第三章 「あなた無しでは生きてゆけぬ」
三回目のデートは、私の希望する場所に行きたいということだった。
望むデート場所といっても、いわゆる人通りが多い王道のデートスポットは気が引けるし、ただ天気のいい日に公園なんか行って、互いにのどかな時間を過ごしたり、散歩したり、そういうのんびりした関係がいいのだ。白くんに素直に伝えられたらいいのだけれど、気軽にできたら今まで苦労はしていない。結果、スマホを握りしめて百面相をする状況に陥っている。
久しぶりに出社し、いつも通りの業務をこなす。頭の中は白くんでいっぱいだ。
診断書を受け取った上司は、相変わらずの無表情を崩さず、私に回ってくる仕事を簡単な作業内容に変更した。私は今まで以上に透明人間として社内で振る舞うことができた。誰も私に注目しないし、気が楽だった。昔の「窓際族」って、きっとこんな感覚なのだろう。自分一人の世界に閉じこもれる快感。奇妙な安心感と心地よい孤独が、今の私にちょうどよかった。
「これ、コピーお願い。二十部」
黙々と作業していると、同期が雑用を回してきた。今の私は責任の大きい仕事を任せてもらえるような状況ではないため、特に憤るような感情もなく、淡々と返答してコピー機に向かった。
同期の
コピーを終え、なるべく彼女と目を合わせないように資料を渡す。私たちの間に会話らしい会話はない。特に仲のいい瞬間もなかったし、何より私が周りを無視しているからだ。別にそれでよかった。私は現実に何も求めていない。
もうすぐ会議が始まる。みんなが続々と準備を始め、会議室へ入っていく。
「影山さんは来なくて大丈夫だからね。具合悪いんだもんね」
いちいち言う必要などないのに、花田はさも親切そうな顔を浮かべて私に戦力外通告を渡す。何も言えずに固まる私を、花田は一瞥して颯爽と去っていった。
私のそばを何人もの人間が通り過ぎていく。誰も振り返らずに。みんなそれぞれに固まって仕事の話をしながら、私のコピーした書類を持って部屋を出ていく。それは学生時代の教室にひどく似ていた。うまくしゃべれない私を、初めの頃親切心でフォローしていた人たちは、友だちを増やしに増やして、やがて私の存在を忘れ、移動教室に固まって向かう。お互いのおしゃべりに夢中で、幸せな学園生活を送れると信じていて、そのそばで石ころのように動けなくなっている人間は視界に入らない。時代が変わっても、時間が経っても、積まれるのは年齢だけで、私自身の境遇は一向に変化しない。
気づくと、自分のデスクで事務作業をしていた。部屋には誰もいなかった。パソコンの画面に表れる機械的な数字と日本語の文章。偽りでも何でもなく、おぞましい毒素が自分の体内に充満していた。世界が憎かった。不快な気温。暗い曇り空。すべてがうっとうしい。消えてなくなれ。目の前の不愉快なもの全部。
時計の針が休憩時刻を指す。私は即座に席を立って、部屋も会議室も突っ切って一人きりになれる場所を探した。
資料室と書かれた部屋を見つけた。明かりは点いておらず、人気もなかった。中に入ろうと思いドアノブを回すも、鍵がかかっていて動かなかった。
扉の前に佇み、呼吸をして神経を落ち着かせる。誰もいない場所で自分の意識のみを集中させられるのは助かった。
しばらく経って、激しい憎悪の念はいくらか治まり、薄暗がりの廊下の、しんとした時間が心地よく感じられた。
スマホを取り出す。『極楽浄土』のサイトにすぐに飛び、白くんの名前を探す。
けれど彼の予約スケジュールを見て、一瞬で地獄に堕ちた。白くんの予定がほぼ一ヶ月分埋まっていたからだ。
そうだ。彼は人気者なのだ。トップキャスト。その肩書きが重く私の胸を穿ってくる。
白くんは私のものじゃない。
しばらく忘れていた現実。やるせない思いが満ち、私は顔を覆った。泣きたいからではない。ただ、空しいのだ。真に空虚な気持ちになった時、人は涙すら出ない。
休憩時間が半分ほど過ぎても、私は立ち尽くしていた。
○
結局、三回目のデートができたのは梅雨に入る頃だった。
その時期になると雨はうっとうしいし湿気は肌にまとわりつくようで気持ち悪いし、気分的にはこれ以上ないほど悪かった。
