第二章 「幸せごっこ」
家に帰る足取りは軽かった。ずっと味わっていなかった心の軽さだった。
自室に引っ込んで、再び名刺を穴が開くほど見つめる。
白。
一昔前の、ペットにつける名前として流行りそうな簡単な印象を受けたが、むしろこのそっけなさがいいのかもしれない。凝った名前じゃなくて好印象だと、自分の都合のいいように脳みそが解釈を始める。
白。どんな男だろう。
素性のわからない相手を想像するうちに、指がひとりでにスマホを掴んでいた。
目覚めると、出社時刻をとうに過ぎていた。
会社に休みの連絡を入れて、久しぶりに何もしない午前中を過ごした。一階に降りて家族と顔を合わせるのが嫌なので、自室でぼうっとする。窓から見える外の景色は、よく晴れた青空と向かいの家の年季が入った屋根瓦。今までと何ら変わりのない風景。けれどいつもと違う心境。私は堕落の道を行く。何かが吹っ切れたような、奇妙な充足感だった。まだ何も始まってないのに。
金で処女を捨てられるのか。
思えば思うほど、愉快だった。
今まで自分の内側でくすぶっていた何かが、放出の時を迎えたかのように、ここから出られるのだと悲鳴のような歓喜の声を上げる。
今、私は、無敵だった。
クローゼットを開け、自分ができる精いっぱいのお洒落を身にまとい、いつもより入念にメイクを施し、家族とあいさつも交わさず、黙って家を出た。
日射しが降り注いで、少し暑さを感じた。そろそろ日焼け止めを買わなければいけない時期だ。焼けたらどうしよう、と二十九年間一度も思わなかった心配を感じた。
一向に増えない貯金と、出ていく一方の生活費。
あの時私は確かにそう感じていた。けど結局は自分の金だ。散財しようが何しようが、私の勝手じゃないか。どうして今まで開き直れなかったのだろう。
昨日の夜に調べておいた、名刺の店までの地図をマップアプリで見る。
東京都からは若干遠くても、ここなら同僚や上司に会う可能性もない。むしろ好都合だ。
早足で、私は駅への道を急いだ。
駅前のカフェでブランチを取り、化粧室でメイクをしつこく整え、入念に歯を磨く。鞄に常備している携帯歯ブラシはいつどんな時でも役立つ。
予約の時間まで、あと三十分はあった。
『極楽浄土』は初心者歓迎のサービスを行っていて、それぞれの部門ごとに分かれたトップキャストの一人と特別接待できるクーポンを配布していたので、私もそれに乗っかる。部門は『ダンディ』『ワイルド』『爽やか』など、多岐にわたっていた。その中の『癒し』部門に私はチェックを入れていた。優しい男が好きだからだ。マッチョみたいなやつも、俺様みたいなやつもいらない。そばにいるだけで心が癒されるような、天使のような性格のいい美形を求めていた。
あるはずもない楽園を、ずっと探し続けているように。
でも、それももう終わり。楽園は見つかった。後悔はない。
予定時間より早めに、私は電車に乗った。
店の外観は小洒落た書店のようだった。明治の文豪の本などが取り揃えてあるような、雰囲気のある店構えだ。とても性行為をサービスする風俗店には見えない。
金をじゅうぶんに持ってきているのを確認し、入り口の扉を開ける。
店内は存外に明るかった。
照明器具が、目に優しい品質を使っているのか、どこかリラックスできそうな光り具合だった。変にまぶしくもなく、暗くもなく。
すぐ向かいに、受付がある。
女性のスタッフが二人いた。
「こんにちは」と感じのいい笑顔を私に向ける。
「初めてのお越しでいらっしゃいますか?」
