見える。
スマホに視線を戻し、数件の通知を確認する。本日は昼から二件のデートの予定が入っている。
液晶画面には『アカリ』と『園子』の名前。
それぞれに気の利いた返信をよこし、白はイヤホンをして音楽アプリを起動した。
店に入ると、仲間たちがいた。久しく顔を見ていなかったので唐突に学生時代に戻ったような錯覚を抱いた。十代の頃から風俗業界で働いている白にとって、学生時代などなかったも同然なのだが、なぜか彼らには、同じ机を並べて勉学を共にしたような青い気持ちを感じてしまう。
奥まった休憩スペースのソファーに一人腰かけ、スマホをいじっていた青年が、白を見つけて微笑む。
「お久しぶりです!」
「よっ、
名を呼ばれた詩乃は、美容アイテムで綺麗に整えた髪を少し触りながら、立ち上がって白にソファー席を促した。
「どうぞ、どうぞ」
「いやいや、そんな立場じゃないし」
「何言ってんすか。もうトップオブトップじゃないっすか。そもそもベテランだし」
「ベテランの年になったか~。年月感じて悲しくなるからやめてー」
しばらく二人でじゃれた後、詩乃と同じ空間でしゃべっていた男女が同様に声をかけてくる。
「客は上々?」
「白に限って取り逃がすなんてことないだろ」
白より上背があって男性的な色香がほとばしる蘭堂が、ちょっとからかうように言葉を被せてくる。現在、自分とほぼ同じ売上額を競っているトップキャストであり、『ワイルド』部門で堂々一位のモテる男だが、こちらとは系統が違うタイプの端正な顔立ちで、求められる美しさもだぶらないので、仲良くできている相手である。
夢は女性キャストだ。『極楽浄土』ではまだ少ない、女性と寝たい女性のために集められた人材で、彼女自身は男女問わず抵抗なく受け入れる性質を持っている。中性的なファッションスタイルと、客からの要望で丁寧に切り込んだショートカットの黒髪が素敵だと評判を呼んでいる。
「おはよう、二人とも。俺はいつも通りだよ」
『極楽浄土』では昼夜問わず「おはよう」と挨拶するのが昔からの習わしである。また、名前はすべてシークレットネームだ。ここで本名は明かされない。キャストとスタッフ両方が守秘義務を徹底している。白は仲間たちの本名を聞かないし、彼らも必要以上に白の身辺を探ってこない。つかず離れずの関係が心地いい。
談笑しているうちに、掃除用のモップを抱えた園子がやってきた。
園子の方から挨拶することはない。彼女はただじっと下を向きながら、何かに耐えるように黙々と廊下を拭く作業に徹している。
白は会話を切り上げて、さっと園子に近寄る。彼女が身を固くしたのがわかった。仲間たちが好奇心いっぱいに瞳を光らせてこちらを見つめている。白は彼女に一言、
「園子さん、誕生日おめでとうございます」
とささやいた。
おー、と仲間たちが声を上げる。
「園子さん、誕生日だったんですか? 言ってくださいよー」
「何歳になったんです?」
詩乃と夢が交互に話しかけるが、園子は仏頂面を崩さず、いっそ吐き捨てるような口調で、
「三十歳です」
と伝えたきり、会話をやめて床拭き作業に没頭し始めた。
二人は気分を害した様子もなく、「おめでとうございます」と笑いかけ、以降は各自のおしゃべりに戻っていった。園子の扱いをよくわかっているのだ。
白は園子を盗み見た。
うなだれているように顔をうつむけながら、手を動かしている。
園子はつい最近まで白の顧客だった。
見た目も性格もこの上なく見栄えがせず、いつも猫背気味にうつむいて歩き、コミュニケーションも苦手なようでめったに自分から人と話さない。彼女のようなタイプは特段珍しくはない。白を求めてやってくる女性にはわりかし多い、孤独過ぎて人生のかじを切る手段を見失っている人だ。
そういう彼女たちに、白は手を差し伸べてやる。甘い台詞をささやき、誰も触れてくれない肉体に優しく入り込んでやる。すると彼女たちは次々と財布の紐を緩めてくれる。
別段、白はそれが快感だと思ったことはない。生きるために、生活費を稼ぐためにこの仕事をしているだけであり、女性を食い物にしている罪悪感はきちんとある。だから許してほしい。心の内を免罪符に今日も仕事をこなす。
家を出た時は暗かった空が、少しずつ午前の気配を濃くしてきた時分。半月ぶりのミーティングが開かれようとしていた。
店長の
白たち従業員は彼女を「香さん」と呼び、店長とは言わない。キャリアの長い白が率先して名前で呼んでいるので、他のみんなにも呼び名が浸透した。
「今日、ミーティングを開いた理由はね、アカリさんのことなの」
香がみんなを見渡してその一言を発した時、後ろで掃除をしている園子がびくりと肩を震わせた。それに気がついたのは白だけで、何事もないように話は進んでいく。
「白くんのところに、アカリさんからの電話が、見過ごせないレベルにまで届いてるのよね」