かろうじて街に出れるのは、誇張でも何でもなく、白くんに会えるからだった。
私は一つ、決心していた。
白くんとの思い出をもらうことを。
つまりは、白くんに抱いてもらうことを。
厳密にいえば、『極楽浄土』は本番行為を禁止しているから、抱かれるわけではないのだが、キスとそれ以上の行為はできるので、白くんに触られるのを目的に本日のデートを申し込んだ。
レンタル彼氏のプランじゃない。デリバリーヘルスの料金だ。
大金をつぎ込んだ。
後悔はなかった。
私は、嫉妬していた。彼を指名している他の客たちに。見当違いもはなはだしいのは百も承知だが、それでも白くんを独占できる時間と条件がほしかった。金でそれが叶うなら、もう、貯金なんてどうでもいいのだ。私自身は、どうなっても。
腕時計の針はそろそろ待ち合わせ時刻を指そうとしている。
約束の時間を少々遅れて、白くんは現れた。シンプルな服装ながら佇まいは爽やかで、身につけている小物類が高そうに見えた。
「ごめんね、遅れて」
「大丈夫、です」
白くんはふふっと笑う。
「園子さん、ずっと俺に敬語だよね。年下に気遣わなくていいのに」
気遣いでなく、誰に対しても私は対等に話せないのだと、わかってもらえなくて別によかった。私はただ白くんと一緒にいたいだけで、理解とか許容とか、求めてない。
曖昧に笑おうとして、口もとが引きつっただけの不気味な表情になる。
今日のプランはデートコースとお泊まりコースだ。長時間キャストを拘束するため、値段も今までにないくらい高くついた。これからの生活が苦しくなるほどの金額だ。少しの恐怖と不安と、一日彼のそばにいられる幸福感。
白くんは私の手をぎゅっと握り、「どこに行こうか?」と無邪気に尋ねる。
「映画館、に」
「いいね! 何観たい?」
「あ、これ、を」
「この作品は初めて知ったなあ。園子さんに教えてもらってよかった」
私たちは手をつなぎ、正統派のカップルのふりをして東京郊外の街並みを歩く。梅雨空にも関わらず、太陽が雲間から少しの間覗き、陽光が射した。一瞬、世界が明るく見えて、でもそれはただの幻で、金でつながった私たちの関係はシビアで儚い。白くんは私から解放された後、別の誰かのものになって、対価をもらって白くんの人生を生きる。そこに関わらせてもらうだけでいいと思いながら、一方で、危険な領域に踏み込んでしまいたいと思う自分を、汚いと、改めて感じる。みじめな私をやめられない自分自身が、かわいそうで、その哀れさに酔いしれている今この瞬間が、やっぱり気持ちよくて、手放せなかった。
白くんと一緒にいたい。
間違いでもいいから。
〇
映画館の中は平日でありながら混んでいた。目白押しのラインナップがたくさんあるからだろう。館内は子ども連れの家族や若者がたくさんいた。
カップルで来ている者も見かける。この中の何割が「本当に愛し合っている二人」なのか。私のように金で彼氏を借りている女はいるのだろうか。意地の悪い妄想が頭を巡る。
何人かが白くんとすれ違う時に、ちらっと彼の美貌に見とれている。そのまま視線は隣の私に流れ、怪訝な表情を投げる。そうだろうな、と自分でも思う。意識の低い服装とメイク、お世辞にも垢抜けているといえない女がなぜ、白くんみたいな人と? そう思う人たちは、さっきの私みたいに「この女はレンタル彼氏でも借りてきたんだろうな」と想像しているだろう。お互い様だ。互いに汚い人間でいいじゃないか。
劇場内に入り、白くんと二人で前列側の座席に着く。
私は、病院に一緒に行った時、彼から手渡された子ブタのぬいぐるみを持ってきていた。不安な時、緊張が強い時に鞄の中で握りしめると落ち着いた。彼にお礼を言いたくて、劇場内が暗転する間際、ぼそっと告げる。
「子ブタ、ありがとう、ございます」
「ん? あ、ぬいぐるみ?」
「はい」
「気に入ってくれたようでよかった。手のひらサイズが園子さんっぽくて、可愛いと思ったんだ」
「え?」
きょとんと彼を見ると、にこっとした完璧なスマイルが降ってくる。
「園子さん、大人の女性だけど、何だか小動物っぽくて放っておけない感じ。それ抱きしめてる時は、俺のこと思い出してね」
「……はい」