「はい」
まごつきながらも何とかスマホを取り出して、予約票を見せる。受付スタッフは確認すると私にスマホを返し、「お部屋はどちらになさいますか」と再び感じのいい笑みを見せて、Ipadのタッチパネルを差し出した。
部屋なんて、決めてなかった。一瞬取り乱しそうになりながら、あわてて「いちばん安い部屋でいいです」と早口に告げる。
「承知しました」と通る声で言い、スタッフはIpadを操作すると、鈍色の鍵を取り出した。
見たところ、普通の鍵だった。マンションのセキリュティにありそうな、何の変哲もない、みんなが持ってるのと同じ鍵。
この建物は、マンションなのか。
それを改装して、風俗の商いを始めたのだろうか。
チェーンのついた鍵が、私の手に渡る。
3‐12。
鍵と一緒にチェーンにくくられた部屋番号。
「予定時刻より早めの到着なので、そちらで少々お待ちいただきます」
「あ、はい」
「三階の、十二号室のお部屋へどうぞ」
「はい」
あっさりと、私は処女を捨てる場へ送り出された。
エレベーターを見つけ、ボタンを押して乗りこむ。中は本当にごく普通のエレベーターだった。安っぽい鏡が私の全身を写す。覚悟を決めたはずなのに、そこにいる自分の顔は不安げに揺らいでいた。つくづく情けない顔だ。もとから、誇りを持てたことなどないけれど。
三階に着いた。
自動ドアが開けられ、ふらふらと外へ出た。コンクリートの廊下。それぞれの部屋の場所にオレンジ色の電気が点いている。十二号室は廊下の突き当たりにある角部屋だった。表札には「3‐12」と書かれている。
おそるおそる、鍵を差し込んでみた。
カチャン、と無機質な音が鳴る。
開いた。開いてしまった。
「どうしよう。どうすればいいの」
声に出して、不安な気持ちを吐き出した。ここに来て焦りと恐怖感が這い上がってきたのだ。
逃げようにも逃げられず、仕方なく家の中に入る。
中は、あらかじめ証明が点けられていた。真っ暗ではなくてほっとするとともに、玄関から見えるベッドルームが生々しく感じられてしまう。
だって、そういう行為をするために来たんだし。
そろそろと、まるで空き巣がするような足取りで前に進んだ。トイレ、脱衣所、風呂場、そしてダイニングキッチンとリビングルーム。ざっと見て1LDK以上はあるだろうか。一人暮らしには広く、二人暮らしを演出するような内装だった。寝室には二人分のキングスベッド。柔らかそうな布団は綺麗に整えられている。そばにはちょうど自分と相手が座れそうな、ふかふかのソファー。真向かいにはテレビ。恋愛映画らしきDVDがデッキのそばに飾ってあった。ダイニングには冷蔵庫が設置されており、キッチンはガスコンロではなく、電気で熱するタイプの流行りの設備だ。
見た感じ、恋人との同棲生活を彷彿とさせる、もしくは新婚カップルの二人暮らしのような、幸せに満ちた空間演出だった。
「こんな部屋なんだ……」
誰に聞かせるでもなく、私はつぶやいた。
これから、この部屋で、男の人と。
ぞくりと、快感のような、けれどやはり怖さのような、説明のつかない感情が私の内で暴れ回る。
嬉しくて、でも少し後悔もしていて、けれど引き返す気もなくて、いっそ死んでもいい気持ちであの日画面をタップしたんだ。
だから、何がどうなっても、私が決めたのだから私の責任でしかない。
それが結局、怖かった。
ベッドに座って、何をするでもなく、ただ途方に暮れた。