香は白に同意を求めるように目を合わせた。白もうなずく。
「はい。最近、情緒がまた不安定なようで、俺に助けを求める電話をかけるんです。打ち明けると、会いに来なかったら店にまで押しかけるという……」
「うわー、脅しじゃん。こわっ」
詩乃が眉をひそめて言った。その場の空気は重くなる。
極楽浄土のルールは、定期的にミーティングを開き、客の情報をメンバー間で共有し合うことだった。万一、マナーのなってない客に迷惑行為をされた時に、お互い対処できる方法を探し合うのだ。
「白はよく被害に遭うよな」
蘭堂が同情するように言う。白は苦笑を浮かべた。
「アカリさんは、現在旦那さんとのセックスレスに悩んでいて、子どもはまだいなかったはず。不妊の件で双方の両親からあまりいい扱いを受けていないらしく、少し追いつめられている様子でした」
白はここ数日間のアカリの行動をみんなに報告した。
無言電話、一日に十数回を超えるメール、店に頻繁にかかってくるコールなど、彼女の問題行動は日に日にエスカレートしていっていた。
「そのうち待ち伏せされるんじゃないんすか? 白さんの家、特定されてるかも」
「詩乃、シャレにならないこと言うなよ」
夢がそれとなく注意した。
「シャレじゃないっすよ。こういうことは早く対策打たないと」
詩乃の言葉に蘭堂がうなずく。
香が対策案を出した。
「受付の二人には、アカリさんからの電話が来たら白くんは予定が埋まってると言って。実際、スケジュールは詰まってるし」
奥の席に並んで座っている受付の女性二人が、神妙な顔で首肯した。
彼女たちは会社とのダブルワークで極楽浄土の仕事を請け負ってくれている。一人は稼ぎの少ない旦那と小さな子どものため、もう一人は独身人生をもっと謳歌したいためだと言っていた。
しばらくアカリに対しての対策案が議論された。自分の身を案じるみんなの声が耳に響いて痛かった。誰かに心配されるほど、守られるほど、心の奥が痛くなるのはなぜだろう。
「みんな、そんなに気遣わないでいいよ」
白が声を発すると、みんなの声がやんだ。
心外そうな表情が周りの顔に浮かぶ。
「そうじゃない。お前は大事な従業員だから、配慮するのは当然の権利だ。仕事をしている以上、労働者の身辺は守られるべきなんだ」
蘭堂が真剣に白を正す。彼らの仲間意識が白にとってはありがたく、これ以上ない感謝の気持ちでいっぱいになったが、白は首を振った。
「自分を卑下してるわけじゃないよ。ただ、俺に考えがあるんだ」
みんなの視線が集中する。疑問符を浮かべるメンバーたちに、白は説明した。
「アカリさんと話し合いたいんだ」
「……話ができる状態なのかな」
夢が不安そうにつぶやく。
実際、それは難しかった。アカリの言動に一貫性はなく、情緒を失っているのだろうと見て取れるしつこさだからだ。
「このままフェードアウトはしたくない」
白は強い要望を出した。
「香さん、俺をアカリさんに会わせて。危なくなったらすぐ逃げるから」
蘭堂たちが心配そうに白を見遣ったが、香は表情を変えず、じっと白の目を見つめる。心を見透かすような、不思議な眼力だった。香はいつでも目の力が強い。
「何か考えがあるの?」
香が冷静に問うてきた。白は答える。
「考えは……ありません。でも、アカリさんは俺に助けを求めているように思えます」
場がしんと静まり返る。
香はふっと息をついた。
「助け、ね」
香は瞳をこちらに向けてくる。
「白くんは、自分がアカリさんの救世主になれると?」
ぐっと息を詰まらせる白に、香は黙って言葉の続きを待つ。
「……そんなたいそうなことはできません。でも、このままずっとスルーされるのは、アカリさんがかわいそうだと思います」
語るうちに、自分も誰かをかわいそうだと思うのだと悟る。かわいそうだと言われるのは嫌だとプライドが認めない一方で、人を哀れに思う心は自分の中にもあるのだと、自己の矛盾に気がつく。
それでも白は食い下がった。アカリと強制的に別れさせられるのは、自分の中で納得がいかない。
しばらく場が押す中、香は条件を出した。
「一回だけ。一回なら会って、話ができる。この店の中で」
白はほっと胸を撫で下ろす。
「それだけでじゅうぶんです。ありがとうございます」
頭を下げ、膝の上で拳を握る。
香はいつも、最終的に自分の意思を認めてくれるのだ。
白の心中で、どんな意図があるのかも、見越しているように。
香はまるで白の何もかもをわかっているかのようだ。白の企み、腹積もり、すべて見通しているのではと錯覚してしまいそうになる。
白はもう一度、彼女に感謝の意を示した。
「ありがとうございます」
香は口の端だけを上げた。
〇
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