完璧なフレーズの美辞麗句に、いっそ完全に馬鹿な頭になれたなら、どんなによかっただろう。
この人を独り占めしたい。
そう思わせるのが目的なのだ。女性向け風俗は。わかっていて飛び込んだのだから、誰を責める理由もない。すべて私が傷つくしかない。
本編の前座の、予告宣伝が始まった。
白くんと手をつなぎたい。
座席のひじ掛けを挟んで、私たちは同じ映像を見ている。映画を観るのは、本当は口実で、どうしてもこの作品を欲しているわけではなかった。流行りの恋愛ものはデートにちょうどいいのだ。そのくらい、男性と関係を持てたことのない「喪女」の私でも承知している。隣に誰かがいてほしい。できればそれが彼氏であってほしい。
自分が求めているものは、何なのか。
慰めや、その場しのぎなのか。
違う。
白くんだ。愛しい人との、本物の愛情を育む穏やかな生活だ。
気づいていた。お金だけではもうつなぎ留められない。
貯金の限界が来ていた。
賭けだった。この後、私のこれからはどうなっていくのか。考えるのも拒否できてしまうほど、目の前の未知に飛び込もうとしていた。
映画本編が始まる。ヒロインが絶望の底に突き落とされるのを覚悟した上で、危険な男にほだされていく。女の奥底の願望、と映画評論家が辛口でレビューしていた作品だ。あなたたちにはわからないだろうなと、私の中の情念が世の男たちを糾弾する。私たちは恋をしたくてしているわけではなく、かつ不幸になりたくて蛇の道に行くわけではない。抗えないのだ。気づいたら、破滅に堕ちている。身体中の神経細胞が、理性を超越して、好きな男の魔的な魅力に反応するのだ。恋に落ちるという言葉通りに、一目惚れだったり徐々に惹かれたり、段階はいろいろあっても、引き返すに引き返せないデッドレースにはまっていく。男を欲する。そんな女を誰もが軽蔑する一方で、誰もがどこかで共感している。
本編は二時間以内に終了した。白くんが私の顔を見て「出る?」と聞く。うなずいて、劇場を後にする。
外に出ると、六月の湿気が肌にまとわりついてきた。暑いねえ、と白くんが苦笑する。
「少し早めの夕飯でもいただきますか」
「はい」
夏の気配はすでに濃厚で、夕方の街はまだ明るい。ぬるい風が私たちの髪をなびかせ、どこかへ通っていく。白くんは「俺この店行きたいな」と私の財布事情を考慮したリーズナブルなレストランを指定してくれた。『極楽浄土』のルールは、キャストを買った間は客がすべての金銭を負担する。だから今日の映画代も食事代もすべて私持ちである。夢の時間にはお金が必要なのだ。
店内に入り、私たちはディナーにいそしんだ。白くんは先ほどの作品の感想を、私の気分を害しないように楽しい言葉を選んで持ち上げてくれた。その話しぶりは心地よくて、キャストとしてのキャリアを感じさせる、職人並みの丁寧さがあった。
白くんは、いつから『極楽浄土』にいるのだろう。
ふと湧いてきた疑問を、とても口にはできなくて、私は彼のトークをしばらく曖昧に笑って返していた。
「……疲れちゃった?」
「……そんなこと」
「園子さん、繊細そうだから。早めにホテル帰ろうか」
外の世界は刺激でいっぱいだからね、ずっといるのは無理だよね。白くんは私に合わせて食事のスピードも緩めてくれる。
もごもごと口ごもり、いらぬ返事を返してしまった。
「別のことが、気になって」
「別って?」
「いや、たいしたことじゃないです」
聞けない。キャストのプライバシーに関わる質問をしてはいけない。私は堅く口をつぐんだ。
「園子さんと、ちゃんと話がしたいな。お互いまだまだ知り合ったばかりだし、探り探りだけど、俺たち波長は合うと思うんだ。客とキャストだけど、あたたかい関係でいようよ」
白くんが困ったように微笑んだ。
私は力なく、うなずくしかなかった。
夕食を堪能したかしないかのうちに、私たちは会計を済ませて店を出た。あそこに長居しても二人の今日の空気感は変わらないだろうと、お互い感づいていた。
寄り添い合って歩くうち、白くんの大きな手が私の指先を包んだ。恋人つなぎをされて、嬉しいはずなのにそこにあるのは白けた虚しさだった。私の金はもうないのだ。あとどれくらい、この人を束縛していられる?