自分の行動は間違っていたのか? もし今日のことがバレたらどうしよう。親に、世間に、見つかったら? 生まれつきのマイナス思考が輪をかけて私の首を絞め始める。
勇気なんて、出さない方がよかったのか。
涙が出そうだった。
その時、ドアが開く音がした。
心臓が跳ね上がる。
人の足音。
白だ。白が来たんだ。
一体どんな顔をしているのだろう。しぐさや手つきはどんな風なのか。本当に私を傷つけたりしないのだろうか。
膝に置いた両手をぎゅっと握りしめる。
足音が近づいてきた。
ベッドルームのドアが開かれる。
びくびく震えながら、私は決死の思いで振り返った。
目に映ったのは、
「こんにちは」
にっこりと微笑む、天使だった。
○
イケメンとか美形とか、見栄えのいい男を形容する言葉は数限りなくあるけれど、ここまで言葉に尽くせないほど麗しい美貌を拝見したのは初めてだった。
目の前の天使が、ニコニコしたまま何か言っているが、彼の一言一句が何ひとつ耳に入ってこない。
身体中から汗が吹き出てくる。胸の奥の部分がギュンッと鳴ったような、不可解な音を立てて軋んだかのように痛んだ。息をどうやってしていたのか、一瞬、本気で忘れかけた。今まで自分の人生をどう生きていたのか、急に哲学的な考えをし始める私の脳みそ。
人の顔を印象づけるのは、瞳と眉だ。目にはすべてが宿る。その人の人格や、魂みたいな念が。そんな内容を本で読んだはずだ。
綺麗な瞳をしていると、思った。優しそうな、慈愛の光が宿っている。
眉。まっすぐにキリッと整っていて、男性的な凛々しさを感じさせる。
鼻筋も、口もとも、申し分ないバランスだった。
ごめん、世の中の男の人。私は、一目惚れをした。
初恋だ。
これが、初恋ってやつなんだ。
骨抜きになるという、使いまわしの表現が、今以上に私にハマっている事態もないだろう。甘い快感が、危険信号のごとく私を高鳴らせる。お前はどこまで馬鹿なのだ、と内なる自分が自分自身を殴り飛ばしている。
男は何で決まると思っている?
顔だ。
ふざけんなよお前。その風貌で言えた義理じゃないだろうが。男は心を見て判断しろよ。
すみません、内なる自分。でもあまりにドキドキするんです。夢を見させてください、お願いします。金ならあるので。
引き返せ。馬鹿野郎。
「名前を」
今すぐ逃げろ影山明。二度と振り返るな。
「名前を、教えてください」
おい近づくなよ。
「私は、私、は」
モラルはどこに置いてきたんだ影山。
「園子さん」
「……へ?」
「園子さん、ですよね? シークレットネーム。僕は白です。初めまして。今日は一生懸命、お相手させていただきます」
あっ、もう、駄目だ。
そう思った時には、私の意識は暗転していた。
息苦しい。何だこの息のしづらさは。上下左右の感覚がなくなっているみたいに、今どこにいて、何をしているのか自分でわかっていない。宙を掴むように手をのばすと、その手を誰かが握る。背中を誰かがさすっている。うずくまった私を、介抱してくれているのだと気づいた。
本当に息ができない状態になっていた。当たり前にできていた呼吸ができなくなっている恐怖心が襲い、ますます気道が狭くなっているようだ。息を吸えば吸うほど、酸素が奪われていく感覚に身悶えした。
「大丈夫? 落ち着いて」
背中を撫でる手つきが、くり返し私の偽名を呼ぶ。
「園子さん、落ち着いて。ゆっくり息を吸って、吐いて。大丈夫だよ」
口元に袋が当てられていた。
過呼吸。
発作を起こした人を助けるシーンで、よく見るやつの、あれだ。
私は、過呼吸になっている。
あまりに情けなくて、寂しくて、心細かった。
「白、くん」
息も絶え絶えに、隣の彼を呼んだ。
「園子さん」
ソフトな甘い声が、耳に心地よかった。
「呼吸、少しずつ整ってきたから。ゆっくり息をして。焦らないで」
言われた通りに、息を吸う。吐く。今までやってこれたことを、取り戻すように。
「そう。上手、上手」
そばに人がいる。ありがたかった。
今まで、誰も私のそばにいなかった。
手のひらの温もりを久しぶりに味わった。
涙があふれて、頬がぐしゃぐしゃに濡れて汚かった。自分を汚いと思う心をやめたかったけれど、それでも今ここにいてくれる彼の存在を尊く感じた。
しばらくして、発作は治まり、私の呼吸は正常に戻った。
握られた手を今さらドキドキして見つめたが、私が落ち着いた後も彼はすぐには離れず、身体に触れてくれていた。驚くほど優しく。
そっと、見つめてみる。
「白くん」
天使が微笑んでいる。
とたんに恥ずかしくなって顔をそらしたが、改めて綺麗な人だと感じた。美貌を持っている人は、周りの空気を華やかにさせるのだ。天からのギフトだと思った。
「ごめんなさい」
思わず謝った。いらぬ迷惑をかけてしまったからだ。
「どうして謝るの?」
彼はさも疑問であるかのように問いかけた。
私は何も言えず、再び黙りこむ。
謝罪しかできない。人に対して。
「何でも言って。園子さん」
ふがいない私になおも触れ続けてくれている、綺麗な男の人。
瞬間、あたたかいなと、感じた。
人の体温。ぬくもり。いろいろな、優しさとか、情愛とか。
バラバラになっていた心が、少しずつ欠片を取り戻していくような感じが、した。
「さ、寂しい、です」
本音が口から出ていた。
「誰にも、何も言えなくて。自分が、寂しいです」
変わりたいなと、思った。
不幸を自ら背負うような人生は、もう嫌だ。
違う自分になりたい。
彼は黙って聞いてくれている。
「白、くん」
もう一度、シークレットネームを呼んだ。
「ん?」と、顔を近づけてきた彼に、再度ドギマギしてしまい口を閉じる。
何かを察したのか、「園子さん」と彼が話しかけてくれた。
「まず、友だちになりましょう」
「……え」
言われた「友だち」という位置づけの不思議さに、あっけに取られて天使と目線を合わせる。
天使はいたって真剣に語り始めた。
「俺、園子さんのキャストになったので、園子さんのこと、もっと知る必要があります。何でも話してください。いっぱい楽しい話をして、友だちから始めてみませんか?」
白くん。
優しさも、情も、慈しみも、すべてをひっくるめた赦しの言葉だった。
白くんは、素敵な人だ。
何の迷いもなく、私は白くんの提案に身をゆだねた。
「今日は何もできなかったので、値引きしておきますね。次回、お待ちしております。まずはレンタル彼氏として、デートさせてください」
そう約束を取りつけ、白くんは私を店の外から駅まで送り届けてくれた。予約時よりだいぶ差し引かれた金額を払い、私は白くんと一緒に夕方の繁華街を歩いた。
人の目線に気が気でなかったが、他人は白くんの美貌に一瞬目を引かれるくらいで、後は素通りしていった。私はずっとうつむいていたけれど、白くんがしっかりと手を握り、私に歩幅を合わせて寄り添うように歩いてくれた。なるべく周りの目を見たくない私は、白くんの手の体温だけに集中して、その場をやり過ごした。
「今日みたいな発作は、よくあるんですか」
白くんが話しかけた。
「い、いえ。生まれて初めて、です」