現実に戻っていく。
「あの、ホテル」
「え?」
「ホテルは、『極楽浄土』の本店が、その、いいです」
たどたどしく言葉を紡ぎながら、私は彼に頼みこんだ。
「そっか。そっちの方がいいかもね」
白くんは快く了承してくれた。
つながれた手はギュッと握り込まれていて、離さないとばかりに強く掴まれていた。日が落ちても気温は蒸していて、汗ばむくらいだった。
〇
東京から離れて、私たちは『極楽浄土』本店が構える南武線の電車に乗った。車内は混雑しているわけではなかったが、この路線は走行中の揺れが少しばかり激しいため、よく車酔いに似た気持ち悪さを起こしてしまう。あらかじめ白くんに伝えていたためか、彼は「身体預けていいよ」と私に甘いささやきをくれる。肩にもたれながら、閉まるドアを見るともなしに見つめた。
日が落ちるのだなと、暗くなっていく車窓の景色を見て、思った。男性経験を得るという長年の夢が今まさに叶うところで、だからといってそれがどうしたという意地悪な無意識の自分が、表の自分を苛める。いっそ楽になってしまいたい。まるで拷問のような物々しい時間だった。幸せであればあるほど、先の不幸を想像して今がいっそう苦しくなるのはなぜなんだ。
電車は着実に『極楽浄土』への最寄り駅まで近づいていく。
「園子さん」
白くんがふいに笑いかけた。
ドギマギして反応すると、
「緊張してる?」
こちらを労わりつつも少しばかり悪戯めいて瞬く瞳が、私を見つめていた。
何も言えず黙っていると、「俺もね、実はね、緊張してるんだ」と信じられないような返答が来た。
目を見開き、私は彼を凝視する。すると苦笑を返された。
「だって、その、こういうのは拒絶されたらどうしようって、やっぱり最初は怖いよ。園子さんだけじゃなくて、俺も人並みに怖いものがいろいろあるよ」
「……うん」
白くんみたいな、天使のような美貌を持つ子でも、たくさんの思いを抱えているのだろうか。歪で不安定な私と同じように?
納得しようとして、けれどまだむずがゆい抵抗の中に沈んでいる自分もいて、結局曖昧に白くんの言葉を聞くしかなかった。
電車は東京圏内からすでに南へ下っていた。街角はそれほど変わらない景色でも、外へ出ればあの日のように熱っぽい風を受けることだろう。その時、東京を離れたんだと、私は実感するのかもしれない。
最寄り駅に着いた。
辺りは宵の口に入ろうとしていた。
電車を降りて改札を通る。白くんは再び私の手を握った。お互いに絡み合う指から温度の違う熱が伝わって、私は燃えるように熱いけれど、白くんはちょっと冷えてるなと、感覚の違いを思い知った。
外に出ると、六月だと思える湿気だった。とにかく蒸し暑く、気温自体は高すぎることはなくとも、肌がじっとりと濡れていく感じがして、早くも汗が垂れた。
表通りを横にそれて、裏路地に入る。道端でところどころに居着いて座りこむ若者と、隅の方で一人うなだれたようにうずくまっているホームレス。器用に避けて目的地へ急ぐ白くんと私。ここは光の差さない奈落の底だ。あと一歩間違えば、私も彼らと同じように墜落していく一方なのだ。人生を上るのはこんなにも過酷で、息切れしそうなのに、一度足を踏み外すと歯止めが効かないほど転がり落ちてしまうのはなぜだ。
私は、落ちていいのだろうか。
本当に、身体を差し出して、後悔しないだろうか。
白くんを信用している。――本当に?