「病院、行った方がいいと思います」
「はい……」
「俺でよければ、付き添いもできますよ」
「え……」
「もちろんレンタルデートとしての料金になりますが」
白くんは悪戯っ子みたいに目を細める。
最初のデートとして病院というのは何だか情けないが、白くんがお客に対してとても丁寧な接待をしてくれるキャストなのが嬉しかった。
「あ、あの、じゃあ、これで。病院、行ってみるんで。ついて行って、くれますか……?」
「はい、喜んで」
白くんの手の力が、少し強くなった。安心させるように。
ふと泣けてきて、涙腺が緩みつつも外で涙を見せるわけにいかず、ぐっとこらえる。
駅が見えてきた。
二人で歩く時間は、あっという間に終わりを告げる。
楽しいと思えるほど、時間は早く過ぎていく。
胸がちくりと痛んだ。
「いつでもLINE送ってください」
「はい。ありがとうございます」
店を出る前に交換しておいたIDを互いに見せ合い、私たちは別れた。
東京へ戻っていく電車に乗る。
改札口を通るまで、白くんは私を見送り続けてくれていた。
〇
「病院行ってくる」
親に言わないわけにいかなかったので、寝る間際、報告だけした。
母親は一瞬呆けた顔をした後、
「会社どうすんの?」
問いつめるように聞いてきた。
「休むよ」
「二日連続じゃないの」
「だって、具合悪いからさ」
「学校とは違うのよ。休んだらその分、他の人にしわ寄せが来るんだから」
わかってるよ。そんなこと。
子どもの頃からずっと成長していないこと。
子どもの年齢のまま、身体だけが老けていっていること。
母は、今でも私が仮病を使って会社から逃げようとしていると信じて疑わない。昔、私が何度も学校を不登校気味になった過去の思い出を、引きずっている。
「仮病じゃないの。本当に病気になったの」
母親はまだ疑わしげに私を見ている。もうこれ以上話す時間などない。
「生活費も医療費も全部自分で払ってるんだから、文句ないでしょ」
言い捨てて、私は返事を聞かずにリビングのドアを乱暴に閉めた。
その晩、夢を見た。
寂しくて、ひもじくて、どうしようもない無念の悪夢。
自分の席に着いて、ただうつむいている、中学生の私。
千円札を握りしめ、クラスメイトの女子の背中を追う、高校生の私。
『あの、お金を、あげるので、友だちに、なって、ください』
親切そうな人に懇願したのだが、当人に、
『ごめん。ちょっと無理。そんなお金もらえない』
はっきりと断られ、所在ない千円札だけが自分の手にくしゃくしゃに握られた、五月の上旬。
誰かが話しかけてくれるんじゃないかと、思い続けた。
誰か、人を放っておけないような親切な誰かが、私に声をかけ、どこかへ導いてくれるんじゃないかと。
そんなわけがなかった。みんな、自分の時間で忙しいのだ。積極的に人に絡み、同じ好みを分け合って、相手の主張を受け入れ、自分の意見もうまい具合に差しこんで、笑いを取っていく。コミュニケーションを学んでいく。
私に、チャンスはついに回ってこなかった。
人と対面し、「おはよう」の後に出てくる言葉が、ないのだ。何を切り出せばいいのか考えあぐねているうちに、「あ」や「えっと」だけが舌に乗って上ずってしまい、後は珍妙な沈黙だけが残り、相手の気まずそうな表情を、下を向いて想像する。やがて周りは「会話が続かない」と悟り、あきらめ、私から離れていく。そのくり返しが続き、三年が経って、四年が過ぎ、気づけば社会人だ。
人と話すって、何?
なぜ、みんな私を置いていくの?