自分の声を確かなものにする根拠を持てなかった。
焦げ茶のコンクリートの建物が見える。『極楽浄土』だ。いつ見ても古民家のカフェのようにしか思えない、女性向け風俗店。
店長は、どんな人間なのだろう。
突然、素朴な疑問が湧いて、人に対する興味がまだ残っていた事実に驚く。
白くんをこの店に迎え入れた人は、そもそもいったい何の意図があって、女性向け風俗店を営業しようと思ったのか。男なのか、女なのか。
シャッターをくぐる。白くんに連れられて私も店内に足を踏み入れる。
この前見た通り、受付スタッフが二名仕事をしている。白くんと私を見ると、すべてわかっていますよというように空いている部屋の鍵を渡す。白くんは慣れた手つきで受け取って、私を案内しようとしたところで「白くん」と受付の一人に呼びかけられた。
「何?」
「ちょっと緊急の連絡」
「わかった。園子さん、ごめんね。少しここで待ってて」
「は、はい」
私は隅の壁際に寄り、所在なく白くんの後ろ姿を眺めた。スタッフたちは何やら忙しそうに話し込んでいる。トラブルでも起こったのだろうか。
スタッフの一人に受話器を渡された白くんは、とても甘く優しい声で応対している。まるで本物の恋人に接するみたいに。聞きたくなくても、電話の向こうは彼の数多くいる一人の顧客なのだとわかってしまう。
「アカリさん」
白くんの口から、私の名前がつぶやかれた。
心臓を鷲掴みにされたような驚きが上がって、飛び上がりそうになった。すぐにそれは私の名前ではなく、白くんと今話している電話の相手の名前だと知る。シークレットネームなのか、本名かはわからない。ただ「アカリ」と発せられた彼の口調が艶やかな色合いできらめいている気がして、心がまだドキドキしてる。
「今週は、ちょっと会えないけれど。でも永遠に予定が空かないわけじゃないから、また会えるよ。連絡、絶対するからさ、あまり思いつめないで。今日は、スケジュール詰まってて。――うん。アカリさんのこと好きだよ。人として応援してるよ」
耳にイヤホンをぶち込みたい。否応なしに現実に引き戻されるきっかけを作りたくない。私は白くんの顧客。もっとわがままに振る舞ってもいいのではないだろうか。白くんはキャストとして私に親切に対応する義務がある。あのアカリって人と同じように。
どれほど待っていたのかわからない。気づくと私の意識は半分飛んでいて、今が何日でここがどこなのか忘れかけていた。目を開けたまま死んだように壁際に突っ立っている私を、行為終わりの他の客とキャストが入れ違いに通り過ぎて行き、人の出入りが少し落ち着いたところで白くんが戻ってきた。
「電話、長引いてごめんね」
白くんは両手を合わせてこちらに許しを請うポーズを見せる。「うん、大丈夫」と私はかすれた声で言って、口の端を引き上げようとがんばる。うまくできなかったけれど。
「今日、園子さんのこと困らせてばっかりだから、部屋に入ったら俺のこと好きにしていいよ」
白くんは申しわけなさそうに私の手を取って、まるでそれが免罪符であるかのようにのたまった。どう答えればいいのか判断しかねて、私は彼を凝視する。
白くんの笑顔はなおも優しくて、迷いがなかった。
「生活の鬱憤とか、いろいろなストレス、俺にぶつけていいよ。俺で憂さ晴らしして」
「……憂さ晴らし、というのは」
「普段できないこともしていいよ。ひどい行為も受けてあげるよ。俺はそのためにここにいるから」
白くんは私の手を握って、エレベーターに歩き出す。ドアが開いて、私たちは中に入り、階のボタンを押す。「今日は四階の二号室ね」と白くんは部屋の鍵番号を見せて、私はうなずいて、再び身体が密着する。白くんが恋人同士の空気を演出させようとしている。私の肩を抱いてそれとなく撫でたり、こちらを意識した瞳を向けている。
四階に着いた。
廊下の窓から見える外はすでに暗い。
太陽も、自分も、もう沈んだんだ。
アカリって誰なの、とは聞けなかった。ルール上、他の客のことは無視しなければならないし、何よりも私にそんな勇気はなかった。