一人きりだった。世界で。
○
朝になっていた。
目覚まし時計を止めて、家族と目を合わさずに朝食を終えた。歯磨きをして、財布とスマホ、保険証だけを鞄に突っ込んで家を出た。
駅に着くと、本当に待ち合わせ時間ぴったりに白くんはいた。初めて会った時、顔立ちばかりに見とれて他が目に入らなかったけれど、病院へ行っても浮かないようなシンプルな服装にしてくれている。嬉しかった。
心療内科を受診したのは初めてだった。患者がひしめき合っている中、初診受付を済ませて順番を待つ。沈黙が重苦しくないだろうかと心配した時、横からそっと白くんが耳打ちしてきた。
「園子さん、これ」
小さな箱を差し出される。
「開けてみてください」
白くんは優しい笑みを浮かべて言う。
私は、知らず冷や汗を垂らしていた。
小箱。
昔の嫌な記憶が思い出される。
(おまえに物贈るやつなんて、いるわけねーじゃん)
この箱の中には何があるのか。虫の死骸か、ズタボロの雑巾か、干からびたパンか。人からの好意を期待して、そのふたを開けた途端、いわれのない悪意を受けたことは一度や二度ではない。
少なくとも私は、プレゼントに夢を抱けない。
「園子さん?」
白くんは心配そうに私を見遣った。
ごめんなさい、開けられない。そう言えたらよかったのに、臆病な口はうまく回らず、身体が小刻みに震え始める。
どうしようと混乱するうち、白くんは自ら包みを外して中身を取り出した。
あっ、と思っている間に、私の手にプレゼントが置かれる。
差し出されたのは、薄いピンク色をした、手のひらサイズの子ブタのぬいぐるみだった。
「手乗りぬいぐるみです。ぬいぐるみって、けっこうヒーリング効果があるって聞いて。待ち合わせ前に買ってきちゃいました」
白くんはあの日と同じ、天使のような微笑みを見せる。
「握っているだけでも、だいぶ違うと思いますよ」
促され、素直に従った。白くんから手渡された子ブタは、柔らかい素材でできていて、触り心地がよかった。しばらく子ブタの顔を撫でたり、つついたりしながら、患者で埋まっている待合室の時間は静かに過ぎていった。
待っている間、また、あの感覚が私を襲う。相手がつまらないと感じているんじゃないか、無言が続いて息苦しいのではないか。会話ができない私の隣に嫌気がさし始めていたらどうしよう。そういった、内臓をキリキリと絞られるような苦痛が私を侵食し始める。
白くん、つまらなくないかな。
私といて。
人といる空間を、どうやって居心地のいい場所にしたらいいのかわからない。
情けなかった。
会話をしたくてもできない自分が。
「あの」
蚊の鳴くような声を出した。
「白くん」
声がかすれて馬鹿みたいだ。
「どうしたの?」
白くんはきょとんとした顔で問いかける。
「そ、その」
「うん」
「ご、極楽浄土って、あの、具体的に、どんなお店……?」
いや、ここで聞くべき話題じゃないだろ。それは判断できるのだが、他にどんな話を振ったらいいのか選別できないのだ、私は。
白くんはちょっと考える風に小首をかしげた後、「スマホで会話しませんか?」と提案した。私も賛成の意を伝える。
LINEに白くんの文章が現れた。
『極楽浄土の特徴は、他の女性向け風俗店と、だいたい同じです』
私は彼と目を合わせ、視線で返事をする。
白くんは次の文章を入れる。
『大まかに言って、女性向けの風俗店は、四つのタイプに分けられます。
一つは、レンタル彼氏サービス。恋人ごっこを楽しむやつで、最も王道です。
二つは、デリヘル。デリバリーヘルスの略で、性行為に及びますが、本番行為はNGとなっています。
三つ。性感マッサージ。女性の身体に触れる疑似エッチで、あくまで体験という名目であり、本番行為はNG。
四つ目は、男性全般が受けつけられない女性のための、女性同士限定のサービス。レズ風俗と呼ばれますが、利用客の女性は必ずしもレズビアンというわけではなく、友だちごっこや母娘ごっこをしたい人もいるので、名前の定義が難しいところです。
園子さんが今利用しているのは、レンタル彼氏としての料金になりますね』
ここまでで聞きたいことはありますか? と文章は続く。
『あの、すみません、何歳ですか?』
また馬鹿みたいな質問をする。
『二十六歳です』
『私は二十九です』
『同世代ですね』
ぽん、と可愛らしいスタンプが送られた。
思わず吹き出すと、再度スタンプが来る。
『園子さん、笑ってくれましたね! 笑顔の方が素敵ですよ!』
白くんの方を向くと、彼は本当に嬉しそうだった。
私も、嬉しかった。
たとえ、真意がそこになくても、優しい言葉は私を癒してくれる。
もう一度ぎこちなく笑うと、白くんはこちらに手をのばし、私の指とつないでくれた。
胸の奥に、あたたかい光が射しこんでくるような幸せを感じた。たぶん、これが幸せってやつだ。きっと。
診察では、これまでの生い立ちや家族関係などを聞かれた。症状が出た時の詳しい状況や、いつ頃から抑うつ状態になったかなど、けっこうな時間を費やして質問に答えていった。
医師から言い渡されたのは、軽度のうつ病とパニック障害という病名だった。どちらも有名な名前で、自分がそんな症状を患ったのだと実感しきれずにいた。
診断書を会社に出すという旨で、医療費は高くついた。心中で舌打ちし、薬局で薬をもらう時も、いらぬ出費ばかりがかさむとしか思えず、心は暗かった。せっかく白くんと一緒にいるのに。
夢中でいられる時間は一瞬。現実に引き戻される時間は永遠。
「園子さん」
「は、はい」
「差し支えなければ、病名のこと教えてくれますか? 心配なので……」
「あ、ぱ、パニック障害と、うつ病、と言われました」
「そっか……」
白くんはこちらを慈しむように見つめる。
「きっと、治りますよ」
「あ、ありがとうございます」
「幸せに生きていきましょう」
「……はい」
幸せって、どんな状態を指すのだろうか。
飢える心配がないことか。社会が安定していることだろうか。私自身、幸せの指針がどこにあるのか、測りかねている。
でも、白くんが今ここにいて、私を気遣ってくれる状態は、ありがたい。まるで柔らかな素材のベッドにいるみたいで、安心する。
約束の時間が来て、彼にデート代を支払う。
スマホを通して、私の口座から彼にお金が渡る。今日でいったいいくら使ったのか考えると怖かったので、見ないふりをした。
「次、いつ会えますか」
白くんは、いたいけな少年のように微笑んで次の予定を催促する。
ATMにされている自覚はきちんとあった。現実と夢の区別がまだはっきりしている頭にどことなくほっとしながら、
「そろそろ、会社に、行かないといけなくて」
と告げる。
白くんはうなずき、
「園子さんのお誘い、いつでも待ってます」
と、あの日のホストと同じ言葉をつぶやいた。
「また会いましょう」
「う、うん」
私たちは手をつないで、帰り道を歩いた。
離れがたくて、でもこれ以上そばにいるには追加料金を払わなければいけなくて、そんな余裕はないから今日は白くんとここで別れるべきなのだ。
病院が混んでいた影響で長時間待たされたけれど、時刻は夕方にはまだ早く、日の色がまばゆく地上を照らしている。
落ちてしまいたいと、思う。
彼に何もかもを貢いで、捧げて、私は狂人として心を崩壊させたいと、願い始めている。
手を握る力が自然と強くなる。私が力を入れているせいだ。
白くんは、無反応だった。
心に隙間が生まれる。
客とキャストだ。金の関係で私たちは成り立っているのだ。夢は夢として受け止めてしまわなければ、後々引き裂かれるのは自分なのだ。
でも。それでも。
本音と理性が互いに邪魔し合う。
空っぽだと思った。
影山明は、やはり空っぽな人間なのだと。
五月最後の、湿気を含んだ生ぬるい風が吹いて、それが何だか気持ち悪かった。
家へ戻って、自室に籠もり机の引き出しから通帳を引っぱり出す。
貯金はあとどれくらいだろう。
ざっと見たところ、今すぐ散在しなければ飢え死にということはなさそうだった。白くんとこれからずっと一緒に居続けるとして、彼にかかる金額の計算を始める。会社から逃げてきたばかりだけれど、白くんのためなら、吐こうが槍が降ろうが会社に行ける気がしてきた。
診断書を再び確認する。これを会社に提出して、その後はどうなるのだろう。仕事量または給料を減らされるのか。そう考えると、病気と診断されたのはむしろ不都合かもしれない。いっそ隠したい。だがそんなわけにもいかない。どうすれば、白くんと過ごすためのお金をもっと貯められるだろうか。
うまい対策が浮かばず、私はひとり唇を噛みしめた。
○
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