ドアを開け、部屋に通される。白くんは「先にシャワー浴びる? それとも何か飲む?」とごく自然に私をリードしようと努めている。私は「……シャ、シャワー」とどもりながら答えて、脱衣所に逃げた。震える指で服のボタンを外す。そもそもどれくらい身体を洗えばいいのかわからない。ボディソープで泡立てて本格的に洗った方がいいのか、湯を当てるだけでいいのか、時間は何分を目安に風呂場を出た方が妥当なのか。何も教えられてない私は混乱する意識の中で、とにかく自分が臭くなければいいと願った。
お湯はまるで温泉のシャワーみたいに肌当たりのいい水圧で気持ちよかった。緊張でこわばっている自分の心ともども温かい湯で洗い流し、包んでくれるみたいだ。
泣きたくなるような気持ちを抱いて、風呂場を出て備えつけのバスローブに着替える。
白くんが交代で風呂場に入って、私はカップルの同棲を演出した小さな部屋の真ん中のソファーに所在なく座った。テーブルには彼が用意してくれた飲み物が二人分置かれていて、緑茶の方を選んで飲んだ。心地よい苦みとうまみが喉を滑り、本物の二人暮らしだったらいいのにと陶酔しかけた。
ここの設営費用や管理費などは、どこで賄っているのだろう。女性客からのギャラで本当に回していけるだろうか。
知ろうとすればするほど、底なし沼のいちばん下を覗いてしまうんじゃないかと気が気でなかった。そのくせ一度気になると奥歯にものが挟まったみたいにすっきりしない。
彼らは、どうやって生計を立てて、生きているのだろう。
「真っ当な人間じゃない」と、脳内に親の声が響いた。
小さい頃から、親はまともな人間になりなさいと私に言い聞かせていた。恥ずかしいことをしないでと。人様に顔向けできないようなことをするなと。
私が、学校に行けない不登校児になったり、就職浪人で何にも所属しない人間になると、「恥ずかしい」とひたすら言い続けた。
「そんなことでどうするの。社会でやっていけませんよ」
「社会に通用しない人間になるな」
刷り込まれたそれらの台詞は、私を縛り上げ、何かの組織に所属して働かないといけない使命を叩き込ませた。
(聞き飽きた。その台詞はもう、うんざりするくらい)
(親なんて、家族なんて、大嫌いだ)
誰も好きになったことがない。誰も愛したことがない。この世には私の敵ばかりが幸せそうに生きている。
堕ちたい。
どうしようもないクズになりたい。
「また考え事してる」
はっと気づくと、白くんがシャワーを終えて私のそばに近づいていた。
バスローブを着た彼は、私なんかと比較にならないぐらい顔立ちの素材の良さが生きていて、湯上がりの少し火照った匂いも、男性的なエロスを誘わせた。
「園子さん、何かを考えてる時、色気が出ますね」
白くんはそう告げると、私をそっと抱き寄せた。
男の身体だ。
男の匂いだ。
額に柔らかい感触が押し当てられる。
白くんの唇が私の額に触れていた。
夢にまで見た瞬間だった。くすぐったくて、こそばゆくて、どうにかなってしまいそうだった。白くんの指先がつー、と私の頬を撫でて、下に降りていって、首筋を優しく触った。それに合わせて唇も順を辿って私を甘やかした。
白くん、スイッチ入ってる。
彼の瞳に覗きこまれて、視線と視線が絡み合った。熱の入った目の色が、これがお前の男だよと言っているような、有無を言わせない強い圧を感じた。
仕事の顔だ。
彼の顔が近づいてくる。
どうしたらいいかわからず、私は馬鹿みたいに硬直していた。
身体中が緊張のせいで石のようになっていた。
白くんの顔はもう目の前だ。
目を閉じるのも忘れて、彼のキスが私の口に合わさってくるのをぼうっと感じていた。
柔らかくて、温かくて、生々しかった。
感触を確かめるように少し強く吸われて、身じろぎして逃げようとするのを肩に置かれた手に抑え込まれた。決して乱暴ではなく、労わるように、気遣うように、ここにいてと願われるように肩を抱き込まれる。どうすることもできなくて、ただじっと耐えた。自分がキスに感じているのかいないのか、判断できなくて、ひたすら受け身のまま時間の流れを感じていた。
顔が離れて、私は手を引かれ、ソファーから立ち上がった。白くんにベッドに連れて行かれる。ゆっくりとシーツに押し倒され、彼が上に乗っかってきた。まるで少女の頬をなでるような手つきで、齢三十間際の私の顔を両手のひらで包んで、むにっと揉むと悪戯っ子のように微笑む。「園子さん、かわいい」とつぶやき、再び顔を近づけた白くんを、拒む選択肢は脳内に残されてなかった。
キスは優しかった。気持ちよかった。この仕事をずっと続けていたのだなと察せるくらい、行為には私への配慮も労わりも感じられて、嬉しかったし、喪女のまま枯れていく一方の自分の自尊心を取り戻せた気がした。
だから、後悔はなかった。
迷いもなかった。
彼の手つきがだんだんと下の方に移動していくことも、私は待ち望んでいた。
バスローブは解かれていて、決して若くも美しくもない私のだらしない肢体が白くんの眼前に晒されていた。顔を背けることもできない、緊張の一瞬が私の意識を固まらせる。けれど白くんは嫌な顔一つ見せず、本物の天使のような慈悲深き笑みさえ携えて、私を見つめていた。
彼の、細くて節ばった指が肌を触った。脳が沸騰するかのような熱さを持ち、肌のあちこちが彼の指先に翻弄されて、声にならない声が漏れた。自分じゃないみたいだ。体温に、ふれた。人の体温にふれることができた。そう思った。何も持たない私。何もできない私が、赤の他人の、美しい男の肌に触れている。狂気に落ちてもいいと思った。他には何もいらない。今ここで死んでもいい。明日よ、来るな。
気づいたら、泣いていた。目から大粒の水滴があふれ出ていた。嬉しくて、嬉し過ぎて、逆にすごく寒かった。裸だからだろうか、部屋の気温が直に肌に響いて、冷気が射すような感じがして寒気を覚えた。
どうして。私、今すごく幸せなはずなのに。
涙は止まるどころかさらにあふれてきて、自分自身の気持ちを持て余した。自分の意思がどこにあるのか、涙腺をコントロールできずに私は途方に暮れた。
「やめよう」
白くんの声が聞こえた。
え、と思っているうちに彼は私を抱き起こし、バスローブを着させた。次いで身体を包むように抱きしめられる。
「怖い思いさせちゃったね。ごめんね」
違う。何言ってるの、白くん。
勘違いだよ。
私が馬鹿な反応しちゃっただけ。嬉しかったんだよ。白くんに触られたいから、続けてよ。もっと、触れてよ。
呆然とする私に、白くんは申し訳ないように微笑む。それはひどく苦しそうな笑顔だった。まるで白くんも同じように泣いているようだ。
「や、やめないで、いいから」
やっと言葉を絞り出し、白くんにすがりつく。しかしその手はゆっくりと振り解かれ、私は彼と向かい合って座らされた。
私は必死に言い訳を探した。
「やめないで。お願い。やめないで」
懇願する私を、白くんがどういう目で見つめているのか怖くて、視線を合わせられずにいた。恥もプライドも最初からない。そんなものはとっくにズタズタだ。生まれた時から、私は人生に失敗し続けている。
「私、いい歳こいて、処女なのが、もう嫌で。何か変わるんじゃないかって思って、どうにでもなれって気持ちで、ベッドにいるんだから、急に、やめないで。私、気持ち悪い? 身体、臭い? もっとちゃんと洗うから、男の人と寝たって事実が、ほしい」
伝えたいことをうまく伝えきれずにどもりながら、言葉の選択もよく考えずに、ただ思ってることを吐き出した。
「私を、人間にして」
真っ当に生きれない自分を、めちゃくちゃに扱って壊してほしい。
破滅への道。
正気を失いたい。
それを叶えるのは、白くん、あなただ。
「いつから?」
「……え?」
「いつから、自分をそんなに否定するようになったの?」
言われた意味がわからず、絶句していると、彼も言葉を続けるのがつらくなったように、しばし無言でいた。
白くんはベッドの縁に座り直し、何をするでもなくどこか虚空を見つめながら、再び私に話しかける。
「園子さん、自分に対しての評価がすごく低いから、何かあったのかなって。俺を指名するお客さん、多いんだ。そういう人。もともと、このお店に来ること自体、満たされてない証拠なんだけどね」
「そ、そう、なの?」
「幸せな人は、そもそも女性向け風俗なんかに来ないよ。存在も知らない人が多いんじゃないかな」
それは一理あると思った。実際、私もつい最近までそんな風俗店があるなんてつゆほども知らなかった。知っていたら、もっと早くから羞恥心を脱ぎ捨てて白くんを見つけ出せたのに。
何で行為をやめたの、と聞こうとして彼の顔を眺める。口から言葉を出そうとする前に、白くんは傷ついたような苦笑いを浮かべた。
「園子さん、嫌がってるでしょ。触られるの」
一瞬、何を話しているのかわからず、脳みそが受け答えを拒絶しかけているのをこらえて、私は懸命に訴えた。
「嫌じゃ、ないです」
「嘘。身体がこわばってるから、わかるよ。園子さんは、本当は性行為をしたいわけじゃないと思う」
きっぱりと言われて、私は途方に暮れた。それなら自分は何を欲しているというのか。あなたに抱かれるために、それなりに身だしなみを整えて風呂にも毎日念入りに入ってスキンケアも気合を入れて、今日を迎えたというのに、なぜ今になって私を拒絶するのか。
抱き合うのが嫌なのは、白くん、あなたの方ではないのか。
喉まで出かかった言葉を、ぶつけようにもぶつけられず、私は唇を噛んだ。猛烈に悔しい気持ちがせり上がって、思わず泣きそうになった。けれどここで泣いたらまた白くんは私をかわいそうだと思って、頭を撫でてくれるだろう。そんな行為はもう受け入れがたかった。
私、かわいそうなんかじゃない。
ベッドから降りる。驚いたようにこちらを見上げる白くんの前に回り込んで、なけなしの勇気を振り絞った。
「白くん、が、好きです」
つっかえながら、どもりながら、自分の気持ちを伝えた。心臓が割れるほど高鳴り、頭が沸騰したように熱い。ついさっき彼に拒絶された悔しさと怒りに触発されて、好きだけじゃない、彼への憎しみもふつふつと沸き上がってきていた。
「白くん、なんか、大好きです。きっと一生好きです」
金で事足りる関係だけじゃ、もう満足できない。
「同じ世界に、いたい」
初めて自分の中に生じた、欲望だった。
この人と同じ場所に立ちたい。
この人を、自分のものにしたい。
この人だけのものになりたい。
彼を好きになってる。他には何もいらないぐらいに。対等に見られたいほどに。恋心を抱くことがこれほど激しく、痛切な思いだなんて知らなかった。
「白くんと、ずっと一緒にいたい」
私は頭を下げ、懇願した。
水を打ったような静けさが部屋に満ちた。彼が今どんな表情でこちらを見ているのか、怖くて顔を上げられなかったけれど、後悔はしていなかった。後は、白くんがどう受け止めるかだ。私はただ待つことしかできない。
死んでしまいそうなほどの息苦しい沈黙の時間だった。
「入りたい?」
しんとした無の空気を破って発せられた台詞は、予想もしていなかった内容で、意図を理解するのに数秒かかった。
おそるおそる視線を合わせると、白くんは、今までに見たことのない無表情でこちらを見上げていた。
何も、ない。
空虚な顔色だった。
「この世界に、入ってみたい?」
白くんの声はまるで死人のようだった。長く生き過ぎたゆえに、活力のない枯れ果てた老人の声にも似ていた。
私は身動き一つできず、固まっていた。
「ここには、同士がたくさんいるよ。同じ穴の
何でそんなこと言うの、と言いかけて、やっぱりやめる。私はこの人を何も知らない。客とキャストでしかありえない。だからこの人が内側にどんな闇を抱えていようと、私は、自分以上に価値のない人間など他にいない自信があるから、この人を美しいと思える。闇のない人などいないから。
「俺も、園子さんのこと好きだよ」
胸が詰まった。
そう言ってくれるのを待っていた。望んで、望んで、狂うほど焦がれた愛情。白くんがそれをくれるなら、私も今持っているものをすべて捨てる覚悟があった。
選択肢なんか、何一つ残されていない。もとから私に安住の地などなかったのだ。
「同じ世界に来てくれるなら、もっと好きになれるよ、園子さんを」
再び、泣きそうになった。
うなずきだけを返した。
こみ上げてくる愛おしさ。しびれるような喜びを胸に、私は下を向いた。
○
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